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第4話 : 神代さんのお弁当が俺の机にある

第4話 : 神代さんのお弁当が俺の机にある


 月曜日が来るのを、こんなに意識したのは人生で初めてだった。


 普通、月曜日は人類の敵だ。日曜の夜に憂鬱が始まり、目覚ましの音で絶望が確定する。世界中の労働者と学生が月曜日を呪い、金曜日を崇拝している。カレンダーの宗教があるとすれば、月曜は地獄で金曜が天国だ。


 なのに俺は、土曜の朝から月曜が気になっていた。


 気になっていたのではない。意識していただけだ。弁当を作ると言われたから、それが本当かどうかを確認したい。学術的な関心だ。人間の発言と行動の一致率を検証する、社会学的な興味。


 ──嘘だ。自分の嘘くらい自分でわかる。


 ◇


 月曜日。昼休み。


 教室を出る足取りが、先週より更に速い。もう体育のせいにもできない。今日の四限は数学だった。数学で足が速くなる因果関係は存在しない。


 保健室のドアの前で、一瞬立ち止まった。


 耳を澄ませる。先週から追加された偵察行動。中に人の気配があるかどうか──。


 ある。


 朝倉先生の気配と、もう一つ。軽い足音が保健室の中を移動している。


 神代さんが先に来ている。先週の木曜日に続いて二回目だ。到着順の逆転が定着しつつある。


 ドアを開けた。


「あ、黒瀬くん」


 窓際のベッド──先週まで俺の指定席だった場所の隣に、神代さんが座っていた。テーブル代わりに使っている丸椅子の上に、何かが置いてある。


 布に包まれた、四角い物体。


 弁当だ。


 しかも二段重ねだ。


 金曜日の「二人分」は、社交辞令でも冗談でもなかった。本当に実行された。予告通り、計画通り、一ミリの誤差もなく。軍の補給作戦でもここまで正確な遂行は難しい。


「今日、お弁当持ってきたの。湊くん──あ、黒瀬くん。よかったらこれ、多く作りすぎちゃって」


 出た。


 「多く作りすぎちゃって」。


 金曜の時点で俺が予測していた台詞が、一字一句違わず再生された。しかし予測が的中したことへの満足感は一切ない。それどころではない。


 今、この人は──また。


 「湊くん」と言いかけて「黒瀬くん」に修正した。先々週も同じことがあった。二回目だ。一回なら言い間違い、二回なら傾向。脳の中で「みなとくん」が先に出力されるということは、デフォルト設定がそちらになっているということだ。


 指摘すべきだろうか。「なんで下の名前?」と。


 無理だ。指摘したら理由を聞くことになる。理由を聞いたら答えが返ってくる。その答えが俺の処理能力を超えるものだったら、保健室で立ったまま気絶する。


「……ありがとう、ございます」


 受け取るしかなかった。断る選択肢もあったはずだが、弁当箱を差し出す神代さんの手と、その向こうにある笑顔を見て、「いらない」の五文字が蒸発した。


 ◇


 弁当の蓋を開けた瞬間、保健室の空気が変わった。


 出汁の匂い。醤油の香ばしさ。かすかな甘み。


 一段目。白飯の上に刻み海苔がちらしてある。梅干しが中央に一つ。


 二段目。鶏の唐揚げ。きんぴらごぼう。卵焼き。ブロッコリーの胡麻和え。ミニトマト。


 完璧だった。


 コンビニのメロンパンを手に持ったまま、俺は二段弁当を見下ろしている。メロンパンと弁当の格差が凄まじい。価格の問題ではない。込められた工数の差だ。メロンパンは百五十円と三十秒で手に入る。この弁当は、早朝から台所に立って、米を炊いて、唐揚げを揚げて、卵焼きを巻いて、きんぴらを煮て、ブロッコリーを茹でて──。


 その全工程を、俺のためにやったのか。


 いや、「多く作りすぎた」のだ。本人がそう言っている。二段弁当の片方が余った。偶然だ。合理的な説明がついている。


 ……二段弁当の片方が「偶然」余るか?


