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【第29話】空白の保健室

【第29話】空白の保健室


 金曜日。昼休み。保健室。


 神代さんは約束を守った。


 チャイムから三十分後。もはや昼休みの半分を過ぎている。ドアが開いて、息を切らした神代さんが入ってきた。頬が赤い。走ってきたのだ。生徒会室か、教室か。どちらにしても遠い。


「湊くん──ごめん、遅く……」


「座れ」


 水曜と同じ台詞が出た。我ながら語彙が乏しい。だが神代さんは笑って座った。隣。四十センチ。いつもの距離。


「約束、守ったよ♡」


 守った。昨夜のLINEの「約束」。来ると言って、来た。当たり前のことなのに、胸の奥が緩んだ。張っていた糸が少し弛む感覚。


 飴を出した。いちご味。預かっていた分。


「……ありがとう♡」


 包み紙を剥いて、口に入れた。頬が膨らむ。いちごの匂い。日常の匂い。


 ──だが今日の神代さんは、飴を食べながら目を閉じていた。椅子に座ったまま、壁に背中を預けて。まつげの影が頬に落ちている。肩の力が抜けているのではなく、力を入れる余裕がないのだ。脱力と弛緩は違う。これは後者。ガス欠。


「……疲れてるだろ」


「ん……ちょっとだけ」


 ちょっとだけ。この人の「ちょっと」は信用ならない。目の下に薄い影がある。杏が言っていたクマだ。コンシーラーでは隠しきれていない。


「寝てるか」


「寝てるよ。四時間くらい」


 四時間。高校生の睡眠としては論外だ。厚生労働省が顔をしかめる数値。


「……少ないだろ」


「うん。でも、いまここが気持ちいいから、大丈夫」


 大丈夫。また出た。だが今回は少し違った。大丈夫の後に「ここが気持ちいい」がくっついている。保健室が。俺の隣が。──これは大丈夫じゃない証拠だ。本当に大丈夫な人間は、わざわざ「気持ちいい」を補足しない。


 五分。神代さんは五分だけ座って、立ち上がった。


「……ごめん。戻らなきゃ」


「……うん」


 神代さんが立ち上がった。鞄を手に取り、少しだけ迷うように俺を見た。


「月曜日もなるべく来るね」


 なるべく。「絶対」が「なるべく」に下がった。昨日のLINEは「絶対保健室行くね」だった。一晩で一段階、保証が薄まっている。


「……無理するな」


「ん。ありがとう♡」


 ドアが閉まった。五分。今日の滞在時間、五分。保健室の空気がまだ温かい。飴のいちごの匂いが残っている。だが人がいない。


 朝倉先生がデスクからこちらを見た。何も言わなかった。コーヒーを飲んだ。沈黙は朝倉先生の優しさの形式だ。


 ◇


 土曜日。


 LINEが来た。朝の八時。早い。


『おはよう♡ 今日も学校で準備だよ。土曜なのに笑』


 また「笑」だ。本当は笑えていない「笑」。


『がんばれ。飴は月曜に渡す』


 返信。三十秒で来た。


『待ってる♡ 湊くんの飴が生命線なの』


 生命線。大げさだ。いちご味。百二十円。コンビニの棚に並んでいるだけの量産品が、この人の生命線らしい。──大げさなのは、たぶん俺の方だ。百二十円の飴に「生命線」と返されただけで、胸のあたりが温かくなっている。


 日曜日。LINEなし。


 こちらからも送らなかった。送れなかった。何を送ればいいのかわからなかった。「おつかれ」は木曜に送った。「がんばれ」は土曜に送った。同じ言葉を繰り返すのは怖い。弾切れの銃を撃つようなものだ。空砲。音は出るが何も届かない。


