つばき
庭の生け垣の落とす色濃い影が少し長くなったのを見てそろそろかなと思い、だるくて重い身体を布団から起こす。
目に痛々しいほどに真っ白な布団を整えてから鏡台の前に座る。
引き出しから桜の花びらの刺繍が施された手鏡を取り出す。
それは彼が七つの誕生日にくれた大切な物。
鏡のくもりを花田色の着物の袖で拭い、顔を映す。
今日は一段と顔色が悪い。
日々病状が悪化しているのか?
一度考え出すと止まらない。
負の思考が強い連鎖を引き起こす。
でも今はそんな泥沼に嵌まっている場合じゃない。
無理矢理鎖を断ち切って引き出しから小さな桜貝に塗り込められた京紅を取り出して筆で唇に色を載せる。
このくらいだろうか、と考えて手鏡に顔を映す。
そこには仄白い雪原に真っ赤な一片の椿の花びらが落ちていた。
眉間を寄せてその顔を見る。
顔は華やかになったが、肌が白く強調されすぎている。
白を超えて冷たい青を孕んでいるようにすら見える。
こんなのいけない。
病人らしさが増している。
別の引き出しから懐紙を取り出して唇を拭うと同時に庭の方から彼の声が聞こえた。
「雪穂」
手鏡も紅も放り出して愛しい人の元へと駆け寄り、襖を開く。
京ちゃん。
襖を開くと同時に私も彼に応じる。
けれど、彼が私の声を聞くことはない。
私は声を持っていないのだから。
「ちゃんと寝てたか?」
うん。
首を縦に振る。
本当は体の節々が痛んだり、息苦しくてあまり眠れていないけれど。
幼い頃に重い流行病に体を侵されてずっと家の中にいた私。
そんな私と友達になってくれたのが京ちゃんこと神室京之くん。
そして十六になった今でも幼馴染として仲良くしてくれている。
彼だけには心配をかけたくない。
でも嘘を吐かなければ京ちゃんに心配をかけてしまう。
だからこれは必要な嘘。
罪悪感に胸が痛むけれど無理矢理感じないようにする。
「あ、雪穂また鏡見てたのかよ。 そんなにこれ好きか?」
うん。
「雪穂、花好きだもんな」
京ちゃんが太陽のような笑顔を浮かべる。
「幼馴染」の檻が苦しいと思うのはこんな時。
初めて会ってこの太陽のような笑顔を見た時から私の胸の内は京ちゃんだけに染まっている。
この笑顔を見る度に切なくて愛しくて唐紅の想いを吐き出したくなってしまう。
でもそんなことしてはいけない。
桜が一番好き。
手早く懐紙に書いて京ちゃんに見せる。
「えー、花は桜木、人は武士っていうあれの影響?
雪穂ってそんな武家みたいな・・・」
京ちゃんのとんちんかんな解釈と調子はずれた歌声に身体が揺れる。
息だけの笑い声が漏れる。
「違った?」
違うよ。
ずっと前に京ちゃんが桜の枝持ってきてくれたでしょ。
まだ十になるかならないかの年の早春。
京ちゃんがその年に一番早く咲いた桜の枝を手折って持ってきてくれた。
その日から桜が一番好きな花。
「ああ、それでか。
あのとき本当に雪穂喜んでたよな」
けどね、この鏡が好きな理由は別にあるの。
「ん?」
これを言ってしまったら一線を超えてしまう気がする。
「幼馴染」の檻が邪魔に感じることもあったけれど、結局は壊すことも逃げ出すこともできなかった。
それなのに今更檻を壊すの?
