【第48話】公式カップルの保健室
【第48話】公式カップルの保健室
公式、という言葉の重量を舐めていた。
交際が始まって三日。月曜に告白して、火曜に全校に知れ渡って(正確には「今さら」と片付けられて)、水曜の今日。登校して、教室に入って、席について、鞄を置く。いつもの動作。いつもの朝。
何も変わらない──はずだった。
「黒瀬おはよう。彼女元気?」
クラスメイト。名前がうろ覚えの男子。こいつと会話した記憶は、二年間でたぶん三回以下だ。その男が、朝の挨拶に「彼女」を組み込んできた。
「……おはよう」
「彼女元気?」の部分は聞こえなかったことにした。無視ではない。処理落ちだ。朝一番で「彼女」という単語を投げ込まれると、脳のCPUが過負荷を起こす。
席に着いた。八代がにやにやしながらこっちを見ている。
「なに」
「いや、別に。ただ、顔がね」
八代が片方の頬を指でつついた。自分の顔ではなく、空気を。
「ゆるい」
ゆるい。表情筋が。自覚はある。告白してからというもの、無表情の維持に以前の五倍のエネルギーがかかっている。省エネモードが解除されたのだ。二年間ずっと顔面を節電していたのに、急に全館点灯した。
「ゆるくない」
「ゆるいよ。てかさ、おやすみLINEとかしてんの?」
心臓が跳ねた。している。昨夜、澪から『おやすみ 明日もお弁当楽しみにしてて』が来て──もちろん澪らしい甘い文面で──返信に六分かかった。「おやすみ」の五文字に六分。一文字あたり約七十二秒。交際前の十八分に比べれば大幅な短縮だが、一般的な高校生の返信速度としては致命的に遅い。
「……してない」
「嘘つけ。顔に書いてある」
俺の顔面はそんなに情報量が多いのか。LINEの有無まで表示する液晶ディスプレイか。
スマホが震えた。ポケットの中。取り出した。
澪。
『今日の保健室、楽しみ』──語尾にハートの絵文字。画面が甘い。
毎日来ているのに毎日「楽しみ」と言う。日帰り温泉の常連客が毎朝「今日も楽しみ」と言っているようなものだ。だが不思議と嫌ではない。毎日楽しみにされている、という事実が胸のどこかを温める。
『うん』
制作時間三十秒。これでも進歩だ。
八代が俺のスマホを覗き込もうとした。肘で弾いた。
「見んな」
八代が大げさに肩をすくめた。だが目は笑っていた。
◇
昼休み。
保健室に向かう廊下を歩いていると、視線を感じた。以前からあった視線だ。「保健室に向かう黒瀬」を観察する学年の目。だが質が変わっていた。
以前は「あいつ、保健室に逃げてんだ」だった。それが二ヶ月前から「あいつ、神代さんのところに行くんだ」になった。今は「あいつ、彼女のところに行くんだ」。
同じ廊下。同じ動線。だが視線の温度が三段階で上昇した。北極から温帯を経由して赤道に到達した。
保健室のドアの前で止まった。引き戸に手をかけた。何百回も繰り返した動作。だが今日は少しだけ、指先に力が入る。
ガタン。
「──湊くん♡」
声。甘い。いつもの。だが意味が違う。冗談のラベルが剥がれた甘さだと知っている。
澪が窓際の椅子に座っていた。二段弁当が膝の上にある。蓋はまだ閉まっている。俺を待っていた。
「……おう」
入った。ドアを閉めた。いつもの席。いつもの位置。
三十センチ。
座った。いつもの距離。だが昨日の記憶が皮膚に残っている。この三十センチは、手を伸ばせばゼロになる距離だ。月曜に知った。火曜に確認した。三度目の確認をしたい衝動が右手に走っている。
走っているが、実行しない。朝倉先生がデスクにいるからだ。
先生がコーヒーカップを口につけたまま、こちらを見た。目だけで。表情は動かない。だが目の奥に「見てるよ」という無言の圧がある。
「……どうも」
先生がカップを少し持ち上げた。
「どうも。今日もお二人揃って」
業務連絡のような響き。だが微かにからかいが混じっている。朝倉先生のからかいは消毒液くらい薄い。だが確実に効く。
澪が弁当の蓋を開けた。出汁の匂い。醤油の香ばしさ。
「今日はね、湊くんリクエストの唐揚げと、ほうれん草のおひたしと、卵焼き♡」
