【第33話】保健室で、俺から
【第33話】保健室で、俺から
どのくらい座っていたのか、わからない。
五分か。十分か。時計を見る気にならなかった。秒針の音は聞こえている。規則的に。正確に。世界で一番公平な音。誰の味方もしない。急かさない。だが容赦なく時間を進める。
パイプ椅子は硬かった。座面が金属で、体温を奪っていく。尻が冷たい。背中が痛い。指定席のベッドとは大違いだ。あのベッドには何年分の逃避が染み込んでいて、座るだけで体が溶けた。このパイプ椅子には何も染み込んでいない。冷たくて硬い。それだけの椅子。
だが立ち上がる理由がなかった。
神代さんは目を閉じている。呼吸は穏やかだ。さっきまで白かった顔色に、ほんの少しだけ血の気が戻っていた。枕に広がった黒い髪が、シーツの白に沈んでいる。涙の跡は乾いていた。まつげが時々震える。眠っているのか、眠ろうとしているのか。
窓の外を見た。日が傾いている。オレンジ色の光が校庭に伸びている。テントを畳む音。段ボールを運ぶ足音。文化祭が骨組みだけになっていく。
カーテンの向こうで、朝倉先生がペンで何か書いている音がした。保健室の日報だろうか。コーヒーのおかわりを入れる回数が普段より少ない。静かにしている。先生なりの配慮が、音を減らすという形で表れている。
──ふと、廊下から足音が近づいた。
速い足音。雑な足音。上履きのゴム底をリノリウムに叩きつけるような歩き方。聞き覚えがある。
保健室のドアが開いた。ノックなし。
「よう」
八代。半分だけ顔を出した。片手に俺の鞄。もう片方の手にビニール袋。
「忘れ物」
小声だった。八代にしては異例の音量制御。声がでかいことに定評のある男が、保健室の空気を読んでいる。
カーテンの向こうから朝倉先生が顔を出した。
「……八代くん。ノックは」
八代は頭を軽く下げた。反省ゼロの角度だったが、足音は静かにこちらへ来た。鞄をパイプ椅子の横に置いた。ビニール袋も。
「レジ締めた。売上、たぶん合ってる」
「……たぶんって何だ」
八代が肩をすくめた。悪びれない顔。だが目は笑っていない。
「百円くらい誤差あるかもしんないけど、俺の財布から補填しといた。経費で落としてくれ」
──経費という概念はクラスの喫茶店に存在しない。だが今は突っ込む余力がない。
八代が視線をベッドの方に向けた。一瞬だけ。神代さんが眠っているのを確認して、すぐに戻した。普段なら「看病? お熱いねえ」くらいは言う。今日は言わない。代わりに、ビニール袋を顎でしゃくった。
「あと、これ。片付けで余ったやつ」
袋の中身。うちのクラスのクッキー。紙ナプキンに包まれた小袋が三つ。
「売れ残り。捨てるのもアレだし」
それだけ言って、踵を返した。
「……八代」
振り返らない背中に声をかけた。
「……ありがとう」
八代が止まった。片手を上げた。ひらひらと。背中越しに。
「おう」
ドアが閉まった。足音が遠ざかる。
朝倉先生がカーテンの隙間から覗いていた。
「……いい友達ね」
「……友達っていうか、報道機関っていうか」
先生が首をわずかに傾げた。
「報道機関が差し入れ持ってくるの?」
──持ってくるらしい。今日に限って。
◇
膝の上のビニール袋。クッキー三袋。百五十円。
三十分前、この手には何もなかった。飴もない。言葉もない。空っぽ。走って来ただけの手。──今は、クッキーがある。八代が持って来た。廃棄予定の売れ残り。だが今の俺にとっては、持っていないことと持っていることの差は百五十円では測れない。
──起きたら、渡そう。
そう決めた。何を言うかは決めていない。渡すことだけ決めた。飴を渡したときと同じ消去法。声をかける、無理。肩を叩く、怖い。食べ物を渡す、これだ。思考回路が単純すぎて自分で笑えるが、複雑な配線は持ち合わせていない。シンプルな回路で、できることをやる。
時計を見た。十五時五十二分。
神代さんが動いた。まつげが震えて、目が開いた。天井を見て、まばたきを二回して、視線がこちらへ移動した。
「……まだ、いたの」
声はさっきよりましだった。かすれているが、輪郭がある。
「……いた」
二文字。立ち去る理由がなかったので座っていた。それだけの報告。国語のテストなら零点だ。
