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【第28話】文化祭準備──神代さんの忙しさ

【第28話】文化祭準備──神代さんの忙しさ


 月曜日。保健室。昼休み。


 神代さんが来たのは、チャイムから十二分後だった。


 十二分。これまでの最長記録は七分。それも体育の着替えが遅れた日だ。今日は体育がない。つまり純粋に十二分。時計を見ていたわけではない。壁にかかった時計の秒針が、自然と視界に入っていただけだ。待っていたわけではない。


 ドアが開いた。


「湊くん、ごめん。遅くなっちゃった」


 ハートがない。いつもなら甘い声で名前を呼ぶところが、今日は素の「湊くん」だ。余裕がない証拠。


 神代さんが隣に座った。弁当箱を開ける。今日は一段。いつもは二段。一段目が俺の分、二段目が自分の分。今日は一段だけ。中身は──おにぎり二つと卵焼き。卵焼きにはスマイルがない。


「……一段」


「うん。今日ちょっと時間なくて。ごめんね、湊くんの分まで作れなかった」


 謝られた。弁当を作る義務などどこにもないのに、作れなかったことを詫びている。この人の中では、俺の弁当を作ることが「当然の日常」に組み込まれているらしい。


「いい。俺はこれがある」


 コンビニのランチパック。たまごサンド。百五十円。神代さんが来る前は、これが昼食のすべてだった。


「……えー。栄養バランス悪いよ」


 文句を言う元気はあるらしい。少し安心した。


 飴を渡した。いちご味。土日で買い足した在庫。


「ありがとう♡」


 ハートが戻った。飴を受け取ると出るらしい。条件反射。パブロフの飴。


 食べた。黙って。隣で。いつもの時間。──いつもより短い時間。


 チャイムの五分前に、神代さんが立ち上がった。普段は三分前。二分の前倒し。


「ごめん、先に行くね。生徒会の集まりがあって」


 生徒会。文化祭準備。先週の金曜に八代が予告した通りだ。再来週が本番。今週から準備が本格化する。生徒会は運営の中枢。神代さんはその一員。


「……うん」


「明日はもうちょっとゆっくりできると思う」


 明日。保証はない。だが約束のように聞こえた。


 ドアが閉まった。三秒。切り替え。教室の神代澪が起動する。金曜に窓越しに見た、あの背筋。あの笑顔。今この瞬間、廊下で誰かとすれ違い、「さすが神代さん」の衣装に袖を通している。


 保健室に、おにぎりの匂いが残っていた。


 ◇


 火曜日。昼休み。


 神代さんが来たのは、チャイムから十八分後だった。


 記録更新。弁当は一段。おにぎり一つと、小さなタッパーに入った肉じゃが。おにぎりは一つだけ。神代さんの分だ。


「湊くん、はい。肉じゃが、昨日の残りなんだけど」


 タッパーを渡された。蓋を開けた。じゃがいもが崩れかけている。味が染みている証拠。家庭の味。


「……もらっていいのか」


「湊くんに食べてほしくて持ってきたの」


 持ってきた。俺のために。弁当を作る時間がないから、昨日の残りを小さな容器に詰めて持ってきた。効率的だ。そして、その効率の中に俺への気遣いが入っている。


 コンビニのパンと肉じゃが。組み合わせとしては珍しいが、味は確かだ。


 飴を渡した。今日はメロン味。いちごが切れていた。


「あ、メロン♡ これも好き」


 好き。メロンも守備範囲内。この人の飴に関するストライクゾーンは広い。


 食べた。隣で。だが今日は会話が少ない。神代さんがスマホを見ている。LINEの通知が何度も光る。生徒会のグループだろう。眉間に微かな皺。皺というほどではない。影。眉と眉の間にできる、〇・五ミリの陰り。


「……忙しそうだな」


「ん、ちょっとね。プログラムの割り振りがまだ決まってなくて」


 プログラム。文化祭の進行表。全体の時間配分。何十もの出し物と開閉会式と片付けと来場者の動線。重い。


「大変だな」


「大丈夫だよ。毎年のことだし」


 大丈夫。出た。あの三人が言っていた台詞。金曜の窓越しに見た完璧の笑顔が重なる。


 チャイムの七分前に立ち上がった。昨日より二分前倒し。出発時刻が日ごとに早まっている。電車のダイヤが繰り上がるように。終着駅は同じなのに、保健室での停車時間が短くなっている。