リクエストした覚えはない。だが昨日、唐揚げを最初に箸で取ったのを見ていたのだろう。行動パターンから嗜好を逆算している。諜報員か。CIAか。
「……ありがとう」
言えた。以前は絞り出すのに十五秒かかった。今は三秒。告白による発話能力のアップグレード。澪限定だが。
弁当の片方を受け取った。指が触れた。〇・五秒の接触。以前なら処理落ちしていた信号が、今は全神経に響く。センサーの感度がバグっている。
「いただきます」
「召し上がれ」
唐揚げを口に入れた。うまい。衣がさくっとしている。冷めているのにうまい。弁当の唐揚げで一番大事なのは冷めてもうまいかどうかだが、澪の唐揚げは冷めた状態で最適化されている。プロの仕業だ。
「……うまい」
澪の声が弾んだ。
「ほんと?」
褒められるのが嬉しいらしい。「うまい」の三文字で。二ヶ月間「別に」しか言わなかった人間の「うまい」は、語彙力のある人間の感想文より重いのかもしれない。
朝倉先生がカップをデスクに置いた。
「ここは保健室であって社員食堂ではないんだけど」
出た。先生のテンプレート。「ここは保健室であって○○ではない」構文。二ヶ月間で何回聞いたかわからない。新婚家庭、デートスポット、昼寝処。今日は社員食堂。バリエーションだけは増えている。
「すみません」
「すみませんじゃなくて。公式になったなら、保健室の利用は控えめにしなさい」
澪の箸が止まった。
「え。困ります♡」
先生がカップを一口傾けた。
「困るのは私」
淡々とした返し。澪の甘さが通用しない数少ない人間。朝倉先生の精神防御力は要塞レベルだ。二ヶ月間、目の前で二人のやり取りを見続けて正気を保っている。常人なら胃に穴が開く。
「でも先生、ここが一番落ち着くんです」
澪が両手を合わせた。お願いのポーズ。
「知ってる。知ってるけど、限度がある」
先生がもう一口コーヒーを飲んだ。
「手を繋ぐのは、私がいないときにしなさい」
心臓が止まった。手は繋いでいない。今は。だが昨日の昼休みに繋いだ。先生が席を外している間に。──見られていたのか。戻ってきたとき、すでに手は離していたはずだが。
「……見てたんですか」
「見てない。でも空気でわかる」
超常現象だ。この人はサイキック養護教諭だ。壁の向こうの手繋ぎを空気で察知する。
澪が頬を赤くしながら、小さく頭を下げた。
「……はい。気をつけます」
俺は黙って卵焼きを口に入れた。甘い。澪の卵焼きは砂糖と出汁の比率が黄金律だ。
◇
弁当を食べ終わった。
澪が俺の弁当箱を回収しようとしたので、先に手を伸ばした。
「洗うのは俺がやる」
澪の手が止まった。
「……え」
「毎日洗って返してるだろ。今日も」
澪が目を丸くした。いつもの「洗って返す」ではなく「俺がやる」。四文字の差。「返す」は義務で、「やる」は選択。たぶんそういう微差を、この人は拾う。
「……同じだよ」
澪が小さく首を振った。
「同じじゃないよ」
弁当箱を受け取りながら、澪の口元がほころんでいた。こちらの発言の微差を顕微鏡で観察して、額に飾る人間。
保健室のドアが開いた。
「おじゃましまーす」
杏。両手を振りながら入ってきた。明るい。朝日のように明るい。保健室の蛍光灯が負けている。
「お、今日も仲良しだね〜」
いつもの台詞。だが今日は続きがあった。
「……って、付き合い始めても変わんないね、二人」
杏がパイプ椅子を引いて座った。俺と澪の向かい。
「何が変わると思ったんだ」
「え〜、もっとこう……腕組んでるとか、もたれかかってるとか、呼び方変わってるとか」
具体的だ。ラブコメの読者か。
澪が嬉しそうに身を乗り出した。
「呼び方は変わったよ♡」
俺は焦った。
「……保健室だけだぞ」
杏が前のめりになった。背もたれが軋む。
「え! なんて呼んでるの!」
澪が俺を見た。目が「言っていい?」と聞いている。止められない。この人は止められない。
「澪、って」
杏が叫んだ。
「きゃーーっ!」
保健室で絶叫するな。ここは医療施設だ。患者がいたら起きる。
杏が両手で頬を押さえた。
「名前! 下の名前! 湊くんが!?」
