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第3話 : 常連化のスピードがおかしい

 第3話 : 常連化のスピードがおかしい


 三日目で、確信した。


 神代澪は気まぐれではない。この人は、本気で保健室に通う気だ。


 ◇


 月曜日。昼休み。保健室。


 ──コン、コン。


 もうノックの音で心臓が跳ねなくなった自分がいる。三日前は銃声に等しかったこの音が、今ではインターホンくらいの衝撃に落ち着いている。人間の適応力は偉大であると同時に、少し怖い。


 慣れるべきではないものに慣れ始めている。


「こんにちは♡」


 保健室のドアを開けて入ってくる神代さんは、朝倉先生への挨拶もそこそこに、まっすぐ窓際へ向かう。俺のベッドの隣。もはやそこが彼女の指定席であるかのように、迷いなく腰を下ろす。


 上履きを脱ぐ。足をベッドの上に上げる。小さく息を吐く。


「……ふぅ」


 スイッチが切り替わる。


 三日間、同じ光景を見てきた。毎回、同じだ。保健室に入る。息を吐く。肩の力を抜く。表情が柔らかくなる。判で押したように正確な手順。この一連の動作に名前をつけるなら、「再起動」だろう。外でフル稼働していたシステムを一度落として、省電力モードに切り替えている。


「今日も暑いね」


「……うん」


「黒瀬くん、今日はメロンパン?」


「……うん」


「昨日はカレーパン、一昨日はツナマヨおにぎりだったよね。ローテーション、ちゃんと回してるんだ」


 覚えているのか。俺の昼食ローテーションを。


「……よく覚えてるな」


「だって、毎日見てるもん」


 「毎日」。


 さらっと出てきた単語の重みに、俺だけが押し潰されている。「毎日」の中にはまだ三日しか入っていない。三日で「毎日」を名乗るのは、開店三日目の飲食店が「老舗」を自称するようなものだ。


 だが、本人にその自覚はないらしい。メロンパンの袋を見つめる俺のことなど気にもせず、神代さんは窓の外に視線を移した。


 ◇


 ここで、時系列を整理しておきたい。


 神代さんが初めて保健室に来たのが先週の木曜日。俺の安全地帯に、学年の女神が突如として着陸した日。


 金曜日。再来訪。「明日も来るね」と宣言され、俺は世界で最も非力な同意を返した。


 そして週が明けて月曜日。今日。


 間に土日を挟んでいる。二日間のブランクがある。普通なら、週末を挟めば「まあいっか」となるものだ。金曜に見かけた野良猫が、月曜にはもう別の場所に移動しているように。


 甘かった。


 神代澪は野良猫ではなかった。帰巣本能を搭載した渡り鳥だった。週末を越えても正確にこの場所に帰ってきた。太陽と星の位置で保健室を特定しているのかもしれない。


 しかも。


 月曜の時点で、ある変化が起きていた。


「あれ、ベッド近くない?」


 朝倉先生がデスクから顔を上げて、ぼそりと呟いた。


 近い。


 金曜日は、俺と神代さんの間にベッド一つぶんの距離があった。彼女は隣のベッドに座っていた。一メートルの距離。


 月曜日──今日。


 神代さんは隣のベッドではなく、俺のベッドの反対側の端に座っていた。


 同じベッドだ。


 一つのベッドの、右端と左端。距離にして約六十センチ。保健室のベッドは広くない。シングルサイズだ。その上に二人の人間が、端と端に分かれて座っている。


 国境線が、一気に後退した。


 金曜日は隣国だった。月曜日にはもう、同じ国の東西に分かれて暮らしている状態だ。俺のベルリンの壁はいつの間に崩壊したんだ。


 いつ移動したのか。記憶を辿っても、決定的な瞬間が見当たらない。最初は隣のベッドに座っていたはずだ。それが気づいたら、こちら側にいた。カーテンを引く動作のついでに自然にこちら側に回り込んだのか、あるいは俺が文庫本に集中している隙に少しずつスライドしたのか。


 どちらにしても、抗議するタイミングは逸した。


 もう今さら「隣のベッドに戻ってくれ」とは言えない。言えないのは、言葉が出ないからだ。コミュ障は不動産交渉に向いていない。


「朝倉先生、私ここの方が窓が近くて好きなんです」


 神代さんが先生に答える。理由は「窓が近い」だそうだ。合理的に聞こえなくもない。だが窓に近いのは俺側であって、俺の隣に座る理由にはなっていない。論理が微妙に飛躍している。


