第6話 : 「二人きり最高♡」の破壊力
第6話 : 「二人きり最高♡」の破壊力
金曜日の保健室に、大人がいない。
正確にはいないのではなく、いられない。朝のHRで担任が「本日午後より職員会議があります」と告げた時点で、俺の頭の中では一つの方程式が走った。職員会議=朝倉先生不在=保健室に教員ゼロ。
先週の火曜日、自分から「来週の金曜、職員会議ありますか」と聞いた。聞いた時点で何かを期待していた。何を期待していたのかは、聞かないでほしい。俺自身がまだ翻訳できていない。
◇
四限目が永遠に思えた。
いや正確には古典の授業が永遠に感じるのはいつものことだ。助動詞の活用を暗記する時間帯は、体感で実時間の三倍に引き延ばされる。物理法則ではなく退屈の法則だ。
だが今日の永遠は、退屈由来ではなかった。
チャイムが鳴る。昼休み。
席を立つ。教科書をしまう。カバンから弁当──ではなく財布だけ持って、教室を出る。弁当は神代さんが持ってくるのだから、俺が用意する必要はない。
この思考にもう違和感を覚えていない自分が怖い。一週間前は「補給線に組み込まれた」と軍事的に危機感を抱いていたのに、今は当然の兵站として受け入れている。人間の順応力は無限だ。
廊下を歩く。八代とすれ違った。
「よう黒瀬、保健室か」
「…………」
「そういえば今日、先生いないんだろ? 職員会議で」
なぜ知っている。朝倉先生の不在情報まで把握しているのか。この男の情報網は学校の管理システムより高性能だ。
「二人きりじゃん、大丈夫かよ」
「……何がだよ」
「いや、なんでも。がんばれ」
何を頑張るんだ。
八代はにやにやしながら去っていった。先週「保健室に顔出していい?」とメッセージを寄越してきた男は、結局あれから一度も保健室に来なかった。俺が未読スルーしたことで察したのか、もともと本気ではなかったのか。どちらにしろ、来なかったことに安堵した。
来なくていい。あの場所は──。
保健室のドアの前に立つ。ノックはしない。一年間の習慣だ。
ドアを開ける。
保健室は無人だった。
朝倉先生のデスクにコーヒーカップがない。パソコンの電源が落ちている。椅子が机の下にきちんと収まっている。不在の証拠が三つ揃っている。
窓際のいつもの場所に座る。カーテンを七割開ける。リノリウムの床の冷たさが上履き越しに伝わる。消毒液の匂い。窓から差す五月の陽光。
ここまではいつもと同じだ。
だが、一つだけ違う。
この空間に朝倉先生が戻ってくる気配がない。昼休みが終わるまで、俺以外の人間は──。
「黒瀬くん、来てた」
ドアが開いた。
神代さんが、二段弁当を抱えて立っている。今日は包みの色が違う。先週は紺色だったが、今日はえんじ色。弁当包みにバリエーションがあるのか。それともローテーションしているのか。
神代さんが保健室に入り、ドアを閉める。
その一連の動作の中で、変化は起きた。
肩から力が抜ける。まず、これが見える。次に、呼吸が変わる。浅く整っていた呼吸が、すこし深くなる。最後に、表情。廊下で浮かべていた「完璧な微笑み」が溶けて、もう少しやわらかい何かに変わる。
いつもの切り替え。だが今日は、もう一段階あった。
神代さんが、保健室をゆっくり見回した。朝倉先生のデスク。空の椅子。電源の落ちたパソコン。コーヒーカップのない机。
確認するように。確かめるように。
そして俺の方を見て──。
「……朝倉先生、今日いないんだね」
「……職員会議」
「そっか」
一拍の間。
神代さんが、ふわっと笑った。いつもの保健室の笑顔より、さらに一段明るい。
「──二人きり最高♡」
砲弾が着弾した。比喩ではない。鼓膜を通過した音声が脳に到達した瞬間、思考回路が一度ブラックアウトした。再起動に二秒かかった。
二人きり。最高。
この人は、朝倉先生がいないことを確認してから──わざわざ確認してから──俺と二人きりであることに「最高」の評価を下した。
最高なのは君だけだ。俺は今、心臓が最期を迎えようとしている。
「……なんで嬉しそうなんだ」
「え? だって嬉しいでしょ♡」
「嬉しくない」
「ほんとに?」
「…………」