 余らない。少なくとも、最初から二段に分けて作っている時点で、渡す相手が設定されている。これは補給計画だ。補給先が特定されている物資の輸送だ。俺は神代さんの兵站に組み込まれている。


「おいしい?」


 神代さんが覗き込むように聞いてきた。近い。顔が近い。先週一週間かけて縮まった距離が、そのまま維持されている。週末のリセットは発生しなかった。


 唐揚げを一つ口に入れた。


 ……うまい。


 外はカリッとして中はジューシーで、下味がしっかり染みている。冷めているのにうまい。弁当の唐揚げがこんなにうまくていいのか。俺が知っている唐揚げ弁当はコンビニの四百五十円のやつで、それとは完全に別の食べ物だ。


「……うまい」


 口から出た。


 評価が自動的に音声出力された。脳のフィルターを経由せず、味覚から直接声帯に伝達された。俺のコミュ障システムには、どうやら食に関するバイパス回路が存在するらしい。


 神代さんが、ぱっと顔を輝かせた。


「ほんと? よかった♡」


 よかった。また「よかった」だ。この人の「よかった」が発動するたびに、俺は何かを失っている気がする。何を失っているのかは特定できないが、きっと「平穏」とか「冷静さ」とか、そのあたりの消耗品だ。


「卵焼き、甘い派と塩派どっちがいいかわからなくて、今日は甘めにしてみたんだけど」


「……甘い方が好き」


 また勝手に口が動いた。食に関するバイパス回路が暴走している。好みの情報を自発的に開示した。これは個人データの漏洩だ。セキュリティ上の重大な欠陥だ。


 神代さんがスマホを取り出して、何かを打った。


「……何してるの」


「メモ♡ 黒瀬くん、卵焼きは甘い派」


 記録されている。俺の食の好みが、リアルタイムでデータベースに登録されている。来週の弁当に反映されるのだろう。来週。来週も弁当があるのか。一回だけではないのか。定期購読みたいに続くのか。


「来週も作ってこようか?」


 読心術か。


「……いや、そんな悪い」


「悪くないよ? 私、料理好きだし。一人分も二人分も手間そんなに変わらないから」


 変わるだろう。量が倍になれば手間も増える。食材費も増える。この人は善意で事実をねじ曲げている。善意の歪曲。罪にはならないが、受け取る側の心臓には負荷がかかる。


「……無理しないで」


「無理じゃないよ」


 反論が封じられた。「無理じゃない」と笑顔で返された時点で、これ以上の抵抗は不可能だ。撤退する。戦略的撤退。


 ◇


 二人で弁当を食べる保健室は、先週までとは少し違った。


 先週は俺がコンビニの何かを食べ、神代さんが自分の弁当を食べていた。並行する二つの食事。交わることのない平行線。


 今日は違う。同じ弁当を分けて食べている。同じ出汁の匂い、同じ味付け、同じ卵焼き。食卓を共にするとはこういうことか、と頭の片隅で思った。


 朝倉先生がデスクからこちらを見て、何か言いたそうな顔をしていた。が、言わなかった。コーヒーカップに口をつけて、視線をパソコンに戻した。今日のスイスは不穏だ。中立を維持しているが、国境沿いに軍を配備している気配がある。


「ねえ黒瀬くん」


「……ん」


「唐揚げとハンバーグ、どっちが好き?」


「……唐揚げ」


「了解♡」


 またメモを打っている。データベースが拡充されていく。俺は弁当一食と引き換えに、食の嗜好データを提供している。個人情報と引き換えに無料サービスを受ける現代のビジネスモデルと構造が同じだ。


