第二十五話 黄昏
真っ暗な部屋がある。
その中には一人の男が佇み、ただ、何をすることも無く、意識を闇へ預けていた。
満ちた、その力を感じているのだ。
「来るか……」
呟く声は重苦しい。
しかしそこに威圧感は無く、ただただ、好奇心に満ち溢れているような響き。
彼は事実、楽しみを一つ叶えたのだ。
浮かれた心のままに、男が目を見開いた。
静寂に満ちた部屋に、光が燈る。
それは本来見ることの叶わない“魔力”と呼べるエネルギーの持つ、紅い焔のような色。
見つめる人影は満足そうに頷くと、背後に迫った足音に耳を傾けた。
「ルチアーノ」
「何なりと、総帥」
ルチアーノと呼ばれた片眼鏡の男は、跪き、恭しく頭を垂れた。
総帥と呼ばれた男は振り返ることすらなく、低い声で続ける。
「遂に、地に魔力が満ちる刻が来た……これで、新世界の幕が上がる」
「喜ばしい事で御座います。我が神も、さぞお喜びのことでしょう」
言いながら、ルチアーノは首から提げた十字架を握った。
ようやく、長年の夢が叶うのだ。
二人は感傷に浸る。
それは“デイブレイク”としての悲願ではなく、彼ら個人としての歓びでもあるのだから。
「……羊飼いに伝えろ。羊を放ち、身元不明者を解放する」
「了解しました……総帥」
交わす言葉は少ない。
だが、その真意を読み取ったルチアーノは、微笑を浮かべてその場を立ち去った。
一人残されたデイブレイクの総帥は、魔力の灯火を見つめた。
その色は、どれも等しく輝く、命のようなものだ。
既に起動した“11個”のアルカナエンジンが、静かに鼓動している。
「……まずは、城を据える事から始めるか」
訪れる刻に、“シュッテンバーグ卿”は哂っていた。
伸ばしたその手が世界へと与え得る力は、希望か、絶望か。
夜は、明けようとしていた。
* * *
暴走した感覚だけが背筋を撫で、全身が総毛立つ。
モノクロに点滅する世界が、脳に痛みという形で危険を訴える。
だが、リヒトはそれを受け入れて、目の前を見据えた。
世界の全てが、リヒト・シュッテンバーグにとっては既に“遅かった”。
Arcana Machine 04 Grinder。
そのアルカナオーバーは、“全てを抜き去る速度”―――
「ぉおッ……!!」
唸る。
痛みにではなく、奮い立つその心故に。
目の前に存在する巨大な障壁を破壊するための覚悟であり、意思の表れ。
グラインダーが駆け出したとき、刹那の時が動き出した。
弾き出されたタイムリミットは十秒。
その間にベヘモスの下へ辿り着き、その一撃を放たなくてはならない。
だが、出来る。
確信を持って、リヒトはコンソールを操作する。
グラインダーは規定された最高速をあっさりと越えた。
その事が与えるリヒトへのダメージは並ではない。
血液が全て重力以上の力で押さえつけられ、視界は瞑れ、頭に鋭い痛みが走り続ける。
それでも、リヒトは耐える。
辿り着く場所に勝利があるならば、命が朽ち果ててでも―――
「ッァあああああああッ!!」
吼える。
痛みに打ち克つために。
自分の血液が沸騰するような音を聞きながら、リヒトはモニターの先にある光景を見た。
上がる土煙に紛れて、着弾する直前のミサイルが樹木のように乱立していた。
爆発もドーム状に固まり、徐々にその範囲を広げ、誘爆する。
雨のように小口径弾がばらまかれ、霰のように大口径弾が降り注ぐ。
まるで地獄のような光景だ。
そして、それをグラインダーは突破しなければならない。
「面白いじゃねぇか……ッ!!」
リヒトは口の端を上げる。
困難を前にして、獣のように獰猛な笑みを浮かべるのだ。
それは戦いに生きることを望んだ“英雄”の姿。
迷い無き瞳は、ただ、目の前の敵だけを見つめる。
土煙を突破し、グラインダーは“死のフィールド”へと足を踏み入れた。