嘘だ。嬉しくないは嘘だ。だが「嬉しい」を認めると何かが決壊する。ダムの堤体にヒビが入っているのは自覚しているが、決壊させるわけにはいかない。
神代さんが隣に座った。
いつもの位置。だが、距離が近い。
普段の肩と肩の間隔は二十センチくらいだ。朝倉先生がいるとき、無意識に確保される最低限の距離。
今日は十センチだ。半分になった。
朝倉先生という緩衝地帯が消えた途端、神代さんの距離感のリミッターが外れている。いや、リミッターが存在していたこと自体に驚くべきか。あれで制限をかけていたのか。
「ねえ、お弁当食べよ? 今日ね、ちょっと気合い入れたの」
「……いつも気合い入ってるだろ」
「今日は特別♡」
特別。今日が特別。二人きりの日が特別。そういうことですか。
弁当の蓋が開く。
鮭の西京焼き。ほうれん草のごま和え。れんこんのきんぴら。卵焼きは甘め──先週のデータが反映されている。ミニトマトの配置が几帳面に整列している。彩りの設計が完璧だ。
「……いただきます」
「うん、召し上がれ♡」
鮭を口に入れる。
……うまい。味噌の甘さと鮭の脂が冷めても崩れていない。冷えた弁当の魚をこの水準に仕上げるには、焼きの技術と漬け時間の管理が必要だ。もはや家庭料理ではなく専門職の仕事だ。
「……うまい」
また言ってしまった。味覚から声帯への直通回線。ファイアウォールが食べ物に対してだけ解除される。
神代さんが、嬉しそうにスマホでメモを打った。
「鮭、好きなんだ。メモメモ」
データベースが更新された。肉も魚も対応可能な雑食人間として登録された。来週あたり和食と洋食のA/Bテストが始まる。
◇
弁当を食べ終えてから、空気が変わった。
普段なら朝倉先生のキーボードの打鍵音が保健室に「日常」を供給している。仕事をしている大人の気配。それが、この空間を「学校の施設」として成り立たせるアンカーだった。
今日はそのアンカーがない。
保健室が、保健室以外の何かに変質している。同じ部屋なのに、空気の温度が二度くらい高い。たぶん実際の室温は変わっていない。変わったのは俺の体温だ。
神代さんが、不意にこちらに体を傾けた。
肩が触れた。
先週、寝落ちしたときに触れたのとは違う。あれは偶然の重力だった。これは意志だ。意志を持った接触。
「ね、黒瀬くん」
「……ん」
「私、ここにいるとき、すごく楽なの」
「…………」
「教室だと、ちゃんとしなきゃって。でもここは、ちゃんとしなくていいから」
その声に、いつもの弾むようなトーンがなかった。もっと静かで、底の方から出てくるような響き。
「……俺もだ」
口から出た。制御していない。考える前に音声が発射された。
神代さんが、少し驚いたように俺を見た。
「黒瀬くん、今すごいこと言った」
「……普通のことだろ」
「普通じゃないよ。自分のこと話してくれるの、珍しい」
たしかに珍しい。俺の口から主語が「俺」の文章が出ること自体が統計的外れ値だ。だが今日は朝倉先生がいない。いないことで何かの箍が外れている。監視カメラのない部屋で、人は少しだけ正直になる。
神代さんが、俺の腕に触れた。
指先が、制服の袖の上を滑る。
「……っ」
「ね、黒瀬くんも楽にしていいよ。ここ、二人だけだし」
なんで距離がゼロなんだ。
なんで嬉しそうなんだ。
なんで俺の心拍数を気にしないんだ。
三つの疑問が同時に発火した。どれにも答えは出ない。出ないまま、神代さんの指先は俺の袖から離れない。
「……神代さん」
「ん?」
「……近い」
「うん♡」
「うん」じゃない。「うん」は肯定だ。近いという指摘を肯定するな。肯定するということは自覚しているということだ。自覚しているのに離れないということは──。
意図的だということだ。
俺はどうすればいい。「離れてくれ」と言えばいい。離れてくれ。口を開く。
「…………」
出ない。
「離れてくれ」の「は」の字すら出ない。嫌じゃないからだ。近くて困っているのに、嫌じゃない。心臓が爆発しそうなのに、この距離を失いたくない。矛盾している。矛盾しているが、感情は論理を無視する生き物だ。
神代さんが、くすくすと笑った。
