【第36話】深夜のLINE──澪の本音
【第36話】深夜のLINE──澪の本音
二分が経った。
既読の数字が光っている。打っている表示が出た。消えた。出た。消えた。三回目。神代さんの指がスマホの上で迷っている。その迷いが、画面越しに伝わってくる。
俺は布団の中で仰向けのまま、スマホを顔の上に掲げていた。腕が疲れてきた。だが下ろせない。表示が消えるたびに、何かが遠くなる気がした。
四回目。出た。今度は消えなかった。
来た。
『……私がいつもふざけてるみたいに言ってること、迷惑じゃない?』
──。
読んだ。二回読んだ。三回読んだ。
ふざけてるみたいに言ってること。甘い語尾つきの「湊くん」。「養うね」「二人きり最高」──あのハートつきの全部。甘い声。近い距離。保健室の中だけで展開される、外の世界とは違う温度の言葉たち。
あれが「ふざけてるみたいに」。
迷惑じゃないか、と聞いている。
心臓の音が静かになった。さっきまで杏のスタンプやグループLINEで騒がしかった胸の内側が、急に凪いだ。怒りでも悲しみでもない。もっと深い場所にある、名前のない感覚。この人が、聞いている。確認している。俺に。
既読をつけた。
打たなかった。
打てなかった、のほうが正確だ。指が動かない。何を打てばいいのかわからないのではない。打ちたいことはある。あるのに、文字にならない。
一分が過ぎた。
画面の上で時計が動いている。二十三時二十一分。二十二分。二十三分。一分ごとに数字が変わる。既読のままだ。返信がない。神代さんの側からは「既読がついたのに返事が来ない」状態が続いている。
──この沈黙は、まずい。
俺のいつもの沈黙は「言葉が出ない」だ。だが深夜のLINEで「迷惑じゃない?」に黙ることは、「迷惑だ」に等しい。
二分。三分。五分。
指が動かない。「迷惑じゃない」と打ちたい。四文字。たった四文字だ。月曜日に六分かけて五文字を打った。火曜に三分かけて二文字を打った。金曜には五十三秒で五文字を打てるようになった。成長した。したはずだ。なのに今、四文字が打てない。
なぜ打てないのか。
「迷惑じゃない」は本心だ。嘘ではない。迷惑だと思ったことは一度もない。困惑はした。心臓は何度も止まりかけた。顔は何度も熱くなった。逃げたくなったことも、一度や二度ではない。だがそれを「迷惑」と呼ぶ人間は、保健室に毎日通わない。弁当を食べない。LINEの返信に十八分かけない。
迷惑じゃない。それは確かだ。
だが、「迷惑じゃない」だけで足りるのか。この四文字は正確なのか。もっと別の言葉があるのではないか。もっと──正直な言葉が。
七分。
駄目だ。正直な言葉は出てこない。出てこないなら、今ある言葉を出すしかない。不完全でも。足りなくても。黙っているよりはましだ。既読の沈黙が、この人を傷つける方が怖い。
十分。
打った。
『迷惑じゃない』
送信。制作時間十分。四文字。一文字あたり二分三十秒。過去最低の効率。だが、打てた。打って、送った。
既読。一秒。
──一秒。いつもの二秒より速い。画面を見つめていたのだ。十分間、ずっと。
返信はすぐには来なかった。
十秒。二十秒。三十秒。
来た。
『……ほんと?』
三文字。ハートなし。疑問符だけ。声が聞こえた気がした。小さい声。保健室の声ではない。もっと奥の。カーテンの向こうの、さらに向こうの。
打った。
『ほんと』
制作時間十五秒。迷わなかった。「ほんと」と聞かれたら「ほんと」と返す。嘘をつく理由がない。
既読。一秒。
間があった。三十秒くらい。長い三十秒だった。時計の秒針が聞こえた。自分の部屋の、壁掛け時計の。普段は気にならない音が、深夜には響く。
来た。
『……ありがとう』
ハートなし。二回目。この一週間で、神代さんのLINEからハートが消えたのは初めてだった。──いや、「ちょっと聞いてもいい?」で一回。「ほんと?」で二回。「ありがとう」で三回。三連続でハートがない。
ハートがないということは、冗談ではないということだ。「ふざけてるみたいに言ってること」を聞いた本人が、今は「ふざけてるみたい」にしていない。素のまま、打っている。
返信を打とうとした。何か。「気にすんな」とか「大丈夫だ」とか。だが、どれもしっくりこなかった。打っては消した。打っては消した。──俺が今度は、打っている表示を出したり消したりする番だ。
