【第31話】文化祭当日──それぞれの孤独
【第31話】文化祭当日──それぞれの孤独
文化祭の朝は、晴れていた。
十一月の最初の土曜日。空が高い。雲がない。文化祭日和、と担任が朝のホームルームで言った。日和。のどかな響き。だが俺の体内気象は曇天だ。湿度百パーセント。気圧は低い。頭が重い。昨夜、三時まで眠れなかった。
うちのクラスの出し物は喫茶店。「Café Noir」。名前は誰が決めたのか知らない。決まったとき俺は保健室にいた。黒板の端に書かれた名前を月曜の朝に見つけて、「ノワール」の読み方すら危うかった。
俺の持ち場は会計。レジの前に座って、電卓を叩いて、釣り銭を渡す。接客ゼロ。会話ゼロ。完璧な配置。クラスの人間も、俺にホールを任せる度胸はなかったらしい。適材適所。コミュ障は裏方で生きる。
八時半。教室がカフェに変わっていく。テーブルクロス。メニュー立て。黒板アート。BGM用のスピーカー。みんな浮かれている。文化祭が楽しい人間たちの、朝のテンション。俺には眩しい。太陽を直視したときの網膜の痛み。
九時。開場。
人が来た。保護者。他校の生徒。近所の住人。教室が一気に騒がしくなった。注文が飛ぶ。ホール担当が走る。厨房──というか教室の後ろに設置された調理スペース──からホットケーキの匂いがする。
俺はレジに座った。電卓。釣り銭箱。領収書。小さな要塞。ここが今日の俺の保健室だ。
◇
十時。
最初にすれ違ったのは、廊下だった。
トイレに立った帰り。二階の廊下。向こうから人が来た。生徒会の腕章。クリップボード。歩くスピードが速い。クラスの仮装をチェックしているのか、掲示物の位置を確認しているのか。忙しそうに顔を上げて──
目が合った。
神代さん。
「あ」
「……」
止まった。二人とも。廊下の真ん中で。三メートル。距離。周囲を一般客と生徒が行き交っている。文化祭の喧騒。笑い声。呼び込みの声。その中で、二人だけが止まっている。
何か言うべきだ。おはよう。がんばれ。何でもいい。口を開けろ。声を出せ。
「……がんばれ」
出た。かろうじて。声が小さかった。周囲の騒音に紛れたかもしれない。
神代さんが頷いた。小さく。
「……うん。湊くんも」
それだけ。通り過ぎた。すれ違った。肩が触れる距離ではなく、一メートルの間隔を空けて。すれ違い。文字通りの。
振り返らなかった。振り返る勇気がなかった。背中に視線を感じたのは、気のせいだと思うことにした。
◇
十一時。
レジに戻って、仕事をした。電卓を叩いた。四百円。お釣り百円。五百円。お釣りなし。三百円。お釣り二百円。機械的に。数字は嘘をつかない。感情がない。四百円は四百円だ。それ以上でも以下でもない。この明快さが今は救いだった。
八代がコーヒーを持ってきた。紙コップ。うちのクラスの商品。原価を知っている身としては微妙な気持ちになるインスタントコーヒーだが、温かい。
「よう、調子どうだ」
「……普通」
八代が紙コップを傾けた。信じていない目。
「普通ね」
レジの横に立った。腕を組んで、教室の入り口を見た。客がちらほら入ってくる。
「さっき神代さん見たぞ。生徒会の仕事で走り回ってた」
「……そうか」
八代の目が細くなった。観察者の目。報道機関の目。
「お前と目が合ったのも見た」
──見られていたのか。八代の情報網は校内のどこまでカバーしているのか。監視カメラか。人工衛星か。
「あれ、喧嘩してるだろ」
「喧嘩してない」
反射的に否定した。八代が首を傾げた。
「してるだろ。目が合って三秒で離れるやつ、喧嘩以外にないぞ」
「……してない。喧嘩じゃない」
喧嘩ではない。喧嘩するには、ぶつかる言葉が必要だ。俺たちは言葉がないのだ。ぶつけるものがない。空白と空白がすれ違っている。それは喧嘩ではなく──何だ。名前がつかない。
「まあいいけど」
八代がコーヒーを一口飲んだ。そして、珍しいことを言った。
「仲直りしろよ」