神代さんが小さく笑った。弱々しいが、本物の笑い。完璧な微笑みではない。疲れた顔から零れた、不格好な笑い。
「……文化祭、終わっちゃった?」
神代さんが天井を見上げたまま聞いた。
「……終わった。閉会アナウンス、さっき流れた」
「そっか……」
視線が天井に戻った。蛍光灯の白い光を見上げている。
「……閉会式の司会、私がやるはずだったのに」
声が少し震えた。完璧にこなすはずだった仕事を、自分の体が裏切った。その事実を飲み込もうとしている顔。
「誰かが代わったんだろ」
神代さんが小さく頷いた。
「……うん、たぶん。副会長が……」
「なら大丈夫だろ」
俺がこの言葉を使うのは変な感じがした。さっきまで「大丈夫」を連発するこの人に苛立っていたのに、今、俺が言っている。ただし意味が違う。お前が全部背負わなくても崩壊しない、ということだ。──二文字で伝わるわけがないが。
神代さんが横を向いた。こちらを見た。
「……湊くん」
ハートなし。教室の声でも甘い声でもない。ただの名前。ただの呼びかけ。でも──三日ぶりに、「湊くん」が保健室の中で響いた。
「……レジ、大丈夫だった?」
こういうところだ。倒れて保健室のベッドで寝ているのに、俺の持ち場の心配をする。自分より他人を先に棚卸しする。順番がおかしい。
「八代が代わった」
神代さんが少し目を見開いた。
「八代くんが?」
「……売上は百円くらい合わないかもしれない」
神代さんが目をぱちくりさせた。口元が緩んだ。
「……ふふ」
息が漏れるような笑い。弱々しいが、温かい。
──よし。
膝の上のビニール袋からクッキーの小袋を一つ取り出した。紙ナプキンに包まれた、うちのクラスの文化祭クッキー。
シーツの上に投げ出されていた白い手の上に、置いた。
「……食え」
出た言葉がそれだった。命令形。敬語ゼロ。相手は病人だ。倒れて横になっている女子に「食え」はない。ナイチンゲールが聞いたら泣く。
「……いや。食べてください」
訂正。遅い。三秒遅い。一度放たれた「食え」は回収できない。俺のコミュ力の欠陥が、また一つ記録された。
神代さんが手の中のクッキーを見た。視線が移動した。クッキーから、俺の顔へ。往復。もう一往復。
「……これ、湊くんのクラスの?」
「……余りもの。八代が持って来た」
神代さんが紙ナプキンの包みを指で触った。確かめるように。
「……売れ残りだ。捨てるよりはと思って」
嘘ではない。だが全部でもない。八代が選んで持って来たのだ。あいつの雑な優しさが、このクッキーに変換されてここにある。その経緯を説明する語彙は俺にはなかった。
紙ナプキンを開いた。丸いクッキー。プレーン味。端が少し焦げている。形がいびつ。高校生が焼いた文化祭レベルの菓子。
神代さんがクッキーを持ち上げた。
──唇が震えた。目に水分が溜まった。鼻の奥が赤くなった。笑っているのか泣いているのか、判別がつかなかった。たぶん両方だ。人間の顔は、笑いと泣きを同時にできるらしい。教科書に載っていない。
「……"食え"でいいよ♡」
声が震えていた。泣き笑いの声。目尻から涙が溢れている。唇は笑っている。
──ハートが聞こえた。
何日ぶりだ。木曜の夜のLINEにはなかった。今日のすれ違いにもなかった。教室の声と外の顔が続いた日々。あの声から消えていたハートが、たった今、戻った。
戻った場所が「食えでいいよ」なのが、どうかしている。「食え」を肯定する文脈にハートがつく世界線は、俺の知る日本語にはなかった。
だが──聞こえた。確かに。鼓膜に。心臓に。
神代さんがクッキーを一口かじった。ぽろ、と欠片が落ちた。焦げた端。シーツの上に。すぐに指で拾って口に入れた。完璧な神代澪のイメージからは程遠い。泣きながら笑いながら、百五十円のクッキーの欠片を拾っている。
カーテンの向こうで気配が動いた。
朝倉先生の手が、カーテンの端を掴んだ。引こうとしている。閉めようとしている。──先生。それは。
先生の手が止まった。二秒。
「──……やっぱり開けておくわ」
手を離した。カーテンは開いたまま。先生はデスクに戻った。コーヒーカップを持ち上げた。何事もなかったような顔で。
