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【第25話】放課後の図書室──初めての"外"

【第25話】放課後の図書室──初めての"外"


 保健室の外で二人で過ごしたら、何が変わるのか。


 月曜の夜に浮かんだ疑問が、火曜を過ぎ、水曜を過ぎても消えなかった。授業中にノートを取りながら、頭の半分が別の場所にある。もう片方の半分も怪しい。ノートの端に意味のない線を引いている。集中力が完全に乗っ取られている。犯人は明白だ。


 保健室。あの四方の壁。消毒液の匂い。朝倉先生のコーヒー。パイプベッド。カーテン。──そこにしか存在しなかった時間が、壁の外に出たらどうなるのか。


 水曜日の帰り道、答えが来た。


 ◇


 昼休み。保健室。いつもの席。飴を一粒渡した。月曜の残り──ではなく、火曜に新しく買い足した分。在庫管理は兵站の基本だ。神代さんが笑って受け取り、口に含む。いちごの匂い。日常になりつつある儀式。


 弁当を食べ終わった。今日は肉じゃが。じゃがいもの煮崩れ方が完璧だ。完璧。この単語を何回使えば気が済むのか。


 チャイムの十分前。神代さんが弁当箱を片付けながら、何気なく言った。


「ね、湊くん。今日の放課後、空いてる?」


「……空いてるけど」


 空いている。毎日空いている。放課後の予定表が白紙なのはコミュ障の特権だ。部活もない。友人との約束もない。帰宅するか、保健室に残るかの二択。


「たまには保健室以外で、一緒にいてみない?」


 保健室以外。


 脳が処理に時間を要した。保健室以外。つまり、外。壁の向こう。教室? 廊下? 校庭? ──全部無理だ。人が多い。視線がある。「あ、黒瀬と神代さんだ」の目撃報告が八代の元に五秒で届く。


「……どこで」


「図書室。放課後なら、ほとんど人いないでしょ?」


 図書室。放課後の図書室。確かに、この学校の図書室は放課後の利用率が著しく低い。立地が悪い。校舎の東端、三階の突き当たり。部活動の生徒は体育館や校庭に向かうし、帰宅部は速やかに撤退する。残るのは図書委員と、期末テスト前の追い込み組くらいだ。十月のこの時期、図書室はほぼ無人と推測される。


「……いいけど」


「ほんと?」


 神代さんの目が光った。瞳の奥に小さな火が灯ったように見えた。嬉しそうだ。保健室で俺が飴を三個渡したときとは質の違う喜び方。あのときは「予備」で笑った。今は笑っていない。笑う手前の、期待が圧縮された表情。


「じゃあ、六時間目が終わったら、図書室の奥の窓際で待ってるね♡」


 場所指定まで済んでいる。事前に下見したのか。計画性がある。俺より三手先を読んでいる。この人は将棋で言えば飛車角落ちでも俺に勝てるタイプだ。


「……わかった」


 チャイムが鳴った。神代さんが立ち上がる。いつもの三秒切り替え。完璧装着。ドアを開けて、一瞬だけ振り返った。


「楽しみにしてる」


 ハートがなかった。ハートがないのに、あの一言の方が心拍数に響いた。省エネ運転で最大出力を出す技術。燃費が異常にいい。


 ◇


 午後の授業。五時間目、六時間目。長かった。時計の秒針が粘土の中を進んでいるように見える。放課後を待っている自分がいる。


 待っている。何を。図書室を。──図書室を待つ人間がいるのか。いる。ここに。


 六時間目終了のチャイムが鳴った。


 鞄を持って教室を出た。廊下。階段。二階から三階へ。東棟の突き当たり。「図書室」と書かれたプレート。ドアは引き戸。古い建物特有の重さ。


 開けた。


 静かだった。予想通りだ。天井の蛍光灯が半分だけ点いている。書架が等間隔に並んでいる。文庫本の背表紙。ハードカバーの重厚な列。窓から差す西日が、書架の隙間に影を落としている。


 図書室の匂い。紙とインクと、かすかな埃。保健室の消毒液とは違う。もっと乾いた、静かな匂い。


 奥の窓際。


 神代さんがいた。


 窓に背を向けて、椅子に座っている。テーブルの上に本が一冊。何かを読んでいたらしい。俺に気づいて顔を上げた。


 ──違う。


 いつもと違う。何が違うか。三秒かかった。距離だ。保健室では俺が座ると即座に隣に来る。肩の距離は拳一つ分。ゼロになることもある。だが今、神代さんはテーブルの向かい側に座っている。俺の席を用意して、自分は対面に。