 朝倉先生は「そう」とだけ返して、コーヒーをすすった。スイスは今日も中立だ。国際紛争に介入しないという固い意志を感じる。


 ◇


 火曜日。


 状況が悪化した。いや、悪化というのは語弊がある。変化した。客観的には変化しただけだ。だが俺の心臓にとっては、確実に状況は悪化している。


 昼休み。神代さんが今日も来た。四日連続。もう数えること自体がおかしいのかもしれないが、俺の脳は自動的にカウントしている。地震計が揺れを記録するように、無意識のセンサーが作動している。


「黒瀬くん、今日は何読んでるの?」


「……同じ本」


「進んだ?」


「……三ページ」


「三ページ? 月曜も三ページって言ってなかった?」


「…………」


 痛いところを突かれた。文庫本の進捗が壊滅的なのは、主に隣の人間のせいだ。しかしそれを指摘されたところで、「あなたがいると読めない」とは死んでも言えない。言ったら意味が変わる。別の意味になる。もっとまずい意味に。


「ねえ、どんな話か教えて?」


 神代さんが少しだけこちらに体を寄せた。


 六十センチが五十センチになった。


 領土侵犯だ。しかも平時における段階的な進出。武力を使わず、じわじわと実効支配を広げる手法。地政学の教科書に載っている。


「……宇宙ステーションで、ひとりで暮らす技術者の話」


「へえ。孤独?」


「……孤独というか、一人が好きなタイプ」


「でも最後まで一人?」


「……途中で、通信相手ができる」


「それって」


 神代さんが目を細めた。


「ちょっと、私たちみたいだね」


 違う。全然違う。宇宙ステーションと保健室は違うし、超光速通信と昼休みの会話は違う。何より、主人公は通信相手に心拍数を乱されたりしていない。フィクションの登場人物は生理現象に邪魔されなくて羨ましい。


「……全然違う」


「そう? 残念♡」


 残念の語尾にハートがついている。声にハートをつけられる人間は、日本に何人いるんだろうか。少なくとも俺の人生で、音声にハートが聞こえたのは初めてだ。空耳かもしれない。空耳であってほしい。


 ◇


 水曜日。五日目。


 距離が、また縮まった。


 もう端と端ではない。ベッドの中央よりやや俺寄りの位置に、神代さんが座っている。俺は押されるように端に追いやられ、壁とベッドの隙間に挟まっている。


 物理的に逃げ場がない。


 壁、俺、三十センチの空間、神代さん。


 この配置を上から見たら、パンに挟まれた具材のようだろう。俺はサンドイッチの中身か。レタスくらいの存在感で、壁と神代さんに圧迫されている。


「ねえ黒瀬くん、夏休みってどうするの?」


「……まだ先……」


「そうだけど、計画立てるの早い方がいいかなって」


 なぜ俺に夏休みの計画を聞くのか。この質問は友人同士、あるいはそれ以上の親密さを前提としている。俺たちは知り合って五日だ。五日で夏休みの計画を共有する関係というのは、人類のコミュニケーション史において相当に先進的だ。


「……特に、何も」


「じゃあ暇なんだ」


「暇……まあ……」


「よかった♡」


 何がよかったのか。俺が暇であることの何が「よかった」なのか。その笑顔は回答を拒んでいる。問い詰めたくても言葉が出ない。砂漠で水を求めるような切迫感で「なんでよかったの?」と聞きたいのに、声帯が許可を出さない。


 俺のコミュニケーション機能は、本当に必要なときに限ってフリーズする。


 ◇


 木曜日。六日目。


 保健室に着いたら、神代さんが先にいた。


 初めてだった。これまではいつも俺が先に着いて、あとから神代さんが来ていた。順番が逆転している。


「あ、黒瀬くん。今日は私の方が早かった」


 ベッドの──俺の指定席に、神代さんが座っている。窓際の二番目。カーテンが七割引かれている。


 俺の流儀だ。七割。あのカーテンの引き具合は俺が一年かけて最適化した数値だ。


「……カーテン」


「え? ああ、七割くらいがいいかなって。黒瀬くん、いつもこのくらいでしょ?」


 観察されている。俺のカーテン開閉率が計測されている。もはやこの人は、俺の保健室における行動パターンを完全に学習している。機械学習のアルゴリズムより正確かもしれない。