結局、何も打てなかった。三十秒が過ぎた。
新しいメッセージが来た。
『じゃあ、明日も♡』
──戻った。
ハートが戻った。声のトーンが戻った。文字列の温度が、一気に保健室モードに切り替わった。「ふざけてるみたいに言ってること」の、あの声に。
安堵した。
自分でも驚くほど、安堵した。ハートが消えた三通の間、胸の奥で何かが縮んでいた。縮んでいたものが、ハート一つで元に戻った。──いや、戻ったのではない。膨らんだ。前より少しだけ大きくなって、胸の中で存在感を増した。
『おやすみ』
制作時間四秒。過去二番目の速さ。推敲なし。句点なし。波線なし。ただの五文字。だが、今夜の「おやすみ」には、火曜日の「おやすみ」とは違うものが載っている気がした。何かは言語化できない。いつものように。
返信。
『おやすみ♡』
ハートが一つ。一つだけ。いつもは文末に二つ三つ散らすこの人が、今夜は一つだけ。一つだけの方が、重い。重いのに、やさしい。
スマホを枕元に置いた。画面が暗くなった。
天井が見えた。暗い天井。何も映っていない。なのに、さっきの文字列が残像のように浮かんでいた。
「迷惑じゃない?」
この質問の意味を、俺は正確に理解しているだろうか。
あの人は「ふざけてるみたいに言ってること」と自分で表現した。自覚があるのだ。保健室の中で、ハートつきの甘い言葉を並べていることに。あの呼びかけも、あの距離感も。あれが外から見たら「ふざけてるみたい」に映ることを、わかっていて、やっている。
わかっていて、やっている。
なら、なぜ「迷惑じゃないか」を聞くのか。自覚があるなら、やめることもできるはずだ。やめずに続けている。続けた上で、迷惑かどうかを確認した。
──もしかして、あれは「冗談を本気にしていいのか」を聞いていたのではないか。
ハートも、甘い声も、近い距離も、弁当も、全部が──冗談の皮を被った何かだとしたら。
その仮説は、心臓に悪い。聞いて「冗談だよ」といつもの甘い声で返されたら、俺は──
冗談だったら嫌なのか。
嫌だ。
その答えが出た瞬間、背筋が冷えた。いつもなら「わからない」で保留にする場所を、通り過ぎてしまった。「嫌だ」。冗談だったら嫌だ。あの甘い言葉が全部演技だったら、嫌だ。あのハートに意味がなかったら──
まずい。考えすぎている。深夜のテンションが思考を暴走させている。寝ろ。今すぐ寝ろ。明日は日曜日だ。何もない日だ。寝て起きたら、冷静になれる。
目を閉じた。
寝つくのに、一時間かかった。
◇
日曜日は、また何もしなかった。
テレビをつけた。消した。課題を広げた。閉じた。スマホを開いた。昨夜のトーク履歴。
『迷惑じゃない』『……ほんと?』『ほんと』──短いやり取りが画面に並んでいる。その下に『……ありがとう』。ハートなし。そして最後の二通。
『じゃあ、明日も♡』
そして俺の返信。
『おやすみ』
最後に、ハートつきの「おやすみ」で、トークは終わっている。
七通。全部合わせても原稿用紙半分に満たない。だがこの七通の重さは、今週一週間分のLINEを超えている。
昼過ぎに通知が来た。
『湊くん♡ 今日はなにしてる?』
通常営業だ。ハートつき。保健室モード。昨夜の「ありがとう」の声は、もう聞こえない。いつもの神代さんに戻っている。
──戻っている、のか。それとも、被り直しただけなのか。冗談の皮を。
『任せる』と返した。三十秒で。
『任されたっ♡ 楽しみにしてて♡』
楽しみにしてて。弁当を。──楽しみにしている。弁当を、ではなく。保健室を。月曜日を。この人に会うことを。
◇
月曜日。保健室。
四時間目が終わった。昼休みのチャイム。鞄からおにぎりを──出さなかった。今日は弁当がある。神代さんが「任された」弁当。俺はコンビニに寄っていない。寄る必要がなかった。
保健室のドアを開けた。
「あ、今日も来たの」
朝倉先生。いつもの挨拶。いつもの声。月曜日のルーティン。
「……はい」
指定席に座った。ベッドの端。先週の月曜日と同じ場所。二週間前から何も変わっていないように見える場所。
十二時十二分。ドアが開いた。
足音。軽い。上履きのゴム底がリノリウムを踏む音。
「……こんにちは、朝倉先生」
先生が軽く頷いた。眼鏡の奥の目が一瞬だけ神代さんを見た。体温を測る視線。
