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【第47話】翌日──世界が変わった……わけではない

【第47話】翌日──世界が変わった……わけではない


 掌が温かい。


 目が覚めて最初に思ったのがそれだった。右手。昨日、澪の手を握った右手。物理的にはとっくに体温は戻っているはずだが、皮膚が覚えている。温度ではなく、記憶の方の温かさ。


 布団の中で右手を眺めた。なんの変哲もない手だ。特別長くもなく、短くもない指。爪が少し伸びている。切らなければ。──この手で昨日、告白した。この手で、澪の手を掴んだ。


 告白した。


 俺が。


 あの黒瀬湊が。コミュ障で「別に」しか言えない人間が。「好きだ」と。二回も。名前付きで。


 天井を見た。自室の天井。見慣れた模様。昨日と同じ天井。だが昨日と違うのは、俺が「彼女のいる人間」になっていることだ。


 ──彼女。


 彼女という単語が脳内に出現した瞬間、心臓が跳ねた。朝七時。起床直後。心拍数が就寝時の三倍に跳ね上がった。早朝から心臓に残業させるな。


 スマホを見た。LINEの通知。


 澪。


 『おはよう♡ 今日も会えるの楽しみ♡』


 時刻は六時十四分。俺より早く起きている。早起きだ。──いや、眠れなかったのかもしれない。俺も三時まで眠れなかった。天井を見ながら、昨日の告白を脳内で四十七回リプレイした。四十七回目あたりで「弁当がうまかった」の部分に到達するたびに布団を被って悶絶するルーティンが確立されてしまい、眠るどころではなかった。


 返信を打つ。


 『おはよう』


 制作時間四分。「おはよう」の三文字に四分。昨日の告白で全燃料を使い切ったため、今朝のタンクは空に等しい。句点をつけるかどうかで一分悩み、つけないことにした。「おはよう。」は硬い。「おはよう!」は俺のキャラではない。結論、素のまま。


 既読がついた。二秒。速い。


 『えへへ♡』


 三文字。しかも擬音。意味がない。意味がないのに、心臓が跳ねた。えへへ、の三文字で。安い心臓だ。


 ◇


 登校。


 通学路を歩きながら、覚悟を決めていた。今日から世界が変わる。昨日まで「噂の交際相手」だった俺は、今日から「本物の交際相手」になる。周囲の目が変わるはずだ。何か言われるはずだ。「おめでとう」か「やっとか」か、あるいは──


