【第35話】神代さんのLINE(文面が甘すぎる件)
【第35話】神代さんのLINE(文面が甘すぎる件)
火曜日の夜。二十一時四十三分。
スマホが震えた。通知バナー。神代澪。
『湊くん、今日も保健室ありがとう♡ 卵焼き、おいしかった?』
卵焼きは、おいしかった。約束通り月曜の翌日に持ってきた弁当。二段重ねの上段に、ふわふわの卵焼きが三切れ並んでいた。甘い味付け。出汁が効いている。焦げ目がない。均一な巻き方。料理上手な母親が作るような──いや、料理上手な神代澪本人が作った卵焼き。プロの仕事だ。
おいしかった。それは事実だ。事実なのだから、そう返せばいい。「おいしかった」。九文字。簡単だ。小学一年生でも打てる。
──打てない。
親指がスマホの上で停止している。「おいしかった」。打とうとした。打ちかけた。「お」まで打った。消した。「おいし」まで打った。消した。なぜ消したのか。照れくさいからだ。おいしかったと伝えることが、なぜこんなに恥ずかしいのか。口で言うのも無理だが、文字にするのも無理だった。文字なら大丈夫だと思っていた。甘かった。文字列にしても恥ずかしさは消えない。むしろ記録に残る分だけ質が悪い。
画面を見つめた。三分経過。
打った。
『うん』
二文字。制作時間三分。「おいしかった」は九文字で打てなくて、「うん」は二文字で三分かかった。一文字あたり九十秒。効率は昨日よりわずかに改善しているが、コミュニケーションとしては破綻している。
既読。二秒。神代さんの既読速度は光通信だ。俺のメッセージが届いた瞬間にスマホを見ている。常時オンライン。あるいは、俺のトーク画面を開いたまま待っていた可能性がある。その可能性を考えると、胸の奥が変な音を立てた。
返信。
『うん、だけ? もうちょっと感想聞きたいな♡』
──感想。卵焼きの。感想を。求められている。食レポか。俺にグルメリポーターの才能はない。語彙が足りない。「おいしかった」以外に卵焼きの感想がない。「ふわふわだった」はある。「甘かった」もある。だがそれを打つのか。打つのか、俺は。
打った。
『ふわふわだった』
制作時間七分。
返信。即座に。
『ふわふわ♡ 嬉しい! 明日は何がいい?』
ハートが見える。嬉しそうだ。文面から喜びが飛び散っている。「ふわふわ」の三文字で、こんなにテンションが上がる人がいる。俺の語彙の貧しさが、逆に一語の重みを増しているのかもしれない。いや、それは美化しすぎだ。
『なんでもいい』
制作時間四分。
返信。
『なんでもいいが一番困るんだよ♡ じゃあ唐揚げにするね』
勝手に決まった。明日の弁当は唐揚げ。俺の意思は反映されていないが、「なんでもいい」と答えた以上、選択権を放棄したのは俺だ。民主主義の敗北。投票を棄権した人間に文句を言う資格はない。
◇
水曜日。唐揚げはおいしかった。報告はしなかった。
だが夜、またLINEが来た。
『今日の唐揚げ、おいしかった?♡』
催促されている。火曜日の「もうちょっと感想聞きたいな」が伏線だったのか。毎日の食レポを求められているのか。日刊・弁当レビューの連載が始まるのか。
『おいしかった』
今度は打てた。制作時間二分。火曜日には打てなかった九文字が、水曜日には打てた。成長。あるいは慣れ。あるいは諦め。
『やった♡ 湊くんが「おいしかった」って言ってくれた♡』
ハートつき。嬉しそうだ。文面から嬉しさが溢れている。九文字でこんなに喜ぶ人がいる。俺の語彙の貧しさが、逆に一つ一つの言葉の重みを増しているのかもしれない。いや、それは美化しすぎだ。単にコミュ障が褒められただけだ。
その後もLINEは続いた。
『今日の保健室、楽しかった♡』
『明日も楽しみ♡』
間を置かずに三通目。
『おやすみ、湊くん♡』
三連投。保健室の感想、明日への期待、就寝の挨拶。この人のLINEには構造がある。日報のような規則性。ただし日報にハートはつかない。
返信。
『おやすみ』
制作時間──十八分。
「おやすみ」。五文字。これだけに十八分かかった人間を、世界は信じるだろうか。信じない。俺自身が信じない。だがこの五文字の裏には十八分間の攻防がある。
