天啓 (お題 : 虹、クリスマス、ぬれた高校)
私はあるクリスマスの夜に、窓から漆黒の闇を仰ぎ見ながら、いわく言い難い思索に耽っていた。いつもならばこの思索の過程でふと着想が立ち上がると次の瞬間にはもうその着想は立ち消えている。ただそれの繰り返しでこれといった名案・妙案も浮かばず、いわば時間を浪費するための時間なのだ。しかし、この夜だけは違った。私は思索の過程で、漆黒の闇の中で、束になった七色の光の筋を発見したのだ。筋の切っ先は私の網膜、私の脳裏に直接飛び込み、やがて筋が消えた後も、私という存在の中に居座り続けた。私はそれが一種の天啓であると自覚した。私はいてもたってもいられなくなり、その光の筋の所在を確かめるべく、早々に夜の世界へと駆け出した。
クリスマスがかくも私に妨害を企てるとは思いもよらなかった。街を彩る偽物のイルミネーション、街に流れる偽物のクリスマスソング、街に群がる偽物の衆人たち。すべてが私の行く手を阻み、私に頭痛や吐き気、焦燥をもたらした。どけ!どけ!凡庸な人間ども!凡庸なクリスマス!私は様々な凡庸を力強くかき分けた。中には遠くから私を嘲笑する凡庸もいた。転倒して怪我を負う凡庸もいた。が、私の知ったことではない。凡庸には凡庸の人生があるように私には私の人生があるのだ。いちいち介入している暇はない。どけ!どけ!
私の進撃が功を奏したか、次第に群衆はある規則性を帯びてきた。私の行く手を遮る群衆が割れたのだ。私はこれを好機と察し、その進撃に全エネルギーの投入を図った。が、思うように体が動かなかった。私の上半身、特に肩のあたりが硬直しているのだ。私は理解した。巨大な力を持った何者かが私の体を、私の進撃を止めたのだ。あまりも抵抗しがたい力であるため私は諦めの境地に至った。諦めも一つの選択であり、一つの価値である。私はその力の誘導に従い、クリスマスの街を抜けた。
進行しながら、私を押さえつけるこの力について考えていた。この力は私に何をもたらすのか、この力の意志はどこへ向かっているのか。その答えを得るにはこの力に対してこちらから何かアクションを起こさねばならない。こちらがアクションを起こすことであちらもアクションを起こす。その繰り返しのコミュニケーションがこの力に対する疑問を氷解してくれるに違いない。だが、力でのアクションは封じられている。私の非力さではコミュニケーションの舞台にすら上がれない。ならば言葉はどうだろう。いや、言葉はこのような巨大な力の前では往々にして無力なのだ。それは私の人生経験の中で嫌というほど思い知らされている。残る選択肢は沈黙しかない。だがそれでいいのだ。本来どんな選択肢にも価値などない。価値があるのは選択肢ではなく、選択する行為そのものである。私は沈黙したまま堂々と力の指示に従い続けた。
地面に膝をつかされた。ズボンを通して足に湿り気が伝わってきた。雨水を多分に吸い込んだ土の上に座らされたのだ。私を先程まで押さえ込んでいた巨大な力はみるみる弱くなり、私は自由を獲得した。だが、私は何かをする気力が持てなかった。ただぼんやりと眼下に溜まっている水たまりを覗くことしかできなかった。そこには私の背後にあるだろう学校の校舎が映っていた。どうやらここは学校のグラウンドであろう。しばらく無心で水たまりを覗いていると、水面が微かに揺れた。すると、揺れが収まった水面に先ほど自宅で見た七色の光の筋が現れたのだ。私の心の中で無邪気さが暴れ、やがて高揚を始めた。再び水面が揺れた。私の精神の高鳴りに呼応するように水面の揺れが一層激しさを増していく。体も揺れ始め、一層激しさを増していく。私はもう絶頂の際に達していた。そして再び巨大な力を感じた。
私の意識はそこで止まった。