「黒瀬くん、顔赤い」
「……気温のせいだ」
「五月で?」
「……五月でも暑い日はある」
「今日、最高気温二十二度だよ」
気象データで反論された。この人は天気予報まで武器にするのか。
◇
それからの十五分は、俺の人生で最も長い十五分だった。
神代さんは俺の隣にぴったりくっついたまま、色々な話をした。今日の授業のこと。委員会の書類が多いこと。朝ごはんにフレンチトーストを作ったこと。昨日の夜に見た動物の動画のこと。
俺はほとんど頷いているだけだった。「……うん」と「……そう」の二語をローテーションしていただけだ。だが神代さんは、それで十分らしかった。
「黒瀬くん、聞いてくれるの好き。みんなね、私が話すと『さすが神代さん』って言うの。でも黒瀬くんは何も言わないでしょ。それがいいの」
何も言わないのは、言えないからだ。コミュ障だからだ。だがこの人の解釈では、それが「心地いい聞き手」に変換される。俺の欠点が、この空間では長所にすり替わる。保健室の中だけ有効なバグだ。
「ね、黒瀬くん」
「……ん」
「毎週金曜日、先生いなくなればいいのに♡」
「……いなくなったら保健室が閉まる」
「じゃあ、いるけど見えなくなればいい」
「……それは透明人間だ」
「朝倉先生の透明人間化計画♡」
「……先生に聞かれたら怒られる」
なぜ俺はこの人と漫才をしているんだ。しかも会話のテンポが自然になっている。二週間前は三語以上の発話が不可能だった人間が、ボケにツッコミを返している。
神代澪の浸食力は、距離だけでなく発話量にまで及んでいる。
◇
チャイムが鳴る五分前。
神代さんが弁当箱を片付けながら、ふと窓の外を見た。
「……来週も、作ってくるね」
「……無理しないで」
「無理じゃないよ。楽しいもん」
この会話、前にもした。一週間前とまったく同じ構文だ。俺が遠慮して、神代さんが否定する。パターンが固定化している。
「それと」
神代さんが俺に向き直った。保健室モードの中でも、ひときわ柔らかい表情。
「来週から、お味噌汁もつけてみようかな。スープジャーで」
「……そこまでしなくていい」
「したいの♡」
「したいの」。この人は「いい」「悪い」の軸で判断しない。「したい」「したくない」の軸で動いている。俺の「しなくていい」は「いい・悪い」の話だが、神代さんの回答は常に「したい」だ。噛み合わないのは軸が違うからだ。
チャイムが鳴った。
神代さんが立ち上がる。いつもの切り替え。背筋を伸ばし、髪を耳にかけ、表情を整える。三秒で「学年の女神」が完成する。
「じゃあね、黒瀬くん。──また月曜日ね」
「……うん」
ドアを開ける。廊下に出る。
その瞬間だった。
神代さんが、ごく小さく「あ」と声を漏らした。
ドアの前に、一人の女子生徒が立っていた。
黒髪。眼鏡。背筋がまっすぐ。制服の第一ボタンまで留めている。左腕に──赤い腕章。
風紀委員。
俺はベッドに座ったまま、ドアの向こうのその人物を見た。小窓越しではなく、開いたドアを通して。
彼女は神代さんと目が合い、それから保健室の中──俺を見た。座ったまま動けない俺と、ドアの前に立つ神代さん。二人きりの保健室から出てきた女子と、中に残っている男子。
二秒間の沈黙。
風紀委員の女子は、一瞬だけ眉をひそめた。それから手帳を取り出し、何かを書き込んだ。ペンの動きは速く、迷いがない。
「……失礼しました」
一言だけ残して、規則正しい足音で廊下を去っていった。
神代さんが、きょとんとした顔で俺を振り返る。
「……誰だろう、今の子」
「…………」
俺は知らない。名前は知らない。だが、あの腕章と、あの手帳と、あの足音の几帳面さは覚えている。八代が先週のメッセージで言っていた。「風紀の柊って子がなんか嗅ぎ回ってるらしい」。
嗅ぎ回る。
まだ嗅ぎ回っている段階なら、今のは偶然の遭遇か。あるいは、偶然ではなく──。
「黒瀬くん?」
「……気にしないでいい。行ってこい」
「うん。じゃあまたね」
神代さんが笑顔で去っていく。廊下に出た瞬間、完璧な「神代澪」に戻る。
俺は空になった保健室に一人、残った。
◇