 日曜の夜、九時。スマホが震えた。


『明日からほんとに忙しくなるかも。保健室行けなかったらごめんね』


 ごめんね。謝る。来られないことを先に謝る。この人は不在を罪だと思っている。来ないことが悪いことだと。──悪くない。悪くないのに。


『わかった。無理すんな』


 送信。「会いに行く」とは書けなかった。


 ◇


 月曜日。


 神代さんは来なかった。


 ◇


 火曜日。


 神代さんは来なかった。


 昼休み。保健室。ランチパック。たまごサンド。一人。天井の染み。壁の時計。秒針の音がやたら大きい。以前は気にならなかった。この音はずっとあった。ただ、隣に人がいれば聞こえなかっただけだ。


 朝倉先生がコーヒーを持って、珍しく俺の近くの椅子に座った。


「静かね」


「……はい」


 間。三秒。先生がカップを口元に運び、戻した。


「前はこれが普通だったのにね」


 普通。そうだ。保健室に一人でいることが、俺の日常だった。半年前まで。カーテンの向こうにベッドがあって、朝倉先生がデスクにいて、消毒液の匂いがして。それが全部だった。十分だった。──十分だったはずだ。


「……はい」


「でも、普通じゃなくなっちゃったでしょう」


 否定できなかった。普通じゃなくなった。いちごの匂いが混じった保健室。隣の椅子に誰かがいる保健室。弁当箱が二つ並ぶ保健室。あれが「普通」になってしまった。


 朝倉先生はそれ以上何も言わなかった。コーヒーを飲み終えて、デスクに戻った。


 ◇


 水曜日。三日目。


 神代さんは来なかった。


 保健室は「保健室」に戻った。機能としては正しい。怪我をした生徒が来て、体調不良の生徒が来て、朝倉先生が対応して、ベッドで休ませて、帰す。保健室の正規の使い方。俺みたいに昼飯を食べに来る人間の方が異常なのだ。


 だが俺にとって、この部屋はもう「保健室」ではなくなっていた。名前が変わっていた。いつの間にか。「俺と神代さんがいる場所」に。そこから神代さんを引いたら、ただの部屋だ。消毒液と蛍光灯とカーテンの部屋。


 ──認めたくない。認めたくないが、認めなければならない。


 この場所の意味が変わった。誰かがいるから居場所になる。一人でいても安全だったはずの場所が、一人だと空白に感じる。それが何を意味するのか。


 杏が来た。五時間目の前。


「あ、湊くん。今日も一人?」


「……うん」


 杏が保健室を見回した。空席。空気。静寂。


「澪ちゃん、いないんだ。……じゃあ意味ないか」


 帰ろうとした。


「……俺の立場」


 杏が足を止めた。


「え?」


「俺はいるんだが」


 杏が一瞬きょとんとして、それから笑った。


「ごめんごめん。湊くんはいつもいるから、風景みたいになっちゃって」


 風景。俺は保健室の備品か。壁掛け時計と同じ分類か。カーテンレールと並列か。自尊心に対する精密攻撃。


「冗談だよ〜。でもね、澪ちゃん本当に忙しそう」


 杏が隣に座った。今日は一つ向こうではなく、隣。神代さんの位置。──違和感がある。サイズが違う。温度が違う。匂いが違う。当たり前だ。別の人間なのだから。だがそんなことまで比較している自分に気づいて、少し嫌になった。


「さっき廊下ですれ違ったんだけど、段ボール三箱抱えてた。一人で。手伝おうとしたら『大丈夫だよ、ありがとう』って」


 大丈夫。段ボール三箱を一人で運びながら「大丈夫」。重量的に大丈夫ではない。物理法則が許さない。


「顔は笑ってたけど、足元ちょっとふらついてた」


 ふらつく。四時間睡眠。月曜から三日間。十二時間の累積睡眠不足。身体が限界を超えている。それでも笑う。完璧に。「さすが神代さん」の鎧を着たまま。


「湊くんさ」


 杏の声が少しだけ低くなった。明るい子が真面目になると、温度が変わる。


「会いに行かないの?」


 同じことを八代にも言われた。差し入れ。彼氏ムーブ。──行けない。行けないと答えた。木曜日に。だが今日は水曜日で、あれから六日が経っている。六日間、同じ場所で待ち続けている。


