【第38話】柊栞、最後の調査報告
【第38話】柊栞、最後の調査報告
水曜日の昼休み。廊下。
保健室に向かう途中で、呼び止められた。
「黒瀬くん」
振り返った。柊栞。風紀委員の腕章。ファイルを胸に抱えている。分厚い。辞書か。いや、あの厚みは辞書を超えている。百科事典の一巻分はある。
「少しだけ、お時間いただけますか」
丁寧語。柊の丁寧語には二種類ある。職務上の丁寧語と、本気の丁寧語。今のは後者だ。声が少し低い。昨日の八代と同じだ。周りの人間が次々と真剣モードに切り替わっていく。俺の周辺で一体何が起きている。十一月の季節風か。人を真面目にさせる風。
「……いいけど」
「こちらへ」
柊は中庭に向かって歩き出した。昼休みの中庭。ベンチがいくつかあるが、十一月の冷たさのせいで誰も座っていない。寒さは人を散らす。都合がいい。
ベンチの前で立ち止まった。柊は座らなかった。俺も座らなかった。立ったまま向き合っている。裁判だ。被告人、黒瀬湊。裁判官、柊栞。傍聴人、なし。非公開法廷。
柊が胸に抱えたファイルを見下ろした。表紙が見えた。手書きのラベル。
──「保健室利用状況調査 ── 黒瀬湊・神代澪 関連」
タイトルがもう判決だ。調査対象者が連名で記載されている時点で、結論は出ている。
「……それ、まだ続けてたのか」
声が出た。自分でも驚いた。柊相手だと比較的言葉が出る。この人が向けてくる視線には悪意がない。正義感だけで構成されている。正義感は怖いが、悪意よりましだ。
柊が少し赤くなった。ファイルを抱え直した。
「続けて、いました。風紀委員としての責務ですから」
責務。この人にとっては、本当に責務なのだ。ふざけていない。八代とは根本的に違う。八代は面白がって情報を拡散する。柊は正義感で情報を収集する。方向は逆だが、結果は同じだ。俺の人生が丸裸にされている。
柊がファイルを開いた。中身が見えた。メモ用紙、付箋、手書きの表、日付入りの記録。几帳面な字が並んでいる。赤ペンの線が引かれた箇所がいくつもある。
……これを、一人で作ったのか。
「九月十二日、昼休み。保健室にて二名の同時滞在を初めて確認。十月三日、弁当の授受を確認。十月十八日、体育祭救護テントにて──」
「待ってくれ」
止めた。止めなければ年表が完成する。俺と神代さんの関係年表が、柊の几帳面な字で記録されている。
「……その中身、全部」
「はい。全百二十三件の記録です」
百二十三件。ナンバリングされている。データベースだ。風紀委員の業務範囲を超えている。卒業論文の資料だ。
「……柊」
「はい」
柊が背筋を伸ばした。構えている。
「それ、捨ててくれ」
本気で言った。懇願だ。あのファイルの中身が八代に渡ったら、校内放送のマイクを奪って朗読されかねない。
柊が目を丸くした。
「捨てる、ですか」
「頼む」
柊が唇を引き結んだ。数秒。それから、小さく頷いた。
「……その件については、後ほど検討します。ですが今日は、捨てる前に一つだけ確認させてください」
一つだけ。柊が「一つだけ」と言うとき、それは本当に一つだけだ。八代の「一つだけ」は五つに増えるが、柊は律儀に一つで終わる。
「どうぞ」
柊がファイルを閉じた。胸に抱え直した。百二十三件の記録を、壁にした。その壁の向こうから、柊の目がこちらを見ている。
「黒瀬くん」
「……はい」
柊が一呼吸置いた。ファイルを握る指に力が入った。
「あなたは本当に、神代さんと付き合っていないんですか」
──。
この質問を、何度聞かれただろう。八代に。杏に。クラスメイトに。知らない女子グループに。朝倉先生にさえ。全員に同じ質問をされて、全員に同じ答えを返してきた。「違う」。「付き合ってない」。「そんなんじゃない」。
だが柊の質問は、今までのどれとも違った。
声が震えていた。柊の声が。風紀委員の鎧の下から、一人の女子高生の声が漏れている。この質問は職務ではない。最後の確認だ。この人は百二十三件のデータを集めて、それでもまだ、当事者の口から聞かなければ結論を出せない。
誠実だ。恐ろしく誠実だ。
口を開いた。
「……付き合って、ない」
ここまでは、いつもと同じだ。ここで終わるのが、いつものパターン。否定して、黙って、去る。
だが今日は、言葉が止まらなかった。止まれなかった。
「でも──」
