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第7話 : 風紀委員出撃そして自爆

第7話 : 風紀委員出撃そして自爆 ·


月曜の朝というのは、週末に溜めた不安が利息つきで返済される時間帯だ。


 教室に入った瞬間、八代が席から立ち上がった。あの男が朝から機敏に動くときは、大抵ろくなことがない。天気予報における「急速に発達する低気圧」と同じ原理だ。接近速度が速いほど被害が大きい。


「黒瀬、やべえぞ」


 月曜日の第一声が「やべえ」。語彙の季節感がない。


「金曜のあの風紀の子、覚えてるだろ。柊栞。あいつ今朝、保健室の前で手帳開いてた」


「……なんで知ってる」


 八代が声を落とした。


「バスケ部の田中が朝練帰りに見たんだと。掲示板の横に立って、何かメモしてたって」


 始業前の保健室は施錠されている。中は見えない。つまり柊栞が調べていたのは保健室の内部ではなく、周囲の構造だ。出入口の位置、窓の配置、廊下からの視認角度。測量士が建設前に土地を検分するのと同じ手順。予備調査だ。


「不正利用がどうとか言ってるらしいぜ。体調不良でもないのに入り浸ってるのが引っかかるんだろ。しかも男女で」


 男女で。そこだ。俺ひとりが保健室に一年間通い詰めても、誰も何も言わなかった。「変わった奴」で処理される。だがそこに神代さんが加わった途端、風紀委員のセンサーが反応する。単独の常連は「個人の事情」で済むが、男女の常連は「案件」になる。


「まあ、やましいことしてないなら平気だろ」


「…………」


 していない。弁当を食べているだけだ。金曜日に二人きりで肩が触れ合っていただけだ。「だけ」を三つ積むと、風紀委員の手帳では立派な証拠になる。


 ◇


 昼休み。


 保健室に向かう廊下で、自分が左右を確認しながら歩いていることに気づいた。曲がり角で一度止まり、前方を目視してから進む。完全に国境を越える密輸業者の挙動だ。合法的に保健室に通っているだけなのに、頭の中では赤い腕章と眼鏡の残像がちらつき続けている。


 保健室のドアを開けた。


「あ、今日も来たの」


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいる。パソコンの電源が入っている。椅子がデスクから引き出されている。「在席」の証拠が三つ揃っている。金曜の不在が嘘みたいに、保健室に大人の気配が戻っていた。


「黒瀬くん、遅かったね」


 窓際の定位置に神代さん。弁当が二つ並んでいる。えんじ色の包みは先週と同じだ。


「……ちょっと回り道した」


「回り道? なんで?」


 神代さんが首を傾げた。


「……いや」


 「風紀委員の哨戒ルートを迂回した」とは言えない。言ったところで神代さんは笑顔で「大丈夫だよ」と返すだけだ。大丈夫じゃないから迂回したのだ。


 席に着く。蓋が開いた。


「今日はハンバーグ♡」


 先週が鮭で今週はハンバーグ。和食から洋食にスイッチした。予告通りのA/Bテストが始まっている。冷めているのにパサつかない。一口で肉汁が──冷たいのにちゃんと存在する肉汁が口の中に広がる。玉ねぎの水分量が計算されている。


「……うまい」


 味覚から声帯への直通回線。三週間経っても塞がらない。むしろ帯域が拡張されている。


 神代さんが頬杖をついて、俺が食べる様子を見ている。自分の弁当を開けたまま手をつけていない。品質管理部門の視察だ。


「ね、卵焼き甘めにしたんだけど、先週のとどっちが好き?」


「……どっちでも」


 神代さんの目が光った。


「じゃあ来週は両方入れてみるね。食べ比べ♡」


 ユーザーテストが本格化した。被験者は俺一人。サンプル数1の統計に有意差は出ない。


 ◇


 弁当を食べ終えて十分後。文庫本を開いた瞬間だった。


 コンコンコン。


 三回。等間隔。秒針のように正確なリズム。生徒なら勢いでドアを叩く。教師なら二回で開ける。三回、等間隔、この几帳面さは──金曜日にドアの前に立っていたあの足音と同じ律儀さだ。


