【第50話】俺の保健室が静かだった最後の日、のその後
【第50話】俺の保健室が静かだった最後の日、のその後
俺にとって保健室は──逃げ場だった。
一年半前。高校一年の秋。教室の空気が喉に詰まって、息ができなくなって、廊下の端を歩いた。行き先なんかなかった。ただ、人がいない場所に行きたかった。一階の角を曲がったら、引き戸があった。白いプレートに「保健室」。開けた。消毒液の匂いがした。白いベッド。カーテン。誰もいなかった。
息ができた。
あの日から一年半。毎日この部屋に通った。カーテンの向こうのベッドが俺の指定席になった。朝倉先生は何も聞かなかった。名前と、必要最低限の挨拶と、それだけでよかった。
俺だけの場所。俺だけの静けさ。
──でも今は違う。
◇
木曜日の昼休み。
保健室に向かう廊下を歩いていた。左手にコンビニの袋。中身は朝倉先生に頼まれたコーヒー豆。先生は最近、保健室でコーヒーを淹れるようになった。インスタントではなくドリップ式。理由は「胃がもたないから。せめてコーヒーくらいはいいものを飲みたい」。胃を痛めた原因が何かは言わなかった。言わなくてもわかる。
廊下ですれ違ったクラスメイトが「よう黒瀬、彼女のとこ?」と声をかけてきた。名前を覚えていない男子。でも声をかけてくるタイプの人間がいること自体に、もう驚かない。
「……まあ」
答えた。否定しなかった。今は、否定する理由がない。
四月。澪が保健室に来た日。俺は何も言えなかった。「また来ていいですか?」に答えられなかった。沈黙が肯定になった。
五月。噂が広がった日。「付き合ってるの?」に否定できなかった。否定の言葉が喉につかえて出なかった。
十月。八代に「好きだろ」と言われた日。否定したくなかった。初めて、否定しないことを選んだ。
十一月。告白した日。否定の反対を──肯定を、自分の口で言った。
「まあ」。たった二文字。だがこの「まあ」には七ヶ月かかった。否定できない人間が、否定しないことを選んで、最後に肯定にたどり着くまで。
保健室のドアの前に立った。手をかけた。この動作を何百回やったかわからない。
引いた。
「──湊くん♡」
声。甘い。いつもの。嘘じゃない。冗談じゃない。最初から全部本気だったと知っている。
澪が窓際の椅子に座っていた。日差しが横から当たって、髪がきらきら光っていた。午前中の疲れが少しだけ顔に出ている。さっきまで「神代澪」をやっていた名残。でも保健室に入った瞬間、表情のネジが一本外れる。目元が緩む。口角が自然に上がる。
この切り替えを、俺は四月からずっと見てきた。最初は違和感だった。次に不思議だった。それから──安心になった。この人が仮面を外す場所に、俺がいるということ。
「今日も来ちゃった♡」
毎日来ている。毎日。なのに毎回「来ちゃった」と言う。
「…………毎日来てるだろ」
澪が首を傾げた。
「毎日来たいから♡」
日帰り温泉の常連客。毎日「来たい」と言う人。──いや、もうこの比喩は使った。昨日の自分が脳内で「使用済み」のスタンプを押している。新しい比喩を考えろ。
渡り鳥だ。季節が変わっても同じ場所に戻ってくる。南の島が好きだから。──いや、渡り鳥は保健室に渡ってこない。比喩が下手だ。七ヶ月経ってもこのスキルは上達しない。
椅子に座った。澪の隣。三十センチ──いや、二十センチくらいか。告白してから距離の平均値が縮小している。統計を取ったわけではないが、体感として確実に近い。
朝倉先生がデスクにいた。コーヒー豆の袋を渡した。先生は袋を受け取り、中身を確認して、小さく頷いた。
「ありがとう。あとで淹れる」
それだけ。先生との会話はいつもこの密度だ。必要な情報を最小限の言葉で交換する。一年半変わらない。
先生がドリッパーをデスクに置いた。ケトルに水を注ぎながら、ちらりとこちらを見た。
「……賑やかになったわね」
俺と澪の二人しかいないが、先生が見ているのは人数ではないのだと思う。空気のことだ。一年半前、この部屋は静かだった。俺一人の呼吸と、時計の秒針と、カーテンの揺れ。それだけで完結していた。今は違う。隣に人の気配がある。温度がある。声がある。
「……すみません」
「別に謝らなくていい。感想を言っただけ」
先生がケトルをコンロにかけた。保健室にコンロがあるのは本来おかしいが、朝倉先生は「これは医療器具の煮沸消毒用」と言い張っている。コーヒーの煮沸消毒。新しいジャンルだ。