 保健室モードではない。だが校内モードでもない。その中間。どちらの鎧も完全には装着していない、半透明の状態。


「……来た」


「……来た」


 同じ台詞が二回鳴った。俺と神代さんの声が重なった。神代さんが小さく笑った。


「座って」


 対面の椅子を引いた。座った。テーブルを挟んで向かい合う。保健室ではいつも横並びだ。対面は初めてかもしれない。顔が正面にある。目が合う。逸らす場所がない。保健室なら窓を見ればいい。壁を見ればいい。天井を見ればいい。図書室の対面席は、逃げ道が少ない。


「……ここ、静かだな」


「でしょ? 前に一回来たとき、放課後は全然人がいなくて。いいなって思ったの」


 前に一回来た。下見済みだった。やはり計画的だ。作戦行動の事前偵察を怠らない。敵ではないが、この人の行動様式は軍事的合理性に満ちている。


「湊くんは図書室、来たことある?」


「……一年のとき、何回か」


 神代さんが椅子の上であぐらをかくように足を組み替えた。保健室でもたまに見る姿勢だ。リラックスしている。


「そうなんだ。何読んでたの?」


 本棚の方を見た。記憶を辿る。


「……SF。あと、図鑑」


「図鑑?」


 首を傾げている。意外だったらしい。


「……動物の」


 何を言っているんだ。動物の図鑑。高校生が放課後に読む本として適切か。不適切ではないが、会話の弾む回答ではない。


 だが神代さんは笑わなかった。目を細めて「いいね」と言った。


「私も図鑑好きだよ。植物の。花の名前を覚えるのが好きで」


 花の名前。月曜日に朝倉先生のデスクに花を飾っていた。あの花は何だったのか。聞けなかった。


「……月曜の花」


「ん?」


 神代さんがページから顔を上げた。


「先生のデスクに飾ったやつ。何ていう花?」


 神代さんが少し驚いた顔をした。俺が花の名前を聞くとは思わなかったのだろう。俺も思わなかった。口が勝手に動いている。最近このパターンが多すぎる。


「白いのがカスミソウ。ピンクのがスプレーカーネーション」


 カスミソウ。霞草。名前を聞いたことはある。花言葉は知らない。


「カスミソウの花言葉、知ってる?」


「……知らない」


 神代さんがテーブルの上で指を組んだ。西日が手元を照らしている。細い指。爪が短く整えてある。


「『感謝』だよ♡」


 感謝。先生への感謝で選んだ花に、花言葉まで仕込んであった。この人の行動は表面と裏面がある。朝倉先生と同じだ。言葉の下にもう一層、意味が埋まっている。


「……先生、気づいたかな」


「どうだろう。朝倉先生なら気づいてそう」


 気づいている。たぶん。あの人は花瓶をよけてコーヒーカップを置いていた。丁寧に。花の意味を知っている人の動作だった。


 ◇


 会話が途切れた。図書室の静寂が戻る。空調の低い音。ページをめくる音は──しない。俺たち以外に誰もいないからだ。


 神代さんがテーブルの上の本を開いた。何を読んでいるのか。表紙がこちらを向いている。小説。日本文学。タイトルは読めるが、作者に覚えがない。


「……何読んでるんだ」


「短編集。保健室に持っていくと読む時間ないから」


 保健室では俺と話している。弁当を食べている。飴を食べている。読書の時間はない。つまり図書室では、保健室でできないことをする。


「湊くんも何か読む?」


「……いい。見てる」


 見てる。何を。本棚を。──嘘だ。神代さんを見ている。


 図書室の神代さんは、保健室の神代さんとも、教室の神代さんとも違った。


 保健室では距離がゼロだ。甘い呼びかけが飛んでくる。飴をねだる。弁当の感想を求める。甘さの出力が常に全開。


 教室では完璧だ。背筋が伸びて、笑顔が整って、隙がない。鎧。


 図書室の神代さんは──静かだった。本を読んでいる。ページをめくる指の動きが穏やかだ。時折、唇が微かに動く。黙読しながら口が言葉をなぞっている。髪が頬にかかる。耳にかけ直す。その動作を、西日が横から照らしている。


 きれいだ、と思った。


 保健室の「かわいい」とも、教室の「きれい」とも違う。もっと近い場所にある「きれい」。本を読んでいるだけの横顔が、夕日に照らされているだけの輪郭が、呼吸しているだけの肩の動きが──。


 まずい。


 心臓が勝手にギアを上げた。保健室なら隣に並んでいるから正面は見えない。図書室は対面だ。逃げ場がない。視界の全域に神代さんがいる。


「……湊くん、顔赤くない?」


 気づかれた。


「……暑い」


「十月だよ?」


 正論だ。十月に暑いわけがない。言い訳の質が低い。


「……図書室が、暑い」


 図書室は暑くない。むしろ肌寒い。嘘がへたくそだ。自分でもわかっている。だが真実を言えるわけがない。「お前の横顔がきれいで心臓がおかしくなった」。言ったら即死する。社会的に。物理的にも危ない。


