第8話 : 白石杏、参戦
第8話 : 白石杏、参戦
矛盾の正体は、水曜日になってもわからなかった。
月曜日の帰り道に抱えた問いが、火曜を通過し、水曜の昼休みまで未解決のまま残っている。不具合の症状はわかっている。再現手順も判明している。「神代さんが俺の名前を出す→心臓が鳴る→口が閉じる」。だが原因のコードがどこにあるのかは、まだ特定できていない。
昼休み。保健室。
柊の調査以来、この場所の空気は微妙に変わった。変わったのは物理的な環境ではなく、俺の認識の方だ。月曜日にカーテンの裏で聞いた神代さんの声が、まだ耳の奥に張りついている。「黒瀬くんがいるから」。あの一文が、保健室の壁に吸い込まれて消えずに残っているような感覚。
弁当の蓋を開けた。
「今日は唐揚げ♡」
先週のハンバーグ、今週は唐揚げ。冷めていても衣がべたつかない。揚げてから一度キッチンペーパーで油を吸わせ、さらに網の上で冷ました形跡がある。手順が多い。手順が多いということは、朝の時間を相当これに割いているということだ。
「……うまい」
「ほんと? 今日ちょっと味濃くしてみたの。湊くん、薄味だと反応薄いから」
反応データを収集されている。過去のサンプルに基づいて味付けのパラメータを調整してきた。研究開発部門の仕事だ。
朝倉先生がデスクでパソコンを叩いている。先生は俺たちの弁当タイムに特に口を挟まなくなった。
◇
弁当を食べ終えて、文庫本を開いた。神代さんも自分の文庫本を開いている。並行読書。ページをめくる音だけが保健室に落ちる。この静けさが、ここ三週間の昼休みの標準仕様になった。
七分後。
ドアが開いた。ノックなし。
月曜日の柊は三回ノックした。几帳面な等間隔だった。ノックなしということは、柊ではない。教師でもない。ノックなしで保健室のドアを開ける人間は、この部屋を「入っていい場所」だと最初から認識しているタイプだ。
「しつれいしまーす。朝倉先生ー、頭痛いんですけどー」
語尾が全部伸びている。音程がやたら高い。保健室の空気密度が一瞬で変わった。図書館にカラオケのスピーカーを持ち込んだときの衝撃波に近い。
ショートカットの女子。前髪をピンで留めている。制服のリボンが左に傾いている。目が大きい。大きい目がきょろきょろと保健室内を走査した。
「あ、白石さん。久しぶりね。どこが痛いの」
「こめかみのへんー。ズキズキ? ズーン? みたいな」
擬音の精度が著しく低い。医療問診としては致命的な曖昧さだが、朝倉先生は慣れた手つきで体温計を渡した。
白石杏。一年の頃、俺より先に保健室の常連だった人間だ。二年になってから見かけなくなっていたが、消えたわけではなかったらしい。今日は里帰りだ。
体温計を脇に挟みながら、白石は保健室を見回した。朝倉先生のデスク。棚。カーテン。窓。窓際の定位置に座っている俺。
「あれー、湊くん今日もいるんだ。相変わらず保健室好きだねー」
一年の頃に数回顔を合わせた程度の関係なのに、ファーストネーム呼びだ。人見知りのネジが出荷時から欠品している人間の距離感。
「……うん」
「元気ー? ってか元気じゃないから保健室にいるのか。あはは」
元気だ。教室の空気が吸えないだけだ。だがその説明は省略する。白石の会話速度についていける処理能力が俺にはない。
白石の目が、俺の隣に移動した。俺の左側三十センチの位置に座っている人物に。
神代さんが文庫本から顔を上げた。
「……って、え?」
白石の動きが止まった。体温計を脇に挟んだまま石像になった。
「神代さん……!? なんで!? なんで神代さんが保健室にいるの!?」
白石が俺と神代さんを交互に見ている。首が左右に高速で振れている。テニスの試合を最前列で観戦しているときの首の動きだ。
「こんにちは。白石さん、だよね?」
神代さんが微笑んだ。保健室モードだが、初対面に近い相手なので外の顔が三割ほど混ざっている。
「こんにちは! えっ、でもなんで。神代さんって保健室来るタイプ?」
「居心地いいんだ、ここ♡」
回答が簡潔すぎる。「なぜ」に対して「居心地がいい」は理由になっているようで、肝心な情報が欠落している。何が居心地いいのか。どこが。誰が──。
白石の目が、三たび俺に向いた。座り位置。肩と肩の距離。弁当箱が二つ並んでいること。空になった弁当箱の片方が、明らかに手作りの包みだったこと。
白石の情報処理は、柊栞とは方式が違う。柊は証拠を積み上げ、手帳に記録し、論理で結論を導く。白石は映像を三秒見て、直感で結論に飛ぶ。到達点は同じだ。
「えっ──付き合ってるの!?」
着弾。柊は三十分かけて調査し、それでも断定を避けた。白石は三秒で断定した。精密誘導ミサイルと絨毯爆撃の差だ。
「付き合ってない」