澪が弁当を出した。今日も二段。蓋を開けると、生姜焼きの匂いがした。甘い醤油の香り。
「今日はね、湊くんが好きな生姜焼き♡」
好きだと言った覚えはない。だが先週、学食で生姜焼き定食を選んだのを知っているのだろう。行動から嗜好を逆算する観察眼。CIAの分析官でも採用される。
「……ありがとう」
澪が嬉しそうに目を細めた。
保健室のドアが開いた。
「おじゃましまーす!」
杏。いつもの挨拶。いつもの声量。保健室の空気を三度上げる発熱体。
「おー、今日も仲良しだね〜。弁当? いい匂い!」
杏がパイプ椅子を引いて座った。自分の弁当──コンビニのサンドイッチ──を取り出しながら、俺と澪を交互に見た。
「ね、澪ちゃん。今日もお弁当作ったの? 偉すぎない?」
「全然だよ。作るのが楽しいの」
澪がにこにこしながら弁当箱を見せた。杏が身を乗り出して俺を見た。
「え〜、湊くんさあ、わかってる? この幸せ」
「……わかってる」
即答した。制作時間ゼロ秒。
杏が目を見開いた。澪も。朝倉先生がケトルから顔を上げた。
沈黙。三秒。
「い、今の……え? 湊くんが即答した?」
杏が口を押さえた。澪が頬を赤くして俯いた。弁当箱の上に前髪が垂れた。
「……湊くん、今の、ずるい」
俺は意味がわからなかった。
「何が」
澪が小さく唇を尖らせた。
「不意打ち」
杏が両手を振った。
「ちょっと待って尊い。尊すぎる。え、なに、湊くんってこんなキャラだった?」
こんなキャラではなかった。七ヶ月前の俺は「わかってる」の五文字を瞬時に出せる人間ではなかった。「……別に」が限界だった。所要時間十五秒。
人は変わる。正確には、隣にいる人が変えてくれる。
──と、思いかけて、気恥ずかしくなった。こういう結論を内心で出すとき、必ず照れ隠しの比喩で武装する癖がある。だが今は比喩が思いつかない。そのまま受け取るしかない。
弁当を食べた。生姜焼き。うまい。冷めてもうまい。澪の生姜焼きは冷めた状態で味が最適化されている。四月からずっとそうだ。
ガタン。
ドアが開いた。
「黒瀬くん。神代さん。こんにちは」
柊。風紀委員の腕章。背筋。クリアファイル。──まだ持っているのか。百二十ページの調査ファイル。金庫に入れたのではなかったか。
「……柊。何か用?」
「用というほどではありませんが」
柊が保健室の入口に立ったまま、少し照れたように目を逸らした。
「……お昼を、ここで食べてもいいですか」
朝倉先生がカップを手に振り返った。
「いいわよ。椅子は自分で出して」
柊がパイプ椅子を広げた。俺と澪と杏の対面に、正しい姿勢で座った。弁当を開いた。中身がきっちり仕切られている。左上から順に、卵焼き、ほうれん草のごま和え、鶏の照り焼き、ご飯。風紀委員の弁当は区画整理が完璧だ。
「柊ちゃん! 一緒に食べよ〜!」
杏が嬉しそうに声を上げた。柊が少し困ったように、でも口元は笑って「はい」と答えた。
四人。保健室に四人。半年前なら考えられなかった光景だ。ここは俺の逃げ場だった。一人でいるための場所だった。
廊下から声が聞こえた。
「おーい黒瀬ー! いる?」
八代。ドアを開けもせず、廊下から叫んでいる。教室の五倍の声量。
朝倉先生が眉を顰めた。
「廊下で叫ばない」
「すんません先生! 黒瀬、放課後バスケしようぜ! 五限終わったら体育館来い!」
俺はバスケが得意ではない。運動全般が得意ではない。だが八代は定期的に誘ってくる。断っても翌週にまた誘う。
「……考えとく」
「おっし! じゃあな!」
足音が遠ざかった。保健室に静けさが戻る。三秒だけ。
「湊くん、バスケするの? 見に行っていい?♡」
澪が目を輝かせた。体育祭の再来を予感させる目。あの日も応援席の最前列で叫んでいた。二度目は勘弁してほしい。
「来なくていい」
澪は満面の笑みで椅子から身を乗り出した。
「行く」
拒否権がない。半年前からずっとない。
杏が笑った。柊が小さく微笑んだ。朝倉先生がコーヒーを一口飲んだ。
保健室は騒がしい。四人分の声と、廊下から飛んでくる八代の声と、コーヒーを淹れるケトルの音と。時計の秒針はもう聞こえない。人の気配に埋もれて、消えた。
◇
五限目が始まる前に、杏と柊が出た。
