【第39話】冬の保健室──神代さんが寒がりだった件
【第39話】冬の保健室──神代さんが寒がりだった件
木曜日。十一月も後半に入った。
朝の教室が寒い。暖房が入っているはずだが、窓際の席には届かない。俺の席は窓側の後ろから三番目。暖房の恩恵を最も受けにくいポジションだ。戦場で言えば最前線。補給線から最も遠い場所。
だが教室の寒さは、まだましだ。
保健室は、もっと寒い。
昨日、杏が言っていた。「エアコン古いから効かない」。朝倉先生がそう答えていた。あの保健室は校舎の北側にある。日当たりが悪い。夏は涼しくて良かったが、冬は逆だ。北側の部屋は冬、冷蔵庫になる。
昼休み。保健室に向かう廊下で、息が白くなりかけた。校舎内で白い息。暖房の設定温度を疑う。節電か。地球環境のために俺たちの体温を犠牲にしているのか。
ドアを開けた。
寒い。
予想通りだった。エアコンは動いている。天井の送風口から微風が出ている。微風。扇風機の「弱」以下だ。これは暖房ではなく空気の攪拌だ。混ぜているだけだ。冷たい空気と冷たい空気を混ぜても、冷たい空気にしかならない。
神代さんがいた。いつもの席。だが今日はカーディガンの上からさらにマフラーを巻いている。室内でマフラー。保健室が屋外であることの証明。
「あ、湊くん♡」
声はいつも通り甘い。だが鼻が少し赤い。寒さで赤いのか、風邪の前兆か。
「……寒くないか」
聞いた。自分から。最近、自分から声をかけることが増えている。七ヶ月前の俺なら「……おう」で済ませていた。変化。杏が言う「目が変わった」だけではない。口も変わっている。
神代さんが首を横に振った。
「大丈夫だよ♡ 湊くんが来たからあったかくなった♡」
物理法則を無視している。人間一人が入室したところで室温は〇・一度も変わらない。だがこの人の体感温度は俺の存在で左右されるらしい。計測器がバグっている。
隣に座った。弁当箱を出した。今日の弁当は──蓋を開ける前に、隣を見た。
神代さんの手が震えていた。
箸を持つ指が、微かに揺れている。昨日も見た。昨日は「少し」だった。今日は「明らかに」だ。指先が白い。爪の色が薄い。血が末端に届いていない。この人は寒がりだ。杏が言った通り。
弁当箱の蓋を開けた。鮭の塩焼き。ほうれん草のおひたし。卵焼き。今日も完璧だ。この人は自分が寒さで震えている手で、朝からこれを作ったのか。
「……すごいな」
三日連続で同じ言葉が出た。もはやルーティンだ。毎朝の「おはよう」と同じ頻度で「すごいな」が出る。
神代さんが笑った。
「湊くん、それ定番になってきたね♡」
「……なってない」
神代さんが人差し指を振った。
「なってるよ♡」
なっている。自覚がある。だが否定はしない。否定しない理由も、もうわかっている。火曜に八代に教えてもらった。「否定したくないから」。
箸をつけた。鮭。皮がパリッとしている。焼き加減が絶妙だ。家庭のグリルでここまで焼けるものなのか。料理の技術は俺の評価範囲を超えている。
「……うまい」
「えへへ♡」
えへへ。新しい笑い方だ。「ふふ」でも「くすくす」でもない。照れが混じっている。この人にも照れがあるのか。──あるに決まっている。八代が言った。「あいつも人間だからな」。人間には照れがある。
朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいた。マグカップを両手で包んでいる。先生も寒いのだ。
「……黒瀬くん、神代さん」
「はい」
朝倉先生がマグカップをデスクに置いた。
「暖房の件、事務に申請したけど、修理は来月になるそうよ。当面はこの状態が続くわ」
来月。十二月。つまりあと一週間以上、この冷蔵庫状態が続く。
「しょうがないです♡」
神代さんが笑った。だが肩が小さくすくんでいる。寒さを我慢している。「しょうがない」の「しょ」の部分で息が少し震えた。