「はい。元気そうね」
「はい、元気です」
外の声。完璧な笑顔。隙がない。──だが俺は知っている。土曜日の夜のこの人の声を。文字列になった、ハートのない三通を。
カーテンの向こうを回って、神代さんが現れた。
目が合った。
「湊くん♡」
甘い。いつもの声。保健室モード全開。切り替えが速い。廊下から保健室に入って、三歩で声が変わる。プロの仕事だ。
だが──
声の底に、何かがある。土曜日の夜の重さが、薄い膜のように残っている。聞こえる人には聞こえて、聞こえない人には聞こえない程度の。俺には聞こえた。たぶん。自信はないが、たぶん。
「……おう」
神代さんが隣に座った。いつもの距離。近い。肘が触れそうな距離。触れない。そのぎりぎりを、この人は正確に維持する。近いのに触れない。触れないのに近い。
弁当箱を取り出した。二段重ね。蓋を開ける前から出汁の匂いがした。
「今日はね、肉じゃが♡」
「……肉じゃが」
蓋に手をかけた。神代さんが嬉しそうに頷いた。
「任せるって言ったから、好きなもの作った♡」
好きなもの。俺は肉じゃがが好きだと言った覚えがない。──あるか。十月の保健室で杏が「好きな食べ物なに?」と聞いたとき、俺は「……別に」と答えた。杏が「肉じゃがとかカレーでしょ、男子って」と勝手に言い、俺は否定しなかった。否定しなかった=肯定。いつもの方程式。あの一瞬を、覚えていたのか。
弁当の蓋を開けた。肉じゃが。じゃがいもが煮崩れていない。にんじんが均一の厚さに切られている。しらたきが丁寧に結ばれている。家庭料理の完成形。
「……すごいな」
出た。口から。「おいしかった」よりも先に、「すごいな」が出た。作る手間を想像したのかもしれない。日曜日に、「任された」弁当を作っていた人の時間を。
神代さんが一瞬、目を見開いた。
「……すごい?」
「いや、その……」
言い直そうとした。言い直す必要はなかった。神代さんの顔が、ふわりと崩れた。崩れたというのは悪い意味ではない。完璧の表面が柔らかくなった。保健室モードですらない。もっと無防備な。土曜の夜の「ありがとう」に近い温度の表情。
「ありがとう♡」
ありがとう。俺が「すごいな」と言っただけで、この人はありがとうと言う。交換比率がおかしい。三文字で四文字を買っている。
箸をつけた。肉じゃが。味が──うまい。だし醤油がじゃがいもの芯まで染みている。肉が柔らかい。しらたきに味が入っている。
「……うまい」
「ほんと?」
ほんと。昨夜と同じ三文字。だが、今の「ほんと?」にはハートがついていない代わりに、声が上ずっていた。嬉しいのを抑えきれない声。
「ほんと」
これも昨夜と同じ返し。同じ言葉でも、昨夜とは重さが違った。昨夜は「迷惑じゃない」の確認だった。今は「うまい」の確認。軽い。軽いのに、地続きだ。
保健室のドアが開いた。
「おっじゃまっしまーす」
杏。月曜の定例訪問。語尾がいつものように跳ねている。
「あ、お弁当タイム? わ、肉じゃがだ。おいしそ〜」
杏がベッドの端に座った。自分のサンドイッチを開けながら、俺たちの弁当を覗き込む。いつもの風景。いつもの昼休み。
杏が俺と神代さんを交互に見た。二往復。
「……なんか」
首を傾げた。
「二人とも顔赤くない?」
──赤いか。赤いのか。自分の顔は見えない。神代さんの顔は──見た。見てしまった。確かに、耳の端が少し赤い。肉じゃがの湯気のせいだ。そういうことにする。
「……赤くない」
「赤くないよ?」
同時だった。
声が重なった。俺と神代さんの否定が、完全に同じタイミングで発声された。ハモリではない。シンクロだ。打ち合わせなし。反射の一致。
杏の目が丸くなった。
「……今、ハモった」
「ハモってない」
──と言った瞬間、隣から同じ声が重なった。
「ハモってないよ?」
──また同時。
杏が口に手を当てた。笑いを堪えている。堪えきれていない。肩が震えている。
「何かあったでしょ〜、絶対〜」
「何もない」
また重なった。神代さんの声が、俺の声の上に乗った。
「何もないよ♡」
三回目。三回連続でシンクロした。否定のタイミングが完全に一致している。二人揃って障害が同期している。
杏が笑い転げた。
「絶対なんかあった〜。ね、教えてよ〜」
教えない。土曜日の深夜のLINEの話を、昼の保健室で説明する方法が存在しない。