杏が「じゃあね〜、ごちそうさま〜」と手を振って。柊が「失礼しました」と一礼して。
二人きり。先生はデスクにいるが、コーヒーを飲みながら書類に向かっている。先生がいるときの「二人きり」は、厳密には二人きりではない。だが先生の存在は壁に近い。高性能な壁。空気を読んで、必要なときだけ言葉を発する壁。
澪が弁当箱を片付けた。二段重ねをナプキンで包む手つきが手際いい。毎日の動作。毎日同じ動作。
「……澪」
「ん?」
名前で呼ぶことに、少しだけ慣れた。告白した日は声が震えた。翌日は喉が引きつった。三日目の昨日は、小声だが出た。四日目の今日は──普通に、とまではいかないが、音にはなった。
「その弁当箱、洗って返す」
「いいよ、私がやるよ」
弁当箱に手を伸ばそうとする澪を、指先で制した。
「俺がやる」
澪が手を止めた。昨日と同じやり取り。「返す」ではなく「やる」。同じ言葉を繰り返した。意識してではない。自然に出た。
澪が小さく笑った。
「……ありがとう」
弁当箱を受け取った。指が触れた。何百回目かの接触。でも慣れない。たぶん一生慣れない。
先生が席を立った。
「私、少し席を外すわ。戸締り──は、もう言わなくても大丈夫ね」
ドアを開けて出ていった。足音が廊下に消えた。
二人きり。本当の二人きり。
手を伸ばした。迷わなかった。月曜は震えた。火曜は先生の目を気にした。水曜は三度目だった。木曜の今日、四度目。回数を重ねるたびに、指が迷わなくなる。
澪の手に触れた。指が絡んだ。温かい。十一月の空気は冷たいのに、繋いだ部分だけ温度が違う。
「……ね、湊くん」
「ん」
澪が繋いだ手を揺らした。小さく。振り子のように。昨日と同じ揺れ方。
「覚えてる? 私が初めてここに来た日」
「……四月」
澪が目を細めた。
「うん。四月。桜が散りかけてた」
覚えている。カーテンの向こうから足音がして、上履きのゴム底がリノリウムの床を踏む音がした。「失礼します」。聞いたことのある声。教室では聞こえてくる声。でも保健室では聞くはずのない声。
「あの日さ、湊くん、何考えてた?」
「……帰ってくれって思ってた」
正直に答えた。嘘をつく理由がない。
澪が笑った。
「知ってる。顔に書いてあったもん」
「……俺の顔はそんなに情報量が多いのか」
澪が少し笑った。歯を見せない、柔らかい笑い方。
「湊くんの顔は、湊くんが思ってるよりずっと正直だよ」
四日前に八代にも同じことを言われた。液晶ディスプレイか、俺の顔面は。
「でもね」
澪の声が少し変わった。甘さの奥に、芯がある声。
「帰ってくれって思ってたのに、帰れって言わなかったでしょ」
「……言えなかっただけだ」
澪が小さく頷いた。否定しなかった。
「うん。言えなかっただけ。でも──」
澪が俺の目を見た。
「言えなかったから、私はここにいる」
沈黙。五秒。
否定できない。否定しない。七ヶ月前は「否定できなかった」だった。今は「否定しない」を選んでいる。同じ沈黙だが、中身が違う。
窓から光が差していた。十一月の午後の光。夏より弱くて、でもその分、輪郭がはっきりしている。澪の横顔に影が落ちていた。まつ毛の影。頬の線。
綺麗だと思った。
この感想を口にする語彙力は俺にない。ないが、思った。思ったことは事実だ。
澪がふと、繋いだ手に力を込めた。
「……ねぇ、湊くん」
「ん」
澪の声が、少しだけ変わった。甘さではなく、もっと静かな響き。
「ここが好き♡」
保健室が好き。この場所が好き。この人は最初の日からそう言っていた。四月に「ここ、いいですね」と言った。それから七ヶ月間、何度もこの言葉を聞いた。告白の前も、後も。意味が少しずつ変わりながら、でもずっと同じ言葉で。
「ここ」が何を指しているのか、今ならわかる。保健室という部屋のことだけじゃない。この椅子。この距離。この手の温度。ここにいる俺。全部ひっくるめての「ここ」。
「……俺もだよ」
言えた。
四月の俺なら言えなかった。「……別に」で終わっていた。五月でも無理だった。六月も。九月も。十月も。十一月の頭でも、まだ怪しかった。
「俺も」。たった三文字。この三文字に七ヶ月かかった。──いや、一年半か。最初に保健室に逃げ込んだ日から数えれば。
澪が目を閉じた。肩にもたれかかった。髪が頬に触れた。消毒液の匂いの下に、この人だけの匂い。
「……重い」
「重くないよ」
