表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/50

第6話 : 「二人きり最高♡」の破壊力

 第6話 : 「二人きり最高♡」の破壊力


 金曜日の保健室に、大人がいない。


 正確にはいないのではなく、いられない。朝のHRで担任が「本日午後より職員会議があります」と告げた時点で、俺の頭の中では一つの方程式が走った。職員会議=朝倉先生不在=保健室に教員ゼロ。


 先週の火曜日、自分から「来週の金曜、職員会議ありますか」と聞いた。聞いた時点で何かを期待していた。何を期待していたのかは、聞かないでほしい。俺自身がまだ翻訳できていない。


 ◇


 四限目が永遠に思えた。


 いや正確には古典の授業が永遠に感じるのはいつものことだ。助動詞の活用を暗記する時間帯は、体感で実時間の三倍に引き延ばされる。物理法則ではなく退屈の法則だ。


 だが今日の永遠は、退屈由来ではなかった。


 チャイムが鳴る。昼休み。


 席を立つ。教科書をしまう。カバンから弁当──ではなく財布だけ持って、教室を出る。弁当は神代さんが持ってくるのだから、俺が用意する必要はない。


 この思考にもう違和感を覚えていない自分が怖い。一週間前は「補給線に組み込まれた」と軍事的に危機感を抱いていたのに、今は当然の兵站として受け入れている。人間の順応力は無限だ。


 廊下を歩く。八代とすれ違った。


「よう黒瀬、保健室か」


「…………」


「そういえば今日、先生いないんだろ? 職員会議で」


 なぜ知っている。朝倉先生の不在情報まで把握しているのか。この男の情報網は学校の管理システムより高性能だ。


「二人きりじゃん、大丈夫かよ」


「……何がだよ」


「いや、なんでも。がんばれ」


 何を頑張るんだ。


 八代はにやにやしながら去っていった。先週「保健室に顔出していい?」とメッセージを寄越してきた男は、結局あれから一度も保健室に来なかった。俺が未読スルーしたことで察したのか、もともと本気ではなかったのか。どちらにしろ、来なかったことに安堵した。


 来なくていい。あの場所は──。


 保健室のドアの前に立つ。ノックはしない。一年間の習慣だ。


 ドアを開ける。


 保健室は無人だった。


 朝倉先生のデスクにコーヒーカップがない。パソコンの電源が落ちている。椅子が机の下にきちんと収まっている。不在の証拠が三つ揃っている。


 窓際のいつもの場所に座る。カーテンを七割開ける。リノリウムの床の冷たさが上履き越しに伝わる。消毒液の匂い。窓から差す五月の陽光。


 ここまではいつもと同じだ。


 だが、一つだけ違う。


 この空間に朝倉先生が戻ってくる気配がない。昼休みが終わるまで、俺以外の人間は──。


「黒瀬くん、来てた」


 ドアが開いた。


 神代さんが、二段弁当を抱えて立っている。今日は包みの色が違う。先週は紺色だったが、今日はえんじ色。弁当包みにバリエーションがあるのか。それともローテーションしているのか。


 神代さんが保健室に入り、ドアを閉める。


 その一連の動作の中で、変化は起きた。


 肩から力が抜ける。まず、これが見える。次に、呼吸が変わる。浅く整っていた呼吸が、すこし深くなる。最後に、表情。廊下で浮かべていた「完璧な微笑み」が溶けて、もう少しやわらかい何かに変わる。


