第5話 : 八代凛太郎という名の報道機関
情報には、鮮度がある。
刺身も情報も、鮮度が命。鮮度が高いうちに流通すれば価値が上がり、時間が経てば腐る。その原則に従えば、俺に関する情報は、昨日の朝から猛スピードで市場に出回っていたことになる。
流通経路の起点は、一人の男だった。
◇
八代凛太郎。
出席番号三十二番。席は俺の左隣。クラスでの立ち位置は「全方位友好型」。運動部でも文化部でもない帰宅部だが、交友関係だけは学年トップクラスに広い。休み時間ごとに違うグループと話している。廊下を歩けば三歩に一回は誰かに声をかけられる。
だがこの男には、一つの才能がある。
情報の加工だ。
八代は嘘をつかない。これは重要な前提だ。彼は一度も嘘をついていない。ただ、事実を「最も面白い解釈」にチューニングしてから出力する。
入力:「黒瀬と神代さんが保健室にいたらしい」
八代プロセッサを通過。
出力:「黒瀬が保健室で神代さんと二人きりで昼飯食ってるって」
嘘ではない。朝倉先生がいるから厳密には二人きりではないが、生徒としては二人きりだ。昼飯も食っている。事実だ。だが「らしい」が消え、「二人きり」が追加され、情報の温度が三度ほど上がっている。
さらに中継地点を一つ経由するたびに情報は変質する。
第一中継(八代→バスケ部の田中):「黒瀬って毎日保健室で神代さんと一緒に飯食ってんだって」
「毎日」が追加された。実際に弁当をもらったのは昨日が初めてだが、保健室で同じ時間を過ごしているのは事実だから、解釈としては成立する。
第二中継(田中→隣のクラスの女子):「ねえ聞いた? 黒瀬くんが神代さんに弁当作ってもらってるらしいよ。毎日」
「弁当作ってもらってる」が確定情報になった。「らしい」がまだ辛うじてついているが、伝聞の接尾語は伝達回数に反比例して消滅する。
第三中継(女子→別の女子→SNS):「黒瀬と神代さん、毎日保健室でお弁当デートしてるって。一緒に帰ってるとこ見た人もいるらしい」
「デート」が出現した。もはや原型を留めていない。保健室での昼食が「お弁当デート」に進化し、たまたま方向が同じだった帰り道が「一緒に帰った」に固定されている。
八代凛太郎は報道機関だ。しかも公共放送ではなく、ゴシップ専門のタブロイド紙。取材力と発信力は一流、だが編集方針が「面白さ最優先」。事実確認より速報性、正確さより話題性。
そして最もたちが悪いのは──結論だけは合っていることだ。
「黒瀬と神代さんは付き合っている」。
この結論は間違っている。間違っているはずだ。だが過程を省略して結論だけ見せられると、反証が困難になる。弁当。保健室。同じ時間。一緒に下校。積み上がった状況証拠が、結論を支持してしまう。
◇
火曜日の朝。教室。
登校した瞬間から、空気の密度が違った。
月曜日はまだ「一部が知っている」程度だった。八代と、八代の周辺と、たまたま聞いた数人。教室の中でも三割くらいがちらちらとこちらを見る程度。
火曜日は違う。
八割がこちらを見ている。正確には、見ては目を逸らし、逸らしてはまた見る。あの動きは好奇心と遠慮のハイブリッドだ。聞きたいが聞けない。でも気になる。虫眼鏡でアリの巣を覗くような視線が、複数方向から飛んでくる。
アリは俺だ。
席に着く。カバンを置く。教科書を出す。平静を装う。
右隣の女子が、前の席の女子に何か囁いた。視線がこちらを一瞬掠めて、すぐに戻る。前の席の女子がスマホを確認して、小さくうなずいた。
情報共有が完了した音がした。物理的には無音だが、俺の耳にはブザーが鳴っている。
八代が登校してきた。
「よう黒瀬。今日も元気か」
「……おはよう」
「お前、顔硬いぞ。まあいつもか」
八代は何事もなかったかのように席に着く。この男は、自分が蒔いた種の上で平然と朝の挨拶をする。放火犯が火事見物をしているようなものだ。しかも本人は放火した自覚がない。善意の情報提供だと信じている。
「……八代」
「ん?」
「昨日、誰かに何か言ったか」
「何かって?」
「……俺と神代さんのこと」
「ああ」
八代が椅子の背もたれに寄りかかって、天井を見た。思い出すフリ。いや、たぶん本当に思い出している。この男にとって情報の発信は呼吸と同じで、いちいち記憶していないのだ。
「田中に聞かれたから言っただけだよ。『黒瀬って最近神代さんと仲いいの?』って。だから『弁当作ってもらったりしてるっぽい』って」
「『っぽい』じゃなくて事実を言ったんだな」
「事実だろ? 弁当もらったんだろ?」
「……一回だけだ」
「一回でも百回でも、もらったことに変わりはないだろ。俺は事実しか言ってねぇよ」
理論上、八代は正しい。一回でも百回でも「もらった」は「もらった」だ。だが「一回」と「毎日」では印象が全く違う。その差を八代は理解していないし、理解する必要がないと思っている。