弁当を食べ終わった。箸を置いた。
隣を見た。神代さんが自分の弁当箱の蓋を閉めている。手がまだ震えている。マフラーの端を握りしめている。唇の色がいつもより薄い。
──椅子の背を見た。
ブランケット。
十月に神代さんがくれたものだ。紺色の、少し厚手の。「湊くん、いつも寒そうだから」と言って、この人が持ってきた。以来、俺が毎日使っていた。俺のために持ってきたものを、俺だけが使っていた。
昨日、同じものを見た。見て、「返すべきか」と考えた。そして「まだだ。今じゃない」と結論づけた。
──今じゃないのか。
この人の手が震えている。指先が白い。唇の色が薄い。室温は十五度を切っているかもしれない。寒がりの人間にとって、この環境は拷問に近い。
それでもこの人は毎日来る。寒くても来る。弁当を作って来る。震える手で。
──「ズルいのはやめろ」。
八代の声が頭の中で鳴った。火曜日の屋上。あの風の音と一緒に。
──「ちゃんと伝えてあげてください」。
柊の声が重なった。水曜日の中庭。あの冷たいベンチと一緒に。
「今じゃない」はいつまで続けるんだ。
立ち上がった。
──いや、立ち上がる前に手が動いていた。椅子の背からブランケットを取った。紺色。畳まれている。俺が昨日畳んだ。几帳面な四つ折り。
神代さんの肩に、かけた。
動作にすれば二秒もかからなかった。脳が命令を出す前に、腕が動いた。反射だ。パブロフの犬ではなく──なんだ。何の反射だ。名前がわからない。わからないが、腕は止まらなかった。
「……え」
神代さんが固まった。
ブランケットが肩にかかっている。俺の手がまだブランケットの端を掴んでいる。離した。一歩下がった。いや、下がれなかった。隣の席だ。下がる場所がない。
「……寒いだろ」
声が出た。三文字。「寒いだろ」。説明として最低限。主語がない。目的語もない。だが通じている。通じていなければ、この人がこんな顔をするわけがない。
神代さんの目が大きくなった。丸くなった。瞬きを忘れている。唇が少し開いている。さっきまで白かった唇に、血が戻り始めている。もう震えていない。止まっている。凍っているのではなく、止まっている。
三秒。五秒。
保健室の時計の秒針だけが動いている。エアコンの微風が鳴っている。朝倉先生のコーヒーカップが、デスクに置かれる音がした。
神代さんの目に、水の膜が張った。泣くのか。──泣かなかった。瞬きで飛ばした。
代わりに、笑った。
見たことのない笑顔だった。保健室モードの甘い笑顔でもない。外の顔の完璧な笑顔でもない。二つのどちらでもない、三番目の笑顔。分類できない。柊のファイルにも記録されていない。百二十三件の外にある笑顔。
声が漏れた。小さい。俺の耳にだけ届く音量。
「…………♡」
言葉になっていなかった。声にならない息だけが出た。この人が言葉を音にできないのは、初めて見る。いつもは流暢に甘い台詞を発音する人間が、今は音にできていない。
五秒後、やっと声が戻った。
「……湊くんのなのに」
「……俺は別に寒くない」
嘘だ。寒い。むしろ今まで毎日使っていたブランケットがなくなって、寒さが直接肌に触れている。だが、嘘でいい。この嘘は、八代が言う「ズルい」嘘ではない。
神代さんがブランケットの端を両手で握った。顔を少し埋めた。マフラーとブランケットに挟まれて、目だけがこちらを見ている。目が潤んでいる。睫毛が震えている。
「……あったかい」
昨日も同じことを言った。「保健室あったかいから」。あのときは杏に向けた言葉だった。今は、俺に向けている。
あったかい。ブランケット一枚で。紺色の布切れ一枚で。──いや、この人が言っているのは布の温度ではない。昨日気づきかけたこと。「あったかい」は温度の話ではない。
朝倉先生がデスクからこちらを見た。
見た。
そして、見なかったことにした。