 心臓が嫌な跳び方をした。


 朝倉先生が「はい」と応じる。ドアが開いた。


「失礼します。二年C組、風紀委員の柊栞です。保健室の利用状況について確認させていただきたいのですが、お時間よろしいでしょうか」


 一語一語がアイロンをかけたように平らだ。暗唱してきた台本。鏡の前で発声練習した可能性すらある。


 俺はカーテンの陰から覗いた。背筋がまっすぐ。眼鏡の奥の目が真剣だ。手帳を胸の前に構え、ペンのキャップはすでに外されている。証人尋問に臨む検察官の構えだ。相手は養護教諭だが。


「利用状況ね。何か問題でもあった?」


「いえ、問題の有無を確認するための巡回です」


 言い方が正確だ。「問題がある」前提ではなく「問題の有無」を調べに来た。これなら対象に予断を与えない。十七歳にしては取調べの作法が完成されている。


「じゃあどうぞ。何が聞きたい?」


「最近、昼休みに保健室を頻繁に利用されている生徒がいると伺いまして」


 金曜日に自分の目で見ているはずだ。だがあえて伝聞形にしている。調査の起点を自分の主観ではなく第三者の情報に置いて客観性を装う。手続きが正しい。正しすぎる。


「黒瀬くんと神代さんね。二人ともよく来るわよ。仲がいいの」


 朝倉先生の回答。事実だ。だが「仲がいい」は手帳に転記されると質量が変わる。養護教諭の所見が「関係者証言:親密な関係」に化ける。意味は同じでも、重力が違う。


 ペンが手帳を走る音。速い。迷いがない。


「お二人は同じ時間帯にいらっしゃることが多いですか」


「昼休みはだいたい一緒かな」


 だいたい一緒。日常会話では曖昧な修飾語だが、記録上は「常時同席」と変わらない。


 ペンが一瞬止まり、すぐ再開した。


「ありがとうございます。──あの、もうお一方にも直接お話を伺うことは可能でしょうか」


 もうお一方。


 それは──。


「神代さーん、風紀委員の子が話聞きたいって」


 先生。通さないという選択肢は。


「はーい」


 なかった。


 神代さんがカーテンの向こうに歩いていく。俺はベッドの上で化石になった。


 ◇


「初めまして、神代澪です♡」


 保健室モードの声だ。廊下の「完璧な微笑み」ではなく、ここだけの柔らかいトーン。風紀委員が相手でもこのモードが起動するということは、保健室という空間そのものがスイッチの発火条件であり、対象の属性は条件に含まれていない。


