第五話 吹雪の夜に
同緯度に存在しながらも、ハルピュイアはリヒトの居た地域よりも寒かった。
それは山脈を隔てた北風が吹き降ろし、この盆地となった場所に寒さを齎しているせいでもある。
季節は秋の終り口であり、粉雪が積らない程度に降っていた。
「寒ぃ……マジで、寒ィいいいい……」
そんな中、リヒト・シュッテンバーグは歯の根も合わない様子だった。
がたがたと震える身体には、いつも通りの暗緑色のコートのみである。
「“英雄”ともあろう者がだらしない。兵士の時に贅沢は言ってられなかった筈だろう」
吐き捨てるは、階級上は“少尉”となっているフェリア。
黒いコートの前を開け放っているにも関わらず、一切、彼女は寒がる様子を見せなかった。
「ジョーカーマシンのコックピットは空調が付いてるんだよ……!寒い外に生身で出た事は無いっつの……」
「軟弱者め」
「五月蝿ぇ……勝手に言ってろ……」
リヒトは再び、現地で買ったマフラーに口元を埋めた。
そもそも、この地方が寒いなどとは聞いていなかった―――と、リヒトは主張する。
防寒着の一つも無い格好で、この時期を歩くのは身体に悪い。
自然と早まる脚が、目的地に急ぐ。
一刻も早く暖を取りたい。
その一念で既にリヒトの頭では地図が出来上がり、目的地に辿り着くを今か、今かと心待ちにしていた。
既に心此処にあらず。
故に、リヒトは気付いていない。
「ところでリヒト。先に行くのはいいのだが、目的地が分かっているのか?」
「あぁん?当たり前だろボケ。こっから先へ直進して……アレ?」
リヒトは周りの町並みを見渡すと、近場にある道路標識を見つけて歩み寄る。
その青い標識を見つめる内に、見る見るとリヒトの顔まで青くなっていく。
一方その事実を先んじて知っていたフェリアは、その様子を淡々と眺めていた。
そこにある感情は“呆れ”。
何故なら、彼女は決して寒いわけでは無いからだ。
「マジかよ……通り過ぎたとか……」
絶望した声でリヒトが呟いた。
「貴様はもう少し、日常生活での観察眼を磨くべきだろう」
「………」
返す言葉も無く、リヒトは己の踏みしめた雪の足跡を辿っていく。
その後ろを、呆れたような目のフェリアが追った。
―――歩くこと、更に二十分半ば。
リヒトが歩くことに疲れを感じてきたところに、それは見つかった。
「……マジでここか?本気か?ベルランドの野郎、嘘吐いてんじゃねぇよな?」
「違うと、信じたいところだが……今回ばかりはお前に同意だ」
何故、リヒトが目的地を見失ったか。
それは、彼が道中にそれらしき物を見つけられなかったことにも一因がある。
“猛禽”ベルランドに渡された目的地を記したメモ。
そこには『ウエマツ研究所』と書かれていたのだが―――
「ただの、アパートじゃねぇか」
その実、住所にあったのは小汚いアパートメントであった。
築何年かすら分からないコンクリートの壁は、塗装が剥がれてボロボロ。
錆だらけの梯子に、荒れ放題の裏庭を見るに、それは廃墟として認識されていてもおかしくないほど。
「ま、まあ待て。地下研究所とかかも知れんぞ」
珍しくうろたえた様子のフェリアが、フォローをする。
訝しがるリヒトは、それでも渋々、といった体で敷地へと入り込んだ。
―――その瞬間である。
「隙アリだ、侵入者っ!!」
「ぐぉうッ!?」
リヒトの顎に、上昇志向の拳骨が入った。
揺れる脳髄、込み上げる吐き気と痛みに耐えながらも、リヒトは何とか正面を見ることに成功する。
そこに居たのは、珍妙な少女。
「むぅ、コレに耐えるとは中々にタフネスだなっ!だがぁ!」
栗色のショートボブに揺れる、ネコミミ。
白と黒の色彩鮮やかな、メイド服。
場違い、そう、あまりにも場違い。
「これでっ!」
素早く、少女はステップを踏んだ。
左右へとダッキングしながら繰り出される、華麗なアッパー。
寸分違わずに、リヒトの顎に今一度直撃。
「オネンネだよっ!!」
その声を最期に、リヒトの意識は途切れた。
糸の切れた人形のように後ろへと倒れ込む。
その様子を見ていたフェリアは、その様子を欠片も気にすることなく言った。
「ここは、ウエマツ研究所で良いのか?」
「そういうアンタ様は誰なんだい?マフィア的な人なら、二人仲良くオネンネして貰うけどさっ!」
「私はフェリア。そこで無様に転がっている男はリヒト。ベルランドに要請を受けて来た」
少女は品定めするようにフェリアを眺めた。
その挑発的な視線を気にもせず、フェリアは胸元のポケットから紙を引き出す。
ベルランドが直筆した紹介状だ。
少女はそれを受け取って一瞥すると、それをぽいと捨ててしまう。
「なーるほどねー!ベルランド様が言ってた助っ人ってのはアンタ様達か!確かにここは、ウエマツ研究所!アンタ様達の目的地だよ!」