コーヒーカップを持ち上げた。一口飲んだ。視線を窓の外に向けた。十一月の灰色の空に向けた。何も見ていない目。プロの所作だ。養護教諭としての長年の勘が、「今は見るな」と判断したのだろう。
──ありがたい。
神代さんがブランケットの中から手を伸ばした。
俺の手に、触れた。
指先が冷たかった。氷のように。この人の指先は冷えていた。ブランケットをかけたばかりだ。まだ温まっていない。冷たい指が、俺の手の甲に乗った。
「……湊くん」
「……ん」
神代さんがブランケットの端を持ち上げた。
「一緒に入る?」
ブランケット。一緒に。二人で一枚のブランケットに。それは──距離的に──物理的に──
「……入らない」
答えた。声が裏返りそうだった。裏返らなかったのは奇跡だ。制御できない部分を制御した。心臓が全身の血液を急いで循環させている。ポンプの性能を超えた運転。オーバーヒート寸前。
だが、手は振りほどかなかった。
神代さんの指が俺の手の甲に乗っている。冷たい。だが、振りほどけなかった。振りほどこうとしなかった。
──「否定したくない」の延長線上にある行動だ。手を引くことは否定だ。否定したくない。だから引かない。
理屈はそうだ。理屈はそうなのだが──
指先から、何かが伝わってくる。冷たいはずなのに、温度がある。矛盾している。物理的には冷たい。だが、俺の手が感じているのは冷たさだけではない。
圧。面積。重さ。指の形。爪が短い。丸い。手のひらは見えないが、たぶん小さい。弁当箱を毎日開けるこの手。ハンバーグを焼くこの手。鮭を焼くこの手。ブランケットを畳むこの手。
この手が、俺の手の上にある。
心臓がうるさい。昨日の記録を更新した。先週の三秒を超えた四秒の視線とは別の記録だ。心拍数の記録。たぶん今、百二十を超えている。体育の持久走以来の数値だ。走っていないのに。座っているだけなのに。
五秒。十秒。十五秒。
神代さんの指が少しだけ動いた。俺の手の甲で、小さな円を描いた。無意識か。意識的か。どちらでもいい。どちらでも、心臓には同じ効果だ。致死量。
「……手、あったかいね」
俺の手が。この人にとって。さっきまで冷たかった指が、俺の手に触れて温まったのか。俺の体温が伝わったのか。
逆だ。昨日まで、この人が俺にブランケットをかけていた。弁当を作っていた。飲み物を買っていた。「養うね」と笑っていた。全部、この人から俺への方向だった。
今、逆になっている。
ブランケットを俺からかけた。手の温度が俺から伝わった。矢印が逆転した。この人が俺を温めていた構図が、俺がこの人を温める構図に。
それは──それは、何だ。
名前がつかない。まだつかない。だが形はある。輪郭はある。ぼやけた写真のように、ピントが合いかけている。あと少し。あと少しで見える。
「……湊くん」
「……ん」
神代さんが俺の手を握った。指が絡んだ。手の甲に乗せていただけの指が、俺の指の隙間に滑り込んだ。握手ではない。繋いでいる。
「ありがとう♡」
その声が、震えていた。寒さで震えていた声とは違う振動。温かい振動。声が笑っている。泣いているのかもしれない。どちらかわからない。顔を見ればわかるが、見られない。見たら──見たら何かが溢れる。俺の中から。制御できないものが。
窓の外で風が鳴った。十一月の風。保健室の窓を揺らしている。だがガラスの内側は、さっきより少しだけ温度が上がった気がした。エアコンのおかげではない。
朝倉先生が立ち上がった。カーテンの向こうに移動する足音。逃げたな。いや、逃げたのではない。場を空けたのだ。養護教諭としての最適な判断だ。感謝する。心の中で。口には出さない。出したら空気が壊れる。
保健室に二人。繋がれた手。紺色のブランケット。エアコンの微風。
チャイムが鳴った。昼休みの終わり。
手を離さなければならない。
──離したくない。