 いつもの切り替え。だが今日は、もう一段階あった。


 神代さんが、保健室をゆっくり見回した。朝倉先生のデスク。空の椅子。電源の落ちたパソコン。コーヒーカップのない机。


 確認するように。確かめるように。


 そして俺の方を見て──。


「……朝倉先生、今日いないんだね」


「……職員会議」


「そっか」


 一拍の間。


 神代さんが、ふわっと笑った。いつもの保健室の笑顔より、さらに一段明るい。


「──二人きり最高♡」


 砲弾が着弾した。比喩ではない。鼓膜を通過した音声が脳に到達した瞬間、思考回路が一度ブラックアウトした。再起動に二秒かかった。


 二人きり。最高。


 この人は、朝倉先生がいないことを確認してから──わざわざ確認してから──俺と二人きりであることに「最高」の評価を下した。


 最高なのは君だけだ。俺は今、心臓が最期を迎えようとしている。


「……なんで嬉しそうなんだ」


「え? だって嬉しいでしょ♡」


「嬉しくない」


「ほんとに?」


「…………」


 嘘だ。嬉しくないは嘘だ。だが「嬉しい」を認めると何かが決壊する。ダムの堤体にヒビが入っているのは自覚しているが、決壊させるわけにはいかない。


 神代さんが隣に座った。


 いつもの位置。だが、距離が近い。


 普段の肩と肩の間隔は二十センチくらいだ。朝倉先生がいるとき、無意識に確保される最低限の距離。


 今日は十センチだ。半分になった。


 朝倉先生という緩衝地帯が消えた途端、神代さんの距離感のリミッターが外れている。いや、リミッターが存在していたこと自体に驚くべきか。あれで制限をかけていたのか。


「ねえ、お弁当食べよ? 今日ね、ちょっと気合い入れたの」


「……いつも気合い入ってるだろ」


「今日は特別♡」


 特別。今日が特別。二人きりの日が特別。そういうことですか。


 弁当の蓋が開く。


 鮭の西京焼き。ほうれん草のごま和え。れんこんのきんぴら。卵焼きは甘め──先週のデータが反映されている。ミニトマトの配置が几帳面に整列している。彩りの設計が完璧だ。


「……いただきます」


「うん、召し上がれ♡」


 鮭を口に入れる。


 ……うまい。味噌の甘さと鮭の脂が冷めても崩れていない。冷えた弁当の魚をこの水準に仕上げるには、焼きの技術と漬け時間の管理が必要だ。もはや家庭料理ではなく専門職の仕事だ。


「……うまい」


 また言ってしまった。味覚から声帯への直通回線。ファイアウォールが食べ物に対してだけ解除される。


 神代さんが、嬉しそうにスマホでメモを打った。


「鮭、好きなんだ。メモメモ」


 データベースが更新された。肉も魚も対応可能な雑食人間として登録された。来週あたり和食と洋食のA/Bテストが始まる。


 ◇


 弁当を食べ終えてから、空気が変わった。


 普段なら朝倉先生のキーボードの打鍵音が保健室に「日常」を供給している。仕事をしている大人の気配。それが、この空間を「学校の施設」として成り立たせるアンカーだった。


 今日はそのアンカーがない。


 保健室が、保健室以外の何かに変質している。同じ部屋なのに、空気の温度が二度くらい高い。たぶん実際の室温は変わっていない。変わったのは俺の体温だ。


 神代さんが、不意にこちらに体を傾けた。


 肩が触れた。


 先週、寝落ちしたときに触れたのとは違う。あれは偶然の重力だった。これは意志だ。意志を持った接触。


「ね、黒瀬くん」


「……ん」


「私、ここにいるとき、すごく楽なの」


「…………」


「教室だと、ちゃんとしなきゃって。でもここは、ちゃんとしなくていいから」


 その声に、いつもの弾むようなトーンがなかった。もっと静かで、底の方から出てくるような響き。


「……俺もだ」


 口から出た。制御していない。考える前に音声が発射された。


 神代さんが、少し驚いたように俺を見た。


「黒瀬くん、今すごいこと言った」


「……普通のことだろ」


「普通じゃないよ。自分のこと話してくれるの、珍しい」


 たしかに珍しい。俺の口から主語が「俺」の文章が出ること自体が統計的外れ値だ。だが今日は朝倉先生がいない。いないことで何かの箍が外れている。監視カメラのない部屋で、人は少しだけ正直になる。


 神代さんが、俺の腕に触れた。


 指先が、制服の袖の上を滑る。


「……っ」


「ね、黒瀬くんも楽にしていいよ。ここ、二人だけだし」


 なんで距離がゼロなんだ。


 なんで嬉しそうなんだ。


 なんで俺の心拍数を気にしないんだ。


 三つの疑問が同時に発火した。どれにも答えは出ない。出ないまま、神代さんの指先は俺の袖から離れない。


「……神代さん」


「ん?」


「……近い」


「うん♡」


 「うん」じゃない。「うん」は肯定だ。近いという指摘を肯定するな。肯定するということは自覚しているということだ。自覚しているのに離れないということは──。


 意図的だということだ。


 俺はどうすればいい。「離れてくれ」と言えばいい。離れてくれ。口を開く。


「…………」


 出ない。


 「離れてくれ」の「は」の字すら出ない。嫌じゃないからだ。近くて困っているのに、嫌じゃない。心臓が爆発しそうなのに、この距離を失いたくない。矛盾している。矛盾しているが、感情は論理を無視する生き物だ。