乱立したミサイルを左右へと切り返して避けていく。
目の前に落ちるであろう弾は全て弾道を予測して、最善の位置へと移動し、回避。
反射神経と戦闘により鋭敏化した感覚の前には、その攻撃は無駄だった。
だが、そう簡単には行くはずも無い。
ベヘモスに一歩近づく度、その攻撃は激しさを増す。
既に周囲には土煙と爆発、黒煙と銃弾しかない。
荒涼としていた荒地の面影すら見る事は叶わず、正に地獄と呼べる光景だろう。
横合いから発生した爆風が、グラインダーの身体を煽った。
そして、目の前に迫るミサイル。
態勢が崩れた今では、回避は不可能。
「―――ちぃッ!!」
一瞬で判断を下す。
しかし、グラインダーは拳を構えることは無い。
その拳は“切り札”であり、間違っても、このタイミングで使うべきではないと判断した。
ならば、目の前のミサイルを切り返すのか。
答えは、決まっていた。
「頭なんてなァ、飾りなんだよッ!!」
グラインダーのその頭を、ミサイルへと打ち付ける。
何の変哲も無い、慣性をつけただけのヘッドバッド。
しかし、グラインダーのスピードは通常のジョーカーマシンの出しうる十数倍の速度に達している。
故に、その頭でミサイルを破壊しながらも、遥かに爆発を置き去りにして飛び去った。
黒煙すらも置き去りにし、グラインダーは進む。
メインカメラに罅が入っていた。
だが、その罅が入っていく様子すらも観察することが出来る。
リヒトの集中力は既に、“デザインマーセナリー”と呼ばれたものと同等か、或いはそれ以上のものとなっていた。
「見えた……ッ!!」
黒煙に霞んでいた影が、遂に姿を現した。
通常の十数倍もある巨躯はグラインダーの姿を見下ろし、睨みつけるようにその目を光らせる。
それは明らかな敵意を孕んだ視線。
“貴様を殺す”という明確な殺意に、リヒトは一度、身を震わせた。
「上等だッ!!」
だが、その手の動きは鈍らない。
武者震いであることを照明するように、グラインダーのペダルを全力で踏み込む。
グラインダーは滑空を終え、地を蹴って飛び上がった。
狙うは、ジョーカーマシンならば共通である筈のコックピットの位置、胸。
銃撃はより一層激しさを増し、最早壁と呼べるそれらがグラインダーに立ちはだかる。
だが、止まらない。
止まるはずも無い。
装甲が剥がれ落ち、全身が傷つき、リヒトの意識が飛びかけても。
目の前の敵を駆逐するまで、“英雄”が止まることは無いのだ。
「あと、三秒、全開だッ!!」
辿り着いた胸の前で、グラインダーは拳を振り上げた。
追加装甲に隠された“秘密兵器”が起動する。
拳から真っ直ぐに伸びた円筒が回転し、その姿を歪ませ始める。
熱気は空気を歪ませ、辺りの光景を巻き込むように拳へと集中させる。
どこまでも紅い光が、グラインダーの双眸と共に輝いた。
「ヒートッ!!」
ベヘモスの胸へと打ち込まれる拳。
その動きと連動し、追加装甲に打ち込まれていた六本の円筒が放たれる。
ベヘモスの強固なその装甲にグラインダーの拳は通らない。
しかし、放たれた六本の円筒は回転しながら装甲を“削り”、“溶かし”、“穿つ”。
「ドリルッ!!」
拳がベヘモスへと衝撃を伝えた瞬間、六本の円筒が完全にベヘモスに埋め込まれた。
そしてグラインダーは、右拳を引き抜くのと同時に左拳を構える。
同様にして動き出す、六本の“秘密兵器”。
「パイルッ!!」
放たれる左拳からの六本は、何の抵抗も無くベヘモスの装甲へと侵食を始める。
如何に強固な装甲といえど、“回転”、“熱”、“衝撃”を与えられれば、破壊を免れることはできない。
「バンカー……ッ!!」
グラインダーは拳を抜き、その場で半回転する。
勢いのついた脚は、鞭のようにしなやかな動きでベヘモスの装甲へと打撃を与える。