その感情が、胸の真ん中を貫いた。銃弾のように。いや、銃弾は痛い。これは痛くない。痛くないが、鋭い。刺さっている。抜けない。抜きたくない。
この手を放したくない。
──ああ。
わかった。
わかってしまった。
放物線は関係ない。二次関数も英語の文法も関係ない。数式では表現できない。主語・動詞・目的語の構造では説明できない。そんなもので解析できるような、単純なものではなかった。
好き、だ。
八代が言った「好きだろ」の「好き」。柊に言った「大事な人」の先にある言葉。放物線の頂点に書きかけたハート。全部、同じ場所を指していた。
この人が好きだ。
昨日まで「否定したくない」だった。一昨日まで「大事な人」だった。その前は「名前がつかない」だった。
名前がついた。
「好き」だ。
シンプルだ。たった二文字だ。漢字にすれば一文字。なのにここに辿り着くまで、何ヶ月かかった。何人の背中を押された。八代。柊。杏。朝倉先生。全員が先に知っていた。俺だけが最後だった。
コミュ障は感情にまで適用されるらしい。自分の心にすら、言葉を届けるのが遅い。
手を離した。
離さなければならなかったから。チャイムが鳴ったから。午後の授業があるから。現実が保健室のドアの向こうで待っているから。
神代さんの指が名残惜しそうに離れた。最後に、小指が俺の小指をかすめた。偶然か。故意か。
「……放課後も、来る?」
神代さんが聞いた。いつもの質問。いつもの声。だが目が、少しだけ不安そうだった。手を離したことへの不安。あの温度が消えることへの不安。
「行く」
即答。ゼロ秒。もう「たぶん」は出ない。二度と出ない。あの二文字は俺の辞書から削除された。予測変換の最下位に沈んだ。
神代さんが笑った。三番目の笑顔。さっきと同じ、分類できない笑顔。ブランケットを肩にかけたまま、目を細めて、少しだけ唇を噛んで、泣くのを堪えるように。
「……うん♡ 待ってる♡」
待ってる。
この言葉の重さを、俺はやっと正しく量れるようになった。
立ち上がった。鞄を持った。ドアに向かった。
「……湊くん」
振り返った。
神代さんがブランケットの端を握っている。紺色の布。俺の匂いがついているかもしれない。七ヶ月間、俺が使っていた。
「これ、今日は持って帰るね♡」
「……好きにしろ」
好きにしろ。二度目に出た「好き」の文字。文脈は全然違う。だが俺の脳内では、同じ回路が光った。
ドアを開けた。廊下。冷たい空気。保健室との温度差。五度以上。体感では十度。
歩いた。教室に向かった。手のひらを見た。右手。さっきまで神代さんの指があった場所。何も残っていない。目に見えるものは。
だが温度が残っている。冷たかったはずの指先の温度が、まだ手のひらにある。消えない。消えてほしくない。
教室のドアを開けた。席に着いた。
五時間目の準備をした。ノートを開いた。昨日描いた放物線が見えた。頂点の横に、何も描かれていない空白。昨日、ハートを描くのを止めた場所。
今なら描ける。
──描かなかった。ノートには描かない。描くべき場所は、ノートの上ではない。
窓の外を見た。灰色の空。十一月の空はいつも灰色だ。だが今日は、灰色の濃さが少し違って見える。明るいのではない。温度が違う。冷たい灰色と、少しだけ温かい灰色。同じ灰色なのに。
右手を握った。開いた。握った。
あの指の感触が、まだある。
──好き、か。
火曜に頭の中で転がした二文字。あのときは角があった。今日は角が取れている。三回転がしたら戻れないと思って、二回で止めた。
だが今日、もう三回目が来た。三回目は頭の中ではなく、胸の中で転がった。手のひらの温度と一緒に。
戻れない。
戻りたくない。
──明日、何かが変わる気がした。何が変わるのかはわからない。でも、このままではいられない。この手のひらの温度を、「たまたま」で済ませられるほど、俺は鈍感ではなくなっていた。