 神代さんが、くすくすと笑った。


「黒瀬くん、顔赤い」


「……気温のせいだ」


「五月で?」


「……五月でも暑い日はある」


「今日、最高気温二十二度だよ」


 気象データで反論された。この人は天気予報まで武器にするのか。


 ◇


 それからの十五分は、俺の人生で最も長い十五分だった。


 神代さんは俺の隣にぴったりくっついたまま、色々な話をした。今日の授業のこと。委員会の書類が多いこと。朝ごはんにフレンチトーストを作ったこと。昨日の夜に見た動物の動画のこと。


 俺はほとんど頷いているだけだった。「……うん」と「……そう」の二語をローテーションしていただけだ。だが神代さんは、それで十分らしかった。


「黒瀬くん、聞いてくれるの好き。みんなね、私が話すと『さすが神代さん』って言うの。でも黒瀬くんは何も言わないでしょ。それがいいの」


 何も言わないのは、言えないからだ。コミュ障だからだ。だがこの人の解釈では、それが「心地いい聞き手」に変換される。俺の欠点が、この空間では長所にすり替わる。保健室の中だけ有効なバグだ。


「ね、黒瀬くん」


「……ん」


「毎週金曜日、先生いなくなればいいのに♡」


「……いなくなったら保健室が閉まる」


「じゃあ、いるけど見えなくなればいい」


「……それは透明人間だ」


「朝倉先生の透明人間化計画♡」


「……先生に聞かれたら怒られる」


 なぜ俺はこの人と漫才をしているんだ。しかも会話のテンポが自然になっている。二週間前は三語以上の発話が不可能だった人間が、ボケにツッコミを返している。


 神代澪の浸食力は、距離だけでなく発話量にまで及んでいる。


 ◇


 チャイムが鳴る五分前。


 神代さんが弁当箱を片付けながら、ふと窓の外を見た。


「……来週も、作ってくるね」


「……無理しないで」


「無理じゃないよ。楽しいもん」


 この会話、前にもした。一週間前とまったく同じ構文だ。俺が遠慮して、神代さんが否定する。パターンが固定化している。


「それと」


 神代さんが俺に向き直った。保健室モードの中でも、ひときわ柔らかい表情。


「来週から、お味噌汁もつけてみようかな。スープジャーで」


「……そこまでしなくていい」


「したいの♡」


 「したいの」。この人は「いい」「悪い」の軸で判断しない。「したい」「したくない」の軸で動いている。俺の「しなくていい」は「いい・悪い」の話だが、神代さんの回答は常に「したい」だ。噛み合わないのは軸が違うからだ。


 チャイムが鳴った。


 神代さんが立ち上がる。いつもの切り替え。背筋を伸ばし、髪を耳にかけ、表情を整える。三秒で「学年の女神」が完成する。


「じゃあね、黒瀬くん。──また月曜日ね」


「……うん」


 ドアを開ける。廊下に出る。


 その瞬間だった。


 神代さんが、ごく小さく「あ」と声を漏らした。


 ドアの前に、一人の女子生徒が立っていた。


 黒髪。眼鏡。背筋がまっすぐ。制服の第一ボタンまで留めている。左腕に──赤い腕章。


 風紀委員。


 俺はベッドに座ったまま、ドアの向こうのその人物を見た。小窓越しではなく、開いたドアを通して。


 彼女は神代さんと目が合い、それから保健室の中──俺を見た。座ったまま動けない俺と、ドアの前に立つ神代さん。二人きりの保健室から出てきた女子と、中に残っている男子。


 二秒間の沈黙。


 風紀委員の女子は、一瞬だけ眉をひそめた。それから手帳を取り出し、何かを書き込んだ。ペンの動きは速く、迷いがない。


「……失礼しました」


 一言だけ残して、規則正しい足音で廊下を去っていった。


 神代さんが、きょとんとした顔で俺を振り返る。


「……誰だろう、今の子」


「…………」


 俺は知らない。名前は知らない。だが、あの腕章と、あの手帳と、あの足音の几帳面さは覚えている。八代が先週のメッセージで言っていた。「風紀の柊って子がなんか嗅ぎ回ってるらしい」。