 俺は、弁当という名のアプリに課金されている側なのかもしれない。


 ◇


 食事のあと、いつもの時間になった。


 俺は文庫本を開く。神代さんは窓の外を眺める。保健室の静かな午後。


 今日は読めた。十五ページ目から二十ページ目まで進んだ。弁当を食べたことで満腹感が強く、意識が文庫本に集中できたのだろうか。いや、それは関係ない。単純に、神代さんがいる空間に慣れてきただけだ。


 慣れ。


 また慣れだ。この言葉を使うたびに、何かをごまかしている気がする。「慣れ」は便利な容器だ。名前のつかない感情を、とりあえず放り込んでおける。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 神代さんが立ち上がる。弁当箱を包んでカバンにしまう。いつもの切り替え。背筋、表情、声のトーン。数秒で「学年の女神」に再変換。


「黒瀬くん、お弁当箱は明日返してくれればいいから♡」


 弁当箱。


 俺の手元に、神代さんの弁当箱が残っている。空になった一段。これを明日返すということは、明日また保健室で会うことが前提になっている。


 当たり前だ。毎日来ているのだから。だが弁当箱という物理的な証拠が手元にあると、その「毎日」がより確定的に感じられる。約束の担保。人質ならぬ弁質。


「……わかった」


「じゃあまたね♡」


 神代さんが小さく手を振って、保健室を出ていった。


 ドアが閉まったあと、俺は弁当箱を見下ろした。白い、シンプルな弁当箱。蓋の裏に小さく名前が書いてある。「神代」。丁寧な字。


 これを持って教室に戻る。リュックに入れる。家に持ち帰る。洗って、明日返す。


 その一連の行為が、なぜかひどく重大なことのように感じられた。


 ◇


 放課後。


 神代さんは生徒会の用事があるらしく、保健室には来なかった。俺は文庫本の続きを読んで(今日は七ページ進んだ。累計二十七ページ。遅い)、帰り支度をした。


 リュックを背負って保健室を出る。朝倉先生に「お疲れさまです」と言って、廊下に出た。


 ──数歩歩いたところで、前方に人影があった。


 神代さんだ。


 生徒会の用事が終わったのか、廊下の向こうからこちらに歩いてくる。俺に気づいて、小さく手を上げた。


「あ、黒瀬くん。ちょうどよかった」


「……どうした」


「忘れ物しちゃって。保健室にハンカチ置いてきたかも」


 神代さんが俺の横を通り過ぎて保健室に向かう。数秒で戻ってきた。手にハンカチを持っている。


「あった。……一緒に帰る?」


「…………」


 一緒に帰る。下校を共にする。廊下を並んで歩き、階段を降り、昇降口で上履きを履き替え、校門を出る。その一連の動作を、神代澪と共有する。


 それは──目立つ。確実に目立つ。


「……方向、違わないか」


「私、今日は駅の方だから。黒瀬くんも駅でしょ?」


 なぜ知っている。俺の通学経路が、いつの間にか神代さんの情報網に捕捉されている。データベースの範囲が食の嗜好を超えて生活動線にまで拡大している。


 断る理由が見つからなかった。「方向が違う」は封じられた。「用事がある」は嘘になる。「一人で帰りたい」は……言えない。言えないのは、本心ではないからだ。


「……じゃあ」


「やった♡」


 小さくガッツポーズをする神代さんを横目に、俺は昇降口に向かって歩き出した。


 並んで歩く。廊下。階段。昇降口。


 すれ違う生徒たちの視線が、刺さる。チクチクと。いや、チクチクどころではない。好奇の眼差しがレーザー並みの出力で突き刺さってくる。


 無理もない。神代澪と名もなき男子が並んで歩いているのだ。学年の女神と、保健室の幽霊が。組み合わせとして異常だ。漫画なら「作者の頭がおかしくなった」と読者に思われるレベルの不釣り合い。


 神代さんは気にしていない。いつもの柔らかい笑顔で、すれ違う生徒に会釈している。完璧な外の顔。だが俺の方をちらっと見るときだけ、ほんの少し目元が緩む。保健室モードの残滓が、表情の端に滲んでいる。