「……行っても、邪魔に」


「ならないよ。澪ちゃん、湊くんが来たら絶対喜ぶよ」


 絶対。杏の「絶対」は軽い。だが軽さの中に確信がある。


「……考える」


「考えるんじゃなくて行きなよ〜。考えたら動けなくなるタイプでしょ、湊くん」


 図星。考えれば考えるほど足が止まる。頭が先に走って、足が置いていかれる。


 杏が帰った。保健室。一人。また一人。


 ◇


 放課後。


 教室で帰り支度をしていた。鞄にノートを入れた。教科書を入れた。──飴が指先に触れた。いちご味。ポケットに入れていた分。月曜に渡すはずだった分。火曜も。水曜も。三日分の飴。三つ。手のひらに乗せた。軽い。こんなに軽いものが、渡せない。


 窓の外。二組の教室の方を見た。窓に明かりが灯っている。放課後の文化祭準備。今日も遅くまでやるのだろう。


 杏の声がした。脳内で。「考えるんじゃなくて行きなよ」。八代の声もした。「待ってるだけじゃ届かないぞ」。屋上のあの三人の声も。「ちゃんとしてあげてください」。


 立ち上がった。


 鞄を持って、教室を出た。階段を降りた。渡り廊下を歩いた。二組の教室がある棟に入った。足が動いている。考える前に。考えたら止まる。止まったら終わる。だから考えない。足だけ動かす。


 二組の教室が見えた。廊下の先。ドアが開いている。中から声が聞こえる。笑い声。話し声。段ボールを切る音。テープを引く音。文化祭準備の活気。教室の中は戦場だ。


 廊下の壁際に立った。ドアの斜め前。中が見える位置。


 ──いた。


 神代さんが教室の中央にいた。クラスメイトに囲まれている。模造紙を広げて、何かを指差している。口が動いている。説明している。笑顔。完璧な笑顔。「いいね、それでいこう」と言っているように見える。唇の動きが。


 隣の女子が何か言った。神代さんが笑った。首を傾げた。答えた。丁寧に。穏やかに。隙なく。


 男子が段ボールを運んできた。「神代、ここ置いていい?」。神代さんが振り向いて「うん、そこでお願い」。笑顔。声が──聞こえた。明るくて、張りがあって、保健室とは違う声。教室の声。


 足が止まった。


 入れない。


 十メートル先に神代さんがいる。飴を三つ持っている。渡すだけでいい。「おつかれ」と一言添えるだけでいい。それだけのことが、できない。


 なぜか。理由はわかっている。


 あの教室の中は、神代さんの「完璧」の領域だ。背筋を伸ばし、笑顔を配り、誰にでも丁寧に応える「みんなの神代さん」の世界。俺がそこに入ったら、あの人は──どうする。「湊くん」と呼ぶのか。あの甘い声で。クラスメイトの前で。


 呼べないだろう。呼べば「完璧な神代澪」の仮面にヒビが入る。保健室モードが教室に漏れる。俺が行くことで、あの人の鎧を壊すことになる。


 俺は、あの人の「完璧」を壊したくない。壊す権利がない。


 ──違う。


 違う。壊したくないんじゃない。壊した後の責任を取れないから怖いのだ。保健室の外で神代さんと向き合うことが。「黒瀬湊」としてあの教室に立つことが。逃げ場のない場所で、この人の前に出ることが。


 怖い。


 教室の中で、神代さんが伸びをした。小さく。両手を上に伸ばして、すぐ戻す。周囲には見えないくらいの動作。疲れている。


 ──行け。行け。今だ。飴を三つ渡すだけだ。「おつかれ」と言うだけだ。


 足が動かなかった。


 セメントが流し込まれたように、靴底が廊下に張り付いている。右足を上げろ。上がらない。左足でもいい。動かない。頭が命令している。足が拒否している。この断絶。この距離。頭と足の間の渡り廊下。