それと同時に起動するのは、脚部にも取り付けられている六本の円筒。
「弐拾肆連ッ!!」
陽炎の中で踊るようなその動きは、さながら演舞。
左足を叩きつけ、放たれる“秘密兵器”。
抵抗は無く、放たれたそれら全てが強固なベヘモスの胸部装甲を綺麗に穿ったこととなる。
残り一秒。
リヒトはグラインダーをベヘモスの頭部カメラの場所まで移動させた。
そして、その秘密兵器の取れた拳でカメラを殴りつけ、笑う。
「じゃあな、“木偶の坊”ッ!!」
零秒。
ベヘモスの胸部で、白い光が広がった―――
* * *
静寂が辺りを包み込んでいた。
まるでそこで戦闘があったことなど感じさせないほどの静けさだ。
それはどこか殺気にもにていて、背筋を薄ら寒くさせるものである。
ミツキには、その原因が分かっていた。
全ては、目の前に存在するアルカナマシンの右腕に集約する。
『―――それが、君の“力”か』
呟くような言葉に、返事は無い。
ただ、その“異形”と化した右腕を振るい、答えた。
キリングの肩から先は、既に人型のそれではなかった。
漆黒の刃が犇めくように腕を形作り、それら全てが冷たい輝きを放っている。
同時に、その剣で出来た腕の先には悪魔のような爪が五対生えている。
どれもが圧倒的なプレッシャーを放ち、ミツキに動くことを許さない。
「アルカナオーバー……アルカナは、答えてくれたというのか」
アルカナの膨大な魔力は、超常を現象とする。
ベルランドの覚悟に与えられたその力は、漆黒の刃となって冷たく光っていた。
キリングの右腕を動かす。
反応は良く、まるで自分の腕であるかのような感覚。
鋭利な刃で形作られた腕は明らかに異質だが、ベルランドにとっては自然な存在であると感じられていた。
『決断は出来たか?』
「君のお陰でな」
右腕を振るう。
刃と化したそれは、鋭い風切り音を上げて答えた。
「俺はここで立ち止まる訳には行かなくなった。まだ、終わっていないことが山ほどある」
『と、言うと?』
「書類仕事や訓練、新兵の育成と幅広いが、今やるべきことは……」
キリングは右腕の切っ先を、オボロへと向けた。
「君を討つことだ」
真っ直ぐに、揺れることは無い切っ先。
それはそのまま、彼自身の覚悟を示していた。
かつての同志にして、恋人であったミツキ。
それに刃を向ける覚悟を、ベルランドは手に入れたのだ。
ミツキは、笑った。
かつての同志にして、恋人であったベルランド。
その“猛禽”が、再び戦場に“蘇った”のだから。
『その覚悟、本物か……見せて貰おう!』
言うやいなや、オボロはその姿を消した。
得意の視界外からの攻撃を見舞おうと、キリングの側面へと高速移動する。
キリングは微動だにしない。
気付けていないのか、それとも、罠か。
ミツキは判断しかねたまま、その手の長刀を突き出す。
「不思議だ」
『ッ!!』
ベルランドには分かっていた。
“その攻撃は、避ける必要が無い”事を。
甲高い音が響く。
それはキリングの装甲が破壊された音ではない。
繰り出された長刀とキリングの間に入り込んだ、“右腕に生えていた漆黒の刃”が響かせた音だった。
『これは……!?』
「アルカナオーバーが発動したとき、その使い方が自然と頭に浮かぶ……全く、何でもありだな」
距離を離したミツキが見たのは、刃が、在るべき場所へと“宙を漂い”戻っていく様。
よく見れば、キリングの周囲には闇に紛れて漆黒の刃が浮かんでいる。
それは重力法則を無視した超常現象。
間違いない。
これが、アルカナオーバー―――
「キリングのアルカナオーバーは、この漆黒の刃の生成、及びある程度の操作といった所か」
指揮者のように、キリングが両手を振り下ろした。
同時に、黒い刃がオボロへと殺到する。
