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第9話 : 購買で目撃された"あの二人"

【第9話】購買で目撃された"あの二人"


 保健室には保健室のルールがある。


 校則ではない。朝倉先生が制定したわけでもない。三週間かけて自然発生した、非公式の運用規約。暗黙の了解。不文律。俺と神代さんの間でだけ通用するローカルプロトコルだ。


 ルール一。昼休みの開始と同時に保健室に集合する。ルール二。弁当は窓際の定位置で食べる。ルール三。食後は並行読書。ルール四。会話は必要最小限でいい。ルール五。このルールについて口に出して確認しない。


 要するに、ここでは黙っていても許される。教室で求められる「空気を読む」「話を合わせる」「笑うタイミングを計る」──あの呼吸コストがゼロになる。神代さんの隣には沈黙の席がある。


 木曜日の昼休み。ルール通りに弁当が開いた。


「今日はオムライス♡」


 弁当箱の中にオムライスが詰まっている。卵の黄色が鮮やかだ。ケチャップで何か書いてある。


 文字だ。


 ケチャップで「み」と書いてある。「み」。一文字。省略されたのか、それとも途中で照れたのか。フルネームを書くつもりだったのか、あるいは「みなと」の頭文字だけで十分だと判断したのか。いずれにせよ弁当にケチャップで名前を書くのは家庭科の課題ではなく愛情表現だ。


 いや違う。愛情とは限らない。限らないが、他にどんな解釈があるのか俺には思いつかない。


「……これ」


「ん? ああ、ケチャップちょっと失敗しちゃった。本当は顔描くつもりだったの」


 顔。俺の顔をケチャップで描く予定だったのか。中止になって助かった。弁当箱の中から自分の顔が見つめ返してくる昼食に耐えられる自信はない。


「……うまい」


「やった♡」


 リアクション一語で達成感を得られるコストパフォーマンスの高い幸福構造だ。この人のハードルは俺に対してだけ異常に低く設定されている。


 朝倉先生が自販機のコーヒーを片手にデスクに座っていた。いつもの風景。いつもの空気。いつもの──。


「あ、黒瀬くん。ごめん、ちょっと頼んでいい?」


 いつもと違う依頼が飛んできた。


「購買でのり、買ってきてくれる? 事務用の。封筒に貼る方。職員室から持ってくるの忘れて」


「……購買に事務用のりってありますか」


 先生はパソコンから目を離さずに答えた。


「あるのよ、地味に。文房具コーナーの下の段。百二十円」


 先生が財布から小銭を出した。百五十円。お釣りは要らない、とは言わなかった。朝倉先生は経費処理に厳密だ。


「行ってくる」


 席を立った。神代さんが文庫本から顔を上げた。


「あ、湊くん購買行くの? 私も行く♡ 飲み物買いたい」


 ──待ってほしい。


 保健室の外に、二人で出るのか。並んで歩くのか。購買まで。人がいる場所を。昼休みの、生徒が最も密集するエリアを。


 ここまでの三週間、俺と神代さんが同時に保健室の外にいたことはほぼない。保健室のドアが国境線で、その内側だけが俺たちの世界だった。外に出れば神代さんは「完璧な神代澪」に戻り、俺は「無口な黒瀬」に戻る。廊下ですれ違っても、目が合うかどうかの距離感だ。


 それが今、一緒に購買に行く。


「……別々に行けば」


「なんで? 同じ場所でしょ♡」


 神代さんの「なんで」には反論の余地がない。同じ場所に行くのに別々に向かう合理的理由が存在しない。


 存在しないのだ。論理的には。


 だが論理ではなく、俺の心拍数が反対している。


 ◇


 廊下に出た。


 保健室のドアが背中で閉まった瞬間、空気が変わる。消毒液の匂いが換気された蛍光灯と上履きのゴムの匂いに入れ替わる。教室棟へ続く渡り廊下。昼休みの生徒が行き交っている。