まず「おやすみ」を打った。次に末尾に「。」をつけるか迷った。「おやすみ。」は硬い。句点があると事務連絡になる。「おやすみ」は軽い。軽いが、素っ気ないか。次に「おやすみ〜」を検討した。波線。俺のキャラではない。打った瞬間に全消しした。指が拒否した。次に「おやすみ!」を考えた。感嘆符。テンションが高すぎる。俺が感嘆符を使うと事故報告に見える。次にスタンプを検討した。スタンプ一覧を開いた。デフォルトのスタンプ。どれも表情が豊かすぎる。俺の感情のレンジを超えている。閉じた。結局、無装飾の「おやすみ」に戻った。十八分かけて原点に帰った。登山して同じ場所に戻るみたいに。
送信。
既読。三秒。
返信はなかった。「おやすみ」に「おやすみ」で返す無限ループを避けたのだろう。やさしさだ。あるいは眠かったのか。
スマホを充電ケーブルに繋いだ。画面が暗くなった。天井を見た。
──神代さんのLINEは、保健室と同じだ。
甘い。近い。距離感がバグっている。文字列になっても変わらない。むしろ文字の方が大胆かもしれない。保健室では俺のリアクションを見て微調整する余地がある。LINEにはそれがない。一方的に甘さが送りつけられてくる。砲撃のように。迎撃手段がない。「うん」で応戦しているが、焼け石に水だ。
だが──嫌ではない。
嫌ではない、ということを認めるのに十八分はかからなかった。三秒くらいで認めた。認めたことは誰にも言わないが。
◇
木曜日の昼休み。保健室。
神代さんが弁当を広げた。今日は鮭の西京焼き。付け合わせにほうれん草の胡麻和え。隙がない。毎日違うメニューを用意してくる生活支援能力。兵站の多様化。補給線が一本ではなく五本ある。
俺は卵焼きの残りを食べた。昨日の弁当の残り──ではなく、今日は今日で新しい卵焼きが入っている。レギュラーメンバーらしい。
「ね、湊くん♡」
「……ん」
神代さんが箸を止めた。こちらに体を向けた。
「昨日の唐揚げ、味付け変えてみたんだけど、気づいた?」
──気づいていない。おいしかったことは覚えている。味付けの変化は検出できなかった。俺の味覚センサーは大雑把だ。「おいしい」と「普通」の二段階しかない。
「……おいしかった」
口で言った。LINEでは二分かかった九文字が、口では二秒で出た。──いや。先週までは口でも出なかった。文字で一度打ったから、音声に変換しやすくなったのかもしれない。LINEが練習台になっている。
神代さんが目を細めた。
「……ふふ。湊くん、最近ちゃんと感想言ってくれるようになったよね♡」
最近。この人にとっての「最近」は月曜日からの三日間だ。三日で「ようになった」と言われている。成長スピードとしてどうなのか。三日前まで感想が言えなかった人間が三日で言えるようになったことを、褒めるべきか嘆くべきか。
杏が保健室に入ってきた。
「おっじゃましま〜す。あ、お弁当タイム? 相変わらずおいしそう〜」
杏がベッドの端に座った。自分のパンを開けながら、俺たちの弁当を覗き込む。
「澪ちゃん、毎日お弁当作ってるの? すごいね〜」
「湊くんが食べてくれるから、作りがいがあるの♡」
食べてくれるから。俺は食べているだけだ。渡されたものを口に入れているだけだ。それを「食べてくれる」と表現するのは好意的解釈がすぎる。だが、訂正する勇気はない。
杏がスマホを触りながら、ふと顔を上げた。
「あ、そういえば。湊くん」
杏の目が光った。赤外線センサーが起動した音が聞こえた気がした。
「澪ちゃんにLINEの返信遅くない?」
──なぜ知っている。
「グループLINE見てたらさ、澪ちゃんが『湊くんの返信待ちなう♡』って投稿してて。投稿時刻と返信時刻見たら、十八分空いてるんだよね」
計測されていた。十八分の攻防が数字として記録されていた。グループLINEに。杏の観察眼の前に。
「……別に。考えてから打ってるだけだ」
「十八分も? 何を考えてるの〜?」
何を考えていたか。「おやすみ」の末尾に句点をつけるかどうかで悩んでいた。波線を検討して全消しした。スタンプの表情が豊かすぎて断念した。──この経緯を説明する気はない。墓まで持っていく。
