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【第32話】文化祭──澪の限界

【第32話】文化祭──澪の限界


 十五時十二分。


 それは電卓を叩いている最中に来た。


 六百円。お釣り百円。ホットケーキセットとコーヒー。紙コップを重ねた。釣り銭を渡した。「ありがとうございました」──声が出た。今日初めて。客に対して、小さいが確かに声が出た。腹の底の「嫌だ」が声帯を少しだけ解凍したのかもしれない。


 そのとき、ポケットのスマホが震えた。


 LINE。通知バナー。送信者の名前を見た。


 白石杏。


 杏のLINEは珍しくない。文化祭前のグループLINE経由で個別に繋がって以来、杏は猫のスタンプとか「おはよ〜」とか、返信不要の挨拶弾を一方的に投げてくる。俺はたいてい既読をつけるだけの対空砲火で処理していた。


 だが今日のメッセージは、スタンプではなかった。


『湊くん 澪ちゃんが倒れた』


 六文字。杏のLINEに絵文字がない。スタンプもない。語尾に「〜」がない。杏の文面から装飾が消えるということは、非常時を意味する。天気予報が全チャンネル警報に切り替わったのと同じだ。


 指が止まった。電卓の上。数字の途中。何を計算していたか忘れた。指先から体温が消えた。血液が一箇所に集まった気がする。どこに集まったのか、わからない。頭か。心臓か。胃か。全部かもしれない。


 次のメッセージ。


『体育館の裏で。生徒会の仕事中に立ってられなくなったって』


 次。


『朝倉先生が来て保健室に運んだ 意識はあるけど顔が真っ白だった』


 意識はある。だが倒れた。体育館の裏。──あの場所は西日が当たる。十一月でも午後は暖かい。暖かい場所で倒れたということは、寒さではなく体そのものが限界を迎えたということだ。四時間睡眠。連日の準備。段ボール三箱。「大丈夫だよ」と笑い続けた体が、返済できない疲労を溜め込んで、利息ごと崩れた。


 予感はあった。


 今日三回すれ違ったとき、三回目に見えた白い顔。コンシーラーが崩れかけた目の下の影。唇の色。あれは警告だった。体が外に出している赤信号だった。読めていた。読めていたのに「おう」しか言わなかった。「大丈夫か」の三文字が出なかった。完璧な笑顔に蓋をされて、質問する前に回答を押し付けられて、それを受け入れた。俺が三文字を飲み込んだ数時間後に、あの人は倒れた。


 次のメッセージ。


『保健室にいるよ 来れたら来てあげて』


 来れたら来て。杏の文面は命令ではない。提案だ。選択肢を残している。──だが「来れたら」の裏に「来い」が透けている。杏はそういう包装をする人間だ。明るい紙で硬い芯を包む。


 スマホを握ったまま、動けなかった。


 三秒。五秒。十秒。


 ホットケーキの匂い。ボサノバのBGM。客の笑い声。文化祭は継続している。俺の非常事態とは無関係に、世界は通常営業だ。水の上で祭りが続いている。俺だけが水底に沈んでいる。


 ──行くべきだ。


 頭が言っている。行け。保健室に。今すぐ。


 ──でも。


 俺が行って何ができる。朝倉先生がいる。養護教諭が適切に処置している。俺は医者でもなければ看護師でもない。行ったところで邪魔になるだけだ。──邪魔になる。この言葉に聞き覚えがある。水曜日。教室の前で引き返したときも同じことを思った。木曜日。保健室で外の顔をされたときも。同じ言い訳。同じ泥。俺は何回この沼に足を取られれば学習するのか。


 ──でも。


 杏の言葉が鳴る。「不器用でも、いるだけでいいときもある」。


 八代の声。「仲直りしろよ」。


 腹の底の「嫌だ」が、泥の下で暴れている。


 杏に返信を打った。


『行く』


 二文字。送信。既読は三秒でついた。杏は画面の前で待っていたのだ。俺がこう答えることを。


 だが──まだ動けない。


 レジ。持ち場。会計係。勝手に離れるわけには──。


「黒瀬」


 声がした。低い声。横。


 八代だった。


 いつの間にか隣に立っていた。覗き込んだわけではないだろう。だが顔を見ればわかったのだ。八代の情報収集能力は人の表情を読む地上型レーダーだ。衛星軌道からの俯瞰ではなく、至近距離からの精密スキャン。