 校門をくぐった。


 誰も俺を見ていなかった。


 いつも通りだ。生徒が校門を通過している。笑い声。自転車のベル。上履きに履き替える音。月曜の朝特有の倦怠感が漂っている。


 誰一人、俺に注目していない。


 ──まあ、そうだ。俺が告白したことを知っているのは澪と朝倉先生だけだ。八代にはまだ言っていない。杏にも。柊にも。知らなければ反応しようがない。当然だ。


 昇降口で靴を履き替えた。教室に向かった。廊下を歩いた。


 教室のドアを開けた。


「おはよう黒瀬」


 八代が席から手を挙げた。いつもの軽い声。


「……おはよう」


 席についた。鞄を机にかけた。八代が横から覗き込んできた。


「……ん? なんか今日、顔違くね?」


 顔が違う。どこが。鏡は見た。同じ顔だった。


「……違わない」


「いや、なんか……柔らかい? いつもより」


 柔らかい。表情筋が緩んでいる自覚はない。だが昨夜から頬の筋肉が微妙に制御不能で、無表情を維持するのに普段の三倍のエネルギーがかかっている。


「……気のせいだろ」


「ふーん」


 八代が目を細めた。勘のいい男だ。報道機関としての嗅覚が作動している。だが今はまだ確証がない。泳がせている。


 一限目。数学。授業は頭に入らなかった。ノートを開いたが、シャーペンが動かない。脳のリソースが全部、昨日の保健室に持っていかれている。


 ──「好きだ。澪」。


 自分の声が脳内で再生された。顔が熱くなった。教室で。数学の授業中に。二次関数の説明を聞きながら顔面が発火した。


「黒瀬、顔赤いぞ」


 八代が小声で言った。


「……暖房のせいだ」


「十一月で暖房まだ入ってないけど」


 正論だ。反論の余地がない。俺は黙って教科書に目を落とした。


 二限目。英語。三限目。古典。昼休みまでの三時間が永遠に感じられた。時間の流れ方がおかしい。昨日の告白中は三十分が三時間だったが、今日は三時間が三十時間ある。


 ◇


 昼休み。


 ここだ。勝負の時間。いつもなら保健室に直行するが、今日はその前にやることがある。


 八代の席に行った。自分から八代に話しかけるのは、この二年間で片手で数えるほどだ。


「……八代」


「おう。どした、黒瀬」


 八代が弁当箱を開けかけた手を止めた。俺の顔を見て、何かを察したらしい。目が真剣になった。──いや、真剣ではない。期待している目だ。


 教室にはまだ人がいる。五、六人。弁当を食べている者、スマホをいじっている者。聞かれる可能性がある。だが──今さら隠すことでもない。七ヶ月間、全校生徒が知っていた噂だ。事実になったところで情報のアップデート量は誤差の範囲内だろう。


「……昨日」


「うん」


 八代が前のめりになった。弁当箱が机の端に押しやられた。


「……告白、した」


 八代が目を見開いた。


 三秒の沈黙。


「──え、まだしてなかったの?」


 声がでかい。教室中に響いた。弁当を食べていた五人が全員こっちを見た。


「ちょ、声──」


 だが八代は構わず、声量を落とさなかった。


「いや待て待て待て。お前、昨日告白したって……昨日? 昨日って、十一月の? この十一月の?」


 頷いた。八代の口が半開きになった。


 八代が椅子から立ち上がった。両手を机について、俺の顔を覗き込んだ。至近距離。近い。澪以外の人間にこの距離で顔を見られるのは不愉快だ。


「嘘だろ。お前、九月から付き合ってたんじゃないの?」


「付き合ってない。昨日からだ」


 八代が頭を抱えた。本気で困惑している。校内最速の情報網を持つ男が、自分の情報が間違っていたことに衝撃を受けている。


「九月のあれは? 弁当は? 購買は? 体育祭の膝枕は?」


「膝枕じゃない。テーピングだ」


 指を折りながら証拠を並べ立てる八代の目が、検察官のそれになっている。


「文化祭で走っていったのは?」


「……あれは」


 言い淀んだ俺に、八代は畳みかけた。


「LINEのおやすみは?」


 なんでそこまで知ってるんだ。俺が口を開くより先に、八代が答えた。


「杏ちゃんが言ってた」


 情報管理。この学校の情報管理は崩壊している。


 教室の五人が近づいてきた。弁当を持ったまま。箸を持ったまま。卵焼きを咥えたまま一人が来た。


「え、黒瀬、なに? 昨日告白したって?」


「マジ?」


 弁当を持ったまま半円形に囲まれた。逃げ場がない。


「え、まだだったの!?」


 全員同じ反応。判で押したように同じ。「え、まだだったの」のテンプレート。俺が七ヶ月かけて到達した決死の告白が、「まだだったの」の五文字で要約された。


「いやいやいや、俺ずっと付き合ってると思ってたわ」


「全員思ってたよ」


 口々に言われた。四方八方から。


「つーか学年で思ってない人いないでしょ」


 追い打ちをかけるように、後ろから声が飛んだ。


「先生も知ってるよ。国語の山田先生が『微笑ましいね』って言ってたもん」


 国語教師まで把握していた。噂レベル5の世界。公式認定。教師すら巻き込んだ校内コンセンサス。──その公式認定を、当事者だけが知らなかった。いや、知らなかったのは俺だけか。澪は「冗談じゃなかった」と言った。最初から本気だった。知らなかったのは、俺一人だ。


 八代が俺の肩を叩いた。


「まあ──おめでとう。遅すぎるけど」


「……遅いのはわかってる」


 八代が腕を組んだ。真面目な顔だが、口元が緩んでいる。


「わかってないよ。お前の遅さは尋常じゃない。氷河の移動速度だぞ。大陸が動く方が速い」


 うるさい。


「で、神代さんなんて言ったの?」


 教室の空気が変わった。全員が耳をこちらに向けている。箸が止まっている。卵焼きの人は咀嚼すら止めている。


「…………」


 八代が肘で突いた。


「言えよ」


 教室中の視線が痛い。箸が止まっている。卵焼きを咥えたまま凝固している人間が一人いる。


「……『ずっと待ってた』って」


 沈黙。二秒。教室が爆発した。


「うおおおおお」


 教室が爆発した。全員が一斉に叫び始めた。


「待ってたって! 映画じゃん!」


 誰かが机を叩いた。別の誰かが立ち上がった。


「てかそれ付き合ってたやつの台詞でしょ」


「だから付き合ってたんだって」


 会話が成立していない。全員が好き勝手に喋っている。動物園だ。パンダの檻の前の観光客みたいにざわめいている。俺がパンダだ。見世物だ。コミュ障のパンダ。笹ではなく恥辱を食べて生きている。