これが八代凛太郎の才能だ。悪意なき情報操作。善意のプロパガンダ。彼の口を通過すると、事実はラノベになる。しかも読者──クラスメイト──はフィクションだと気づかない。リアリティラインが絶妙に本物だからだ。
「まあ、みんなお前に興味持ってんだよ。良いことじゃん」
「良くない」
「なんで? 神代さんだぞ? 学年の女神だぞ? 普通は自慢するだろ」
「しない。自慢する関係じゃない」
「関係って?」
「…………」
墓穴を掘った。「関係じゃない」と言った時点で、何らかの「関係」の存在を前提にしてしまった。日本語のトラップだ。否定文が肯定を含んでいる。
八代がにやりと笑った。
「ま、俺は応援してるから」
応援されるようなことは何もしていない。
◇
昼休み。
教室から保健室に向かう廊下。
いつもは何事もなく通過できる動線が、今日は違った。すれ違う生徒の中に、こちらをちらっと見る人間が混じっている。三人に一人くらいの割合で。
俺のことを知っている人間がこんなにいるはずがない。教室の幽霊。存在感の薄い男。それが俺の公式プロフィールだ。なのに、視線が集まる。視線の原因は明白だ。「神代さんの相手」という付加情報が、俺の存在にタグをつけた。
透明だった人間に、突然ラベルが貼られた感覚。
保健室のドアを開ける。
朝倉先生がコーヒーカップを片手に、いつもの位置にいた。
「あ、今日も来たの」
「……はい」
「さっき神代さんも来たわよ。奥」
カーテンの向こうから、声。
「黒瀬くん?」
「……うん」
カーテンを開ける。七割。俺のいつもの開き方を、神代さんはもう完全にコピーしている。
窓際のベッド。神代さんが座っていた。隣に、空いたスペース。俺の場所。
座る。カバンからリュックを開けて、洗った弁当箱を取り出した。
「……これ、ありがとう」
「わ、ちゃんと洗ってくれたんだ。ありがとう」
弁当箱を受け取る神代さんの指が、一瞬だけ俺の手に触れた。たぶん偶然だ。弁当箱の受け渡しにおいて、手が触れるのは物理的に発生しうる事象だ。確率の問題であって、意図の問題ではない。
そう自分に言い聞かせる。
「今日も持ってきたよ」
神代さんがカバンから、見覚えのある弁当箱を取り出した。二段重ね。昨日と同じ。
「……え」
「約束したでしょ? 来週も作ってくるって」
約束したのか。俺は約束した覚えがない。「無理しないで」と言ったら「無理じゃない」と返されて、それで会話が終わった。あれは約束ではなく、俺の敗北宣言だ。
だが弁当箱は目の前にあり、蓋を開ければ今日も完璧な中身が詰まっているのだろう。断る理由がない。断る理由がないことが、すでに問題なのだが。
「……いただきます」
「♡」
声にならない音が聞こえた。ハートの気配だけが空気を震わせた。そんなことがあり得るのか。物理法則に反している。
◇
弁当を食べながら、切り出した。
俺としては、人生で五本の指に入る勇気を必要とする発言だった。
「……神代さん」
「ん?」
「……噂になってる」
神代さんの箸が一瞬止まった。
それから、穏やかに首を傾げた。
「噂?」
「……俺と神代さんが、その……付き合ってるって」
「ああ」
ああ。
「ああ」って。
この人は「ああ」で済ませたのか。俺が全精力を使って絞り出した報告を、母音一文字で受け止めた。
「知ってるよ? 今日、クラスの子に聞かれたもん」
「……なんて答えた」
「『お友達ですよ?』って」
正しい回答だ。事実に即している。俺たちは友達──いや、友達なのか? 友達の定義にもよるが、保健室で毎日顔を合わせて弁当を食べる関係は友達のカテゴリに入るのだろうか。
「でもね、あんまり信じてもらえなかった」
「……なんで」
「わかんない。『お友達ですよ?』って言ったら、みんな顔見合わせてにやにやしてた」
原因は明白だ。神代さんの「お友達ですよ?」は完璧すぎるのだ。声のトーン、微笑みの角度、語尾の柔らかさ。すべてが非の打ちどころなく整っている。整いすぎている。
人間は、完璧な否定を信じない。
嘘をつくとき、人は上手になろうとする。だから上手すぎる否定は「隠している」と解釈される。神代さんの外の顔──完璧で隙がない笑顔──は、否定材料としては逆効果だ。
「……その笑顔が原因だと思う」
「え? なんで?」
「……上手すぎる。隠してるように見える」
言ってから、自分の発言に驚いた。二文も連続で喋った。しかも相手の行動の分析という高等なコミュニケーション。俺の口がいつの間にかアップデートされている。
神代さんが目を丸くした。
「黒瀬くん、今すごい喋った」
「……普通だろ」
「普通じゃないよ。いつもの三倍くらい喋った」
計測されている。俺の平均発話量が記録されていて、標準偏差からの逸脱を検出されている。もはや品質管理の領域だ。
神代さんがくすくすと笑った。保健室の笑い方。外の完璧な微笑みとは違う、こぼれるような笑い。
「でも、噂のこと、気にしなくていいよ♡」
気にしなくていい。