柊の目が動いた。「でも」を待っている。百二十三件分の期待が、その目に載っている。
「……わからない。付き合ってるかどうかは、わからない」
声が小さい。だが、出ている。出ているだけで十分だ。
「でも」
もう一回「でも」を言った。二回目の「でも」は、一回目より少しだけ声が大きかった。
「……大事な、人だと思う」
──。
言った。
言ってしまった。
口から出た瞬間に、血液が顔面に集中したのがわかった。耳が熱い。首が熱い。十一月の中庭の冷気が、顔だけ届いていない。
柊が黙った。
五秒。十秒。中庭の風が吹いた。柊の髪が揺れた。腕章が風に煽られた。
柊が、笑った。
初めて見る笑顔だった。風紀委員の笑顔ではない。調査員の笑顔でもない。安堵の笑顔だ。何かを長い間追いかけていた人間が、やっと追いつけた顔。
「……そうですか」
声が柔らかかった。丁寧語の角が取れている。
「なら、風紀的には問題ありません」
問題ない。百二十三件の調査記録を積み上げて、たどり着いた結論が「問題ありません」。この人は何と戦っていたのだろう。風紀か。噂か。それとも──自分の中の何かか。
「調査終了です」
柊がファイルを閉じた。パチン、と音がした。バインダーの金具の音。百二十三件の記録が、一つの音で封じられた。
「……ほんとに、終了?」
「はい。もう保健室の前で張り込むこともありません。……たぶん」
たぶん。柊にしては曖昧な語尾だ。完璧主義者にも癖は残る。
「ただ、黒瀬くん」
「……ん」
柊がファイルを脇に抱え直した。目が真っ直ぐだ。
「百二十三件、調査しました。私は風紀委員として、不適切利用の証拠を集めていたつもりでした」
つもりでした。過去形。
「ですが、集まったのは全部──」
柊が言い淀んだ。頬が赤い。風紀委員の鎧が薄くなっている。
「……全部、あなたたちが大事にし合っている証拠でした」
──。
大事にし合っている。柊の口から、その言葉が出た。風紀委員が、調査の結論として。百二十三件のデータが示したのは、交際の証拠ではなく。不適切利用の証拠でもなく。
俺が声を出せなかったのは、衝撃のせいだ。コミュ障のせいではない。たぶん。
「ですので」
柊が背筋を伸ばした。風紀委員のモードが戻った。声が元の硬さに戻る。
「このファイルは、風紀委員会の記録棚に保管します。捨てません」
「……捨ててくれ」
柊は首を横に振った。
「記録は記録です。歴史を消すことはできません」
歴史。俺と神代さんの保健室史が、風紀委員会の記録棚に永久保存される。鍵つきの棚であってくれ。南京錠で。暗号付きで。
「ただし、八代くんには絶対に見せません。これは約束します」
それだけで救われた。柊の「絶対」は信用できる。百二十三件分の几帳面さが裏打ちしている。
「……ありがとう」
出た。感謝の言葉。柊に対して「ありがとう」が出た。相手が真剣だったから。真剣に向き合ってくれた人間に対しては、言葉が出る。少しだけ。
柊が軽く頭を下げた。
「こちらこそ。長い間、お騒がせしました」
踵を返した。歩き出した。三歩目で振り返った。
「……黒瀬くん」
「……何だ」
柊の目が、一瞬だけ柔らかくなった。
「神代さんに、ちゃんと伝えてあげてください。……大事な人だって」
顔が熱くなった。耳が燃えている。十一月の寒さが全く効かない。暖房器具が二台起動している。どちらも俺の体内に設置されている。
柊は振り返らなかった。背筋が真っ直ぐなまま、校舎の中に消えた。腕章が最後に見えた。風紀委員。この学校で最も真面目な人間。
◇
中庭に一人残された。
ベンチに座った。冷たい。座面が十一月の温度を吸収している。だが顔はまだ熱い。
「大事な人」。
俺はさっき、柊に向かってそう言った。口から出た。準備していない言葉が、口から出た。
昨日の放課後、保健室で数学のノートに向かいながら考えていたことがある。「主語:俺。動詞:好き。目的語:──」。あのとき、目的語を埋められなかった。
だが今、別の文章が完成した。「神代さんは、大事な人だ」。
主語も動詞も目的語もない。文法的には不完全だ。だが、意味は通る。通っている。通っていなければ、柊が笑うわけがない。あの几帳面な風紀委員が、不完全な文章に納得するわけがない。
「大事な人」は「好き」ではない。まだ距離がある。でも同じ道の上にある。同じ方角を向いている。