「……保健室行ってくる」


「おう、行ってこい。彼女が待ってるぞ」


 彼女。八代が自然に「彼女」と言った。修正しなかった。修正する必要がなくなった。


 ◇


 廊下を歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。速い。走っている。


「湊くんっ!」


 杏だった。息を切らして追いかけてきた。目が輝いている。星が入っているのかと思うくらい輝いている。


「聞いた! 八代くんから! 告白したんでしょ!?」


 八代の情報伝達速度。俺が教室を出てから杏に到達するまで推定三十秒。音速を超えている。光速に近い。


「……した」


「やったー! おめでとう!」


 杏が両手でガッツポーズした。喜びようが当事者を上回っている。


「ねね、澪ちゃんなんて言ってた?」


「……さっき八代にも聞かれた」


 杏が両手を合わせた。拝むポーズ。拒否権がない。


「いいから! 聞きたい!」


 観念した。


「……『待ってた』って」


 杏が両手で口を押さえた。目が潤んでいる。泣きそうだ。なぜお前が泣くんだ。当事者の俺より感動している。


「──よかったねえ……」


 声が震えている。この人は善意の塊だ。他人の恋愛成就で涙腺が崩壊する人種が存在するとは。


「ていうかさ、湊くん」


 杏が涙を拭いながら、少し呆れた顔で笑った。


「遅い」


 知ってる。


「九月から見てて、もう何回『早く言いなよ!』って思ったか」


「……すいません」


 杏が涙を拭い終えて、いつもの明るい顔に戻った。


「まあいいや。結果オーライ! 澪ちゃんのところ行くんでしょ? 行ってきな」


 杏が背中をぽんと叩いた。軽い。だが柊のメモと同じくらいの確かさがあった。


 ◇


 保健室に向かう廊下の角で、柊に会った。偶然ではないと思う。この位置で待っていたのだろう。風紀委員の腕章をつけたまま、背筋を伸ばして立っている。


「……黒瀬くん」


「……柊」


 柊が真正面から俺を見た。調査ファイルを構えていた頃と同じ真剣な目。だが今日は手ぶらだ。


「おめでとうございます」


 短い。柊にしては驚くほど短い。


「……ありがとう」


「一つだけ、確認させてください」


 確認。風紀委員の業務用語が出た。


「結局、黒瀬くんと神代さんの交際開始日は、いつですか」


「……昨日」


 柊の目が見開かれた。三秒の沈黙。風紀委員の顔から、ただの高校生の顔に戻った。


「…………昨日」


 柊は自分の耳を疑うように、もう一度呟いた。風紀委員の顔から、ただの高校生の顔に戻っていた。


「あの……私が七ヶ月間調査していた交際関係は」


「昨日まで存在しなかった」


 柊の表情が段階的に崩壊していった。驚き、困惑、脱力。そして──諦めに似た笑い。


「……百二十ページ、あるんです。調査ファイル」


 百二十ページ。もはや卒業論文の分量だ。


「全部、交際の証拠として収集したものです。毎日更新していました」


 百二十ページ。毎日更新。俺と澪の「交際していない交際」の記録が、百二十ページ分ある。もはや卒業論文の分量だ。


「捨てていいか」


「……捨てます。でも」


 柊が一歩下がった。腕章を正した。


「──記録としては、正しかったと思っています」


 去っていく背中。蛍光灯の光が腕章に反射していた。柊の調査は間違っていた。七ヶ月間、存在しない交際を追いかけていた。だが結論だけは正しかった。過程がめちゃくちゃで結論だけ合っている。この学校の噂は全部それだ。