「……文面を推敲してた」
「推敲!? おやすみに!?」
杏が笑い転げた。保健室のベッドが揺れた。朝倉先生がカーテンの向こうから「静かにしなさい」と低い声を出した。杏が口を押さえた。
神代さんがこちらを見ていた。笑っている。だがいつものからかう笑いではなかった。目の奥が柔らかい。
「……推敲してくれてたんだ」
声が小さかった。甘いけれど、小さい。
「……別に」
「ちゃんとしなよ〜。澪ちゃんがかわいそうじゃん、十八分も待たせて」
杏がパンをかじりながら言った。口の中のパンが膨らんで、言葉が丸くなっている。だが内容は鋭い。
「返信は早い方がいいよ。内容より速度! 気持ちは速さに出るから」
内容より速度。コミュニケーション理論としてどうなのかはわからないが、杏の持論らしい。この人は返信が速い。三秒以内。常時オンライン。神代さんと同じ族だ。
「……善処する」
「善処って! ビジネス用語じゃん!」
杏が立ち上がった。パンの包み紙を丸めてゴミ箱に投げた。外れた。拾って入れ直した。
「じゃあね〜。仲良くね〜」
ドアが閉まった。
沈黙。
神代さんが俺の横で、弁当箱の蓋を閉めた。パチン、と小さな音。
「……湊くん」
「……ん」
神代さんの声が少し低くなった。甘さの中に、真剣な芯がある。
「返信、遅くてもいいよ♡」
杏の助言と真逆のことを言っている。
「考えてくれてるってことでしょ。それ、嬉しいから♡」
──十八分かけて「おやすみ」を推敲していたことが、嬉しいのか。普通は怒る。呆れる。「もっと早く返して」と言う。この人は「嬉しい」と言う。基準がおかしい。おかしいが──救われた。少しだけ。
◇
金曜日の夜。二十二時。
布団の中でスマホを開いた。LINEの通知。三件。
『今日もありがとう♡』
『唐揚げのレシピ変えてみようかな。湊くん、にんにく平気?』
一分後、もう一通。
『明日お休みだね。ちょっとさみしい♡』
三連投。火曜日のパターン。日報型。ただし最後の一文が新しい。「さみしい」。保健室で会えない土曜日が寂しいと言っている。俺の存在が、この人の土曜日の充実度に影響しているということか。逆は──考えない。考えると手が止まる。
返信。
『にんにく大丈夫』
制作時間四分。返信速度が日々改善している。月曜六分、火曜三分、水曜十八分(異常値)、木曜からは平均四分。業務改善レポートみたいだ。上司がいたら「まだ遅い」と赤ペンが入る。
既読。二秒。
『やった♡ にんにく唐揚げにする!』
献立が確定した。来週の弁当メニューが俺の返信によって決定されていく。俺はいつから献立会議のメンバーになったのか。
もう一つ打った。
『おやすみ』
制作時間──五十三秒。
昨日の十八分から五十三秒。劇的改善。杏の「内容より速度」を実践したわけではない。ただ、木曜の夜に気づいたのだ。「おやすみ」は「おやすみ」だ。句点もスタンプも波線もいらない。そのままで、送ればいい。
既読。
返信。
『おやすみ♡ 今週たくさんLINEできて嬉しかった』
今週。月曜日からの五日間。たくさんLINEした、と言われると量的には少ない。俺の発言は「うん」「おいしかった」「ふわふわだった」「なんでもいい」「にんにく大丈夫」「おやすみ」。全部合わせても原稿用紙の一行に満たない。だがこの人にとっては「たくさん」なのだろう。基準が低い。低いが──低い基準で喜んでくれるなら、俺にもできることがある。
スマホを枕元に置いた。画面が暗くなった。天井を見た。
──文字は、楽だ。
声より楽。顔を見なくていい。沈黙が怖くない。十八分かけても相手は待ってくれる。五十三秒で送っても受け取ってくれる。文字の世界には、保健室と同じ空気がある。ゆるくて、甘くて、逃げ場がある。
だが同時に、文字には限界がある。
「おいしかった」は打てるようになった。「おやすみ」も送れるようになった。だが、その先の言葉は打てない。名前のつかない感情を、五十音のどの組み合わせで表現すればいいのか、まだわからない。スマホの予測変換は「好き」を候補に出さない。一度も打ったことがないから。学習データがない。