 神代さんが隣を歩いている。


 保健室の中では当たり前の配置が、廊下では異物になる。視界の端に動く影。すれ違う生徒の目線が、一瞬だけ俺たちに刺さる。


 神代さんは通常モードだ。背筋が伸びている。表情がきれいに整っている。保健室から一歩出た瞬間にスイッチが切り替わる精度は、三週間経っても見るたびに感心する。


「神代さーん、こんにちはー」


「こんにちは。元気?」


 廊下で別クラスの女子に声をかけられ、完璧な微笑みで返す。学校生活モードの神代澪。さっきまでケチャップで「み」と書いていた人間と同一人物とは思えない。


 購買は校舎一階の東端にある。昼休みの購買は戦場だ。パンとおにぎりの争奪戦がピークを過ぎた時間帯だが、飲み物やデザートを買う生徒がまだ列を作っている。


 人が、多い。


 胃が縮んだ。教室を避けて保健室に通っている人間が、昼休みの購買に自ら突入するのは設計ミスだ。だが朝倉先生の依頼は業務命令に等しい。のりを買わなければ先生の封筒が閉じない。


 列に並んだ。文房具コーナーは飲み物の列と共通のレジだ。


 そして当然のように、神代さんが俺の隣に並んだ。


「湊くん、何か飲み物いる? ついでに買うよ?」


 声が──近い。物理的にも。音量的にも。保健室の距離感だ。購買の列の中で、神代さんの声が保健室モードの周波数を帯びている。切り替えが不完全だ。というより、俺の隣にいるとスイッチの切り替えにバグが発生するのかもしれない。


「……いい。先生のおつかいだし」


「えー、じゃあお茶でいい? 湊くんいつも麦茶でしょ♡」


 好みを把握されている。三週間分の観察データが購買のレジ前で展開された。しかも声がやわらかい。保健室でしか使わないはずのトーンが、購買の蛍光灯の下で放出されている。


 周囲が、見ている。


 気のせいではない。列の前にいた男子二人が振り返った。横に並んでいた女子三人組が、明らかに目線を交換した。後ろの一年生らしき男子がスマホを持つ手を微妙に動かした──いや、撮っていない。たぶん。


 問題は行為ではなく構図だ。「学年の女神・神代澪が、無口で目つきの悪い黒瀬湊の隣に立ち、親しげに飲み物の好みを言い当てている」。この画面を目撃した人間の脳内では、自動的にキャプションが生成される。そしてそのキャプションは全員同じだ。


「……自分で買うから」


「もう取っちゃった♡ はい、麦茶」


 冷蔵ケースから取り出された麦茶のペットボトルが、俺の手に置かれた。拒否権の行使が間に合わなかった。取引は成立してしまった。


「あと私はりんごジュースにしよ。朝倉先生にも何か持っていこうか?」


「……先生はコーヒーがあったから」


 神代さんがりんごジュースを手に取った。パッケージの絵柄を確認する仕草が丁寧だ。


「そっか。じゃあ二本ね♡」


 レジに向かう神代さんの背中を見ながら、俺は百五十円を握りしめていた。先生のおつかいの百五十円。のりの百二十円。おつりは三十円。三十円で買える飲み物はない。つまり俺は自分の分の飲み物を用意していなかった。そこに神代さんの麦茶が滑り込んだ。段取りが完璧すぎる。偶然にしては隙がない。


 レジを通過する神代さんが、財布から正確な金額を出している。俺のぶんと自分のぶん。合計二本。会計という行為の中に「二人ぶん」が自然に含まれている。


 会計中の神代さんの横顔は、外の顔だ。微笑みが整っている。でも麦茶を選んだ手つきは、保健室の手つきだった。内と外が混ざっている。混ざったまま購買のレジを通過している。


 これが、昨日杏が見て「お似合い」と言った関係の外側のかたちなのだろう。保健室の内側でしか存在しなかったはずの「俺たち」が、購買のレジという公共空間に輪郭を持って出現した。


 ◇


 教室に戻った。五時間目の開始までまだ十分ある。


 席について三十秒。


「おい黒瀬」


 八代が横から滑り込んできた。目が狩猟モードだ。獲物の匂いを嗅ぎ当てた猟犬が尻尾を振る直前の、あの目つき。


「購買で神代さんにジュース奢ってもらったってマジ?」


 三十秒。俺が教室に戻ってから情報が八代に到達するまで、三十秒。光より速い。因果律を超えている。


「……奢ってもらってない」


「嘘つけ。A組の渡辺が見たって。お前と神代さんが購買で並んでて、神代さんが二人ぶん会計してたって」


 事実だ。事実だが、渡辺が見たのは断面であって全体ではない。朝倉先生のおつかいで購買に行き、偶然──偶然ではないが──神代さんと合流し、好意から飲み物を買ってもらった。プロセスを説明すれば誤解は解ける。


