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2. いつか恋になる - 中学生なりの本気

 人の命が平等というのは建前だ。

 実際には、命の重さには厳然として違いが存在する。そうでなければ、殺された被害者がいかに皆から愛される人物だったかなど、あえて裁判の場で訴えたりはしないだろう。事件に至る経緯がまったく同じであっても、被害者がろくでもない人間か素晴らしい人間かで、裁判官の受ける印象が違ってくることは誰もが知っている。つまり、命の重さに違いがあるという暗黙の了解が存在するのだ。

 警察という組織にいると、それを現実のものとして感じる機会は少なくない。通常では事が起こらなければ積極的に動かないものだが、ある種の人々に対しては手厚く対応することがある。そして警護するにしても最優先で守る人物は存在する。やはりVIPとして扱われる人物の命は重いのだ。最初のうちは多少の反発を感じていたが、今はもうそんなものだと受け入れつつある。

 そして、あの少女は手厚く守られる側の人間だ——。


 誠一は待機を言い渡されて、緊張した面持ちで捜査一課の自席に座っていた。斜め向かいには岩松警部補もいる。ほかの同僚たちはほとんどが聞き込みなどで外に出ているが、残ったものたちも軽口をたたくことなくおとなしくしている。とてもそんな雰囲気でないことはわかっているのだろう。

 捜査一課長はけわしい顔をして出て行ったきり戻ってこない。上層部とともに、少女の保護者のところへ謝罪しに行ったと思われる。おそらく少女自身も丁重に自宅まで送り届けられたに違いない。

 誠一には保護者に直接謝罪することさえ許されない。ただここでじっと審判のときを待つしかないのだ。首を切られるか、他部署に飛ばされるか、先方の態度ひとつで処分が決まるのだろう。

 あのとき彼女がいなければこんなことにはならなかったのだろうか。いや、もっと取り返しのつかない事態になっていた可能性の方が高い。彼女がいてくれたおかげで誰ひとり怪我をせずにすんだのだ。そのことを思えば誠一の首くらい安いものである。


「南野、おまえ首が繋がったぞ」

 捜査一課長は入ってくるなりひどく疲れた面持ちでそう言った。そのまま奥の自席に直行し、革張りの椅子にどっかりと身を投げ出して大きく息をつく。誠一が弾かれたようにその机の前まで飛んでいくと、彼はゆっくりと顔を上げて話を継いだ。

「お嬢さんに感謝しろよ。刑事部長は刑事を辞めさせると言っていたが、お嬢さんがかばってくれてお咎めなしになったんだ。まあ始末書はきっちり書いてもらうけどな」

「ありがとうございます」

 誠一はほっとして深々と頭を下げた。しかし、捜査一課長は表情を厳しくする。

「刑事は一瞬の油断が命取りになる。今後は気をつけろよ」

「肝に銘じておきます」

「特別指名手配犯を逮捕したことに関しては、よくやった」

「ありがとうございます」

 まさか褒められるとは思わなかった。一礼すると、捜査一課長はふっと小さく微笑む。

 一瞬の油断が命取り——それは何度となく言われてきたことだが、今日ほど身をもって実感したことはない。仕事に慣れてきたことで気の緩みもあったのかもしれない。これからは決して初心を忘れないようにしなければ、とあらためて気を引きしめる。

 席に戻ると、よかったなと岩松警部補が後ろから肩を組んできた。彼も責任を感じていただけに安堵したのだろう。それがわかっていたので、わしゃわしゃと乱暴に頭をなでられて髪が乱れても、今回ばかりは文句を言うことなく素直に頷いた。

 そうだ、とふいに捜査一課長が顔を上げる。

「南野、あしたお嬢さんに感謝状を贈ることになったんだが、おまえは個人的にケーキのひとつでもおごってやれよ。先方はあまり大袈裟にしてほしくないようだから、そのくらいが適当だろう。くれぐれもお嬢さんの機嫌を損ねんようにな」

「あ、はい」

 ケーキくらいならと思って軽く返事をしたのだが、考えてみれば相手は財閥令嬢だ。そこらへんの喫茶店で適当にというわけにはいかないだろう。だからといってどういう店がいいのか見当もつかない。新たな難題に我知らず眉を寄せた。


「南野さん!」

 翌日、捜査一課の自席で書類を作成していると、お嬢さんが戸口からひょっこりと顔を覗かせた。今日は制服と思われる紺色のブレザーを着ている。感謝状贈呈式のために正装してきたのだろう。彼女の背後には捜査一課長がついていたが、式は終わったからあとは頼むな、とだけ言い置いてどこかに消えてしまった。

 ちょっと出てきます、と向かいの同僚に声をかけて席を立った。

 廊下に出ると、制服を着てニコニコしている彼女と、制服を着て無愛想にしている男子が並んで立っていた。二人の顔はまさに瓜二つというくらいそっくりで、身長も同じくらい、手足の長いすらりとした細身の体型もよく似ている。髪型だけが長短はっきりと違っていた。