いつもなら「彼女じゃない」に対して「はいはい」と返すところだ。今日は違った。「彼女じゃない」を待たずに、一足飛びに「仲直りしろ」。
「……彼女じゃない」
「今はそれどころじゃないだろ」
八代の声に、いつもの軽さがなかった。にやにやしていない。面白がっていない。真面目に言っている。
「お前が沈んでると、レジの雰囲気が葬式になるんだよ。客が引く」
──最後に余計な一言を足すのが八代だ。真面目と不真面目の配合率が常に七対三。だが今日は、七の方が重い。
「……わかった」
「わかったってことは、やるんだな」
やるとは言っていない。だが八代の解釈回路には「わかった=やる」が直結している。
「……考える」
「考えるなよ。お前が考えると十年かかる」
八代が去った。コーヒーの紙コップが手の中で冷めていく。インスタント。薄い。だが胃に入ると少し温かくなった。
◇
十二時。昼の混雑。
レジが忙しくなった。ホットケーキセット。コーヒー。紅茶。オレンジジュース。注文が次々来る。釣り銭を間違えないように。電卓の数字に集中する。四百円。六百円。三百五十円。
忙しいのは、ありがたかった。手を動かしていれば考えなくて済む。考えなければ沈まない。水面すれすれで泳いでいる。手を止めたら沈む。
ホットケーキの匂いがする。甘い匂い。──いちごの匂いではない。飴の匂いではない。
そうだ。飴。今日はポケットに飴を入れていない。昨日全部渡した。四つ。手持ちのカードを全部切った。次の手がない。
十二時半。混雑が落ち着いた。
杏が来た。
うちのクラスではなく、客として。紙コップのオレンジジュースを持って、レジの前に立った。
「湊くん、お疲れ〜」
「……おう」
杏がレジ台に肘をついた。覗き込むように。
「ひとりで会計? 大変じゃない?」
「……別に。数字は裏切らないから」
杏が目をぱちくりさせた。
「なにそれ。かっこいいこと言ってるつもり?」
つもりはない。事実を述べただけだ。四百円は永遠に四百円だ。人間と違って、昨日と今日で態度を変えない。
杏がジュースをストローで吸った。ずず、と音がする。
「ねえ、澪ちゃん見た?」
心臓が反応した。条件反射。パブロフの犬。「澪」の二文字で胸が跳ねる。
「……さっき、廊下で」
「私もさっき会ったんだけど」
杏の声が少しだけ曇った。オレンジジュースの明るさと、声の暗さが噛み合っていない。
「すごい頑張ってたよ。生徒会のチェックリスト持って、あちこち回って。体育館の音響トラブルも対応して、模擬店のゴミ回収の手配もして」
想像できる。走り回る神代さん。腕章を揺らして。クリップボードを片手に。
「笑ってた。いつもみたいに。『大丈夫だよ、ありがとう』って」
大丈夫。また「大丈夫」。この人の語彙には「大丈夫」しかないのか。シフトキーが壊れたキーボードのように、同じ出力を繰り返している。
「でもね」
杏がストローから口を離した。
「なんか、無理してる感じがした」
無理。無理している。見る人が見ればわかるのだ。杏は鋭い。観察力がある。表面の笑顔の下にある疲労を、嗅ぎ取れる人間だ。
「目の下にクマあったし、歩き方もちょっとふらついてたかも。……でも、本人に言ったら『大丈夫だよ〜』って笑うんだよね」
昨日の保健室と同じだ。「大丈夫」を連発する神代さん。完璧な笑顔。外の顔。あの笑顔が今日も、文化祭の会場を歩き回っている。
「湊くんさ」
杏の目がまっすぐこちらを見た。
「澪ちゃんのこと、心配でしょ」
否定しなかった。沈黙した。──沈黙は肯定。八代の法則。
「心配なら、会いに行けばいいのに」
「……持ち場がある」
杏がストローを噛んだ。不満そうに。
「交代してもらえばいいじゃん」
「……そういう問題じゃない」
そういう問題ではない。持ち場を離れることはできる。誰かに頼めばいい。だが問題はそこではない。会いに行って何をする。何を言う。昨日の保健室で何も言えなかった俺が、文化祭の雑踏の中で何を。