昨日、八代に「否定したくない」と気づいた。今日、柊に「大事な人」と口にした。一日で二段階進んだ。このペースは俺にしては異常だ。通常の五倍速だ。何かの力が働いている。周りの人間が、順番に背中を押している。八代。柊。その前は杏。さらに前は朝倉先生。
みんな、見ていたのだ。俺と神代さんを。俺が気づく前から。俺が名前をつけられないまま抱えていたものに、周りの人間は名前をつけていた。
ポケットの中でスマホが震えた。
通知。神代澪。
『湊くん♡ 今日はお弁当、ハンバーグだよ♡ 早く来て♡』
ハンバーグ。保健室でハンバーグ。普通の高校生は教室か食堂で昼を食べる。俺は保健室でヒロインの手作りハンバーグを食べる。この状況を柊が記録したら百二十四件目になる。
立ち上がった。ベンチから離れた。冷たい尻が残る。だが足は保健室に向かっている。
行く。行きたいから行く。
──昨日と同じ二文字が、今日は少しだけ重い。「行く」に意味が増えている。「逃げる」の逆方向に、歩いている。
◇
保健室のドアを開けた。
「あ、湊くん♡ 遅かったね」
神代さんが笑った。いつもの笑顔。保健室モード。ハートつき。甘い声。近い距離。
この笑顔が、大事だ。
さっき柊の前で口にした言葉が、保健室の中で立体になった。二次元の文字列が、目の前の人間の笑顔に変換された。大事な人。ここにいる。笑っている。ハンバーグを作ってきた。俺のために。
「……悪い、ちょっと用事があった」
「用事? 誰と?」
勘が鋭い。この人は文面のハートとは裏腹に、観察眼が鋭い。声のトーンで嘘を見抜く。
「……風紀委員」
「あ、柊さん? また調査?」
また調査。もう調査は終わった。百二十三件で打ち止めだ。
「……いや、調査終了だって」
「そうなんだ♡」
神代さんが小さく首を傾けた。
「柊さん、真面目だよね♡」
真面目だ。恐ろしく真面目だ。あの真面目さに救われた。ふざけた人間の言葉は流せる。真面目な人間の言葉は刺さる。柊の最後の一言──「ちゃんと伝えてあげてください」──が、まだ胸の中に残っている。釘のように。抜けない。抜きたくもない。
「ね、湊くん♡ ハンバーグ冷めちゃうよ」
「……おう」
隣に座った。弁当箱の蓋を開けた。ハンバーグ。楕円形。焼き色が均一だ。付け合わせにブロッコリーと人参のグラッセ。彩りが計算されている。赤と緑と茶色。弁当箱の中に小さな庭がある。
「……すごいな」
出た。また「すごいな」が先に出た。月曜の肉じゃがのときと同じだ。「おいしかった」より先に「すごいな」が口をつく。この人の手間を認識する回路が、味覚の回路より先に起動する。
神代さんが頬を緩めた。
「最近、湊くん『すごいな』って言ってくれるようになったよね♡」
「……言ってない」
神代さんが人差し指を立てた。
「言ってるよ♡ 月曜日も言ってた♡」
言ってた。記録されている。柊のファイルにはないが、神代さんの記憶にはある。どちらの記録が怖いかと聞かれたら、後者だ。
箸をつけた。ハンバーグ。肉汁。口の中で広がる。うまい。
「……うまい」
神代さんが身を乗り出した。
「ほんと?♡」
「ほんと」
土曜の夜と同じやり取り。同じ言葉。だが今日の「ほんと」は、少しだけ目を見て言えた。一秒。一秒だけ。それでも、目を見た。
神代さんが一瞬、動きを止めた。箸が止まった。目が、少しだけ大きくなった。
何かに気づいたのか。目を見たことに気づいたのか。俺の変化を、この人は百二十三件の記録よりも正確に読み取る。
だが何も言わなかった。ただ、笑った。いつもの笑顔。でもいつもより少しだけ──柔らかい。カーテン越しの光のように。
保健室のドアが開いた。
「おっじゃまっしまーす」
杏。定例訪問。
「わ、今日はハンバーグ! いいなあ〜」
杏がいつものように割り込んでくる。サンドイッチを開けながら、俺たちの弁当を覗き込む。
「ね、湊くん。最近なんか表情変わったよね〜」
「……変わってない」
杏が頬杖をついた。
「変わってるって〜。なんだろ、目が違う。前よりちゃんと澪ちゃんのこと見てるっていうか」
──また同じことを言われた。杏にも、八代にも、柊にも。全員が同じことを指摘してくる。俺の視線が変わった。見ないようにしていたものを、見ている。
神代さんが箸を動かしながら、小さく笑った。聞こえないくらいの笑い。だが、隣に座っている俺には聞こえた。