京ちゃんがくれたから。
自問自答しているうちに右手は勝手に筆を執っていた。
懐紙に並ぶ文字は私の胸の内を映したように微かに震えている。
「・・・っ」
京ちゃんが息を呑んで顔を紅潮させる。
京ちゃんは性格が抜群に良い上に見目も爽やかで、女の子に人気が無いことはないだろうに
こうして私の言動に感情を揺らしてくれる。
その度に甘酸っぱい想いが積み重なって恋しさを募らせてしまう。
私、友達から贈り物を貰えるなんて夢にも思ってなかったからすごく嬉しかったの。
「これから作る俺以外の未来の友達からも貰おうな」
京ちゃんが私の黒髪に手を滑らせる。
彼の優しい言動に心が少し温まる。
でもきっとそれは叶えられることのない夢物語。
私は生涯「外」を知らずに籠の鳥のままでいるのだろう。
ありがとう。
筆を動かしながら息が漏れるだけの口を動かす。
今まで閉じていた空間に一気に夏特有の生ぬるい空気がなだれ込んで気分が悪い。
「・・・!!!
顔をしかめて激しく咳き込む。
苦しい。
喉が、胸が、そして心が痛くてたまらない。
咳によって病を京ちゃんにうつしてしまわないか心配が重なって余計に気分が暗くなる。
帰っていいよ。
震える手で筆を執り、懐紙に綴る。
「帰って」と命令できないのは側にいて欲しいと思う私の甘え。
「帰らない。少なくとも雪穂が落ち着くまでは」
私が咳き込んだり倦怠感を訴える度に―――いや、普通にしている時すらも、
私の側から人は離れていった。
いつも寂しかった。
でも京ちゃんは微塵も離れようとしない。
それは嬉しいけれど、辛くて胸が痛い。
うつっちゃうかもしれないんだよ。
「もう十二年もこうしてきて今更言うかよ。それに・・・」
京ちゃんが語尾を濁し彼の漆黒の髪に手をあてる。
心なしか赤く染まった頬を見て早く続きを聞きたいとの気持ちが募る。
視線で訴えかけると彼が再び口を開いた。
「雪穂にならうつされてもいい」
驚きで息を呑み喉がひゅうっと音をたてる。
彼の発した言葉の意味が、ただ単に仲の良い友達としてなのか、幼馴染としてなのか。
もしくはほんの少しでも恋愛感情を含んでいるのだろうか。
どんな意味を含んでいようがそんなことを言ってくれるなんて信じられなかった。
嬉しさと感動で涙が零れる。
頬を伝う幾筋もの涙が落下して着物に丸いしみを作る。
京ちゃん、京ちゃん。
声にならない声で彼の名を呼ぶ。
「雪穂・・・」
京ちゃんに腕を捕まれたと思った次の瞬間、視界が変わって抱きしめられたと悟る。
心臓が壊れそうなほど早鐘を打つ。
こんな音聞いたことない。
「雪穂。
俺は雪穂が女として好きだ」
世界が鮮やかに色づく。
耳に飛び込んできた言葉が脳まで達しても意味を噛みしめることができない。
ふわふわとした麩菓子みたいに私の心を甘く甘く溶かす。
嬉しくて、愛しくて堪らない。
でも。
京ちゃん、私京ちゃんに何も出来ない。
血迷わないで。
京ちゃんの腕からそっと抜け出して薄い筆圧で書いた懐紙を見せる。
悲しいことに現実はこうなのだ。
京ちゃんに私は釣り合わない。
「損得の話じゃない。
血迷ってもいない。
十年越しの想いを否定するわけ?」
京ちゃんの真剣な眼差しに射止められてゆっくりと首を横に振る。
そして私も唇を持ち上げた。
好き。好き。京ちゃんが好きなの。
難しいけれど、どうか伝わって。
祈りを込めながら酸欠した金魚のように口を開いては閉じ、ひたすら「好き」と繰り返す。
「雪穂」
強い力が背中に走り視界が深い緑色に覆われる。
京ちゃんの着物の色。
京ちゃんに抱きしめられたんだと理解するのに時間はかからなかった。
余りに幸せすぎて涙が頬を濡らす。
しゃくりあげる私に気づいたのか京ちゃんが私の顔を上に向けた。
京ちゃんの節くれだった長い指が溢れ続ける水滴を受け止める。
「・・・泣きすぎ」
私が困って眉を下げると彼は大人びた笑みを浮かべた。
私もつられて微笑む。
そんな些細なことさえも嬉しい。
「あ、笑った。
・・・今日、紅ひいたの?