「……そこ、俺の席なんだけど」


 言えた。


 奇跡だ。六日目にして初めて、明確な主張が口から出た。声は小さかったし、語尾は消えかけていたが、日本語として成立する抗議が発声された。


 神代さんは目を丸くした。


 それから──困ったように笑った。


「ごめんね。じゃあ、隣に座るね」


 隣。


 もう「隣のベッド」ではない。「隣」とは、同じベッドの、真横だ。


 神代さんが少しだけ横にずれて、窓側を空ける。俺が座ると、肩と肩の間は二十センチもなかった。腕を動かせば触れる距離だ。


 一週間前は一メートル離れていた。


 六日で八十センチ縮んだ。一日あたり約十三センチ。このペースでいくと、あと二日で距離はゼロになる計算だ。数学的に導き出された絶望的な予測値。


 俺のそろばんは、こういうときだけ正確に弾く。


「……近い」


「え? そう?」


 そうだ。近い。物理的に近い。シャンプーの匂いがする。花みたいな、やわらかい匂い。初日にも感じた匂いだ。あのときは風が運んできた「一瞬」だったのに、今はずっと漂っている。距離が縮まった分、嗅覚へのインプットが増大している。感覚器官の負荷が限界だ。


「嫌だったら言ってね?」


 嫌、ではない。


 嫌ではないことが問題なのだ。嫌なら対処できる。「嫌です」と言えば済む(言えないけど)。嫌じゃないから困っている。嫌じゃないのに心臓が暴走している。自分で自分の取扱説明書が読めない。


「…………別に」


「よかった♡」


 また「よかった」だ。この人の語彙の中で「よかった」は万能ツールらしい。俺が暇でも「よかった」、俺が嫌がっていなくても「よかった」。どんな状況でも肯定的に回収してしまう魔法の二文字。


 ◇


 朝倉先生がカップを置いて、眼鏡の位置を直した。


「……黒瀬くん」


「……はい」


「カーテン、閉めないでね。私の立場が死ぬから」


「…………閉めてません」


「七割開いてるのは知ってるけど、三割が気になるのよ。残りの三割の向こうで何が起きてるか、私には見えないの。養護教諭として」


 俺は何もしていない。何もしていないのに容疑者扱いされている。だが朝倉先生の懸念は理解できなくもない。男子生徒と女子生徒が、保健室のベッドに並んで座っている。カーテンで三割隠れている。外から見たら確かに微妙な絵面だ。


「あの、先生。俺は本当に何も──」


「知ってるわ。あなたは何もしてない。してないから余計に面倒なのよ」


 何を言われているのか、半分しか理解できなかった。


 ◇


 金曜日。七日目。


 一週間が経った。


 神代さんが保健室に来るようになって、ちょうど一週間。たった七日で、俺の昼休みは完全に様変わりした。


 文庫本は十二ページ進んだ。通常なら一週間で一冊読み切る俺にとって、壊滅的な読書速度だ。代わりに増えたものがある。神代さんと交わした会話の総量。一日あたりの平均心拍数。朝倉先生に向けられるジト目の回数。


 そして今日、金曜日の保健室で、事件が起きた。


 ◇


 昼休みも後半に差しかかった頃だった。


 神代さんはいつもの位置──俺の隣──に座っていた。今日の昼食は彼女が自分で作ったサンドイッチらしく、小さなタッパーから卵サンドを取り出して食べていた。


「おいしい。黒瀬くんも食べる?」


「……いい」


「遠慮しないで?」


「……遠慮じゃなくて」


「じゃあ何?」


「……腹いっぱい」


 嘘だ。コンビニのあんぱんひとつで腹がいっぱいになるわけがない。だが卵サンドを受け取ったら、また一歩距離が詰まる。食べ物の共有は人間関係のステージを一段上げる。生物学的に。たぶん。


 神代さんは「そっか」と言って、サンドイッチを食べ終えた。


 そのあと、いつもの時間が始まった。神代さんは保健室にいる間、スマホをほとんど触らない。ただ静かに座っている。たまに俺に話しかけて、短い返答を受け取って、また黙る。


 その繰り返しが、もう一週間続いている。


 俺は文庫本を開いていた。十三ページ目。宇宙ステーションの技術者が、通信相手との会話に慣れ始めている場面だった。出来すぎた偶然だ。


 ページをめくろうとしたとき、右肩に重みを感じた。


 軽い重み。羽毛布団くらいの。


 視線を右に向ける。


 ──黒い髪が、視界を埋めた。


 神代さんの頭が、俺の肩に乗っていた。


 寝ている。


 目を閉じて、呼吸が深くなって、肩の力が完全に抜けて──眠っている。


 俺の肩で。


 時計の秒針が三回刻んだ。四回。五回。


 脳が状況の処理を拒否している。CPUの使用率が100%を超えてオーバーヒートしている。エラーメッセージが山のように出ているが、どれを最優先で対処すべきかわからない。