反射で出た。月曜日はカーテンの裏で声すら出せなかったのに、白石のストレートな断定には否定が即座に発射された。
「ほんとー?」
白石は俺の否定を1ミリも信じていない。聞く相手を切り替え、もう一方の当事者に裏取りに行った。
「ねえ神代さん、付き合ってるんでしょ?」
神代さんが、ふわりと笑った。
あ、と思った。月曜日にカーテンの向こうで聞いたのと同じ気配だ。隠す気がゼロの人間が、正直に口を開く直前の空気。
「まだ♡」
保健室の時間が停止した。
朝倉先生のコーヒーカップが唇の手前で止まっている。白石の瞳孔が開いている。俺の心臓が、一拍だけ跳ねて止まった。
「"まだ"!?」
白石が叫んだ。
「まだって──まだってことは、いずれ付き合うってことじゃん!?」
論理的に正しい。「まだ」は時間副詞であり、現在の状態が将来的に変化する前提を含む。「まだ終わっていない」は「いずれ終わる」を内包する。つまり「まだ付き合っていない」は──。
俺はいつ契約書にサインした。先物取引か。
「……付き合ってない。"まだ"でもない」
「えー、でも神代さんが"まだ"って──」
白石が再び神代さんを見た。
「ねえねえ、"まだ"ってどういう意味?」
「どういう意味だろうね♡」
回答を回答で返した。情報量がゼロなのに、あの笑顔と語尾のせいで情報量が無限に感じられる。
「えー! もうそれ答えじゃん!」
答えではない。何も言っていない。何も言っていないのに、全部伝わっている。月曜日の柊の尋問でもそうだった。神代さんは事実をそのまま出し、解釈を受け取る側に委ねる。
「湊くん、顔赤いよ?」
白石に指摘された。
「……気温のせいだ」
「五月で?」
五月の気温は俺の味方をしない。
◇
白石杏は帰らなかった。
体温計は36度4分。平熱だ。頭痛も忘れている。おそらく最初から存在しなかった。仮病の帰還兵だが、帰還先で予想外の新種を発見したため撤退するタイミングを失っている。
ベッドの端に座った白石は、俺と神代さんの間に発生する空気を観察していた。
「ね、ね、いつから一緒にいるの?」
「三週間くらいかな。毎日一緒にお昼食べてるの」
月曜日の柊への回答と同じ内容だ。聞く相手が変わっても出力が変わらない。誰に聞かれても同じことを同じように答える。嘘をつかない人間の最もシンプルな運用形態。
「毎日!? えー、知らなかったー。湊くんがこんな青春してたなんて」
「青春じゃない」
白石は聞いていない。両手を広げた。
「青春でしょー。弁当作ってもらって毎日一緒にいて、映画じゃん映画」
映画にするなら脚本を書き直してほしい。主人公がまともに喋れない映画に観客はつかない。
白石が両手を頬に当てた。
「いやー、お似合いだよ二人とも」
「……似合ってない」
白石は聞いていない。
「似合ってるよー。ねえ神代さん」
神代さんが嬉しそうに頷いた。
「ありがとう♡」
ありがとう、と受け取った。否定しなかった。「似合っている」を受理した。月曜日もそうだった。柊に聞かれても白石に言われても、神代さんは俺との関係を否定する局面で一度も否定しない。
朝倉先生がデスクから声を出した。
「白石さん、体調いいなら教室戻りなさいね」
「えー、もうちょっとだけー。もうちょっとだけ見てたいー」
朝倉先生の眉が微妙に動いた。
「見てたい? ここは動物園じゃないんだけど」
白石は悪びれない。
「違う違う、二人の雰囲気が癒されるっていうか──」
癒し。俺たちは癒しコンテンツなのか。柊には「案件」で、八代には「ネタ」で、白石には「癒し」。保健室に来る人間の数だけ、俺と神代さんの関係に貼られるラベルが増えていく。
白石がようやく立ち上がった。
「じゃあ、また来るねー」
また。確定的な未来形。里帰りではなく再入居の宣言だ。
ドアの前で振り返った。
「あ、湊くん。神代さんのこと、大事にしなよ?」
月曜日の柊は「問題なし」を結論にした。水曜日の白石は「大事にしろ」を結論にした。柊は制度の枠組みで評価し、白石は感情の枠組みで断定する。前提は共通している。「この二人は恋人である」。
「……付き合ってないって」
「はいはい。"まだ"ね」
白石がウインクして保健室を出ていった。
「まだ」が感染した。神代さんが放った二文字が、白石の語彙に組み込まれた。この先、白石が誰かに俺たちのことを話すとき──話す。確実に話す。あの人間に情報を溜め込む機能はない──「まだらしいよ」と言うだろう。
◇
白石が去った保健室。静寂が戻った──はずなのに、空気の温度が五分前と違う。
神代さんが文庫本を膝に置いた。
「面白い子だったね、杏ちゃん」
もう「杏ちゃん」呼びだ。十五分前に初対面だった相手とファーストネームで呼び合う関係になっている。
「……あの人、一年のとき保健室の常連だった」