五限が始まっても、さっきの光景が頭から消えなかった。
手帳。赤い腕章。「失礼しました」の声。
あの目は、好奇心ではなかった。八代のような「面白そう」の目でもなかった。もっと硬質な光。事実を認定しようとする目。裁判官が証拠品を見るときの、あの目だ。
八代は情報を「面白く」加工して水平に拡散する。横方向の脅威。だがあの風紀委員は違う。縦方向だ。事実を正確に記録し、制度の回路に乗せる。面白いかどうかは関係ない。正しいか正しくないかが基準だ。
八代は嘘をつかないが脚色する。風紀委員は脚色しないが記録する。どちらが厄介かと問われたら、後者だ。脚色は時間とともに風化するが、記録は残る。
放課後。
教室で帰り支度をしていると、八代が背後から声をかけてきた。
「なあ黒瀬。昼休みどうだった?」
「……普通に弁当食べた」
「二人きりで?」
「……朝倉先生が不在だっただけだ」
「それを二人きりって言うんだよ」
反論の余地がない正論をぶつけてくるのが、この男の最もたちの悪いところだ。
「つーかお前、保健室出たとき柊に会わなかった?」
「……柊?」
「柊栞。二年C組の風紀委員。黒髪ロングで眼鏡の。知らない?」
「…………」
「あいつ最近、保健室周辺うろうろしてるってよ。なんか調べてるっぽい」
「……何を」
「さあ。風紀委員だから、不正利用とかそういうのじゃね? まあお前、保健室を私的空間にしてる感はあるけど」
私的空間。否定できない。保健室を個人の居場所として占有しているのは事実だ。そこに神代さんまで加わっている。風紀的に見れば、調査対象になってもおかしくない。
「でも神代さんと二人きりのとこ見られたのはまずいな」
「……見られた」
「だから柊に。出てくるとこ目撃されたんだろ?」
なぜ知っている。あれは十分前の出来事だ。十分で八代に到達する情報速度は異常だ。
「風紀委員が動くと面倒だぞ。あいつら報告書とか出すから」
報告書。あの手帳に書き込まれた内容が、いずれ書類になる。日時、場所、人物、状況。「放課後、保健室にて、黒瀬湊と神代澪が二人きりでいるところを確認。教員不在」。
八代のゴシップは否定すれば──できないが──一応は「噂」で済む。だが風紀委員の報告書は「記録」だ。否定ではなく、釈明が求められる。
「……面倒なことになった」
「面倒か? 身に覚えがないなら堂々としてりゃいいだろ」
「…………」
身に覚え。
二人きりの保健室。隣に座る神代さん。触れた肩。腕に触れた指先。「二人きり最高」と笑う顔。「近い」と指摘したら「うん」と肯定された距離。
身に覚えしかない。
「まあ、何かあったら言えよ。応援してるから」
だから何を応援しているんだ。
◇
帰り道。一人だ。
金曜日の夕方。来週まで保健室はない。二日間の空白。先週はこの空白を「休息」と思っていた。一人の時間を取り戻す猶予期間だと。
今週は違う。
空白が、ただの空白に思える。休息ではなく、不在。
隣が空いている感覚が、先週より強い。並んで歩いたのは一回だけのはずなのに、帰り道のデフォルトが書き換わっている。
ポケットの中のスマホに手を伸ばしかけて、やめた。神代さんの連絡先は知らない。知らないから、連絡しようがない。連絡先を知らないことにほっとしている自分と、少しだけ残念に思っている自分がいる。残念に思っている方の自分は、無視する。
頭の中で、今日の保健室を再生する。
「二人きり最高」と笑った顔。鮭の西京焼き。「ここにいると楽」という声。腕に触れた指先。「顔赤い」と笑われたこと。
そして、ドアの前に立っていた風紀委員。手帳に走るペン。「失礼しました」。
甘さと不穏が、同じ昼休みに同居している。
片方だけなら対処できる。甘さには鈍感を装えばいい。不穏には警戒すればいい。だが両方同時に来ると、脳の処理能力が追いつかない。
月曜日。あの風紀委員がどう動くか。
八代ルートの「噂」に加えて、柊ルートの「調査」が並走する。横と縦から同時に挟まれる。
俺の保健室が、また少し騒がしくなる予感がした。
──騒がしくなるのは嫌だ。
でも、静かに戻るのは──もっと嫌かもしれない。