「澪ちゃん……彼は?」

「双子の兄の遥です」

 彼女が紹介すると、彼は無表情のまま軽く会釈する。

 あらためてじっくり見ても、やはり彼女とそっくりのとても繊細できれいな顔をしている。制服を着ていなければ女子と間違えていたかもしれないし、彼女と同じ髪型にすれば見分けがつかないかもしれない。双子だということに甚だ納得させられる一方で、男女の双子でここまで似るものなのかと驚く。

「警視庁に行くって言ったら、ついて来たの」

「興味があったから」

 彼はぽつりとそう言い、瞬ぎもせずじいっとまっすぐに誠一の双眸を見つめてくる。気のせいか値踏みされているようで落ち着かない。興味があった、という言葉は自分に対するものではないかと錯覚しそうになる。そんなはずはないのだが。

「よかったら案内しようか?」

「見たいものはもう見たから」

「じゃあケーキ食べに行く?」

「僕はもう帰るよ」

 彼はにこりともせず淡々と受け答えをして、妹の方に振り向く。そのとき初めてかすかに笑顔が見えた。

「じゃあね、澪」

「うん、バイバイ」

 手を振り合うと、彼は背を向けてさっさとひとりで帰っていった。誠一は声をかけられないままその後ろ姿を見送り、傍らの彼女に振り向く。

「澪ちゃんはケーキ食べに行く? きのうのお詫びとお礼におごるけど」

「行きます!」

 彼女ははしゃいだ声で即答した。

 そのいかにも子供らしい無邪気さに思わずくすりと笑ってしまう。しかし、大財閥の御令嬢がケーキひとつでこんなに喜ぶものなのだろうか。すこし不思議に思いながらも、それを表情に出すことなく彼女をエレベーターホールへと促した。


「どこへ行くか決めてないんだけど、澪ちゃん行きたいお店とかある?」

「どこでもいいです。あ、落ち着いて話せるところがいいな」

 勝手に決めるよりは本人に尋ねた方がいいと思い、外に出たところで彼女に意見を求めてみたが、参考になりそうな答えは返ってこなかった。それどころかさらにハードルを上げられた気がする。どこへともなく漫然と足を進めながら腕を組み、思案をめぐらせる。

「やっぱりそこらへんの喫茶店とかじゃ駄目だよね」

「どうして?」

「いや、澪ちゃんには庶民的すぎるかなと思って」

「私、そんな贅沢ばかりしてるわけじゃないですよ」

 彼女はムッとしたように口をとがらせて言い返した。とはいえ、彼女の言う贅沢と自分の思う贅沢とでは雲泥の差があるのではないか。半信半疑のまま「そうなの?」と曖昧な相槌を打つと、彼女はこころなしか寂しそうな顔になりふっと微笑む。

「ケーキを食べに連れて行ってもらったこと自体、そんなにないです。両親はそもそもほとんど家に帰ってきませんし、師匠にときどき連れて行ってもらったくらいで。それもたいていそこらへんの喫茶店ですよ」

「へぇ……師匠って?」

「武術の師匠です」

「ああ、なるほど」

「親代わりでもあるの」

「え、そうなんだ」

 ケーキひとつくらいで彼女が嬉しそうにしていた理由がわかった気がした。甘やかされるどころか甘えることさえできなかったのだろう。仕事とはいえ、両親がほとんど家に帰ってこないというのはあまりにも寂しい。幼い子供のころからずっとそうだとすればあまりにも悲しい。

 そのとき、ふと何度か入ったことのある煉瓦造りの喫茶店が目についた。席がゆったりとしていて落ち着いた雰囲気なのでいいかもしれないと思う。スパゲティやオムライスなどの軽食はわりとおいしかった記憶がある。確かケーキも置いてあったはずだ。

「ね、そこの店でいいかな?」

「はい!」

 誠一が建物を指さして尋ねると、彼女は黒髪をさらりと揺らしながら元気よく頷いた。


「おいしいです、このケーキ」

 窓際の明るく広い席で、彼女はひとかけらのザッハトルテに生クリームをのせて口に運ぶと、幸せそうにほわりと頬をゆるめて感嘆の声を上げた。気に入ってもらえたようでとりあえず胸をなで下ろす。

「よかったらもうひとつ頼んでもいいよ」

「本当?! でも食べすぎかなぁ」

 そう言いながらもメニューを開いて真剣に悩んでいるのが可愛らしい。喫茶店にしてはケーキの種類が多く、彼女が好きだというチョコレート系だけでも三種類あるのだ。最初に注文するときもどれにしようかとずいぶん悩んでいた。

 誠一はコーヒーに口をつけ、いちごのショートケーキにフォークを入れる。

「澪ちゃん、きのうは本当にありがとう。助かった」

「警察に協力するのは民間人の義務ですもんね」

「えっ……ああ、そのことも感謝してるんだけど」

「違うの?」

「なんか俺のことかばってくれたって聞いたから」

「あれは警察の偉いおじさんがめちゃくちゃなことを言ってたから。おじいさまは今後気をつけてくれればいいって言ったのに、あの人はそれでも首にするとか辞めさせるとか言うんだもん」

