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【第49話】神代澪の日記(特別回)

【第49話】神代澪の日記(特別回)


 四月。


 保健室に行った。


 理由は、疲れたから。それだけ。もっと正確に言えば、「神代澪」でいることに疲れたから。二年生になって一週間。クラス替え。新しい顔。新しい視線。笑って、挨拶して、先生に褒められて、女子に頼られて、男子に見られて。全部ちゃんとやった。ちゃんとやれた。でも昼休みのチャイムが鳴った瞬間、どこかの糸がぷつんと切れた。


 どこか、誰も私を知らない場所に行きたかった。


 保健室を選んだのに深い理由はない。一階の端。人通りが少ない。養護教諭の朝倉先生が物静かだと聞いていた。それだけ。


 ドアを開けた。消毒液の匂い。白いベッド。カーテン。静かだった。教室とは違う種類の静けさ。誰も私に「神代さん」を求めない静けさ。


 先客がいた。


 カーテンの向こうに、男の子が一人。目つきが鋭くて、無表情で、ちょっと怖かった。目が合った瞬間、彼はすぐに逸らした。話しかけてこなかった。名前を聞かなかった。「神代さんですよね」とも言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 ──なんだか、安心した。


 隣のベッドに座った。彼は何も言わなかった。私も何も言わなかった。窓の外から部活の声が聞こえていた。ここだけ切り取られたように静かで、でも寂しくはなかった。


 帰り際、少しだけ口が動いた。


「ここ、いいですね。また来ていいですか?」


 彼は何も答えなかった。黙ったまま、こっちを見ないまま。


 だからお礼を言った。「ありがとうございます」って。沈黙は、拒否じゃなかった気がしたから。


 ◇


 四月。


 彼の名前を知った。黒瀬湊。同学年。同じ二年生。目つきが怖いけど、怒っているわけじゃないらしい。緊張で固まっているだけ。


 わかる。表情が思い通りにならない気持ち。私は笑顔が得意すぎるだけで、仕組みは同じだ。彼は笑えなくて、私は笑うのをやめられない。


 今日の湊くんかわいいポイント:カーテン越しに私の気配を察知して、息を止めた。聞こえてるよ。


 ◇


 四月。


 お弁当を二人分作った。


 作りすぎたふりをした。嘘。最初から二人分。前の日の夜、卵焼きの味付けを二種類試した。甘いのとしょっぱいの。どっちが好きかわからなかったから、両方入れた。


「湊くん──あ、黒瀬くん。よかったらこれ、多く作りすぎちゃって♡」


 口が勝手に動いた。下の名前で呼びかけた。慌てて「黒瀬くん」に言い直したけど、遅かった。彼はたぶん聞こえていた。耳が赤かったから。


 箸を動かして、最初に甘い卵焼きを食べた。


 甘い方。覚えた。


 今日の湊くんかわいいポイント:弁当を食べている横顔。無表情なのに、咀嚼の速度が上がっていた。おいしいとき、噛むのが速くなる人。


 ◇


 五月二日。


 「付き合ってるの?」って聞かれた。クラスの子に。三人。笑顔で、好奇心で。


「お友達ですよ?」


 って答えた。笑った。完璧に。隙なく。


 嘘じゃないけど、本当でもなかった。お友達。友達にお弁当を毎日作る? 友達の寝顔をじっと見る? 友達の耳が赤くなるのを見て、胸が跳ねる?


 わからない。名前がつけられない。


 保健室で彼に伝えた。噂になってるよ、って。


 彼は黙って俯いた。困っている顔。申し訳なさそうな顔。その顔を見て思った。この人は私のせいで困ってる。私がここに来るから。私が距離を詰めるから。


 でも離れたくなかった。


「気にしなくていいですよ♡」


 笑った。彼は何も言わなかった。──よかった。否定されたら、たぶん泣いてた。


 ◇


 五月中旬。


 杏ちゃんが保健室に来た。湊くんと私を見て、三秒で「付き合ってるの!?」って言った。


 湊くんが「付き合ってない」って即答した。


「まだ♡」


 口から出た瞬間、心臓が止まるかと思った。冗談っぽく言ったつもり。笑顔をつけた。でも声が震えていなかったか、今でも自信がない。


 「まだ」って言うのは、「いずれ」を前提にしている。彼はそれに気づいただろうか。気づいていないと思う。鈍いから。鈍くていい。気づかれたら、たぶんもう隣にいられない。