少女はくるりとその場で回ると、備え付けの階段へと歩き出した。
エプロンドレスの裾が可憐に翻る。
「付いて来るといいよ!御主人に会わせてあげるからさ!」
それだけ言うと、まるで山猫のような軽業で階段を昇っていく。
少女を追おうと一歩踏み出しながら、フェリアは思わず呟いていた。
「……御主人?」
* * *
改めて室内を見渡せば、そこにあるのは何の変哲も無い男の部屋だった。
しかも、中は男の私物であろう、漫画雑誌やPCソフト、ゲーム等が無造作に転がっており、お世辞にも綺麗な部屋とは言えないだろう。
そんな部屋の中、転がっていた物を適当に避けたスペースに、リヒトら二人は座っていた。
部屋の主はその対面にある椅子に座り、不敵に笑む。
「で、御主人―――ウエマツってのは、アンタか?」
「そう、僕がここの研究所の所長、コージ・ウエマツだ」
コージ・ウエマツと名乗った男。
シャツは緩く、髪は伸び放題のものを後ろで束ね、銀縁眼鏡もずれたまま。
ずぼらな性格が目に見える上に、肉体は少々肉付きが過ぎるものがある。
リヒトは幾日か前にテレビで見た“オタク”なる人種を思い出していた。
言われてみれば、ウエマツの名前は“オタク”で有名な極東の島国でのスタンダードな名前である。
「アンタらは?」
「リヒト・シュッテンバーグ。アンタらみたいなのには“英雄”って言った方が分かり易いか?」
「ふーん」
「ふーん、ってお前……」
「私はフェリアと言う。こいつの保護者みたいなものだ。そっちの少女は?」
がっくりと肩を落とすリヒト。
それを無視して、フェリアが話を進めようとする。
ウエマツの視線で促されて、メイド服の少女が平らな胸を張った。
「アタシはフー!気軽にフーちゃんって呼んでね!」
「無い胸張るなよ。惨めに見えるぞ?」
隣でぼそりと呟いたウエマツの後頭部を叩きながら、フーは満面の笑みで言った。
その珍妙な関係に、彼らの力関係はありありと分かった。
だが、未だ二人には分からないことが多すぎる。
「そのメイド服は一体何なんだよ?」
「御主人の趣味だよ!」
「では、そのネコミミは?」
「僕の趣味だが?」
「じゃあ、何で御主人って呼ばせてるんだ?」
「「趣味」」
綺麗に重なる二人の声に、リヒトは大きな溜息を吐いた。
どうにもこの二人、両者共に変人らしい。
「……関わりたくは無い二人組みだな」
「……全く以って同感だぜ」
小声で呟くリヒトに、フェリアが同調した。
己の部屋にメイド姿の少女を囲み、ご主人と呼ばせる、自称研究所所長。
当の本人はさも当たり前であるかのようにどっかりと座り、足元に落ちていた漫画を手にとって読み始めようとしていた。
今は遠くに居るベルランドを恨みながらも、リヒトは話を切り出そうとする。
「んで、俺達の目的だが……さっきの様子を見るに、ベルランドから話は行ってるのか?」
「先日、電話が来たよ。まあ、僕が直接電話を取った訳じゃあないんだけど」
「アタシが取ったよ!」
ぴょこぴょこと揺れながら、フーは朗らかに笑っていた。
その頭をウエマツが撫でようとするが、髪に触れる前にその手を叩き落とされている。
「じゃあ何で俺を攻撃したんだよ!」
「うーん……怪しかったから、かな」
「……ウエマツさんよ、アンタんとこの番犬はちょっと凶暴すぎるとは思わないか?」
リヒトが話を振ると、ウエマツはフーの顔を横目で見た。
その時二人の目が合うが、とてもドラマティックなものではなく、むしろ、殺伐としたものであり。
冷や汗を流しながら正面に向き直り、ロボットのようにぎこちなく頷いた。
「そりゃあ―――禁則事項の質問だな、ウン」
「まあ、そんな事はどうでもいいんだ」
フェリアが場の空気を戻そうとする。
リヒトはもう少しフーに言いたかった事がありそうだが、渋々と話をする態勢へと戻った。
「私達が遠路遥遥ここまでやってきたのは、“エンジン”の調査をする為だ」
「―――アルカナエンジン。“魔力”をエネルギー変換する脅威の物質」
「そのアルカナエンジンを狙う組織が居る。その組織に対抗する為。そして、あわよくば壊滅させるためにも。それらの所在を知り、手中にすることが求められる。」
「成る程、それで僕が見つけたエンジンを使って、実験でもしようっていう事かい?悪いが、僕はもう実験はしないことにしたんだ」
「そりゃあ、また、どうしてだ?」
「そこまで君に話す義理は無いと思うがね」
リヒトは聞きたそうな表情をしていたが、フェリアによる無言の圧力で再び口を噤んだ。
「とにかく、エンジンの無事を確認するだけでもいい。協力して頂けるだろうか、ウエマツ所長」
「エンジンを狙う組織……ねぇ」
考え込むようにウエマツが唸った。
リヒトが首を傾げる。