 校門を出るまでの三分間。


 体感時間は三十分だった。


 ◇


 翌朝。


 教室に入った瞬間、空気が違った。


 いつもの騒がしさの中に、こちらに向けられた注意の矢印がある。視線の温度が数度高い。気のせいではない。気のせいだったらいいのに。


 席についた。リュックから教科書を出す。


 隣の席の八代凛太郎が、椅子をこちらに向けて座っていた。腕を組んで、にやにやしている。この男がこの顔をするとき、ろくなことがない。


「おい黒瀬」


「……おはよう」


「おはようじゃねぇよ。昨日の放課後、お前神代さんと一緒に帰ってただろ」


 速い。情報の伝播速度が音速を超えている。昨日の放課後から今朝までの間に、目撃情報が八代の耳に届いている。


「……たまたま方向が同じだっただけ」


「たまたまね。たまたま。ところで黒瀬」


 八代が身を乗り出す。


「お前、神代さんと昼飯食ってんの?」


 心臓が跳ねた。


「……なんでそれを」


「いや、前からちょっと噂になっててさ。お前毎日保健室行くだろ? 神代さんも最近毎日保健室行ってるって話で。……で、昨日は一緒に帰ってきたと」


 点と点が線で繋がっている。断片的な情報が、八代の頭の中で一本のストーリーに編集されている。事実は「保健室で昼休みを過ごしている」「たまたま一緒に帰った」。だが八代の脳を通過すると、それは「毎日一緒に昼飯を食べて、一緒に帰っている」に変換される。


 間違ってはいない。間違ってはいないが、文脈が全然違う。


「……違う」


「何が?」


「……全部」


「全部って言い方、逆に怪しいんだけど」


 否定が裏目に出ている。コミュ障の否定は、弁明能力の低さゆえに常に敗北する。「違う」と言えば「何が?」と聞かれ、「全部」と言えば「怪しい」と返される。


「ていうか弁当。お前、神代さんに弁当作ってもらってるってマジ?」


 そこまで届いているのか。


 誰だ。誰がその情報を持っている。保健室には俺と神代さんと朝倉先生しかいなかった。朝倉先生が漏らすとは思えない。ということは、弁当箱の受け渡しを誰かが見たか、あるいは神代さん自身が誰かに話したか。


「……作ってもらったわけじゃ」


「えっ作ってもらったの!?」


「だから違──」


「黒瀬お前すげぇな! 神代さんの手作り弁当て!」


 否定が肯定に変換されている。俺の「違う」が八代の脳内プロセッサを通ると「照れ隠し」に再解釈される。言語の壁がここにある。同じ日本語を話しているのに通じない。


 八代の声は教室中に響いていた。周囲のクラスメイトが、こちらを見ている。


「まあまあ詳しくは聞かねえよ。お前口下手だし」


 八代が椅子を元の位置に戻しながら、軽く肩を叩いてきた。


「ただ──お前に春が来たなら、友人として祝福する。うん」


 春は来ていない。春が来たのではなく、春みたいな人間が一方的に保健室に出現しているだけだ。俺は何のアクションも起こしていない。主語は常に神代さんだ。


 だが、その説明を八代に理解させるには、弁護士並みの弁論能力が必要だ。俺にはない。


「…………」


 八代はもうこちらを見ていない。スマホを取り出して、誰かにメッセージを打っている。


 あの親指の動きが、新たな情報伝播の起点になる予感がした。


 ◇


 リュックの中で、洗った弁当箱が軽い音を立てた。


 今日の昼休みに返さなければならない。保健室で。


 昨日までは、昼休みに保健室に行くのは「逃げる」ためだった。教室から逃げて、静けさの中に隠れるために。


 今は──何のために行くのか。


 逃げるため? 弁当箱を返すため? それとも。


 答えを出す前に、一限目のチャイムが鳴った。


 リュックの中の弁当箱が、また小さく鳴った。

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