 解けるか。


 「好意から飲み物を買ってもらった」のどこに弁解の余地がある。


「しかもさ、渡辺が言うにはお前ら並んで歩いてたって」


 歩いた。同じ場所に行って同じ場所から帰るのだから並んで歩くのは物理的必然だ。だが物理法則を説明しても噂は止まらない。


「B組の佐藤もちょうど購買にいたらしいんだけど、こっちの証言がまた違うんだよ」


 八代が指を折った。


「佐藤バージョン。『神代さんが黒瀬の横でなんか嬉しそうに喋ってた。距離めっちゃ近かった』」


 嬉しそうだったのか。俺には判断がつかない。だが距離については認める。近かった。保健室基準の距離が購買に持ち出されていた。


「D組の中村バージョン。『二人ぶん買ってた。しかも迷わず取ってた。好みを知ってる感じだった』」


 三人の目撃者。三つの証言。表現は微妙に違う。「並んで歩いてた」「嬉しそうだった」「好みを知ってた」。視点が違い、注目した箇所が違い、言語化の癖が違う。


 だが全員の結論は同じだ。


「で、三人とも最後に言うわけ。『あの二人、やっぱ付き合ってるんじゃね?』」


 証人尋問だ。証人の数が増えるほど証言のばらつきは大きくなるが、争点への判断は収束する。陪審員全員一致の評決。俺に弁護人はいない。


「……購買に一緒にいただけだ」


「"一緒にいただけ"って、それ弁解になってないぞ。"一緒にいた"ことは認めてるじゃん」


 日本語の罠だ。「だけ」で限定したつもりが、前提の「一緒にいた」を自白している。否定のつもりの言葉が、肯定の材料になる。月曜の柊、水曜の白石、木曜の購買。曜日が進むたびに俺の防衛線が後退している。


 八代が腕を組んだ。


「ま、保健室の中なら目撃者は限られてたけどさ。購買は公共の場だからな。見た人数が桁違いだ」


 正しい。保健室は密室だ。目撃者は朝倉先生と、訪問者がいればその人間だけ。情報の流出経路が限られている。だから三週間、噂は「あるらしいよ」の域を出なかった。


 だが購買は開放空間だ。昼休みの購買には何十人もいる。全員がカメラで、全員がマイクで、全員が通信端末だ。一回の目撃で、同時多発的に情報が拡散する。保健室からの情報漏洩がダム穴なら、購買での目撃はダムの決壊だ。


「なあ黒瀬。もう白状した方が楽だと思うぜ?」


「……白状って何を」


 八代が肩をすくめた。


「知らねえよ。お前が知ってるだろ」


 知らない。知っていたら、こんなに困っていない。


 ◇


 五時間目の授業中。


 板書をノートに写しながら、購買での光景が繰り返し再生される。神代さんが冷蔵ケースから麦茶を取り出す手つき。迷いがなかった。俺の定番を把握していた。保健室で三週間、横で見ていたのだろう。自販機で俺が何を買うか。選択肢の中でどこに手が伸びるか。観察されていた。観察の成果が、購買のレジ前で披露された。


 あの瞬間、保健室の壁が消えていた。


 今まで保健室の中だけで成立していた関係──名前のない、定義できない、弁当を食べて文庫本を読む何か──が、廊下と購買という外部空間に漏洩した。防水処理が甘かったのではない。そもそも神代さんは防水する気がなかった。


 昨日の白石の「まだ」が学年に拡散し、今日の購買で映像付きの証拠が追加された。証言と映像。噂のアップグレードに必要な素材が二日連続で供給されている。


 教壇の上で先生が何か質問している。俺の席に視線が来た。当てられたのかもしれない。口を開いたが、答えるべき内容が頭になかった。数秒の沈黙。先生が「次の人」と視線を移した。


 教室で沈黙する俺。いつもの景色だ。


 でも今日の沈黙には、いつもと違う色がついている。頭の中が授業ではなく、麦茶のペットボトルで埋まっている。冷たかった。神代さんの手から渡されたときの温度。指先が一瞬だけ触れた──いや、触れていない。触れていないはずだ。