その言葉を聞いて、俺は少し安堵した。
──が、同時に引っかかった。
「気にしなくていい」。この台詞には二つの解釈がありえる。
解釈A:噂は事実と違うんだから、気にする必要はない。つまり「噂は間違っているから放っておけ」。
解釈B:噂がどうであれ、私たちの関係は変わらないから気にしなくていい。つまり「周囲が何と言おうと関係ない」。
Aは否定だ。Bは肯定だ。Aなら噂を問題視している。Bなら噂を問題にすらしていない。
どちらだ。
聞けない。「それはAですか、Bですか」とは聞けない。選択肢を提示して回答を求めるのはアンケートであって会話ではない。
神代さんの表情を見る。柔らかい笑み。♡の余韻がまだ漂っている。
この笑顔はAではない。少なくとも、「噂は間違っている」と否定する人間の顔ではない。
だとすればBか。
Bだとしたら──この人は、噂を否定する気がないということになる。
「……気にしなくていいって、どういう意味」
奇跡的に声が出た。今日の俺は調子がいい。いや、調子がいいのではなく、聞かないと夜眠れないと本能が判断したのだ。
神代さんが、少し考えるように窓の外を見た。
数秒の沈黙。
振り返ったとき、彼女は保健室モード全開の笑顔を浮かべていた。
「んー、そのままの意味だよ♡ 黒瀬くんが嫌じゃなければ、私は気にしない」
翻訳:「黒瀬くんが嫌と言わない限り、このままでいい」。
翻訳の翻訳:「嫌と言うのは黒瀬くんの仕事であって、私から距離を取る気はない」。
つまり。
ボールは俺にある。俺が「嫌だ」と言えば噂を否定する方向に動くし、言わなければ現状維持。沈黙=肯定の法則が、ここでも作動する。
そして俺は──。
「…………」
言えない。
「嫌だ」が出てこない。口の中で言葉を組み立てようとしたが、「嫌」の一文字目が舌の上で溶けた。
嫌じゃないから、だ。
噂は迷惑だ。視線は痛い。教室の空気は息苦しい。だが「神代さんと保健室にいること」が嫌かと問われたら、嫌ではない。嫌ではないどころか──。
いや、ここから先は考えない。
「……わかった」
俺が出した結論はそれだけだった。
「わかった」。何がわかったのか、自分でもわかっていない。神代さんの言葉を受け取ったという受領証明にすぎない。だが神代さんは満足そうに微笑んだ。
「よかった♡」
また「よかった」だ。万能ツール。どんな状況でも着地できる魔法の二文字。
◇
昼休みが終わり、神代さんが保健室を出ていった。
いつもの切り替え。背筋を伸ばし、表情を整え、上履きを履く。数秒で「学年の女神」に戻る。
「また明日ね♡」
「……うん」
ドアが閉まる。
朝倉先生がデスクから顔を上げた。
「……黒瀬くん」
「……はい」
「噂の件、気にしてる?」
「…………少し」
「そう。まあ、高校生の噂なんて一ヶ月もすれば消えるわよ」
一般論としてはそうかもしれない。だが神代さんが毎日保健室に来る限り、燃料は供給され続ける。鎮火の見込みがない。
「ただね」
朝倉先生がコーヒーカップを置いた。
「あの子が気にしてないなら、あなたも気にしすぎない方がいいわよ。人の目を気にして居場所を変えたら、それこそ本末転倒だから」
「…………」
居場所。
保健室が、俺の居場所。
それは一年前から変わっていない。ただ、一年前の居場所には俺一人しかいなかった。今は違う。
「……先生、一つ聞いていいですか」
「なに」
「……来週の金曜、職員会議ありますか」
「あるけど。なんで?」
「……いや、なんでもないです」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でもわからない。職員会議があれば朝倉先生が不在になる。不在になれば保健室は──。
考えるのをやめた。今日はもう十分すぎるほど頭を使った。
◇
帰り道。
今日は一人だ。神代さんは委員会の集まりがあるらしい。
一人で歩く帰り道は、先週までと同じはずだった。同じ道、同じ景色、同じ時間。何も変わっていない。
なのに、隣が空いている感じがする。
先日一度だけ並んで歩いた、それだけのことなのに。人間の空間認識はこんなに簡単に書き換わるのか。一回の経験で基準値が更新されるのか。
俺の脳のデフォルト設定が、少しずつ書き換えられている。カーテンの開き具合。弁当の卵焼きの味。帰り道の隣。一つずつ、静かに、確実に。
神代澪というアップデートが、バックグラウンドで走り続けている。
気づいたときには、もう前のバージョンには戻れないのかもしれない。
ポケットの中でスマホが震えた。
八代からのメッセージ。
『黒瀬、明日の昼って保健室? ちょっと顔出していい?』
一文字も返さないまま、画面を消した。
──来るな。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。保健室を「守りたい」と思ったのは、これが初めてだった。