「明日もちょっと遅くなるかも。ごめんね」


「……別にいい」


 神代さんが鞄を肩にかけた。ドアノブに手をかけて、振り返る。


「ありがとう。じゃあね、湊くん」


 ドアが閉まった。滞在時間は昨日より短い。


 朝倉先生がデスクからこちらを見た。


「……早いわね、今日も」


「……はい」


 先生がカップを傾けた。一口分の間。


「文化祭準備?」


「……たぶん」


 朝倉先生がコーヒーを一口飲んだ。何か言いかけて、やめた。俺も何か言いかけて、やめた。保健室が静かになった。前はこれが普通だった。


 ◇


 水曜日。昼休み。


 チャイムから二十五分後。記録更新。もはや計測する意味があるのかわからない。


 神代さんが来た。息が上がっている。走ってきたのか。髪が少し乱れている。頬が赤い。


「ごめん、会議が長引いて──」


「……座れ」


 口が勝手に動いた。「座れ」。命令形。俺が命令形を使ったのは人生で三回目くらいだ。一回目は小学生のとき弟に「どけ」と言った。二回目は覚えていない。三回目が今日。


 神代さんが目を丸くした。それから、笑った。


「……うん」


 座った。弁当はない。手ぶら。


「今日、作れなかった。ごめん──」


「いいから。これ食え」


 ランチパックを半分に割った。たまごサンド。半分を神代さんの前に置いた。


「……え」


「食べてないだろ、昼」


 沈黙。二秒。神代さんがランチパックの半分を手に取った。一口。咀嚼。ゆっくり。


「……おいしい」


「百五十円だぞ」


 神代さんがもう一口。咀嚼。頬が動く。


「百五十円のおいしさだよ」


 百五十円のおいしさ。何だそれは。味覚に価格帯があるのか。だが神代さんは本当においしそうに食べている。たまごサンドの半分を、世界の珍味のような顔で。


 飴を渡した。いちご味。買い足した。


「……湊くんは優しいね」


「……普通だ」


 首を横に振った。神代さんが小さく笑った。


「普通じゃないよ♡」


 普通だ。ランチパックを半分に割っただけだ。百五十円の半分。七十五円の優しさ。大したことはない。


 ──大したことはない、と思いたい。だが神代さんの目が潤んでいるように見えたのは、たぶん気のせいではない。


 今日は十分だけいて、行った。チャイムの十五分前。保健室の滞在時間、過去最短。


 ◇


 木曜日。


 神代さんは来なかった。


 LINEが来た。


『今日、保健室行けないかも。ごめんね』


 文面にハートがない。忙しいのだ。あの甘い記号を打つ余裕すらないのだ。──いや、深読みしすぎだ。たまたまだ。


『わかった。無理するな』


 送った。六文字。「無理するな」。この四文字を打つのに一分かかった。余計なお世話かもしれない。おこがましいかもしれない。だが「わかった」だけで終わらせたくなかった。何か一つ、足す。金曜の夜に決めたこと。半歩前に出る。


 既読。三十秒。返信なし。一分。返信なし。


 二分後。


『ありがとう。がんばるね』


 がんばる。この人は「がんばらないで」と言われたい人なのか、「がんばれ」と言われたい人なのか。たぶん、どちらでもない。ただ「見ている」と伝えてほしい人だ。


 昼休み。保健室。一人。


 弁当は今日もランチパック。たまごサンド。丸ごと一個。半分に割る相手がいない。


 朝倉先生がいる。いつも通り。だが保健室の空気がいつもと違う。温度が低い。暖房の問題ではない。十月だから暖房はまだ入っていない。空気の質の問題だ。密度が足りない。分子が一つ欠けている。


「……黒瀬くん」


 朝倉先生が声をかけてきた。珍しい。先生から話しかけてくることは少ない。


「今日は一人ね」


「……はい」


 先生がコーヒーカップを両手で包んだ。


「……神代さん、来ないの?」


 静かな声。詮索ではなく確認。


「文化祭準備で」


「そう」


 コーヒーを飲んだ。間。


「……恋しい?」


 不意打ち。朝倉先生の不意打ちは予告なしに来る。天気予報のない落雷。


「……は」


「顔に書いてあるわよ。さっきから神代さんの席──あの辺り、ずっと見てる」


 見ていた。無意識に。神代さんがいつも座る場所。俺の左隣。四十センチの距離。肩が触れる位置。そこに誰もいない。いないことを、目が確認し続けていた。自動巡回。停止できないプログラム。