それら一つ一つは避けることに難は無い。
「まだ、この程度じゃ終わらせないぞ」
『……ッ!!』
だが、オボロの逃れた先に、キリングが居た。
キリングは躊躇いなく、その右腕をオボロへと叩きつける。
その攻撃は、曲りなりにもアルカナオーバーで生み出されたもの。
黒い刃自体は破壊力が少ないとはいえ、この“右腕”は別であろう。
態勢不十分に、未知なる攻撃。
だが、オボロの能力を使えば打破できる状況だ。
迷いは、殆ど無かった。
『使わせた、君が悪いんだからな―――』
その言葉は刹那に放たれた。
繰り出す攻撃には何ら憂うことは無い。
だが、その右腕が、キリングに搭載されたアルカナが警告している。
ベルランドは嫌な感覚を覚えながらも、その右腕を止める事は出来なかった。
その感覚が現実に変わったのは、次の瞬間。
キリングの右腕がオボロに届く直前、不自然に“砕けた”。
「なッ!?」
『何も出来ずに死んでも、憾むなよ?』
その言葉はぞっとするほど冷たく、無慈悲なものだった。
ベルランドは慌てたように機体を後退させる。
その不可思議な一撃の主体が掴めない。
キリングの右腕の刃を再生させながら、ベルランドは舌打ちを零した。
迫るオボロと二、三度の剣戟を交える。
そしてそのどれもで、右腕の刃はぼろぼろと崩れてしまうのだ。
『どうやらその刃、高速再生が利くらしいな』
「だから、どうした!」
『二度と再生できなくなるまで、砕いてやろう』
オボロはその長刀を、縦横無尽に振り回す。
上から、下から、右から、左から。
全ての攻撃はキリングに集約され、その全てを右腕の刃のみで受けている。
まるで重力法則を無視した連続攻撃。
「……ッ!」
キリングの背後に、崖が迫っているのが見えた。
ベルランドは即座にその場から離れようと対応しながらの上昇を試みる。
だが、オボロはその隙を見逃さない。
『ふッ!』
その一撃は鋭く、キリングの右腕を破壊した。
しかし、その再生速度に変わりは無い。
このまま逃げ切れる―――そう思った、ベルランドが思わず目を見開いた。
振り下ろされた長刀が、在り得ない速度で、再び振りかぶられていた。
いや、違う。
振り下ろされた速度のままに、縦に回転したのだ。
今までに無い速度を見せる長刀の軌跡に、到底、キリングの右腕の再生は間に合いそうに無かった。
『止め……ッ!!』
思わず、目を瞑る。
だが、キリングを衝撃が襲うことは無い。
訝しく思いながらも、改めて目の前に迫っていた筈の長刀を見た。
オボロは長刀を触れる直前でぴたりと止めて、動こうとしない。
『……了解した。帰投する』
「何……!?」
ミツキの呟きに、ベルランドは驚きの声を上げた。
相手にとって、これは勝てる戦いであった。
それ故に、このタイミングでの撤退命令は、ベルランドにとっては命を救われたようなものである。
無論、納得はしないが。
『ベルランド。この勝負、預けたぞ』
「一体、どういう事だ!?」
ベルランドの怒声を無視して、オボロは瞬時にその場を離脱した。
間際に、囁きに近い声でミツキが言葉を残す。
『次こそは、私を……“復讐者”を止めて見せろ―――』
ベルランドは呆然としたまま、飛び去っていくオボロを見送るしか出来なかった。
* * *
『な、なんで……!?』
その声は苦しげに漏れた。
モニターを見れば、目の前の有り得ない光景にその言葉を呟きたくもなるだろう。
イフリートの纏っていた炎は全てを溶かす。
それはバベルの拳であろうと例外ではなく、実際、先ほどの一撃を放った拳は融解していた。
ならば、今、イフリートの身体を襲った拳は何だと言うのか。
「驚くなよ……アルカナオーバーッてのは、無茶苦茶なことも出来るんだろォ?」
『くそッ!!』