「顔色やべえぞ。何があった」


「……神代さんが」


 声がかすれた。喉が乾いている。朝からまともに水を飲んでいなかった。


「倒れた……って。保健室に運ばれたって」


 八代の顔から、にやにやが完全に消えた。文化祭の間ずっと貼りついていた軽薄な笑みが剥がれて、下から別の顔が出てきた。眉が寄る。唇が引き結ばれる。この顔を見るのは二回目だ。一回目は昼に「仲直りしろよ」と言ったとき。


「行け」


 一言。


「……レジが」


「俺がやる。電卓叩くだけだろ」


 即答。間がなかった。考える隙間がなかった。


 八代がエプロンの紐を締め直した。手つきが荒い。だが目は動かない。俺をまっすぐ見ている。


「行けよ、黒瀬。ここは何とかする」


 反論する猶予を与えない声だった。八代の「七対三」の配合率が、今だけ「十対零」になっている。真面目百パーセント。冗談ゼロ。その異常さが、状況の深刻さを物語っていた。


「……売上、合わせとけよ」


「たぶん」


 たぶん。不安しかない。八代に金銭管理を任せるのは、猫に魚の番を任せるのに等しい。だが今は構っていられない。百円玉の計算が合わなくても、世界は終わらない。


 立ち上がった。椅子が鳴った。テーブルに膝をぶつけた。鈍い痛み。構わない。鞄は置いていく。スマホだけポケットに押し込んだ。


 八代がレジの椅子に座った。電卓を手に取り、一度だけ手を振った。短く。雑に。「いってこい」とは言わなかった。それが八代なりの送り出し方だ。


 教室を出た。


 ◇


 廊下に出た瞬間、空気が変わった。


 ホットケーキの甘い匂いが消えて、十一月の冷たい空気が肺を刺した。文化祭の喧騒は続いている。人が行き交う。笑い声。呼び込み。模擬店から漂う焼きそばとポップコーンの匂い。文化祭の匂いだ。楽しさの匂い。俺の体内とは無関係な匂い。


 歩いた。早足。──遅い。


 走った。


 廊下を走った。上履きのゴム底がリノリウムを蹴る。きゅっ、きゅっ、と断続的な摩擦音。人を避ける。「すいません」──声が出た。ぶつかりそうになるたびに勝手に出た。普段なら絶対に出ない。人に話しかけるだけで喉が縮むコミュ障の俺が、走りながら「すいません」を連発している。体が先に動いている。脳が追いついていない。


 文化祭の装飾が視界を流れた。模造紙のポスター。折り紙のチェーン。風船。誰かのクラスのお化け屋敷の看板。全部が残像になる。止まらないから。止まれないから。


 階段を駆け下りた。二段飛ばし。着地のたびに膝が鳴った。二階。一階。保健室がある階。左折。渡り廊下。


 走りながら思った。思考を止められなかった。


 ──俺の人生で、保健室に「向かって」走るのは初めてだ。


 いつも「逃げて」来ていた。教室から。視線から。空気を読む圧から。足が勝手に保健室へ向かって、ドアを開けて、「今日も来たの」を聞いて、指定席に座って。それが俺の保健室だった。退避場所。シェルター。外界から遮断された殻。


 今は違う。


 逃げていない。向かっている。あの人のところに。倒れた人のところに。白い顔で「大丈夫」を繰り返していた人のところに。


 渡り廊下を走り抜けた。北棟に入った。ここは文化祭の裏手だ。模擬店も出し物もない。廊下が静かだ。蛍光灯の白い光。リノリウムの床。見慣れた景色。百回以上歩いた道。


 だが、走るのは初めてだった。


 息が切れている。肺が軋む。横腹が痛い。保健室の常連は体力がない。運動不足を煮詰めた人間が全力で走れば、三十秒で限界が来る。心臓が肋骨を内側から殴っている。


 構わない。


 水曜日、あの人の教室の前で引き返した。十メートルの距離を縮められなかった。木曜日、あの人は保健室に来たのに、俺は何も言えなかった。金曜日──いや、木曜日の夜、LINEで「無理すんなよ」としか打てなかった。語彙が枯渇した井戸。