「……見てません」


「そう。じゃあ私の見間違い」


 見間違いではない。先生も俺もわかっている。だが朝倉先生はそれ以上追及しない。刺して引く。抜いた後の傷は、自分で手当てしろという方針。


 杏が来た。五時間目の前。


「あ、湊くん。一人?」


「……うん」


 杏が教室の中を見回した。空席。いつもの場所にいつもの人がいない。


「澪ちゃん来てないの?」


 頷いた。杏が隣に座った。神代さんの位置ではなく、一つ向こう。距離感を守っている。


「湊くん、澪ちゃんいないとソワソワしてない?」


「してない」


 即答した。だが杏は笑っている。


「してるよ〜。目がね、きょろきょろしてる。探してるでしょ」


 探していない。──探していた。ドアが開くたびに、入ってくるのが神代さんかどうかを確認していた。三時間目の後、四時間目の後。休み時間のたびに。来ない。来なかった。


「……してない」


「はいはい。してないってことにしておくね〜」


 杏が笑った。悪意はない。善意。純度百パーセントの善意が、たまに刃物になる。


「ねぇ湊くん、澪ちゃんのクラスってお化け屋敷やるらしいよ。知ってた?」


「……知らない」


 杏が嬉しそうに身を乗り出した。


「二組のお化け屋敷、結構ガチらしくて。澪ちゃんも企画に入ってるんだって」


 お化け屋敷。神代さんが。何をやっても完璧にこなすのがこの人だ。


「それで生徒会の仕事もあるから、超忙しいみたい」


 知っている。日を追うごとに滞在時間が短くなり、弁当がなくなり、今日は姿すら見えない。保健室からフェードアウトしている。


「湊くん、顔怖いよ」


「……いつもこの顔だ」


 杏が首を横に振った。


「いつもより怖い。心配してる顔」


 心配。認めたくないが、心配している。教室の窓から見たあの笑顔。百点を維持するコスト。今日の不在。全部繋がっている。


「……杏」


 自分から名前を呼んだ。珍しいことだと自分でもわかる。


「ん?」


「神代さん、大丈夫そうか」


 聞いてしまった。自分で見に行けないから、人に聞いた。情けない。


 杏が少し黙った。考えている顔。明るい子の考え込む顔は、普段との落差が大きい。


「んー、正直ちょっと心配かも。澪ちゃんって弱音吐かないじゃん。でもね、昨日すれ違ったとき、目の下にちょっとだけクマがあった」


 クマ。コンシーラーで隠す。以前もあった。完璧を維持する代償が、肌に出る。


「たぶん寝てないんだよね。でも聞いても『大丈夫』って言うから」


 大丈夫。三回目。この単語がこの一週間で何回出たか。数えたくない。


「杏は、止められないのか」


「……止められないよ。澪ちゃんが『大丈夫』って笑ったら、信じちゃうもん」


 あの三人と同じだ。完璧の笑顔の前で、心配を飲み込む側。


「湊くんなら止められるんじゃない?」


 止める。俺が。どうやって。「無理するな」とLINEで送った。四文字。それで足りるのか。足りていないから杏に聞いている。


「……わからない」


「わからないかー。でもね」


 杏が立ち上がった。鞄を肩にかけた。


「澪ちゃん、湊くんの前でだけ『大丈夫』って言わないと思うよ。言えないんじゃなくて、言わなくていいって思ってるの。たぶん」


 言わなくていい。「大丈夫」を使わなくていい場所。それが保健室で、俺の隣で。──だが今、その場所に神代さんがいない。


 杏がドアの前で振り返った。


「あ、そうだ。澪ちゃん、今日も遅くまで残るって言ってた。八時くらいまで」


 八時。十月の八時。外は真っ暗だ。


「……ありがと」


「いーよ〜。じゃあね、湊くん」


 杏が去った。保健室がまた静かになった。


 ◇


 放課後。教室。帰り支度をしていた。


 八代が寄ってきた。


「黒瀬、今日も保健室で待ちぼうけだったろ」


「……待ちぼうけじゃない」


 八代が鞄を肩にかけ直した。にやにやしている。この男のにやにやは消えない。恒星のように安定して光り続ける。


「嘘つけ。お前、昼休みずっと一人だったって杏ちゃんから聞いた」


 情報の流通速度が光速だ。杏から八代へ。この学校の情報伝達網は地下水脈のように至る所で繋がっている。


「神代さん、文化祭準備で毎日遅いらしいな」


「……らしい」


 八代が声を落とした。珍しく周囲を確認している。


「聞いた話だと、生徒会の仕事とクラスのお化け屋敷、両方やってるんだと。副会長が体調崩して、そのぶん神代さんに回ってるらしい」


 副会長の穴埋め。本来の仕事量に加えて、もう一人分。二百点。人間の出力限界を超えている。


「……八代、それどこから」


「生徒会の知り合い。あいつら今週マジで修羅場だってよ。特に神代さんは頼まれると断れないから、どんどん仕事が積み上がってるって」


 断れない。完璧な人間は断らない。「できません」はこの人の辞書にない単語だ。


「……なんでお前がそんなに詳しいんだ」


「お前の彼女のことだからな。周辺情報は常にアップデートしてる」


 彼女じゃない。──もうこの否定にも力が入らない。


「黒瀬、差し入れでも持ってってやれば?」


「……は?」


 八代が指を折って数える。


「だから、準備で遅くまで残ってるんだろ? 差し入れ。飲み物とか。甘いものとか。彼氏ムーブだよ」


 差し入れ。飲み物。甘いもの。──飴。飴なら持っている。いちご味。常に携帯している。だが差し入れに行くということは、保健室の外に出るということだ。神代さんの教室に、あるいは生徒会室に。俺の足で。