 冗談のふり。甘い言葉を冗談のパッケージで包む。そうすれば、拒否されない。笑って受け流される。受け流されても、言葉は残る。残っていれば、いつか届くかもしれない。


 ──ずるい戦略だと思う。でも、本気で言って壊れるのが怖かった。


 ◇


 五月下旬。


 保健室にいるときの自分が、教室にいるときの自分と違うことに気づいた。


 教室では「神代さん」。笑顔。敬語。完璧。制服みたいに、毎朝着る。


 保健室では──なんだろう。もっと軽い。もっと柔らかい。声のトーンが変わる。言葉遣いが崩れる。彼の隣にいると、「神代澪」の輪郭がぼやけて、ただの私になる。


 それが心地いい。


 今日の湊くんかわいいポイント:「……別に」の言い方が五種類くらいある。今日の「別に」は少し優しかった。語尾が落ちなかった。


 ◇


 六月。中間テスト前。


 一緒に勉強しようって誘った。保健室で。


 ノートを覗き込むふりをして、顔を近づけた。肩が触れた。彼が固まるのがわかった。でも離れなかった。彼も。


 「この人の隣がいい」。


 ──いつからこう思うようになったんだろう。名前のつかない感情が、少しだけ輪郭を持ち始めた。近くにいたい。離れたくない。それだけが確かで、あとは全部ぼやけている。


 今日の湊くんかわいいポイント:数学を教えたとき、理解した瞬間だけ目が少し開く。わかった顔を隠せない人。


 ◇


 九月。体育祭。


 湊くんがリレーで走った。応援席の最前列から叫んだ。名前を。周りの目なんか関係なかった。あの瞬間だけ、外の顔を忘れた。


 彼が転んで、足を捻った。走った。自分でもびっくりするくらい速く走った。気づいたらテーピングを巻いていた。


 彼の足に触れた。温かかった。


 周りでスマホのシャッター音がしていたけど、聞こえなかった。彼の顔しか見ていなかった。痛そうな顔。困った顔。でも、私を押しのけない顔。


 帰り道、気づいた。ああ、私、この人のこと好きなんだ。


 名前がついた。四月から五ヶ月かかった。でも、たぶん四月の時点で答えは出ていた。名前をつける勇気がなかっただけ。


 今日の湊くんかわいいポイント:テーピングを巻いているとき、私の手をじっと見ていた。本人は足を見ていたつもりだと思う。でも目線、ちょっとずれてたよ。


 ◇


 十月。


 文化祭の準備が始まって、保健室に行けなくなった。一日。二日。三日。


 三日目の夜、布団の中で天井を見ていた。保健室の天井じゃない。自分の部屋の天井。暗くて、冷たくて、静かで。


 保健室の静けさとは違う。あそこには、彼がいる静けさがあった。ここには何もない。


 四日目の放課後、廊下の窓から保健室の方角を見た。彼がいるはずの場所。壁の向こうに。


 会いたい。


 この一言を、いつから「冗談」で包めなくなったんだろう。


 久しぶりに保健室に行った日のこと。いつもの「湊くん」が出てこなかった。声が震えそうで。だから少し距離を取った。「外の顔」のまま入ってしまった。


 彼は「別にいい」と言った。私が来なくても別にいい、という意味に聞こえた。


 帰り際、笑顔を作った。いつもの完璧な笑顔。彼にそれを向けた。


 彼の目が揺れた。初めて見る揺れ方だった。


 あとで気づいた。あれは私の「外の顔」に気づいた目だった。保健室の中で、外の顔を向けられたことに。


 あの揺れを見た瞬間、泣きそうになった。この人は、私の顔の違いがわかるんだ。


 ◇


 十一月。文化祭。


 倒れかけた。寝不足と疲労。朝倉先生が保健室に運んでくれた。ベッドに横になって天井を見ていた。保健室の天井。見慣れた天井。


 ドアが開いた。


 足音。速い。息を切らしている。


 彼だった。


 汗をかいていた。走ってきたんだ。教室から保健室まで。この人は、いつも保健室に「逃げて」きていた。誰かに「向かって」走ったことなんて、なかったはずなのに。


 私のために走ってきた。


 何も言わなかった。言葉の代わりに、ポケットからクッキーを一つ出して、私の手に置いた。四月の飴と同じだ。彼は言葉が出ないとき、手を動かす。不器用で、ぎこちなくて。でも、それが嬉しかった。言葉より重かった。


 今日の湊くんかわいいポイント:クッキーを渡すとき、「食え」って言ってから「食べてください」に言い直した。どっちも全然敬語になってないけど。


 ◇


 十一月中旬。深夜。


 LINEを打った。


 『私がいつもふざけてるみたいに言ってること、迷惑じゃない?』


 送った瞬間、後悔した。既読がついた。返事が来ない。十分。スマホを握ったまま、布団の中で丸くなった。心臓がうるさかった。


 返事が来た。


 『迷惑じゃない』


 四文字。たった四文字。でも、この四文字に何分かかったんだろう。きっと十分間、画面を睨んでいたんだと思う。打って、消して、打ち直して。彼の返信速度を知っているから。