重くない。本当に重くない。この重さがなくなったら肩が寒い。昨日も同じことを思った。明日も思うだろう。
窓の外で鳥が鳴いた。冬の近い声。高くて短い。
時計を見た。五限開始まであと少し。もうすぐ、この人は「神代澪」に戻る。背筋が伸びて、表情が整って、完璧な笑顔を着る。俺は「黒瀬湊」に──いや、俺はどこでも黒瀬湊だ。教室でも保健室でも、無表情のコミュ障。変わらない。
変わらないけど──変わったものもある。
教室に戻る足が、前より少しだけ軽い。廊下を歩くとき、下を向かなくなった。顔を上げるようになった。たまに、すれ違った人間に「……おう」くらいは返すようになった。
澪のおかげだとは言わない。言語化が恥ずかしいからではなく、正確ではないからだ。澪だけではない。杏が笑いかけてくれたこと。八代が背中を押したこと。柊が真面目に祝福してくれたこと。朝倉先生が「大事にしなさい」と言ってくれたこと。
全部が少しずつ、俺の足を軽くした。
保健室に逃げ込んだ一年半前の俺に言ってやりたい。お前の逃げ場は、いつか居場所になる。──いや、言わない。あの日の俺に言葉は届かない。届いても信じない。自分で七ヶ月かけて見つけるしかなかった。
澪が肩から頭を上げた。時計を見た。
「……そろそろだね」
「うん」
手を離した。名残惜しさが指先に残った。四日前に初めて繋いだ手。もう四回目なのに、離すたびに少し冷たくなる。
澪が立ち上がった。髪を直した。背筋を伸ばした。表情が整っていく。「神代澪」が起動する。
──でも完全には切り替わらない。口角が少しだけ緩んでいる。目元に笑みが残っている。保健室モードの残り香が、外の顔に混じっている。
前はなかった。四月の澪は、切り替えが完璧だった。保健室を出た瞬間、別人になった。今はそうじゃない。境界が曖昧になっている。少しずつ、「保健室の澪」が「外」に漏れ始めている。
それが嬉しいと思った。
理由はうまく言えない。言えないが、思った。
ドアの前で、澪が振り返った。
「じゃあね、湊くん。放課後、バスケ見に行くから♡」
「……来なくていいって言っただろ」
澪が片方の目を閉じた。悪戯っぽく。
「聞こえなかった」
聞こえている。絶対聞こえている。
澪が笑って出ていった。足音が廊下に消えた。
保健室に一人。
──いや、先生がいた。いつの間にか戻っていた。デスクでコーヒーを飲んでいた。存在感を消すプロフェッショナル。
「……先生、いつから」
「さっき」
さっきがいつなのか特定できない。先生の「さっき」は幅が広い。
先生がカップを置いた。俺を見た。いつもの表情。感情のない目──に見えて、奥の方に何かがある目。
「黒瀬くん」
「はい」
先生が一度、コーヒーカップに目を落とした。それから、いつもの淡々とした声で。
「保健室、使い続けていいわよ。卒業するまで」
何の脈絡もなく。聞いていないことを。
「……はい」
「もう逃げ場じゃないでしょう。ここは」
先生がコーヒーに視線を落とした。
「居場所は、使用期限が長いの」
それだけ言って、先生は書類に戻った。
◇
五限目が始まった。席に着いた。教室の空気を吸った。
しんどくなくなったとは言わない。教室は相変わらず情報量が多い。声。視線。笑い声。空気を読む圧。全部ある。全部しんどい。
でも五限目が終われば、放課後が来る。放課後が来れば、保健室がある。保健室には、あの人がいる。
それだけで、この五十分をやり過ごせる。
教科書を開いた。窓の外に目をやった。グラウンドの向こうに空がある。十一月の空。高くて青い。
──保健室は、もう俺だけの逃げ場じゃない。
いつの間にか人が増えた。うるさくなった。弁当の匂いがするようになった。コーヒーを淹れる音がするようになった。廊下から八代の叫び声が飛んでくるようになった。柊が律儀に椅子を並べるようになった。杏が「ごちそうさま」と言って帰るようになった。
そして──隣に、手を繋ぐ人がいるようになった。
静かだった保健室は、もう静かではない。
面倒で、騒がしくて、一人になれなくて。
──でも、悪くない。
窓から午後の光が差していた。教室の窓の向こうに、保健室がある方角。壁の向こうに、あの部屋がある。今は誰もいない。でも昼休みになれば、また人が集まる。明日も。明後日も。
悪くない。全然、悪くないんだ。
── 了 ──