 今日、三回すれ違った。三回とも「おう」か「がんばれ」しか出なかった。三回とも、あの完璧な笑顔に蓋をされた。


 四回目は、すれ違いではない。


 向かっている。この足で。この息切れで。この心臓で。向かっている。


 ──向かう理由は、簡単だった。


 あの人が倒れたから。それだけ。それ以外の理屈はいらない。「邪魔になる」も「何ができる」も「持ち場が」も、全部置いてきた。レジの横に。八代の「たぶん」と一緒に。


 ◇


 保健室の前。


 白いドア。すりガラスの小窓。何度も開けた。何度も閉めた。ここを開ければ消毒液の匂いがする。朝倉先生のデスクがある。カーテンがある。ベッドがある。天井に七つの染みがある。犬に見える染みがある。


 ──そして、今日はあの人がいる。


 ドアの前で止まった。


 息を整えようとした。整わない。心臓がまだ暴れている。走った疲労と、別の何か。緊張。恐怖に近い。ドアの向こうに何がある。完璧な笑顔か。泣いている顔か。眠っている顔か。「大丈夫だよ」と言われるのか。教室の声で「お疲れさま」と言われるのか。


 わからない。知りたい。同時に、少し怖い。


 昨日、このドアの向こうで外の顔をされた。完璧な笑顔を向けられた。保健室の中で教室モードを発動された。あの衝撃がまだ残っている。今日もそうかもしれない。開けたら、ベッドの上から「大丈夫だよ」と微笑まれるかもしれない。


 ──それでもいい。


 外の顔でも。教室モードでも。「大丈夫」が嘘でも。とりあえず、意識があって、目が開いて、声が出るなら。俺がドアを開ける理由は、それだけで足りる。


 何を言うか決まっていない。「大丈夫か」か。「来た」か。何も言えないかもしれない。いつものように口が開かず、黙って椅子に座るだけかもしれない。


 だが、来た。


 走って来た。持ち場を捨てて。八代に電卓を押し付けて。廊下を走って人にぶつかりそうになりながら。コミュ障が「すいません」を叫びながら。


 杏が言った。「いるだけでいいときもある」。


 なら、いよう。飴はない。言葉もない。手ぶらで、空っぽで、不格好で、息が切れているだけの人間だが。ここに。あの人の隣に。


 ドアノブに手をかけた。金属が冷たい。いつもと同じ温度。だが今日は指先から心臓まで一本の電流が走るように響いた。


 回した。


 開けた。


 ◇


 消毒液の匂い。


 白い蛍光灯。カーテン。窓から午後の日差し。朝倉先生のデスク。先生がこちらを見た。コーヒーカップを持ったまま。椅子から腰を浮かせかけて、止まった。


 先生の目が少しだけ変わった。驚き。それから──何だ。安堵か。諦めか。「やっぱり来たか」という種類の表情。名前をつけるのが難しい。


「──来たの」


 短い。いつもの先生だ。だが声音が違った。いつもの平坦さの下に、薄く温度がある。


 カーテンの向こう。奥のベッド。白いシーツの上に、黒い髪が広がっていた。


 足が動いた。考える前に。カーテンの横を通り過ぎて、ベッドの横に立った。


 神代さんが目を開けた。


 天井を見ていた目が、ゆっくりとこちらへ動いた。


 ──白い。


 顔が白い。杏の報告通りだ。いや、報告以上だ。唇に色がない。目の下の影が深い。頬の赤みが消えている。コンシーラーは完全に崩壊している。化粧の下にあった疲労が、全部表面に出ている。隠す壁がなくなった顔。