 嗅ぎ回る。


 まだ嗅ぎ回っている段階なら、今のは偶然の遭遇か。あるいは、偶然ではなく──。


「黒瀬くん?」


「……気にしないでいい。行ってこい」


「うん。じゃあまたね」


 神代さんが笑顔で去っていく。廊下に出た瞬間、完璧な「神代澪」に戻る。


 俺は空になった保健室に一人、残った。


 ◇


 五限が始まっても、さっきの光景が頭から消えなかった。


 手帳。赤い腕章。「失礼しました」の声。


 あの目は、好奇心ではなかった。八代のような「面白そう」の目でもなかった。もっと硬質な光。事実を認定しようとする目。裁判官が証拠品を見るときの、あの目だ。


 八代は情報を「面白く」加工して水平に拡散する。横方向の脅威。だがあの風紀委員は違う。縦方向だ。事実を正確に記録し、制度の回路に乗せる。面白いかどうかは関係ない。正しいか正しくないかが基準だ。


 八代は嘘をつかないが脚色する。風紀委員は脚色しないが記録する。どちらが厄介かと問われたら、後者だ。脚色は時間とともに風化するが、記録は残る。


 放課後。


 教室で帰り支度をしていると、八代が背後から声をかけてきた。


「なあ黒瀬。昼休みどうだった?」


「……普通に弁当食べた」


「二人きりで?」


「……朝倉先生が不在だっただけだ」


「それを二人きりって言うんだよ」


 反論の余地がない正論をぶつけてくるのが、この男の最もたちの悪いところだ。


「つーかお前、保健室出たとき柊に会わなかった?」


「……柊?」


「柊栞。二年C組の風紀委員。黒髪ロングで眼鏡の。知らない?」


「…………」


「あいつ最近、保健室周辺うろうろしてるってよ。なんか調べてるっぽい」


「……何を」


「さあ。風紀委員だから、不正利用とかそういうのじゃね? まあお前、保健室を私的空間にしてる感はあるけど」


 私的空間。否定できない。保健室を個人の居場所として占有しているのは事実だ。そこに神代さんまで加わっている。風紀的に見れば、調査対象になってもおかしくない。


「でも神代さんと二人きりのとこ見られたのはまずいな」


「……見られた」


「だから柊に。出てくるとこ目撃されたんだろ?」


 なぜ知っている。あれは十分前の出来事だ。十分で八代に到達する情報速度は異常だ。


「風紀委員が動くと面倒だぞ。あいつら報告書とか出すから」


 報告書。あの手帳に書き込まれた内容が、いずれ書類になる。日時、場所、人物、状況。「放課後、保健室にて、黒瀬湊と神代澪が二人きりでいるところを確認。教員不在」。


 八代のゴシップは否定すれば──できないが──一応は「噂」で済む。だが風紀委員の報告書は「記録」だ。否定ではなく、釈明が求められる。


「……面倒なことになった」


「面倒か? 身に覚えがないなら堂々としてりゃいいだろ」


「…………」


 身に覚え。


 二人きりの保健室。隣に座る神代さん。触れた肩。腕に触れた指先。「二人きり最高」と笑う顔。「近い」と指摘したら「うん」と肯定された距離。


 身に覚えしかない。


「まあ、何かあったら言えよ。応援してるから」


 だから何を応援しているんだ。


 ◇


 帰り道。一人だ。


 金曜日の夕方。来週まで保健室はない。二日間の空白。先週はこの空白を「休息」と思っていた。一人の時間を取り戻す猶予期間だと。


 今週は違う。


 空白が、ただの空白に思える。休息ではなく、不在。


 隣が空いている感覚が、先週より強い。並んで歩いたのは一回だけのはずなのに、帰り道のデフォルトが書き換わっている。


 ポケットの中のスマホに手を伸ばしかけて、やめた。神代さんの連絡先は知らない。知らないから、連絡しようがない。連絡先を知らないことにほっとしている自分と、少しだけ残念に思っている自分がいる。残念に思っている方の自分は、無視する。


 頭の中で、今日の保健室を再生する。


 「二人きり最高」と笑った顔。鮭の西京焼き。「ここにいると楽」という声。腕に触れた指先。「顔赤い」と笑われたこと。


 そして、ドアの前に立っていた風紀委員。手帳に走るペン。「失礼しました」。


 甘さと不穏が、同じ昼休みに同居している。


 片方だけなら対処できる。甘さには鈍感を装えばいい。不穏には警戒すればいい。だが両方同時に来ると、脳の処理能力が追いつかない。


 月曜日。あの風紀委員がどう動くか。


 八代ルートの「噂」に加えて、柊ルートの「調査」が並走する。横と縦から同時に挟まれる。


 俺の保健室が、また少し騒がしくなる予感がした。


 ──騒がしくなるのは嫌だ。


 でも、静かに戻るのは──もっと嫌かもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