「……行けない」


「は? なんで」


 八代の目が真っ直ぐ俺を見ている。答えを待っている。


「……行っても、邪魔になる」


 邪魔。本音は違う。怖いのだ。保健室の外で神代さんに会いに行くことが。教室の神代さん──完璧な鎧を纏った神代さんのいる場所に、俺が踏み込むことが。保健室は俺の領域だ。だが教室は、生徒会室は、神代さんの領域だ。そこに行けば「神代さんの彼氏」として見られる。


 ──「ちゃんとしてあげてください」。屋上の声が蘇る。


 ちゃんとする。半歩前に出る。言葉では決めた。だが足がついてこない。頭と足の間に、渡り廊下くらいの距離がある。


「……まあ、無理にとは言わないけどさ」


 八代が珍しく引いた。俺の顔を見て察したらしい。


「でもな黒瀬、待ってるだけじゃ届かないこともあるぞ」


 届かない。保健室で待っていても、神代さんが来なければ何も届かない。飴も、ランチパックの半分も。


 八代が帰った。教室が空になった。


 ◇


 帰り道。十月の夕方。日が短くなった。


 校門を出た。ふと振り返った。校舎の三階。二組の教室。窓に明かりが灯っている。あの明かりの中に、神代さんがいる。


 行きたい。


 その感情が、腹の底から這い上がってきた。会いたい、という動物的な衝動。言葉にすると単純なのに、足を動かすことができない。校門から校舎まで五十メートル。短い距離。だがその五十メートルが、俺には渡り廊下の向こうより遠い。


 コミュ障。保健室。逃げ場。安全地帯。俺はずっとそこにいた。そこで待っていれば、神代さんが来てくれた。扉を開けて。切り替えて。甘い声で名前を呼んで。


 来てくれるのを待つ。それが俺の形だった。だがその人が来られないとき──忙しくて、疲れていて、限界でも「大丈夫」と笑いながら保健室まで走ってきてくれるこの人に、俺は「待ってるだけ」でいいのか。


 杏の言葉が頭をよぎった。「澪ちゃん、湊くんの前でだけ『大丈夫』って言わないと思うよ」。


 なら、俺がそこに行けば。「大丈夫」を言わなくていい空気を、保健室の外に持ち出せば。──できない。今日は。まだ。


 スマホを取り出した。


『おつかれ。飴、明日の分も預かっとく』


 送った。「会いに行けなかった」の代わりに「飴を預かっている」と伝えた。飴に気持ちを代理させた。卑怯だ。自分の足で行け。──行けない。


 返信は一時間後に来た。いつもの十五秒ではなく、一時間。忙しいのだ。


『ありがとう♡ 飴食べたい。湊くんの飴がないと元気出ない笑』


 笑。この人が「笑」を使うのは珍しい。疲れているときほどテキストが短くなり、絵文字が減り、代わりに「笑」が出る。本当は笑えていない「笑」。


 もう一通。


『明日は絶対保健室行くね。約束♡』


 約束。神代さんが「約束」という言葉を使った。いつもなら「明日もね」とハート付きで済ませる。「約束」を持ち出すのは──来られない可能性があると、自分でもわかっているからだ。


 返信を打った。消した。打った。


『待ってる』


 二文字。それだけ送った。


 待ってる。また「待つ」だ。俺はまた待つ側を選んだ。行く側ではなく。


 ──でも、今日送った「待ってる」は、月曜の「うん」とは違う。「うん」は受動。「待ってる」は意志だ。お前が来る場所がある、と伝える二文字。保健室のドアはいつでも開いている、と。


 そう信じたい。信じたいが、自信がない。


 校舎の窓の明かりが消えた。九時を過ぎている。帰ったのか。帰れたのか。


 部屋の天井を見た。染みが三つ。毎晩同じ。変わらない。保健室の天井にも染みがある。数は知っている。だが今日は、その染みを一人で数えた。


 隣にいるはずの人が、いない。その不在が、天井の染みの数を変える。三つが三十に見える。暗い部屋で、一人で。


 明日。金曜日。神代さんは来るだろうか。「約束」と言った。来てほしい。


 来なかったら──。


 来なかったら、俺は。


 その先を考える前に、目を閉じた。答えが出ることが怖かった。出たら、動かなければならないから。

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