──先生。今、閉めようとしましたよね。空気を読んで、閉めようとして、やっぱり職業倫理が勝ちましたよね。
神代さんがクッキーを食べ終えた。頬の涙を手の甲で拭った。乱暴に。完璧な所作ではない。
「……おいしかった」
神代さんが俺をまっすぐ見た。目がまだ少し赤い。
「……百五十円のクッキーだぞ」
「おいしかった」
二回言った。同じ言葉を。一回目よりも少しだけ声が強かった。
「……ありがとう、湊くん」
走って来たこと。座っていたこと。起きるまで待っていたこと。「食え」と言ったこと。全部に対する「ありがとう」だと、わかった。
「…………うん」
うん。二文字。語彙は増えない。増えなくても、クッキーを渡すくらいはできる。「食え」と言うくらいは。
沈黙が流れた。苦い沈黙ではない。ここ数日の、刺すような空白とは違う。角が取れた沈黙。
神代さんが少し俯いた。膝の上で紙ナプキンを握りしめた。くしゃくしゃになった紙。捨てていない。
「……ごめんね」
「何が」
神代さんの声が小さくなった。
「文化祭、ちゃんとできなかった。閉会式も出られなかったし……迷惑かけて」
──謝る相手が違う。俺に謝ってどうする。だが、わかった。この人は誰かに「ごめんね」を言いたかったのだ。完璧でいられなかった自分を。許してもらいたい相手が、たまたま目の前にいた。
「……謝んな」
神代さんがこちらを見た。
「倒れたのは体の故障だ。お前が悪いんじゃない」
人間を機械みたいに言うな、と自分で自分に突っ込んだ。語彙がポンコツだ。国語のテスト、零点。
「……湊くんって、たまに変なこと言うよね」
神代さんの口角が持ち上がった。ほんの少し。
「……変か」
「変だよ」
笑った。さっきの泣き笑いではなく、もう少し柔らかい笑い。疲れた顔のまま。目の下にクマがあるまま。でも、口角が自然に上がっている。作った笑顔ではない。
◇
朝倉先生が立ち上がった。
「神代さん、お母さんが校門に着いたそうよ。迎えに来てくれるって」
「……はい」
神代さんがベッドから降りた。上履きを履いた。立ち上がった。──ふらついた。一瞬。
手が出た。俺の手が。考える前に。掴んだのは肘のあたりだった。力加減が不明。ただ、倒れる方向とは反対に、手が出た。
神代さんが安定した。二秒で。すぐに自分の足で立った。
「……ありがと」
短縮形。「ありがとう」から「う」が落ちた。短くなった分、近くなった気がした。
手を離した。離すのに、少しだけ時間がかかった。
神代さんが朝倉先生と一緒に保健室を出ていく。ドアの前で振り返った。
「……湊くん」
「……ん」
口を開きかけて、閉じた。唇が動きかけて、止まった。
「……ううん、なんでもない。また、ね」
笑った。弱々しいが、笑った。外の顔ではなかった。保健室モードの甘い顔でもなかった。どちらでもない、三つ目の笑顔。名前のないやつ。
ドアが閉まった。すりガラスの向こうを影が遠ざかっていく。
◇
保健室に一人になった。
パイプ椅子に座ったまま。ベッドは空だ。シーツに皺が残っている。枕に黒い髪の痕跡がある。紙ナプキンの欠片。クッキーの残り香。消毒液の匂いに混じって。
窓の外で夕日が沈んでいく。赤い光が保健室の壁を染めている。
──この人を、ここで笑わせていたい。
保健室で。消毒液の匂いの中で。パイプ椅子でも指定席でもいい。何かを渡して、「食え」と不格好に言って、泣き笑いの顔を見て。
それがしたい。
名前はまだ、つけられないけど。
手のひらを開いた。何も持っていない。クッキーは渡した。だが、さっきまでとは違う。空っぽの手が、空っぽだと感じない。
鞄を拾って、保健室を出た。
廊下は薄暗かった。文化祭の残骸。壁のポスターが半分剥がれている。風船が一つ、廊下の隅で萎んでいる。祭りの後の静けさ。
振り返った。保健室の白いドア。すりガラスの小窓。
──また来る。
月曜日に。いつも通り。逃げ場として。だが、それだけではなく。
校門を出た。空が赤い。十一月の夕焼け。冷たい空気が肺を満たす。帰り道、一人。だがいつもと違う筋肉の疲れが、脚にある。走った名残。保健室に向かって走った、初めての疲労。
悪くない痛みだった。