イフリートの身体を捉えた拳は、確かに、形を保ったままだ。
揺れる炎の鎧は意味をなさず、確かにダメージを与え、振りぬかれた拳。
バベルはそれを掲げると、勝ち誇るようにその眼を光らせる。
「空間の接続。そして、空間を断裂させてガード。汎用性のある、便利な能力だなァ」
厭味ったらしく笑ったファウスト。
恐らく、バベルの拳の周りには“空間の断層”とでも呼べるものが存在しているのだろう。
それがイフリートの炎を遮断、同時に、その空間の断層を叩きつける一撃。
ファウストの言葉に歯噛みしながらも、ケットシィはイフリートを後退させた。
警戒という消極的な選択肢。
本来のケットシィならば有り得ない行動。
それ故に、ファウストは馬鹿にするように笑った。
「随分と逃げ腰だなァ。お株を奪われたからッて、逃げるのかァ?」
『言ったね』
怒りを露わにしたケットシィが言った。
イフリートの動きは先ほどまでと比べてぎこちなく、拳による一撃のダメージが確かなものであることを証明している。
畳み掛けるなら、ここ。
勝機を見出したバベルは、その巨体を動かす。
「俺の……バベルのアルカナオーバーにはなァ」
振り上げられた拳は、到底イフリートには届かない。
だが、バベルの前には距離は無に等しい。
ワームホールを介した打撃を警戒するイフリートは、足に力を込めた。
「こういう使い方も、あるんだよなァ!」
振り下ろした拳が途中でワームホールに消えることは無かった。
拳が殴ったのは、地面。
だが、そこを起点に変化が生まれる。
『これは……っ!?』
空間に走る亀裂。
闇色の淵を見せるそれは、バベルを中心に広がり、辺りを包囲するように走った。
ケットシィは本能的に悟る。
“それに触れてはいけない”、と。
「そォれもう一丁ッ!!」
今度は、裏拳気味に何もない筈の空間を叩いた。
見えない壁に衝突したように拳は宙で止まり、派手な音と共に、空間が瓦解していく。
これで、バベルの周囲には空間の亀裂が広がったこととなる。
「ステージは整ッた……第二ラウンドだ、クソ女」
空間の亀裂は、確実にイフリートの機動力を奪っていた。
触れれば何が起きるか分からない以上、ダメージを受けたイフリートで触れるべきではない。
それに加えて、バベルの遠隔攻撃。
四面楚歌ともいえる、この状況。
だが、それがケットシィの思考を冷やし、冷静な対処を促すこととなっていた。
『確かに、厄介だにゃ……でも!』
行動力を制限されたイフリートであったが、まだ、その武器は死んでいなかった。
イフリートはその自慢の五爪に炎を宿すと、それを亀裂の中心に存在するであろうバベルに向かって振り下ろす。
放たれるのは、バベルの装甲を溶かす程の爆炎。
「ちッ……!!」
舌打ちと共に、最初に生み出した亀裂が消える。
ほぼ同時にバベルの前に現れた闇色の空間は、炎を飲み込んだ。
『同時に発生できる大規模な空間歪曲は二つ!』
続けて、イフリートはその機動力を生かしてバベルの後方に回り込んだ。
その速度にはバベルの行動で追いつけるわけもなく、背中に牽制程度の銃撃を放つことしかできない。
無論通常の弾ではイフリートの炎を越えることなく、溶けて消えていく。
イフリートの爪がバベルを捉える直前、不可思議な壁が立ちはだかった。
『そもそも、攻撃には向いていない!』
見えない空間―――恐らく、断絶した空間の壁。
それを蹴って宙へと躍り出たイフリートは、四肢を伸ばし、炎の鎧を強化する。
その行為自体に強化的な意味合いは無いに等しい。
幾ら火力を上げようと、バベルには届かない。
「くゥッ!!」
しかしその閃光は、確実にファウストの視界を奪う。
その一瞬の隙を突いて、イフリートはバベルの側面へと移動した。
素早く、最速で爪を振るう。