朝倉先生がデスクから振り返った。
「白石さん、声量」
「すみません先生! でもすごくないですか! 湊くんが澪ちゃんのこと名前で──」
先生がカップに目を落とした。
「知ってる」
先生も知っていた。空気察知のサイキック養護教諭。八代の情報網を超えている。
杏の興奮が少し落ち着いた。椅子に座り直して、俺と澪を交互に見た。
「いいなあ。ほんとお似合いだよ、二人」
「……どうも」
杏の声が少し変わった。明るいトーンのまま、真ん中に芯が通った。
「でもさ、湊くん。ちゃんと言えたんだね。自分の言葉で」
杏の目が真っ直ぐこちらを見ていた。あの日、廊下で「遅い」と笑った目。「上手くなくていい」と言った目。
「……杏のおかげだよ」
出た。自然に出た。「杏」。下の名前で呼んだことはなかった。ずっと「白石」か、呼び名を避けていた。
杏が目を見開いた。
「え、今──名前で呼んだ?」
「……白石」
取り消そうとしたが遅い。杏が笑った。
「もう聞いた!」
杏が嬉しそうに手を叩いた。澪も隣で笑っている。──澪の笑い方が少しだけ違う。口角の上がり方が控えめ。「名前呼び」が澪限定ではなくなったことへの、微かな反応。
「保健室だけだぞ。名前呼びは」
誰に対して言っているのかわからない。
澪がそっと俺の袖を引いた。杏には見えない角度で。小さく。
「……ん」
振り向いた。澪の目が潤んでいた。泣いてはいない。でも光っている。
「……澪」
小声で呼んだ。杏がいるのに。先生がいるのに。
澪が目を細めた。満足そうに。それだけで世界が完結する顔。
◇
五限目の始業チャイムが鳴った。杏が先に出た。「じゃあね〜、ごちそうさまでした〜」。何を食べたわけでもないのに「ごちそうさま」。
俺も立ち上がった。鞄を持った。澪も立った。
保健室の外に出る瞬間、澪の表情が変わる。いつもの切り替え。甘さが引いて、背筋が伸びて、完璧な神代澪が起動する。
──だが今日は少し違った。
ドアの前で振り返った。外の顔に切り替わる直前の、ゼロコンマ数秒。
「……じゃあね。午後も頑張ろ♡」
小声。俺にだけ聞こえる音量。廊下には他の生徒がいる。だが届いていないはずだ。
「……うん」
澪が歩き出した。三歩目で完璧な姿勢になった。四歩目で「神代さん」に戻った。すれ違った女子に「こんにちは」と微笑んだ。甘さのない、外の顔の挨拶。
俺だけが知っている。三秒前の声に甘さが入っていたことを。
◇
放課後。
保健室に向かう途中、廊下の角で足音が止まった。
「黒瀬くん」
柊。風紀委員の腕章。背筋の伸びた姿勢。手にはクリアファイル。──まだ調査してるのか。百二十ページで終わりじゃなかったのか。
「……柊」
「少しだけ、お時間いいですか」
柊の表情がいつもの真面目一辺倒ではなかった。口元が微かに緩んでいる。
「改めて、おめでとうございます」
頭を下げた。四十五度。正確。風紀委員の礼は角度が完璧だ。
「……ありがとう。火曜にも言ってくれたけど」
「火曜は事実確認を兼ねていましたので。今日は純粋にお祝いです」
使い分けている。業務と私事を。風紀委員の中にも人間がいた。
柊がクリアファイルを胸の前で抱え直した。あの百二十ページの調査ファイル。
「……捨てたんじゃないのか」
「捨てようと思いました。でも……」
柊の頬がうっすら赤くなった。
「読み返したら、ちょっと……捨てがたくて」
百二十ページ。存在しない交際の詳細な記録。だが裏を返せば、二人の二ヶ月間を誰よりも正確に観察した記録でもある。
「……好きにしてくれ」
「はい。金庫に入れます」
金庫。物理的な金庫にファイリングされる俺と澪の記録。重要書類扱い。機密文書だ。
柊が一歩下がった。腕章を正した。
「それでは。保健室、行かれるんですよね」
去っていく背中。蛍光灯が腕章を照らしていた。あの人は最初から最後まで真面目だった。真面目に調査して、真面目に自爆して、真面目に祝福している。一貫性だけは尊敬する。
◇
保健室。
ドアを開けた。
「おかえり♡」
澪が椅子で待っていた。──「おかえり」。いつからか、保健室の挨拶が変わっている。帰る場所。ここが。