杏がジュースを飲み干した。紙コップを潰した。
「……湊くんって、ほんと不器用」
「……知ってる」
自覚はある。不器用の自覚だけは一人前にある。
「でもさ、不器用でも、いるだけでいいときもあるんだよ。澪ちゃんは完璧を頑張りすぎてるから。誰かがそばにいて、完璧じゃなくていいよって──」
杏が言いかけて、首を振った。
「ごめん、私が言うことじゃないね。じゃあ、がんばって〜」
紙コップをゴミ箱に捨てて、手を振って去った。明るい背中。杏の明るさは天然だ。曇ることはあっても、すぐ晴れる。
残された俺は、電卓の前で固まっていた。
──いるだけでいいときもある。
そうなのか。いるだけで。言葉がなくても。飴がなくても。ただ、隣にいるだけで。
◇
十三時。午後の部。
文化祭は続く。人の波は途切れない。校内放送が演目を告げる。「体育館にて吹奏楽部の演奏が始まります」。拍手。歓声。別の世界の出来事のように聞こえる。
二回目にすれ違ったのは、一階の廊下だった。
釣り銭の両替をしに職員室へ向かう途中。向こうから神代さんが歩いてきた。生徒会の腕章。クリップボード。隣に知らない男子がいる。生徒会の後輩か。何かを報告している。神代さんが頷いている。「わかった、対応するね」。声が聞こえた。教室の声。明るくて、丁寧で、優しくて。
近づいた。五メートル。三メートル。
目が合った。今日二回目。
神代さんの足が一瞬だけ遅くなった。半歩。ほんの半歩。だがすぐに元のスピードに戻った。隣の後輩が話し続けているから。立ち止まれない。生徒会副会長は文化祭の現場監督だ。一秒も無駄にできない。
すれ違った。今度は一メートルもない。肩が触れそうな距離。触れなかった。
すれ違いざまに、神代さんの唇が動いた。音にならないくらいの小ささで。
──何と言ったのか。読み取れなかった。「がんばって」か。「あとで」か。唇の動きだけでは判別できない。
振り返った。今度は振り返った。
だが神代さんの背中はもう遠かった。後輩と並んで角を曲がっていく。背筋がまっすぐ伸びている。制服に皺がない。髪が揺れている。完璧な後ろ姿。
三秒だけ見て、前を向いた。両替に行かなければ。百円玉が足りない。──百円玉のことを考えろ。百円玉は裏切らない。
◇
十四時。
三回目にすれ違ったのは、渡り廊下だった。
ゴミ袋を回収場所に運ぶ途中。向こうから神代さんが来た。一人だった。クリップボードを抱えて、早足で歩いている。顔が──白い。いつもより白い。血の気が引いているように見える。
近づいた。五メートル。
今度こそ何か言おう。「大丈夫か」でいい。三文字。たった三文字。口を開けろ。
三メートル。
神代さんが気づいた。目が合った。今日三回目。
笑った。神代さんが。完璧な笑顔を。
「あ、湊くん。お疲れさま」
教室の声。「お疲れさま」。丁寧。社交的。距離がある。クラスメイトに向けるのと同じトーンで、俺に「お疲れさま」を言った。
「──」
口が開かなかった。「大丈夫か」の三文字が、喉で詰まった。笑顔を向けられると言えなくなる。あの笑顔は「大丈夫です」を先に宣言している。聞かれる前に蓋をしている。質問を封じる笑顔。
「……おう」
また「おう」。朝と同じ。同じ一文字。進歩がない。
すれ違った。三回目。
ゴミ袋が重かった。中身はペットボトルと紙コップ。文化祭の残骸。消費された楽しさの抜け殻。
──白い顔。
見えた。さっき。一瞬だけ。笑顔の下にある顔色の悪さ。目の下の影。コンシーラーが崩れかけている。唇の色が薄い。昨日より悪化している。四時間睡眠が、累積で限界を迎えつつある。
言えなかった。また。「大丈夫か」の三文字が言えなかった。
ゴミ袋を回収場所に置いた。手が空いた。体が軽くなった。だが胸は重いままだ。ゴミ袋より重い。何キロあるのかわからない。計れない種類の重さ。
◇
十四時半。レジに戻った。
座った。電卓の前。持ち場。ここにいれば安全だ。数字を叩いていれば考えなくて済む。──考えなくて済む、か。