イフリートの襲い来る方向すら分からないファウストには、全方位に断裂を発生させるしか防御の術は無かった。
「はァ……はァッ……!!」
『そして、消耗がひじょーに激しい』
得意げに笑うケットシィ。
それと対照的に、ファウストは荒い息を吐いた。
「うっせェ……テメェに言われると、腹ァ立つンだよ……!」
『ってことは、全部当たりかにゃ?全問正解だー、やったね!』
まるで子供のようにからからと笑う。
その無邪気さがファウストには腹立たしく、怒りを込めた拳を空間へ消した。
不意打ち気味の拳はイフリートに当たらず、宙空へと姿を現しただけに留まる。
『さて、折角覚醒したところ悪いけど……消えて貰うにゃ!』
イフリートが宙へと舞い上がった。
その身体に圧倒的な炎を宿して、高速で迫る。
ファウストには、既に自分の限界が近いことを悟っていた。
常時使用している空間の断裂が無ければ、今頃、バベルの頑強な装甲は溶けて消えている。
それだけでも消耗が激しいというのに、それに加えたイフリートの猛攻。
折角張った破壊空間の網はするりと抜けられ、結局は断裂という防御手段を使うこととなる。
こちらの攻撃は、警戒された今では当たることなく、全てが無意味。
最早勝利までの道筋は無いに等しい。
「上、等、だッ!!」
だが、ファウストは諦めていない。
そして、諦めない者にこそ、勝利の女神は微笑む―――
『……ちょ、タンマにゃ』
「はァ!?」
拍子抜けな言葉に、ファウストは呆けた声を上げる。
空中で静止したまま燃え盛るイフリートと、それを見上げて臨戦態勢のバベル。
無論、両者は完全に無言のままだ。
見ようによっては滑稽な状況である。
『むぅ、今、いいトコだったのに……分かったにゃ』
「一体何だッてんだ、テメェ?」
『呼び出しを喰らったにゃ。勝負はまたの機会、ということで』
言葉の意味を理解するのに、一秒かかった。
その間には、イフリートは既にこの場を離脱する用意を終えている。
「テメェ、逃げるッて事か!?」
『逃げる訳じゃない。逃がして貰ったんだと思いな』
高圧的な言葉。
なまじ本当の事である故に、ファウストは口ごもる。
『じゃ、あでぃおす!』
言い残して、イフリートは去っていく。
それこそ、影すらも残さないほどの速度だ。
バベルの能力では、到底追いつくことも、攻撃することも叶わない。
ファウストは肩の荷を下ろすことなく、むしろ、いかり肩で叫ぶ。
「ふざけんなよ―――クソ女ァ!!」
* * *
『はははははははァッ!!』
激しい高笑いを上げながら、フェンリルは迫る。
構えられた巨槌はダイアモンドを一撃で吹き飛ばす破壊力。
その一撃をもう一度喰らうことは、アイリにとって死に等しい。
迎撃するための武器は、一見では見えない。
にも関わらず、ダイアモンドは回避行動を取ろうとはしない。
その手に握った装甲片を離そうとしないまま、拳を堅くする。
それでいい。
今のアイリには、目の前に迫る巨槌に負けない武器がある。
「借りるわよ、“バルド”ッ!!」
『ッ!?』
ディンゴが想定した音とは違う、甲高い音。
それはフェンリルが握っている巨槌と、ダイアモンドが持つ“光の巨剣”の剣戟の音。
ダイアモンドにとっては、握った“装甲片”こそが、何よりの“盾”となり―――
「“ナドレ”ッ!!」
『ちィッ!!』
敵を屠るための“剣”となる。
腰だめにした左手から伸びるのは、光で構成された“巨砲”。
鍔迫り合うフェンリルに向けて、放たれる。
最初に訪れたのは、音。
ど、とも、が、とも取れるような、破壊音。
そして訪れるのは、視界の全てを覆う白。
思わず目を伏せたアイリ。
だが、その一撃が相手に致命傷を与えていないことだけは、手ごたえで理解していた。
『クソったれ!!このタイミングで、アルカナオーバーだと!?』