「……何もない」
四回目の否定。今度は俺だけだった。シンクロが崩れた。神代さんは黙っていた。弁当を食べている。箸の動きが少しだけ速い。照れ隠しの速度。
杏が目を細めた。赤外線センサーの出力が上がった音が聞こえた。
「ま、いいけど〜。仲良しなのはいいことだよ〜」
杏はそれ以上追及しなかった。この人は深追いしない。核心の五メートル手前で引き返す。追い詰めない。だから人が安心する。
杏がサンドイッチを食べ終えて、立ち上がった。
「じゃあね〜。あ、湊くん」
「……ん?」
杏がドアノブに手をかけたまま、振り返った。
「最近、澪ちゃんのこと見る目が変わったよね」
──。
「……変わってない」
杏がにっこり笑った。
「変わってるよ。前はね、見ないようにしてたの。今はね、見てるの。それって、全然違うんだよ」
ドアが閉まった。
杏の言葉が、保健室の消毒液の匂いの中に残った。
見ないようにしていた。今は見ている。──そうか。そうなのか。自分では気づかなかった。気づかないうちに、目が変わっていた。視線の方向が変わっていた。避けていたものを、いつの間にか探している。
神代さんが隣で弁当箱の蓋を閉めた。パチン、と小さな音。先週と同じ音。
「……湊くん」
「……ん」
神代さんが膝の上に手を置いた。指先が少し動いている。
「今日の弁当、また作るね♡」
「……おう」
神代さんが首を少し傾けた。
「何がいい?」
また献立会議だ。だが今度は迷わなかった。
「……任せる」
神代さんが笑った。いつもの笑顔。保健室の顔。甘くて、近くて、やわらかい。
だが俺にはもう、この笑顔の奥に別のものが見えている。土曜の夜の三通。ハートのない声。「迷惑じゃない?」と聞いた、あの真剣な温度。
この人は笑っている。だがその笑顔は、俺の「迷惑じゃない」を確認してから笑っている。確認が必要だった。確認しなければ笑えなかった。あの甘い声も、近い距離も、ハートも全部──許可を取ってから、並べている。
……冗談、じゃないのかもしれない。
本当に。
朝倉先生が不意に声を出した。
「はい、あと五分。教室に戻りなさい」
時計を見た。十二時五十五分。いつも通りの時間。いつも通りの声。
神代さんが立ち上がった。弁当箱を鞄にしまった。
「じゃあ、また放課後♡」
また放課後。日常の言葉。繰り返しの約束。──だが土曜の夜のLINEと同じ構造だと気づいた。「明日も」「また放課後」。この人は毎回、次の約束を確認している。続くことを、確認している。
ドアが閉まった。
朝倉先生がコーヒーカップを置いた。陶器がデスクに当たる小さな音。
「……黒瀬くん」
「……はい」
先生は眼鏡の奥からこちらを見た。何かを量るような目。
「あの子の弁当、今日もおいしかったでしょう」
一拍、間を置いた。
「……はい」
先生は何も言わなかった。ただ頷いて、カップを洗いに流しに向かった。
◇
午後の教室。六時間目。英語。
教科書を開いたが、文字が頭に入らない。長文読解の主語も述語も目的語も、どうでもいい。
「迷惑じゃない」。
あれは正確だったのか。もっと正確な言葉があったのではないか。
──迷惑じゃない。嬉しい。
その単語が頭をよぎった瞬間、シャーペンの芯が折れた。力を入れすぎた。
嬉しいのだ。あの甘い言葉が。ハートが。近い距離が。弁当が。全部。「迷惑じゃない」ではなく「嬉しい」が正解だったのだ。
だが「嬉しい」は打てなかった。今も言えない。
わからないが、一つだけわかることがある。土曜日の夜、十分間かかったのは、「迷惑かどうか」を考えていたのではない。「迷惑じゃない」の先にある言葉を探していたからだ。見つからなかった。だから四文字を送った。
次は──見つかるだろうか。
窓の外で風が鳴った。十一月の風。冷たい。教室は暖房が入っている。保健室より少しだけ温度が低い。
ポケットの中のスマホは、今は静かだ。夜になれば、また通知が来る。甘い文面。ハートつき。
今夜は──何を返そう。
「おいしかった」は打てるようになった。「おやすみ」も送れるようになった。「すごいな」は今日、口で言えた。
一歩ずつ。遅い。遅いが、止まってはいない。
シャーペンの芯を入れ替えた。ノートの上の折れた芯を指で弾いた。小さな黒い線が、白い紙の上に残った。