──まだ、打てない。
目を閉じた。金曜の夜。明日は休みだ。保健室のない土曜日。LINEだけが繋がっている。細い線。電波の線。それだけで十分だと思う自分と、足りないと思う自分が、布団の中で背中合わせに座っている。
◇
土曜日。
午前中、何もしなかった。日曜の課題を広げた。閉じた。テレビをつけた。消した。先週の日曜日と同じだ。ルーティンが確立されている。非生産的な休日のルーティン。
十四時。スマホが鳴った。
杏からのグループLINE。メンバーは四人。俺、神代さん、杏、八代。文化祭の打ち上げ用に作られたグループが、打ち上げが終わっても生き残っている。ゾンビのようなグループだ。
杏の投稿。
『みんな〜! 来週の月曜、打ち上げの写真まとめたよ〜 見てみて〜』
写真。文化祭の。スワイプした。喫茶店の看板。クラスの集合写真。──保健室の前の廊下。俺と神代さんが並んで歩いている後ろ姿。
いつ撮られたのか。誰が撮ったのか。構図としては「日常」だが、二人の肩の距離が近い。
八代が即座に反応。
『いい写真じゃん。黒瀬と澪ちゃんのツーショット保存した』
保存するな。
神代さんの返信。
『この写真、いいね♡ 湊くんの後ろ姿かっこいい♡』
後ろ姿がかっこいい。後ろ姿に何の情報量があるのか。背中と鞄しか映っていない。それを「かっこいい」と評価する基準が理解できない。
杏が追撃。
『湊くんの感想は?』
四人の既読が揃った。全員が俺の返信を待っている。パブリックな場で。グループLINEという公開法廷で。
──三人の視線が画面越しに刺さる。
打った。
『別に』
八代の返信。
『出た。黒瀬の「別に」。ツンデレ乙』
ツンデレではない。語彙がないだけだ。
杏。
『湊くん〜もうちょっとなんか言ってあげなよ〜。澪ちゃんがかわいそうでしょ〜』
また「かわいそう」だ。杏は俺の返信の短さが神代さんを傷つけていると思っている。だが神代さん本人は──
『別に、って湊くんらしくて好き♡』
好き。
文字列。四文字。画面の上。グループLINEの。四人が見ている場で。
──落ち着け。「らしくて好き」だ。「好き」単体ではない。「別にが好き」だ。性格の好みの話だ。告白ではない。日本語を正確に解析しろ。パーサーを落ち着かせろ。
だが心臓は解析結果を待たずに加速した。パーサーが追いつく前に鼓動が先行した。感情が論理を追い越している。
スマホを伏せた。画面を下にした。天井を見た。呼吸を整えた。
三分後、スマホを戻した。グループLINEは杏と八代のスタンプで埋まっていた。
◇
夜。二十三時十七分。
もう寝ようと思っていた。歯を磨いた。布団に入った。電気を消した。
スマホが光った。
個別LINE。神代澪。
『湊くん、起きてる?』
起きている。正確に言えば、起きていたところに通知が来た。目が冴えた。
『起きてる』
制作時間八秒。過去最速。推敲ゼロ。反射で打った。考えるより先に指が動いた。杏の「内容より速度」が無意識に発動した。
既読。一秒。
間があった。打っている表示。消えた。また打っている。消えた。繰り返し。神代さんが文章を打って消している。珍しい。この人のLINEは常に迷いがない。ハートつきの流暢な文が秒速で飛んでくる。それが今、止まっている。
三十秒。四十秒。一分。
来た。
『……ちょっと、聞いてもいい?』
ハートがない。
この一週間で初めて。月曜から金曜まで、神代さんのLINEには必ずハートがついていた。一通に一つ以上。欠かさず。それが今、ない。文頭の三点リーダも、画面越しにためらいが見える。
胸の奥で、何かが引っかかった。小さな棘。
土曜の夜の静けさが、急に深くなった。
布団の中でスマホを握り直した。画面の光が天井に反射している。
打った。
『いいよ』
制作時間、三秒。
既読がついた。
打っている表示が出た。消えた。出た。消えた。
──また。繰り返し。神代さんの指が迷っている。
待った。急かさなかった。十八分かけて「おやすみ」を推敲する人間が、他人の返信を急かす資格はない。
画面を見つめたまま、布団の中で息を殺した。
一分。二分。
既読の数字だけが光っている。