 彼女は腹立たしげに口をとがらせる。

 警察の偉いおじさんというのは刑事部長だろうか、それともさらに上層部の幹部だろうか。いずれにせよ、橘財閥会長の機嫌を取るために人身御供にされかかっていたのを、何を言ったかはわからないが彼女が救ってくれたということだ。

「おかげで刑事を辞めずにすんだよ」

「お役に立ててよかったです」

 彼女はティーカップを両手で持って、エヘッと笑う。

 きのうも思ったが、話してみると財閥令嬢とは思えないほど親しみやすく、美少女なのに気取ったところもなく、ごく普通の女子中学生といった印象である。いや、普通というにはいささか純粋すぎる気もする。幼い子供のように表情がくるくると変わり、受け答えも率直で愛らしい。気付けば誠一もつられて笑顔になっていた。

 それからはケーキを食べながらとりとめのない話を楽しんだ。彼女からはやはり警察についてあれこれ訊かれ、逆に彼女には学校や兄のことなどを訊いた。本当はほとんど家に帰らないという両親のことが引っかかっていたが、なんとなく触れてはいけないような気がして話題にできなかった。


「あ……あのね、南野さん」

「何?」

 すこし会話の間が空いたあと、彼女が何か言いにくそうに下を向いてもじもじと切り出した。急にどうしたのかと不思議に思いながら様子を覗う。すると、彼女は意を決したように顔を上げてまっすぐ誠一を見つめた。

「私、南野さんのことが好きです。付き合ってください!」

「……えっ?!」

 一瞬、頭の中がまっしろになった。

 これはいわゆる愛の告白というものだろうか。付き合うというのは男女交際のことだろうか。いや、まさかそんな。あまりにも突然で、思いがけなくて、信じられなくて、何かの間違いだとしか思えなかった。しかし——。

「もしかして彼女がいるんですか?」

「いや、今はいないけど……」

「じゃあ、私を彼女にしてください」

 彼女はいっそう真剣な面持ちで誠一を見つめて、そう言いつのる。

 いったいどうして自分なのかが本当にわからない。彼女とはきのう初めて会ったばかりである。しかも、そのとき大変な失態で危険にさらしてしまった。出会いとしては最悪だ。そのあとは警視庁で小一時間ばかり話をしただけで、好きになってもらえる要素はどこにもない。見目麗しい男性なら一目惚れということもあるだろうが、残念ながら誠一の容姿は十人並みである。

「俺のどこがいいの?」

「いいひとだし、話していてすごく楽しかったから」

「じゃあ、ときどき会って話すだけでいいんじゃない?」

「ちゃんとデートとかしたいです。好きなんだもん」

「…………」

 異性を好きになるというのはこんなに軽いものだったろうか。中学生にしてもだ。誠一はこれまでそれほど簡単に誰かを好きになったことはないし、告白したこともなかった。若さゆえというより性格によるところが大きいのかもしれない。

「私じゃ、ダメですか?」

「いやいやいや、ダメとかじゃなくてね」

「私、本気で好きなんです」

「うん……気持ちはありがたいんだけどさ」

「付き合ってくれますか?」

「澪ちゃんわかってる? 俺、二十七歳だよ?」

「恋に年齢は関係ないです」

「でもね、俺からするとやっぱりちょっと」

「私、子供っぽいですか?」

「子供っぽいっていうか……子供だからね」

 そう告げると、彼女はぷくっと頬を膨らませて口をとがらせる。

「女の子は十六歳で結婚できるんですよ?」

「でも、澪ちゃんまだ十五だよね?」

 中学生なのだから普通に考えれば十六歳にはなっていない。その指摘に、彼女は顔を紅潮させてくやしそうに誠一を睨むが、何の迫力もなくむしろ可愛らしくさえある。悪いと思いながらついくすりと笑ってしまった。しかし、このままでは彼女の気持ちはおさまりそうにないし、年齢だけを理由に断るのもかわいそうな気がしてきた。

「じゃあさ、こうしようか」

 誠一が人差し指を立ててそう言うと、彼女はきょとんと小首を傾げる。

「とりあえず澪ちゃんが十六歳になるまでこの話は保留にしよう。もし十六歳になっても澪ちゃんの気持ちが変わらなかったら、またあらためて言ってくれる? そのときは俺もきちんと考えるから」

「……わかりました。それでいいです」

 彼女は不満げな顔を見せながらも了承してくれた。そして気持ちを落ち着けるように小さく息をつくと、すっと背筋を伸ばし、誠一の双眸を捉えてにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「覚悟してくださいね。私、あきらめませんから」

「え、ああ……」

 もしかしたら対応を誤ったのではないか——きらきらと目を輝かせる彼女に曖昧な笑みを返しつつ、誠一はさっそく後悔と不安にさいなまれることになった。だからといって何が正解だったのかはわからない。あまり面倒な事態にならないよう祈りながら、カップに少しだけ残っていたぬるいコーヒーを一気に飲み干した。


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