「じゃあ、明日も♡」


 いつもの調子に戻った。戻れた。あの四文字が支えてくれた。


 画面のスクリーンショットを撮った。保存した。「迷惑じゃない」。何回読み返しただろう。


 冗談じゃなかったことなんて、一度もない。全部本気。最初から。


 ──それを伝えるのに、こんなにかかった。


 ◇


 十一月。


 教室で、ふと窓の外を見たら──彼がいた。廊下の窓越しに、こっちを見ていた。


 目が合った。彼は慌てて逸らした。


 四月の保健室と同じだ。目が合って、逸らす。七ヶ月前と同じ動作。でも意味が違う。あのときは「気まずいから」。今は「見ていたのがバレたから」。


 放課後、保健室で言ってみた。


「今日、授業中に湊くんがこっち見てるの気づいたよ」


 彼は「見てない」と言った。耳が赤かった。目が泳いでいた。


 ──見てた。知ってるよ。


 今日の湊くんかわいいポイント:嘘をつくとき、視線が右上に行く。七ヶ月で完全にパターンを把握した。


 ◇


 十一月下旬の月曜日の前日。


 彼が「明日、放課後、保健室で待ってて」と言った。


 声が震えていた。耳が赤かった。目は真っ直ぐだった──たぶん、精一杯の真っ直ぐ。


 何を言おうとしているのか、わかった。わかったけど、信じるのが怖かった。期待して、違ったら。冗談みたいに笑って、やり過ごしたいのに──笑えなかった。


「──うん。待ってる♡」


 声が震えていなかっただろうか。わからない。


 家に帰って、クローゼットの前に立った。明日の制服。いつもと同じ制服。でもアイロンを二回かけた。


 眠れなかった。


 ◇


 月曜日。


 放課後。保健室。


 私が先に着いた。椅子に座って待った。時計の音がうるさかった。カチ。カチ。カチ。一秒が長い。


 ドアが開いた。


 湊くんが立っていた。顔が白かった。緊張している。この人が緊張しているのは、いつものことだけど──今日のは、種類が違った。


 二人きり。沈黙。


 彼が口を開いた。


「神代さん──いや、澪」


 澪。


 私の名前。この人の声で。初めて。


 その瞬間、涙が出た。堪えられなかった。名前を呼ばれただけで。たった二文字で。


 彼が言った。全部。原稿なんかなかった。言葉が下手で、途切れ途切れで、順番もめちゃくちゃで。でも、全部本物だった。


「お前の隣が、俺の居場所になってた」


 同じだった。私も。保健室が居場所になったのは、彼がいたから。逃げ場じゃなくて、居場所。一人の場所じゃなくて、二人の場所。同じことを思っていた。七ヶ月間、同じ場所で、同じものを見ていた。名前がつけられなかっただけで。


「好きだ。……たぶんじゃなくて、好きだ」


 泣いた。笑いながら泣いた。ぐちゃぐちゃだった。完璧な神代澪じゃなかった。鼻の奥がつんとして、視界がぼやけて、声が震えて。


「────ずっと待ってた♡」


 本気だよ。冗談だったことなんて、一度もないよ。


 彼の手が伸びた。私の手を掴んだ。ぎこちなくて、でも離さなかった。


 ◇


 水曜日。交際三日目。


 保健室で、隣に座っていた。手を繋いでいた。朝倉先生がいないとき限定で。


 彼に「付き合って何が変わった?」って聞いた。


 二十秒くらい黙って、それから言った。


「三十センチが、ゼロになった」


 距離。物理的な距離で答えた。この人は感情に名前をつけるのが下手だから。でも距離なら測れる。不器用で、正確で、この人らしい答え。


「弁当がうまくなった」


 味変えてないのに。同じ唐揚げなのに。好きの味がするって、私が言ったら彼は黙った。否定しなかった。


 それから、もう一つ。


「名前」


 澪、って呼ぶようになった、って。


 泣きそうになった。いつもの保健室で。いつもの椅子で。たった二文字の名前が、何よりも嬉しい。


 スマホにメモを書いていたら、彼が「何してんの」って聞いてきた。「秘密」って言った。笑った。


 このメモのこと。この日記のこと。四月からずっと書いてきた、「今日の湊くん」の記録。彼が読んだら、たぶん卒倒する。顔から火が出て、保健室のベッドに倒れ込んで、三日は起き上がれないと思う。


 だから、秘密。


 ◇


 今日の湊くんかわいいポイント:


 手を繋いだまま眠りかけた私を、起こさなかった。先生が戻るまでずっとそのままでいてくれた。右手が温かかった。


 ◇


 最後に、一つだけ。


 四月。あの日、保健室のドアを開けなかったら。あの日、先客がいなかったら。あの日、彼が目を逸らさなかったら──逆に、「誰?」って聞いてきたら。


 全部、違っていた。


 偶然が重なって、沈黙が重なって、誤解が重なって──でも、結論だけは正しかった。


 この人の隣にいたい。最初からずっと、それだけだった。


 明日も保健室に行く。明日も彼の隣に座る。明日も名前を呼ばれる。


 それだけで、明日は最高の日になる。

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