 だが、目は開いている。意識はある。俺を見ている。


 その目が──変わった。


 俺を認識した瞬間、何かが剥がれた。驚き。困惑。それから目尻が下がって、口元が震えて、鼻の奥が赤くなった。


 泣いてはいなかった。だが、泣く手前の、一番脆い表情だった。


 外の顔ではなかった。保健室モードでもなかった。どちらでもない。仮面も鎧もない、ただの──疲れ切った人間の顔。


「…………来て、くれたの」


 声がかすれていた。乾いた唇が動いた。小さな声。教室の声でも甘い声でもない。ただの声。なけなしの息で絞り出した、飾りのない五文字。


 ──この声だ。


 この声を聞きたかった。昨日の「大丈夫だよ」ではない。今朝の「湊くんも」でもない。完璧も社交も距離もない声。ただ俺が来たことに対して、何の演技もなく反応した声。


 口が開いた。何を言うか、頭は知らなかった。足が勝手に走ったように、口が勝手に動いた。


「……走って、来た」


 出たのはそれだけだった。三文字。事実の報告。走った。だから息が切れている。だから心臓がうるさい。だから汗が額にある。それだけの情報。何の感情表現もない。告白でも慰めでもない。


 でも、事実だ。


 走って来た。持ち場を捨てて。八代に後を託して。廊下で人にぶつかりそうになりながら。保健室に「逃げて」ではなく「向かって」。


 その三文字が、今の俺の全部だった。


 神代さんの目から、涙が一粒落ちた。


 頬を伝って、枕に吸い込まれた。音はしなかった。泣き声もなかった。ただ水滴が一つ、透明なまま、頬の白い肌を滑っていった。


 ──俺はその涙を見て、膝の力が抜けた。


 ベッドの横にパイプ椅子があった。朝倉先生が置いてくれたのか、前からあったのか。わからない。そこに座った。崩れるように。膝が笑っていた。走った疲労か、緊張の糸が切れた反動か、区別がつかない。


 座った。ベッドの横。パイプ椅子。冷たくて硬い。保健室の指定席とは違う。でもここでいい。


 何も言えなかった。走って来た三文字の後、口が閉じた。言葉が消えた。いつもの俺に戻った。コミュ障は一瞬で元に戻る。三十秒間だけ喋れた魔法が切れた。


 だが、いる。


 ここに、いる。


 カーテンの向こうで、朝倉先生がコーヒーカップをデスクに置く音がした。静かに。椅子の軋む音。先生は何も言わなかった。「カーテン閉めないで」も「恋愛相談は管轄外」も言わなかった。ただ、気配だけがカーテンの向こうにあった。


 窓の外から、文化祭の閉会アナウンスが遠く響いた。「本日はご来場いただきありがとうございました。片付けは十六時半から──」。拍手。歓声。どこかのクラスが歓声を上げている。終わったのだ。文化祭が。


 保健室は静かだった。


 消毒液の匂い。蛍光灯の微かな唸り。壁掛け時計の秒針。窓から差す午後の光が、シーツの上に四角い影を落としている。


 神代さんは目を閉じた。涙の跡が頬に光っていた。まつげが時々震えている。眠ったのか。眠ろうとしているのか。わからない。


 俺はパイプ椅子に座ったまま、動かなかった。


 天井を見上げた。七つの染み。二つ目の染みが犬に見える。以前、あの人と一緒に見上げた天井だ。「あそこの染み、犬に見えない?」と言われて、見えなかったけど「……たぶん」と答えた天井。


 今は少しだけ犬に見える気がした。


 手のひらを見た。空っぽだった。飴がない。クッキーもない。飲み物もない。毛布もない。何も持っていない。走って来ただけの、汗ばんだ手。


 ──でも。


 来た。


 逃げずに来た。それだけが、今の俺にあるもの全部だった。


 時計の秒針が回っている。保健室の午後は静かに過ぎていく。文化祭の喧騒が少しずつ遠ざかっている。片付けの音。机を引きずる音。笑い声。祭りの後。


 神代さんの呼吸が少しだけ穏やかになった気がした。さっきよりも。浅くて速かった息が、ゆっくりになっている。


 ──いるだけでいい。


 杏の言葉を、もう一度噛んだ。信じているわけではない。いるだけで何が変わるのか、まだわからない。でも、いる。ここに。この椅子に。この保健室に。


 逃げて来た場所じゃない。向かって来た場所だ。今日だけは。


 窓の外で、日が傾き始めていた。

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