「柊栞です。少しお聞きしてもよろしいですか」


「うん、なんでも聞いて」


 捜査対象が全面協力を宣言した。弁護人がいたら即座にストップをかけている場面だ。


「保健室を利用されている理由を教えていただけますか」


「居心地がいいから。あと──黒瀬くんがいるから♡」


 着弾。


 カーテンの向こうで心臓が跳ねた。手帳にペンが走る音が聞こえる。「黒瀬くんがいるから」。記録された。公式文書に残った。


「黒瀬さんと一緒にいらっしゃることが多いんですね」


「うん。毎日一緒にお昼食べてるよ♡ お弁当も一緒だよ」


 なぜ聞かれていない情報を出すんだ。弁当は質問項目にない。ないのに自己申告した。供述調書に被疑者が自ら別件を書き足すようなものだ。


 ペンの速度が加速した。供給に追いつけなくなっている。


「先週の金曜日についてお伺いしたいのですが。朝倉先生がご不在の日に、保健室を使用されていましたか」


 核心。教員不在の密室。


「うん。黒瀬くんと二人きりだったよ♡」


 全弾装填。全弾発射。全弾命中。


 風紀委員が裏取りしたかった事実を、裏取りの前に全面自白した。しかも末尾があの甘い響きだ。柊の調査手腕がどうこう以前に、被調査者が証拠を自発的に山積みにしている。


 数秒の沈黙。


 柊の声が、かすかに揺れた。


「……ありがとうございます。以上で結構です」


「うん。また何かあったらいつでも聞いてね」


 取調室で再訪を歓迎する人間を俺は見たことがない。


 ◇


 柊が退室した。規則正しい足音が遠ざかる。金曜日よりテンポがわずかに速い。処理容量を超えたデータを抱えた人間の歩き方だ。


 神代さんが何食わぬ顔で戻ってきた。


「……言いすぎだ」


「えっ、何が?」


 本気で不思議そうな顔だ。


「全部だ。弁当のことも二人きりのことも、聞かれてないことまで答えてた」


「だって隠すことじゃないでしょ? 事実だもん」


 まっすぐな目だ。嘘がない。嘘がないから厄介なのだ。


「事実を全部並べたら、交際の証拠にしか見えない」


 言ってから気づいた。交際していないのに交際に見えることが問題だ、と俺は宣言してしまった。していない。そう、していない。していないから困っている。


 神代さんが一瞬だけ黙った。


 それから、ふわりと笑った。


「証拠って。……犯罪じゃないのに、有罪も無罪もないよ♡」


 切り返しが鮮やかすぎる。六法全書の隙間を笑顔で通り抜けていった。


 朝倉先生がデスクでコーヒーを啜った。


「……法廷ドラマみたいね。ここ保健室なんだけど」


 おっしゃる通りです。


 神代さんはベッドに戻ると、さっきまでの尋問などなかったかのように文庫本を開いた。動揺の痕跡がゼロだ。嵐が過ぎた後の青空のような顔をしている。


 俺は自分の文庫本の同じ行を四回読んだ。一文字も頭に入らなかった。


 ◇


 放課後。


 八代がまた速報を持ってきた。この男の通信速度は光ファイバーを超えている。


「柊の調査メモ、C組の佐々木がチラッと見たらしいけどさ。笑えるぞ」


「……笑えない」


 八代は笑いを堪えていない。本気で面白がっている。


「いや笑える。調査報告って体裁なのに、中身がカップルの観察日誌なんだよ」


 八代が指を折った。


「証言一、『毎日一緒に昼食を取っている』。証言二、『弁当を一緒に食べている』。証言三、『教員不在時に二人きりで保健室を使用』。──で、問題行動の欄が空白」


「…………」


 八代が肩をすくめた。


「書けないんだよ。問題行動がないから」


 柊栞は正しく調査した。正しい手続きで正しい質問を投げ、返ってきた回答を正しく記録した。


 結果として完成したのは、「保健室で弁当を食べている男女の仲良し台帳」だった。


 保健室利用は養護教諭の許可つき。弁当を食べることは校則に抵触しない。男女が同席すること自体は違反ではない。教員不在は生徒の責任ではない。すべて合法。すべて合規。


 なのにデータを並べると、恋愛小説のあらすじにしか見えない。


 消火器を噴射したら中身がガソリンだったケースだ。証拠を集めるほど「不適切」の根拠が痩せていき、代わりに「仲良し」の根拠だけが太っていく。柊の調査はそういう構造をしている。


「あいつ、たぶん風紀委員会の定例に報告書出すぜ」


「……出したらどうなる」


 八代の声が少し低くなった。


「結論は問題なしだろ。問題がないんだから。でもさ、報告の過程で事実が全部開示されるわけだ。毎日一緒、弁当、二人きり。風紀委員会のメンバー全員がそれを聞いて、そっから先は──」


 わかっている。


「……想像つく」


 風紀委員会から情報が漏れ、八代の通信網に乗り、二十四時間以内に学年中に届く。報告書の結論が「問題なし」でも、開示された事実が新しい燃料になる。柊が積み上げた証拠は、そのまま噂のアップグレードパッチだ。