「……ただいま」
返した。自然に。
朝倉先生はいなかった。デスクにメモ。「会議。5時まで。戸締りよろしく」。先生の字。
二人きり。
いつもの椅子に座った。三十センチ。──手を伸ばした。今度は迷わなかった。月曜は震えていた。火曜は先生の目を気にした。水曜の今日、三度目。
澪の手に触れた。指が絡んだ。温かい。
澪が笑った。
「先生がいないと、すぐ繋ぐね」
「……お前が離さないんだろ」
澪が首を傾げた。
「湊くんから繋いだよ」
事実だ。反論の余地がない。
窓の外に午後の光。十一月。冬の手前。空気は冷たいが、保健室は暖かい。暖房ではなく、手の温度で。
繋いだまま、しばらく黙っていた。一人の沈黙は「不在」だが、二人の沈黙は「充足」だ。一年半かけて学んだ、保健室の新しい文法。
澪が空いた方の手で、スマホを取り出した。画面をタップしている。
「……何してんの」
「んー、ちょっとメモ」
何のメモだ。買い物リストか。明日の弁当の献立か。
画面がちらりと見えた。文字が並んでいる。長い。買い物リストにしては長すぎる。日記のような──いや、角度的に内容は読めなかった。
「……メモって何の」
澪がスマホを胸に抱えた。隠すように。
「秘密」
この人に秘密があるのか。二ヶ月間、感情をほぼ全開で見せてきた人間が、スマホの画面だけは隠す。
「……ふーん」
追及しなかった。俺にも言えなかったことがあった。二ヶ月分の「好きだ」を言えなかった。だから澪にも、言わないことがあっていい。
澪がスマホをしまった。こちらにもたれかかった。肩に頭を乗せた。髪の匂い。消毒液の下にある、この人だけの匂い。
「……重い」
「重くないよ」
重くない。嘘だ。全然重くない。この重さがなくなったら、肩が寒い。
時計を見た。四時十五分。先生が戻るまで四十五分。
「……ね、湊くん」
「ん」
澪が繋いだ手を揺らした。小さく。振り子のように。
「付き合って、何が変わった?」
抽象的な質問。苦手だ。感情の名前をつけるのが下手だと自覚している。考えた。二十秒。
「……三十センチが、ゼロになった」
いつもの距離。パイプ椅子二つ分の隙間。手を繋ぐことでゼロになった。物理的な回答。感情の名前はつけられなかったが、距離なら測れる。
「……それだけ?」
「……弁当がうまくなった」
澪が首を横に振った。
「味変えてないよ」
「知ってる。でもうまくなった」
澪が小さく笑った。肩の上で、頭が微かに揺れた。
「……それ、たぶん、好きの味だよ♡」
好きの味。何だそれは。調味料か。科学的に計測不能だ。──だが否定できない。同じ唐揚げが月曜を境にうまくなった。変わったのは俺の方だ。
窓の外で鳥が鳴いた。冬の近い声。高くて短い。
もう一つだけ答えた。
「……あと、名前」
「名前?」
澪が肩から顔を上げた。
「澪、って呼ぶようになった」
澪の手に力がこもった。握り返す力が強くなった。
「……うん。それが、一番嬉しい」
一番。名前を呼ぶことが、手を繋ぐよりも、弁当の味が変わったことよりも。二文字の名前。「み」と「お」。その二音が、告白よりも重い。
四時三十分。先生が戻る前に、少しだけこのままでいよう。
澪が肩から顔を少し上げた。
「……ね、湊くん」
「ん」
目が合った。近い。すぐそこに、この人の瞳がある。
「ここが好き♡」
保健室が好き。この場所が好き。この人はいつもそう言う。最初の日から。告白の日も。今日も。
「……俺も」
言えた。二文字。月曜に言えなかった「俺も」が、水曜に出た。三日遅れ。だが遅刻は俺の持ち味だ。
澪が目を閉じた。肩の上で、呼吸が穏やかになっていく。
起こさなかった。あと三十分ある。
右手は繋いだまま。左手は膝の上。保健室は静かだ。カチ。カチ。カチ。時計の音。
一年半前、この部屋に初めて逃げ込んだ日を思い出した。誰もいない保健室。白いベッド。カーテン。消毒液。一人で天井を見ていた。
今、隣に人がいる。手が繋がっている。肩に温もりがある。
同じ部屋。同じ匂い。同じ音。全部同じなのに、全部違う。
──悪くない。
全然、悪くないんだ。