「……何笑ってるんだ」
「なんでもない♡」
なんでもなくないだろう。今の笑いは「なんでもない」の笑いではなかった。何かに満足した笑いだ。何に。俺が杏の指摘を否定しなかったことに、か。
朝倉先生がデスクからこちらを見た。
「……三人とも、あと十分よ」
時計を見た。十二時五十分。あと十分で昼休みが終わる。
十分。短い。最近、昼休みが短く感じるようになった。一年のときは永遠だったのに。時間の感覚が変わったのは、保健室の密度が変わったからだ。一人でいれば時間は止まる。誰かといれば時間は走る。物理法則にはない方程式。
杏が立ち上がった。
「じゃあね〜。あ、そうだ。最近寒いよね。保健室、暖房あるの?」
朝倉先生が答えた。
「エアコンはあるけど、古いからあまり効かないわね」
杏が心配そうな顔をした。
「え〜、澪ちゃん寒がりなのに」
神代さんが少し肩をすくめた。そういえば、今日も制服の上にカーディガンを羽織っている。十一月に入ってからだ。
「大丈夫だよ♡ 保健室あったかいから♡」
あったかい。この保健室が。朝倉先生が「エアコンが効かない」と言った直後に「あったかい」。矛盾している。矛盾しているが──
──この人の「あったかい」は、温度の話ではないのかもしれない。
杏が出て行った。ドアが閉まった。
神代さんが弁当箱の蓋を閉めた。手が少しだけ震えていた。──寒いのか。指先が白い。
俺のブランケットは椅子の背にかけてある。十月に神代さんがくれたものだ。今は俺が使っている。だが本来は、この人のものだ。返すべきか。今は──
まだだ。今じゃない。
だが「今じゃない」がいつまでも続くことは、昨日の八代の言葉が許さない。「ズルいのはやめろ」。真ん中に立ち続けることの期限が、少しずつ近づいている。
「……湊くん」
「……ん」
神代さんが膝の上で指を組んだ。
「今日の放課後も、来る?」
迷わなかった。
「……行く」
迷わなかった。制作時間、ゼロ秒。
神代さんが目を細めた。
「最近、湊くんの返事速いね♡」
速い。速くなった。「たぶん」から「行く」に変わって、「行く」が即答になった。迷いが減った。真ん中に立つ時間が短くなった。
チャイムが鳴った。昼休みの終わり。
立ち上がった。鞄を持った。
「じゃあ、放課後に」
出た。自分から言った。「じゃあ、放課後に」。約束の言葉。次の予定を自分から提示した。
神代さんの目が丸くなった。一秒。二秒。そして──
「──うん♡ 放課後に」
笑った。いつもの笑顔ではなかった。いつもより少しだけ、揺れている笑顔だった。嬉しさを隠し切れていない。保健室モードの鎧の隙間から、素の感情が覗いていた。
ドアを開けた。廊下に出た。冷たい空気。十一月の廊下は保健室より五度は低い。
歩きながら、さっきの言葉を反芻した。柊に「大事な人」と言った。神代さんに「行く」と言った。自分から「じゃあ、放課後に」と言った。
三つの言葉が、この二日間で口から出た。どれも準備していなかった。どれも原稿がなかった。出たとこ勝負。それでも出た。
拙い。遅い。足りない。
だが昨日の俺よりは、前にいる。
教室のドアを開けた。席に着いた。五時間目。数学。二次関数。
──放物線は、一度上がったら必ず下がる。
昨日そう思った。だが今日は違う考えが浮かんだ。
放物線が下がるのは、重力があるからだ。上向きの力より下向きの力が勝つから。なら、上向きの力が勝ち続ければ──下がらないのではないか。
物理的にはあり得ない。だが「好き」は物理ではない。昨日もそう結論づけた。二日連続で同じ結論に達している。再現性がある。科学的だ。──科学ではないのに、科学的とはこれいかに。
シャーペンを握った。ノートに放物線を描いた。今日は歪まなかった。滑らかな曲線。
その放物線の頂点の横に、無意識にハートを──
描かなかった。寸前で止めた。シャーペンの先端がノートに触れる前に、手を引いた。
何をやっている。
ノートを閉じた。深呼吸した。窓の外を見た。灰色の空。昨日と同じ。だが雲の切れ間が、昨日より少し多い。
放課後になれば、保健室に行く。神代さんがいる。いつもの距離で、いつもの声で、いつもの笑顔で。
そして俺は、少しずつ──少しずつだが──「別に」以外の言葉を探している。
見つかるのは、もう少し先かもしれない。
でも、探すのをやめるつもりはない。