「柊は悪い奴じゃないよ。真面目なだけで」


「……真面目が一番厄介だ」


 八代が首を傾げた。


「なんで?」


 俺は窓の外を見た。


「お前は飽きたら忘れるが、柊は正しくなくなるまでやめない。持久力が違う」


 八代がきょとんとして、それから笑った。


「お前さ、たまにすげぇこと言うよな。コミュ障のくせに」


「……黙ってる時間が長いから、考える暇があるだけだ」


 八代が目を丸くした。


「いやそれ名言だろ。メモしとこ」


 スマホを取り出す仕草をした。


「するな」


 メモされたら八代の口を通過して流通する。「黒瀬語録」が学年に出回る未来が見えた。情報漏洩の経路がまた一本増える。


「あとさ」


 八代が少し声を落とした。


「柊の調査メモ、ちょっと見てみたいんだよな。佐々木が言うにはけっこうちゃんとした書式で──」


「……見るな」


 八代がにやっと笑った。


「冗談だって。たぶん」


 たぶん。その「たぶん」が一番危ない。報道機関が一次資料の存在を嗅ぎつけた瞬間の「興味本位」は、三日後に「特集記事」に変わる。


 ◇


 帰り道。一人だ。


 月曜日は神代さんの委員会がある。先週の月曜も一人だった。曜日ごとの不在パターンがもう自動保存されている。入力した覚えはない。勝手にカレンダーに同期された。


 歩きながら、柊の報告書のことを考えた。


 あの手帳の中身が、今ごろ報告書のフォーマットに移し替えられているだろう。「証言一」「証言二」「証言三」。通し番号のついた事実の羅列。風紀委員としての公務。彼女にとっては、それ以上の意味はないはずだ。


 だが報告書を書き進めるほど、問題行動の欄が白紙のまま膨らんでいく。確認事項の列だけが伸びる。不適切利用を裏付けるつもりのペンが、二人の高校生のおだやかな昼休みを裏付けている。


 そのペンが止まる瞬間があるだろう。手帳の最後のページに辿り着いたとき、柊栞はたぶんこう思う。


 ──私は、何を調べているんですか。


 同情する。正しい手順で正しいことをして、正しくない結論に行き着く人間の孤独は、わかる。


 だが同情している場合ではない。


 あの報告書が風紀委員会で読み上げられれば、八代の横方向のゴシップ回線に加えて、制度という縦方向の伝達経路が開く。噂は水道管を流れる水だ。配管が増えれば圧力が上がる。蛇口は誰かが勝手にひねる。


 横と縦。八代と柊。報道と監査が同じネタを掴んだとき、情報は加速する。


 それにしても。


 今日、カーテンの向こうで柊の質問に答える神代さんの声を聞きながら、一つだけわかったことがある。


 あの人は、俺と一緒にいることを隠す気がない。


 「黒瀬くんがいるから」。堂々と。笑顔で。あの甘い語尾つきで。


 隠す気がないのに、俺だけが隠そうとしている。この非対称が、本当のところ柊を一番困惑させたのかもしれない。調査対象の片方は全面開示、もう片方はカーテンの裏で呼吸を止めている。証言に矛盾はないのに、態度に矛盾がある。


 神代さんは嘘をつかなかった。保健室の中で嘘を一度もつかなかった。「いるから」「一緒だから」「二人きりだったから」。全部事実で、全部正直で、全部──あの人にとっては隠す必要のないことだった。


 俺だけが否定しようとして、否定できなくて、カーテンの裏で黙っていた。あの沈黙を、柊はどう記録したのだろう。「在室を確認。発言なし」。手帳にはそう書かれているかもしれない。


 発言なし。


 それが俺だ。いつだって、そうだ。


 でも──金曜日に「俺もだ」と言えた口が、今日は何も言えなかった。カーテンの向こうで神代さんが俺の名前を出すたびに、心臓が鳴って、でも口は閉じたままだった。


 あの矛盾の正体を、俺はまだ知らない。


 知らないまま、月曜日の帰り道が終わった。

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