 動けない。


 動いたら起きる。起きたら気まずい。気まずいのは嫌だ──いや、気まずいから嫌なのではなく、起こすのが……なんだ。なんと言えばいい。もったいない? 違う。可哀想? それも違う。


 名前がつかない。この「動きたくない」に、適切な日本語が見つからない。


 神代さんの寝息が、肩越しに聞こえる。規則正しくて、小さくて、あたたかい。


 シャンプーの匂いが、今日いちばん近くにある。


 俺はページをめくる手を止めて、文庫本を膝の上に伏せた。動けない以上、読書の続行は不可能だ。ここは諦めるしかない。戦略的停止だ。撤退ではない。停止だ。


 心臓がうるさい。肋骨の裏側で誰かがドラムを叩いている。でも、このドラムの音で神代さんが起きる気配はない。よほど深く眠っているらしい。


 ……疲れているのか。


 当たり前だ。学年一の成績。品行方正。教師からの信頼。クラスでの完璧な笑顔。それを毎日続けていたら、そりゃあ疲れる。この一週間で保健室に通い詰めているのだって、たぶんそういうことだ。


 ここが、息のできる場所だから。


 ──俺と、同じだ。


「…………」


 天井を見上げた。白い天井に蛍光灯。視界の端でカーテンが揺れている。窓から入る風が、少しだけ強くなった。


 神代さんの髪が風で揺れて、俺の首筋に触れた。くすぐったい。でも払えない。


 ◇


「……あ」


 チャイムの十秒前に、神代さんが目を開けた。


 一瞬きょとんとして、自分の姿勢を確認して──俺の肩に頭を預けていたことに気づいた。


 見る間に耳が赤くなった。


「ご、ごめんなさい……! 私、寝て……」


「……うん」


「起こしてくれればよかったのに……!」


「……起こすタイミングが」


「タイミング……?」


「……わからなかった」


 嘘ではない。本当にわからなかった。ただ、「わからなかった」のではなく「わかろうとしなかった」が正確かもしれない。どっちなのか、自分でもわからない。わからないことが多すぎる。


 神代さんは俺の顔を数秒見つめて、それから──少し困ったような、でもどこか嬉しそうな顔をした。


「……ありがとう。起こさないでくれて」


 礼を言われる場面なのか、これは。


 チャイムが鳴った。神代さんは慌てて立ち上がり、上履きを履く。いつもの切り替え。背筋が伸び、表情が整い、「完璧な神代澪」が再起動する。


 だが今日は、再起動が少しだけ遅かった。耳の赤みが完全には引いていない。


「また月曜日ね」


「……うん」


「月曜日、お弁当作ってこようかな。……二人分」


 意味を理解するのに、三秒かかった。


 二人分。


 それは俺の分が含まれている、という宣言か。確認したいが、声が出ない。出たとしても「え」くらいしか出ない。日本語として最小単位の一音。


 だが神代さんは返事を待たずに、小さく手を振って保健室を出ていった。


 ドアが閉まる。


 ◇


 朝倉先生がコーヒーカップを口元に運びながら、静かに言った。


「……肩、痺れたでしょ」


「…………はい」


「十五分くらい固まってたわよ、あなた」


「…………はい」


「大丈夫?」


「……何がですか」


「肩。あと、心臓」


 両方大丈夫ではない。肩は鈍く痺れているし、心臓はまだ平常値に戻っていない。だが「大丈夫ではない」と正直に言うと、何が大丈夫ではないのかを説明する義務が生じる。その説明は、俺の語彙力では絶対に不可能だ。


「……たぶん大丈夫です」


「そう」


 朝倉先生はそれ以上何も言わなかった。


 ◇


 教室に戻る廊下を歩きながら、右肩を回した。確かに痺れている。十五分、微動だにしなかった代償だ。


 月曜日。二人分の弁当。


 神代さんは、また距離を詰めてきている。物理的な距離だけじゃない。弁当というのは、おにぎりやメロンパンとは次元が違う。誰かのために作る食事だ。手間がかかる。時間がかかる。その時間と手間を俺に向けるということは──。


 ──いや、深読みだ。


 「多く作りすぎちゃって」的な理由だろう。料理が好きな人にはよくあることだ。たぶん。俺は料理をしないから知らないが、テレビではそういう場面をよく見る。


 教室のドアが見える。中からいつもの談笑。


 席について、窓の外を見た。


 右肩に、まだあの軽い重みの感触が残っていた。花の匂いのする、羽毛布団みたいな。


 週末は二日ある。土曜と日曜。月曜まで、あと二日。


 ──長いな。


 何が長いのか。何を待っているのか。その問いに対する答えは、文庫本の十三ページ目と一緒に、まだ止まったままだ。

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