「何だ?心当たりでもあんのか?」
「いや、まさかその組織って、マフィア的なものじゃあないよな?」
「マフィアぁ?一体何の関係が?」
「近頃、よく此処の近辺を見回っているようだからね。もしかしたらなー……と」
「はっ!そもそも、そんなちゃっちい組織がジョーカーマシンなんて用意できるかよ」
だよなぁ、と独り言のように呟くと、彼は天井を仰いだ。
再び考え込むウエマツに、何なんだよ、とリヒトが続ける。
答えを待つことなく、フェリアは得心したように口を開いた。
「概ね、事情は理解した。恐らく子飼いの組織か何かにやらせているのだろう」
「子飼いだ?デイブレイクってのはそんなにデカい組織なのかよ?」
「推論に過ぎないが、恐らくそうだろう」
フェリアの推論に、ウエマツが苦心の表情を浮かべる。
「参ったな……監視されているんじゃ、アルカナエンジンを回収できない」
「アルカナエンジンは一体何処にあるんだ?」
「連中のような奴に手に渡ってはならないと思って、とある場所に隠したのさ。こうなると分かっていれば君たちに手渡したんだが……」
「直ぐに、取りには行けないのか?」
「取っている途中で横取りされるのが目に見えるからね。デイブレイクってのは相当強力な組織みたいだから、それこそ、ジョーカーマシンを使ってでも止めにくるだろうね」
一応、修理の完了した“グラインダー”を持ってきてはいる。
しかし、それを起動するのはあくまで最終手段であり、そうしないことがリヒト達には求められていた。
「じゃあ、俺達はどうするんだよ?ここまで来て、何もなしですごすご帰るのか?」
「ベルランドが動かなければ、どうにもならなさそうだ。私達はここで連絡係とならざるを得ないだろう」
言うやいなや、フェリアは携帯電話を取り出しながら玄関へと歩いていった。
早速ベルランドに報告する気なのだろう。
律儀な女だ、と思いながら、リヒトはふと辺りを見回した。
何かが足りない。
そう、居た筈の存在が足りない、違和感がある―――
「大変だ!」
フェリアが声を張り上げながら、再び部屋へと戻ってきた。
何事かとリヒトは思いながらも、嫌な予感は禁じえなかった。
「フーが、メモを残してマフィアに勝負を仕掛けに行ったようだ!」
「さっき“周囲を監視している”っていうマフィアどもか……!!」
二人は顔を見合わせた。
幾らリヒトを倒すほど強いとは言え、少女である。
マフィアなどという治外法権に生きる男を相手にすれば、ただでは済まないだろう。
「俺達も行くぞ!」
リヒトは素早く決断し、玄関へと向かった。
頷きながら、フェリアもそれに従う。
だが、それよりも彼らの前を駆ける影があった。
「ウエマツ!?」
「あの男、いつのまに……」
ウエマツは既に玄関の扉を蹴り開け、二人の視界の外へと姿を消そうとしていた。
その速度たるや、とてもその身体からは想像も付かないほどである。
「追うぞ!」
「クソっ!待てよウエマツっ!!」
二人も一瞬遅れて走り出し、“ウエマツ研究所”からは人が居なくなった。
外に降る粉雪は、その勢いを強めつつある―――
* * *
「フェリア、そっちに居たか!?」
「駄目だ。そちらは?」
「何処にも居やがらねぇ!クソ!ウエマツは!?」
雪の降りしきる中、二人は息を上がらせつつも走っていた。
すでに捜索を始めて一時間、そう大きくは無い街であり、通りは殆ど見回った。
既に日も落ち、辺りは夜闇である。
だが、フーは影も形も見当たらない。
「警察とか、そんな感じのヤツに頼れねぇのか!?」
「大事にすれば、即座に感づかれるだろう。フーが人質にされている可能性もある」
「クソったれ!!」
リヒトは悪態を吐き、再び足を動かす。
二人が訪れていない場所は一箇所を残すのみ。
併走して五分ほどの位置にそれはあった。
「ウエマツ!!」
街の外れにある墓地。
そこにある慰霊碑の前に、ウエマツは立っていた。
「フーは居たか―――っ!?」
リヒトは言いかけ、口をつぐんだ。
ウエマツがその手に持っていたのは、ネコミミのバンド。
フーが身に着けていた筈のものである。
「……ご丁寧に、奴らは手紙まで残してあったよ」
ウエマツがネコミミバンドを握るのとは逆の手に、力なく一枚の紙を握っていた。
リヒトはそれをひったくり目を通す。
そこにあったのは、概ね予想されていたケースと一致していた。
「フーを人質にして、アルカナエンジンと交換って訳か。汚ぇ連中だ」
忌々しそうにリヒトが呟く。
フェリアも、その表情には確かな怒りが浮かんでいた。
ただ、ウエマツだけは―――まるで虚無のような、色を失った顔つきであった。
「フー……」
粉雪はいつしか、吹雪になっていた―――
もっとサクっと終わらせる予定が、思ったより長引きそうです。
申し訳ない。