明らかに苛立った声を上げるディンゴ。
視界を取り戻したアイリの目に映ったのは、その尻尾を無くしたフェンリルの姿だ。
「あらァ、ディンゴが悪いのよ?私の仲間を散々甚振って」
『雑魚を掃除したのは、失敗だったか……まぁ、いい』
通信越しに、また、硬質な音がした。
それを苦々しい顔で聞いたアイリは、無意識にその両手の破片を握りしめる。
戦場に散った七人の誇りを込めた、唯一無二の武器である。
圧倒的な魔力を籠めて作られたそれは、エネルギーである魔力に“物理的な干渉”を引き起こす。
“魔力の物質化”―――とでも言ったほうが、分かり易いだろうか。
『貴様が使うなら、俺も、使うぞッ!!』
その言葉の意味を、アイリは正しく理解していた。
この戦闘における山場であり、相手が本気を出すという事。
そして放たれるのは、アルカナの力を引き出すための言葉。
『Aracana Over―――!!』
ダイアモンドは身構える。
如何なる攻撃が来ようとも、その誇りが折れることは無い。
巨砲を携え、巨剣を構える。
『如何に対策しようと、無駄だ』
ディンゴの放つ冷たい声。
先ほどまでのテンションとの差も相まって、アイリには一層不気味なものに聞こえた。
だが、怯んではいられない。
剣を宙のフェンリルへと掲げ、笑って見せる。
「試してみるぅ?生憎、私は手強いわよォ?」
『“手強かった”と言わせてもらおう。何故なら、貴様は既に―――』
言葉の途中で、アイリはその異常に気付いた。
気温が、やけに低い。
ダイアモンドを離れさせようとして動かした筈の足。
それが、全く動かない。
「これはッ!?」
『終わりだ』
ダイアモンドの下半身が、凍り付いていた。
それだけではない。
フェンリル自身もまた、霜に覆われた姿となっていた。
背中から吹き出すバーニアの勢いで、氷の塵が舞い、幻想的な光景を作り出す。
『フェンリルのアルカナオーバー……氷点下の世界はどうだ?』
「くっ!こんなものォ!」
魔力で出来た巨剣も、振るえなければ意味がない。
一か八か、巨砲の砲撃をフェンリルへと放つ。
轟音と共に放たれたエネルギーであったが、それがフェンリルに届くことは無かった。
球形の氷の盾が、そのエネルギーの全てを明後日の方向へと受け流す。
『無駄だ、と言っただろう。最早抵抗すら許されないのだからな』
その言葉に、アイリが答えることは出来なかった。
既に氷はダイアモンドの全身を覆い、通信に障害を発生させている。
ディンゴの言葉が届くこともなく、また、アイリの言葉も外へと流れない。
コックピットの中は、非常電源で稼働する薄暗い赤色灯のみが照らす空間となる。
まるで、棺桶の中だ。
アイリは自嘲気味に笑うと、残された最後の兵装を起動した。
氷の棺桶の中で、アイリは呟く。
「無駄、なんかじゃないわよ」
その言葉がコックピットに響き、溶けていく。
勝負は一瞬。
早すぎても、遅すぎても駄目。
全ては自分のタイミング次第。
音が消える。
静寂の中、アイリはディンゴと過ごした戦場を思い出していた。
続けて、フォードPMCの傭兵たちを。
ナドレと、バルドを。
旧友のベルランドを。
そして―――最後に、リヒトを。
「足掻いて、みようかしらね」
アイリは頭の中で、トリガーを引く。
脳からの信号は指へと伝わり、操縦桿の下部にある小さなトリガーに力を伝える。
それは、ダイアモンドに隠された正真正銘の最終兵器。
「パイル」
どこからか、声が聞こえた。
アイリの名を呼ぶ声。
それに応えるように、アイリは叫んだ。
「―――バンカァアアアアアアアアッ!!」
氷が、砕けていく。
コックピットから眺めた光景に居たのは、自慢の巨槌を砕かれたフェンリル。
そして―――