「そうなんだ。じゃあ湊くんの先輩だね、保健室的には」
保健室に先輩後輩はない。在籍年数で序列が決まるなら俺は古参だが、古参であることに何の権威もない。
朝倉先生がコーヒーを啜りながら呟いた。
「増えたわね」
「……何がですか」
先生はコーヒーカップを口元で揺らした。
「人。前は黒瀬くん一人だったのに。神代さんが来て、月曜に風紀の子が来て、今日は白石さん」
先生の声に咎めるような色はなかった。だが観測結果の中に、保健室の相転移が記録されている。一人の避難所だった空間に、二人目が常駐し、三人目が出入りを宣言した。
朝倉先生がもう一口啜った。
「あの子、また来るわよ。目が完全に、推しを見つけた人の目だったから」
推される覚えはない。推しとは一方的な好意の投射であり、対象の同意を必要としない。つまり拒否権がない。
柊が調査者で、八代が報道機関なら、白石はファンクラブの会長だ。会員一名。だが声がでかい。
神代さんが隣でくすくす笑っていた。
「いいじゃん、賑やかで♡」
賑やかでいい、と神代さんは言う。
俺の保健室の価値は静寂にあった。人がいないこと。声がないこと。それが安全地帯の定義だった。だが──ここ三週間、保健室には神代さんの声があった。弁当の匂いがあった。ページをめくる音があった。静寂はとっくに壊れていた。壊れていたのに、居心地は悪くなかった。
◇
放課後。予想通り、八代が速報を持ってきた。
「黒瀬、今日の昼、保健室に白石来たってマジ?」
「……なんで知ってる」
八代が指を折った。伝達経路を数えている。
「白石が六限後にD組の林に喋って、林がE組の吉田に喋って──」
「経路はいい」
白石の口から八代の耳まで、放課後三時間。高校のゴシップ回線としては最速クラスだ。
八代が身を乗り出した。
「で、白石なんて言ってた?」
「さあな」
八代の目が細くなった。
「嘘つけ。白石が保健室で何も言わないわけないだろ」
正しい。白石杏に沈黙という機能はない。
「……"お似合い"って言ってたらしい。あと"まだ"って何? って聞かれたんだけど、俺も知らねえよ。何、"まだ"って」
八代が腕を組んだ。
「ま、白石が絡んだらもう止まんねえぞ。あいつ善意の塊だからな。応援する気満々だろ」
「……応援って何を」
八代が真顔になった。
「お前らの恋愛を、だよ」
「恋愛じゃない」
八代が肩をすくめた。
「はいはい。"まだ"な」
感染拡大。白石→D組→E組→八代のルートで「まだ」がネットワークに注入された。
今までの噂は「付き合っている」という断定形だった。俺が否定すれば、効果はなくても「否定した」という記録は残った。だが「まだ」は違う。否定しても「まだでしょ?」と返される。未来形の噂は現在形の否定で消せない。時制が合わない。
神代さんの「まだ」は、たった二文字で噂の文法を書き換えた。「付き合っている」は訂正できても、「いずれ付き合う」は訂正のしようがない。未来は誰にも否定できない。
◇
帰り道。水曜日も神代さんは委員会がある。月曜と水曜が不在。俺のカレンダーにパターンが保存されている。
歩きながら考える。
月曜日に柊が来た。証拠を積み上げ、「仲良し台帳」を完成させた。水曜日に白石が来た。三秒で結論に到達し、「まだ」を全方向に拡散した。
増えている。保健室に関わる人間の数が。
一年間、俺と朝倉先生しかいなかった場所だ。閉じていることが価値だった。三週間前に神代さんが来て、閉じていた場所に風が入った。その風が、人を運んでくる。一人が来るたびに、保健室の座標が校内地図に刻まれていく。隠れ家が、地図に載った場所になっていく。
嫌か。
嫌なはずだ。
でも──神代さんが「楽しくなるね」と笑ったとき、あの笑顔は保健室モードの中でも特別に柔らかかった。白石に「お似合い」と言われて嬉しそうだった神代さん。俺以外の誰かが俺と神代さんの関係を肯定したとき、神代さんは安心したように見えた。
月曜日に気づいた非対称。俺だけが隠そうとして、神代さんは隠す気がない。その構造は変わっていない。変わっていないが、今日、もう一つ気づいたことがある。
神代さんが隠さないのは、隠す必要を感じていないからだ。俺と一緒にいることを、恥じていない。「まだ」という言葉に笑顔を載せて、堂々と。
その堂々さの前で、俺だけが「付き合ってない」を繰り返している。繰り返すたびに、否定の精度が落ちていく。月曜日より水曜日の方が、声が小さくなっている気がする。
神代さんの「まだ」が正しいのか、俺の「ない」が正しいのか。
どちらが正しいかを判定するには、俺自身が答えを持っていなければならない。持っていない。まだ持っていない。
──まだ。
自分の内側から出てきた「まだ」の重さに、歩きながら少しだけ立ち止まった。