 一分。二分。


 立っていた。廊下の壁際で。飴を三つ握ったまま。汗で包み紙が湿っていた。


 ──引き返そう。


 そう決めた瞬間、教室の中で神代さんが顔を上げた。


 窓ではない。ドアの方。廊下の方。──俺がいる方。


 目が合った。


 合った、と思った。十メートル。距離としては窓越しの十五メートルより近い。だが廊下と教室の間には、見えない壁がある。完璧の内と外。あちら側とこちら側。


 神代さんの表情が変わった。一瞬だけ。眉が上がった。口が開きかけた。──何か言おうとした。立ち上がろうとした。


 だがクラスメイトが声をかけた。「澪、ここの配置どうする?」。神代さんの視線が引き戻された。笑顔が戻った。完璧が復元した。「うん、右側に寄せた方がいいかな」。


 ──追いかけられなかった。


 俺も。あの人も。


 背を向けた。飴を三つ握ったまま。廊下を歩いた。来た道を戻った。渡り廊下。階段。昇降口。校門。


 振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだった。戻って何をするかわからないから。飴を渡すだけなのか。「大丈夫か」と聞くだけなのか。それとも、もっと別の何かを。


 帰り道。十月の終わり。風が冷たくなった。手のひらの飴が三つ。渡せなかった飴。いちご味。包み紙が手汗で皺になっている。


 ポケットに戻した。明日も持っていく。明日こそ──。


 明日。木曜日。文化祭前日。明日は全校が準備に追われる。神代さんは生徒会として走り回る。保健室に来る暇はない。


 スマホを取り出した。LINEを開いた。神代さんのトーク画面。最後のメッセージは日曜の夜。「保健室行けなかったらごめんね」。三日間、既読もつかないメッセージが俺の側に一つ残っている。「わかった。無理すんな」。読まれた。返信はない。忙しいのだ。


 何か打とうとした。指が止まった。何を送る。「今日、教室の前まで行った」。──重い。「飴がある」。──軽すぎる。


 結局、何も送れなかった。


 部屋に帰った。飴をポケットから出して、机の上に並べた。三つ。いちご味。月曜の分。火曜の分。水曜の分。渡せなかった日の数だけ飴がある。


 明日、四つ目が加わる。


 文化祭前日。全校準備。あの人は完璧のまま走り続ける。四時間睡眠で。段ボールを三箱抱えて。「大丈夫」と笑いながら。


 ──さっき、廊下で目が合った。


 あの一瞬。神代さんの目が変わった。口が開きかけた。何かを言おうとした。「湊くん」か。「来てくれたの」か。「助けて」か。


 わからない。わからないが、一つだけわかることがある。


 あの人は俺に気づいていた。廊下に立っている俺を見つけていた。そして──追いかけられなかった。クラスメイトに呼ばれて、完璧を維持する方を選んだ。選ばざるを得なかった。


 俺は引き返した。あの人は留まった。どちらも動けなかった。十メートルの距離が、縮まらなかった。


 天井を見た。染みが三つ。毎晩同じ。


 ──明日、保健室に来るだろうか。来ないだろう。文化祭前日だ。来る余裕はない。


 だがもし。もし来たら。


 何か言わなければならない気がする。何を言えばいいかはわからない。でも、「別にいい」でも「うん」でもない、もう少しだけ本当のことを。


 飴を四つ。明日の分を加えて。


 もし来なかったら。もし来たら。どちらにしても、俺はまだここにいる。保健室に。待っている側に。


 ──でも今日、一歩だけ出た。渡り廊下を渡った。教室の前まで行った。飴を三つ握って。引き返したけれど、行った。行ったのだ。


 それが何の意味を持つのか。持たないのか。


 わからないまま、十月が終わろうとしていた。

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