『ふざけるな!!貴様!こんな、ふざけた武装でェえええええええッ!!』
ダイアモンドの股間から放たれた、巨大な光の杭。
雄々しく聳えるそれが、打ち砕いた氷の破片を受け、きらきらと輝く。
男なら誰しもが持つ武器。
人はそれを、“パイルバンカ-”と呼ぶ。
「ふん、何よ?これも、立派な武器じゃない?」
そう言って笑うアイリ。
股間に隠された秘密兵装―――ダイアモンドの如く、堅い、パイルバンカー。
予測も出来ない一撃。
いや、違う。
それだけならば、ディンゴも許せたのだろう。
だが、その攻撃はあまりにもふざけている。
『貴様!頭おかしいんじゃないのかッ!?』
「ヤク中に言われたくないわぁ。それに、これはあくまで武器よ?別に“アレ”をモチーフにした訳じゃないわぁ」
フェンリルは呆然と立ち尽くし、ディンゴは言葉を失った。
怒り心頭、といった様子。
それを見て、ダイアモンドは満足すると同時に、再び武器を構えた。
フェンリルの氷は、全身に仕込んだパイルバンカーが全て起動するまでは脅威ではない。
対策を立て、アイリは万全の態勢を整える。
が、沈黙を破るディンゴの言葉は、想定外のものだった。
『……興が殺がれた。今日は、見逃してやろう』
「え?」
呆けた声。
しかし、それに全く興味を示すことなく、フェンリルは背を向ける。
その背に銃口を向けはするが、一撃を放つことは無い。
何よりも、アイリ自身の心境が攻撃を許さなかった。
決着は、このような形で終わるべきではない。
矜持とも呼べるような何かは、“友”という繋がりが消えても、消えることは無かった。
「ディンゴ……はァ……」
宙へ消えるようなため息を吐いて、アイリはその名を呟いた。
もう二度と戻れない過去。
戦いが残した禍根は、大きい―――
* * *
「―――ち、一体どうなってやがる?」
グラインダーのコックピットの中で、リヒトは不快そうに呟いた。
あの“木偶の坊”を倒してからというもの、どうも、戦場の様子がおかしい。
戦闘の音は聞こえないし、通信も利かない。
何より、リヒトの覚える違和感。
「クソ、一旦本部に戻ってみるか……ッ!?」
言葉の最後をリヒトは切った。
その背筋に走った感覚が、グラインダーの身体を動かしたのだ。
倒した筈のべへモスから放たれる、圧倒的なプレッシャー。
それは今まで対峙したどの敵よりも強く、そして、怖い。
苦手なものに見る嫌悪感に似た感覚。
だが、リヒトは思う。
このプレッシャーに嫌悪感を感じない人間など、この世にいないのではないか―――
「何なんだよ……これは……!」
思わず、足が震える。
武者震いだ、などと冗談を飛ばす余裕すらない。
その元凶が、リヒトには見えているのだ。
形を成さない、悪意そのものと呼べるような存在。
黒い“もや”の塊が、壊れたべへモスの胸部装甲から這い出そうとしている。
「……なんだかわかんねーが、敵だろ?なら、俺が!」
言葉と共に、覚悟を決める。
本来ならば本部に戻り、“秘密兵器”のリロードを行いたかったが、やむを得ない。
この“悪意”と対峙できるのは、アルカナマシンのみ。
使命感に似た決意を持って、グラインダーは駆け出した。
胸部装甲から這い出るのは、悪魔の如き漆黒の腕。
決して解放される事の無かった、史上最凶の“切り札”。
流麗な黒い装甲に走る、不気味な赤の脈動。
その手に持つ巨大な太刀は鞘から抜かれないまま、鎖で厳重に封印されている。
真正面から襲い来るグラインダーを見つめる眼は、どこまでも冷たい“血のような紅”。
“身元不明者”。
“黒き神”と呼ばれた機体が、躍り出る。
デイブレイク最強の切り札が、今、切られた―――
見せ場が中途半端なのは私の構成力不足です。
申し訳ございません。
二章からが本番だと思っていただければ……。