 ◇


 保健室のドアの前に立った。


 深呼吸。──いや、要らない。告白はもう済んだ。緊張する理由がない。ただの昼休みだ。


 引き戸を引いた。ガタン。


「──湊くん♡」


 いつもの声。いつもの甘さ。窓際の椅子に座っている澪が、こちらを向いて笑った。


 だが昨日までと同じはずのその声が、違って聞こえた。あの甘い語尾の重みが違う。冗談のラベルが剥がれた今、全部が本気だと知っている。


「……おう」


 入った。ドアを閉めた。いつもの席。いつもの距離。


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいた。俺の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。何も言わなかった。


「……みんなに言ってきた」


 澪が身を乗り出した。


「なんて言われた?」


「……『まだしてなかったの』って。全員に」


 澪が一瞬きょとんとして──声を上げて笑った。肩を震わせて、目を細めて。控えめな保健室モードではない。ただ楽しくて笑っている。


「あはは……あはは」


「……笑い事じゃない。俺の七ヶ月の苦悩が『今さら』で片付けられた」


 澪が目尻を拭った。笑い涙だ。昨日の涙とは成分が違う。


「だって……だって♡」


 澪が笑いながら両手で頬を押さえた。


「私たち以外、みんな知ってたんだね」


「……全員知ってた。国語の山田先生まで」


 澪の目がまん丸になった。


「山田先生!?」


 澪がまた笑った。この笑い方は初めて聞く。保健室モードの「くすくす」でも外の顔の「微笑み」でもない。ただの十七歳の女の子の笑い声。


 朝倉先生がカップを置いた。


「当然でしょう。私だって九月から知ってたわ」


 先生。あなたもか。


「カーテン閉めないでって何回言ったと思ってるの。あれ、別にルールの問題じゃなくて、見てて恥ずかしかったのよ」


 七ヶ月分の本音が出た。


「……すみませんでした」


「謝らなくていいわ。おめでとう」


 先生がコーヒーに口をつけた。口元が微かに緩んでいた。


 ◇


 弁当の時間。


 澪が二段弁当を開けた。出汁の匂いが保健室に広がった。


「今日は湊くんの好きなやつにしたよ♡ 唐揚げと、卵焼きと、タコさんウインナー」


「……タコさんは好きとは言ってない」


 澪が小首を傾げて、悪戯っぽく笑った。


「でも毎回先に食べるでしょ」


 食べる順番まで把握されている。七ヶ月分の観察データが蓄積されている。


 弁当を受け取った。いつもの動作。だが今日は、指が触れた瞬間を心臓が拾った。昨日まで無視していた接触が、全部信号になっている。感度の設定が変わった。


「……いただきます」


「召し上がれ♡」


 唐揚げを口に入れた。うまい。昨日と同じ味だ。告白の前も後も、この唐揚げは変わらない。


 箸を動かしながら考えた。世界は変わっていない。教室はいつも通りだ。保健室もいつも通りだ。弁当もいつも通りだ。澪の甘い呼びかけもいつも通りだ。


 変わったのは、俺の中だけだ。あの甘さが全部本気だと知っている。この弁当が七ヶ月間の本気の具現化だと知っている。


 同じ景色を、違う目で見ている。


「……澪」


 声に出した。保健室の中。昨日の約束通り。


 澪の箸が止まった。こちらを向いた。──目の縁が赤くなっている。


「……泣くな。名前呼んだだけだろ」


「泣いてない」


 泣いている。


「嬉しいだけ」


 名前を呼ばれるだけで泣く人間。安い──いや、安くない。七ヶ月間「神代さん」だった距離を考えれば、名前は安くない。


 朝倉先生が席を立った。


「……コーヒーのおかわり、淹れてくるわ」


 先生のカップはまだ半分以上残っている。見えている。全員に見えている。だが誰も指摘しなかった。先生が保健室を出ていく背中を見送った。三度目の気遣い。


 二人きりになった。


 澪が俺の手に自分の手を重ねた。


「……弁当の途中だぞ」


「いいの。ちょっとだけ」


 温かい。昨日と同じ温度。


 保健室は静かだった。窓の外から昼休みの喧騒が聞こえる。全部、ドア一枚の向こう。


 ここは変わらない。


 変わったのは──三十センチが、ゼロになったことだけだ。


「……ね、湊くん」


「ん」


 澪がこちらを見上げた。繋いだ手に、少しだけ力がこもった。


「明日もここに来ていい?」


 七ヶ月間毎日来ていた人間が、今さら許可を求めている。


「……聞くなよ。当たり前だろ」


 澪が笑った。窓から差す十一月の光が、繋いだ手を照らしていた。

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