ここ残ってるけど」
京ちゃんが優しく口角に触れた。
え。
勝手に口が動いた。
拭い取れてなかった上に好きな人に指摘されてしまうなんて。
恥ずかしすぎて顔から湯気が出そうだ。
「見たいな」
京ちゃんの爆弾発言に全身の毛が逆立つ。
全力で首を横に振る。
「わかったから、そんなに首ふらなくいいよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼が私の両手を捕まえた。
突然の行動にときめいたけれど驚きも大きくて、表情に出ていたのだろう。
「ちょっと手繋いでみたくて」
はにかんだ京ちゃんも可愛いな。
そう思った瞬間彼は悪魔の笑みを浮かべた。
両腕を繋ぎながら鏡台に近寄っていく。
「確か貝殻に入ってるんだよね、紅って」
鏡台の前に立つとすぐにそれは見つかった。
先ほど彼に早く会いたいからと放置した自分が恨めしい。
自分を恨んでいるうちに彼は片手を離し貝殻に手を伸ばしていた。
「ふーん・・・こうなってるんだ」
彼が口と片手を器用に使って貝殻を開く。
思わずその姿に見とれる。
夕日に縁取られたその姿はぞくりとするほど色っぽかった。
「指でいいよね」
一人で勝手に呟くと彼が指に紅をのせて私の唇に触れた。
彼の触れた部分から真紅の椿が咲きこぼれる。
片手は繋いでいないのに緊張で動かせない。
「綺麗だ・・・」
京ちゃんが目を細めて溜め息を吐く。
思わず零れ落ちたというような言葉に目を見張る。
病人らしい顔を見られるのはやっぱり嫌だけれど嬉しさも確かにあって頬が緩む。
「他の人に見せないで」
刹那、強く抱き寄せられて掠れた声で訴えかける。
耳に当たっている彼の心臓の鼓動が速い。
「雪穂のお父上にもお母上にも、奉公人にも。
紅を引いた時は俺だけの雪穂でいてほしい。
我が儘を言ってることは知ってる。
でもどうか・・・」
余裕のない彼の声色に胸が締め付けられる。
緩く首を縦に振ると顎を支えられて視線で射止められた。
「好きだ、雪穂」
柔らかな唇が押し当てられて一瞬で離れていく。
鳥が嘴を一瞬だけつつき合うような、そんな口づけ。
驚いて目を瞑ることもできなかった。
「いきなりごめん」
彼の腕の内で余韻を楽しむことすらままならずに腕を解かれる。
夕日よりも赤く頬を染め、僅かに眉間に皺を寄せて困った表情をした
京ちゃんが放った言葉は色気なんかなかったけれど緊張していた私の心をするりと溶かした。
「・・・じゃあ、また明日」
ぎこちない雰囲気に息ができなくなって縁側に駆け出す京ちゃん。
時折驚くほど大人びた表情をするのに照れ屋なところはずっと変わっていない。
また明日。
手をふって笑顔を手向ける。
駆けていく夕日に染められた黒い背中を見て少し淋しくなった。
でも確かに明日会える喜びも存在していた。
部屋に戻り手鏡を見ながらゆっくりと紅を落とす。
明日もう一度ここに椿を咲かせよう。
彼と私だけの為に。
白い淡々としたひたすら無機質な日常の中に一輪の椿を待つ生活をこれからも送るのだろう。
ただ一つの椿の名前を呼びながら。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!
誤字脱字等がありましたらご一報ください。
これからも柊の作品をよろしくお願いできたらなーと思います(´・ω・`)