昼の混雑は一段落していた。客足が途切れる時間帯。教室には、ホール担当のクラスメイトが二人と、厨房に一人。閑散としている。
窓の外を見た。渡り廊下が見える。さっき神代さんとすれ違った場所。もう誰もいない。午後の日差しが廊下を照らしている。
──保健室に行きたい。
唐突にそう思った。保健室。逃げ場。安全地帯。朝倉先生のコーヒーの匂いと、消毒液の匂いと、カーテンの揺れる音がある場所。
だが今日は行けない。持ち場がある。文化祭の当番だ。──いや、違う。持ち場は言い訳だ。交代を頼めば抜けられる。そんなことは知っている。
行けないのではない。行っても意味がないのだ。
保健室に逃げても、何も解決しない。昨日、あの場所で外の顔をされた。保健室が「保健室モード」の場所でなくなった。安全地帯が陥落した。逃げ場が逃げ場として機能しなくなった。
では、どこへ行く。
どこにも行けない。教室にも。保健室にも。神代さんの前にも。全部が閉じている。出口のない迷路。壁しかない。
──でも。
今日だけは、逃げたら終わりだという気がする。
根拠はない。理屈ではない。腹の底で何かが言っている。逃げるな。今日逃げたら、もう戻れない場所に行ってしまう。保健室の天井の七つの染み。犬に見える染み。あの天井を二人で見上げた時間が、本当に「過去」になってしまう。
スマホを開いた。LINEのトーク画面。神代さん。最後のメッセージ。『うん。湊くんもね。明日、頑張ろうね』。昨夜の返信。ハートなし。教室モードの文面。
──三回すれ違った。三回とも、何も言えなかった。
四回目があるかはわからない。文化祭はあと三時間で終わる。生徒会は閉会式の準備に追われる。すれ違う確率は下がる一方だ。
四百円。お釣り百円。客が来た。電卓を叩いた。笑顔は作れない。「ありがとうございました」も言えない。釣り銭を渡すだけ。手から手へ。百円玉。冷たい金属。
客が去った。教室が静かになった。
──杏の言葉が、頭の中で回っている。
「不器用でも、いるだけでいいときもある」。
いるだけでいい。本当か。俺がいて、何が変わる。飴もない。言葉もない。手ぶらで、空っぽの人間が、あの完璧の隣に立って、何ができる。
八代の声。「仲直りしろよ」。
仲直り。喧嘩していない。していないから仲直りもできない。ただ、距離がある。昨日できた距離。保健室に外の顔を持ち込まれた距離。
三回すれ違って、三回とも「おう」か「がんばれ」しか言えなかった人間が、四回目に何を言える。
わからない。
わからないが、ここに座って釣り銭を渡しているだけでは、何も変わらない。変わらないまま文化祭が終わって、日常が戻って、保健室の距離はそのままで。「大丈夫だよ」と笑う神代さんと、「……おう」と答える俺が、いつまでも。
嫌だ。
それは嫌だ。
明確にそう思った。理屈ではなく感情で。腹の底で。嫌だ。あの笑顔が「外の顔」のまま固定されるのは嫌だ。保健室で「大丈夫だよ」と言われるのは嫌だ。ハートのない「湊くん」は嫌だ。
──嫌だ、と思えた。
コミュ障で、否定ができなくて、言葉が出なくて、いつも「別にいい」で逃げてきた人間が、初めて「嫌だ」と思えた。心の底から。
それだけで十分なのかもしれない。何を言うかは決まっていない。何ができるかもわからない。でも「嫌だ」がある。「このままは嫌だ」がある。
──動け。
まだ動けない。持ち場にいる。今は動けない。でも、次の機会が来たら。四回目のすれ違いが来たら。あるいはすれ違いではなく、向き合う機会が来たら。
逃げない。
今日だけは。今日だけは、逃げない。
電卓を叩いた。五百円。お釣りなし。次の客。三百円。お釣り二百円。手が動く。仕事をしながら、腹の底の「嫌だ」を握りしめていた。飴の代わりに。百二十円の菓子よりずっと不格好で、ずっと重い。
時計を見た。十五時まであと三十分。
文化祭は、まだ終わっていない。