 自分に嘘をつく速度が遅くなっている。


 ◇


 放課後。


 保健室に寄ろうかと思って、やめた。木曜日の放課後に保健室に行く習慣はない。昼休みだけで十分だ。十分なはずだ。


 下駄箱で靴を履き替えていると、背後に気配がした。八代ではない。足音が軽い。振り返るとD組の女子が二人、こちらを見ていた。


「あの、黒瀬くん?」


「……はい」


 二人のうち一人が、もう一人と目配せしてから口を開いた。


「今日購買で神代さんと一緒だったよね?」


 来た。


「神代さんと仲いいんだ? 付き合ってるの?」


 ストレートだ。白石と同じ速度で結論に飛んでくる。だが白石は一対一だった。今は下駄箱周辺に人がいる。会話の射程範囲に、耳がある。


「……付き合って、ない」


 出た。声が出た。水曜日の白石に対する否定より、さらに音量が小さい。月曜、水曜、木曜と曜日が進むたびに否定のボリュームが下がっている。このペースだと来週には無音になる。


「え、ほんとに? でも一緒に買い物してたじゃん」


「……おつかいが重なっただけで」


 弱い。自分でもわかる。弁解の骨格が脆い。「おつかいが重なった」は事実だが、事実のうちの都合のいい部分だけを切り出している。神代さんが俺の好きな飲み物を迷わず選んだこと。二人ぶん会計したこと。並んで保健室に帰ったこと。切り捨てた事実の方が、はるかに雄弁だ。


「ふーん。まあいいけど。神代さん嬉しそうだったよ」


 二人組が去った。最後の一文が、刺さった。


 嬉しそうだった。購買で俺の隣にいるとき、神代さんは嬉しそうだった。それを俺以外の人間が見て、そう感じた。


 昨日、白石に「お似合い」と言われたとき、神代さんは安心した顔をしていた。今日、購買で並んでいるとき、嬉しそうだった。保健室の外で、俺の隣にいることが──嬉しい。


 その事実が、胸のどこかに引っかかって落ちない。


 ◇


 帰り道。木曜日は神代さんの委員会がない。ないが、帰る時間がずれた。すれ違わなかった。一人の帰り道が四日連続で続いている。月曜、火曜、水曜、木曜。四日間、一人で歩いて、四日間ずっと同じ人のことを考えている。


 購買の出来事を反芻する。


 保健室は閉じた空間だった。俺と神代さんと朝倉先生。たまに白石。たまに柊の足音。壁とカーテンが、外の視線を遮断していた。その遮断が、今日崩れた。


 購買で俺と神代さんを見た人間──渡辺、佐藤、中村、D組の女子二人。それだけでも五人。五人が目撃し、五人が解釈し、五人が伝達した。夕方までに何人の耳に届いただろう。八代のゴシップ回線が全速力で回っているなら、明日の朝にはクラスの全員が知っている。


 月曜日は柊の調査。データは風紀委員会の内部にとどまっていた。水曜日は白石の目撃。情報はゴシップ回線に乗ったが、保健室の中の出来事だった。伝聞の域を出ない。


 だが木曜日は違う。購買は公共の場だ。「保健室で何かしてるらしい」が「購買で堂々と一緒にいた」に変わった。「らしい」が「見た」に変わった。噂の信頼性が跳ね上がる。伝聞が目撃証言になる。


 保健室のバグが外に漏れた。


 今日から、俺と神代さんの関係は保健室の壁の内側だけでは収まらない。教室で、廊下で、購買で。どこでも「あの二人」として見られる。


 否定するか。


 ずっと否定してきた。「付き合ってない」。月曜日にカーテンの裏で、水曜日に白石に、木曜日に下駄箱で。三回否定して、三回とも効果がなかった。否定しても噂は止まらず、否定するたびに自分の声が小さくなっていく。


 明日は金曜日だ。一週間が終わる。月曜に始まった柊の調査、水曜の白石、木曜の購買。三つの出来事が重なって、噂は「あるらしい」から「間違いない」に近づいている。


 明日の教室で、誰かがもう一度聞くだろう。「付き合ってるの?」と。


 そのとき俺は、何と答えるのか。


 「付き合ってない」。言えるだろう。言えるはずだ。三週間ずっとそう言ってきた。


 でも──神代さんの麦茶が、まだ鞄の中で結露している。冷たい水滴がノートの端を濡らしている。拭けばいいのに、拭かないまま歩いている。


 なぜ拭かないのか。聞かないでほしい。答えを持っていないのは、俺が一番よく知っている。

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