 神代さんが本を閉じた。こちらを見た。少しだけ首を傾げている。それから──笑った。


 控えめな笑み。保健室の全力のハート付きではなく、唇の端がわずかに上がっただけ。声も出さない。目だけが笑っている。


 この笑顔は初めて見る。保健室の全開モードでも、教室の完璧モードでもない。図書室にしか存在しない表情。省電力で、だが芯が温かい。蛍光灯ではなく、夕日で照らされた笑み。


 ──ドキッとした。


 ドキッとした、と認識した自分に、さらにドキッとした。二段構えの動悸。心臓が階段を二段飛ばしで駆け上がっている。


「……本、読めよ」


「読んでたよ。湊くんが見てるから、集中できなくなっちゃった」


 バレていた。完全に。


「見てない」


 神代さんが本を膝の上に置いた。口角が上がっている。


「見てた♡」


 見てた。見てた。認めるのは危険だが、否定するのも無理がある。証拠が揃いすぎている。目撃者は本人。自白を求められている。


「……少し、見てた」


 少し。嘘だ。ずっと見ていた。だが「ずっと」と言ったら完全に終わる。「少し」は最後の防衛線。撤退先の塹壕。


 神代さんが目を丸くした。「少し」を認めたことに驚いたらしい。普段の俺なら「見てない」で押し切る。今日の俺はブレーキが壊れている。壊れっぱなしだ。修理に出す暇がない。


「……えへへ♡」


 小さな声。本を胸に抱えて、神代さんが笑った。保健室のお花畑とは違う。もっとこっそりとした、秘密を共有するような笑み。図書室の窓際限定。


 まずい。まずい。ここは公共の場だ。図書室だ。静粛にしなければいけない空間で、俺の心臓だけが騒音規制に違反している。


「……ここも、悪くない」


 口から出た。また勝手に。ブレーキのないバスが坂道を下っている。止まる気配がない。


 神代さんが顔を上げた。今度は驚かなかった。笑わなかった。泣きもしなかった。ただ──嬉しそうだった。言葉にならない嬉しさ。瞳の奥の温度が上がっている。


「……うん。ここも、いいよね」


 ハートがなかった。ハートがないのに、過去最大級に柔らかい声だった。西日が二人の間のテーブルを照らしている。木目の上を光が滑っている。埃が微かに浮遊している。図書室の時間が、保健室とは違う速度で流れている。もっと緩やかに。もっと静かに。


 ◇


 三十分が過ぎた。


 神代さんは本を読んでいた。俺は──本棚から適当に一冊引き抜いて、読むふりをしていた。文字が目に入らない。ページをめくる動作だけが自動で動いている。視線は活字の上を滑って、三行ごとに対面に落ちる。


 神代さんが髪を耳にかける。ページをめくる。唇が動く。それだけのことに、意味が発生している。保健室では当たり前だった隣の体温が、対面になった途端に「視覚情報」として再構築される。


 距離が遠い分、見える。全体像が。輪郭が。横顔ではなく、正面の顔が。


 五時を告げるチャイムが鳴った。下校時刻。


「……もう五時か」


「早いね。もうちょっといたかったな」


 神代さんが本を閉じた。栞を挟んだ。立ち上がった。


「湊くん」


「……ん」


 神代さんが本を鞄に入れた。それから、少しだけ真剣な顔で聞いた。


「また、来てもいい? ここ」


 また。図書室に。二人で。保健室の外で。


「……いいけど」


「ほんとに? 嫌じゃない?」


 朝倉先生の声が重なった。「嫌じゃない」──金曜に朝倉先生に「どう思ってる」と聞かれたときの感覚。わからない。だが嫌じゃない。嫌じゃないどころか──。


「嫌じゃない」


 今度は声に出して言った。正面から。図書室は対面だから、逃げ場がない代わりに、言葉が真っ直ぐ届く。


 神代さんの頬が染まった。西日のせいだけではない。赤い。耳の先まで赤い。


「……ありがとう♡」


 今日初めてのハート。一つ。たった一つだが、保健室の八連射より胸に刺さった。省エネ運転の最大火力。この人は武器の使い方を知っている。


 ◇


 図書室を出た。廊下を並んで歩く。下駄箱に向かう。


 保健室の中なら日常だ。だが校舎の廊下を並んで歩くのは、体育祭の帰り道以来かもしれない。いや、あのときは校門から外だった。校舎の中を並んで歩くのは──初めてだ。


 放課後の廊下は薄暗い。蛍光灯が間引き点灯になっている。窓から差す西日が床のリノリウムにオレンジの四角を落としている。上履きの音が二つ、ゆるやかに響く。


 神代さんの歩幅が俺に合わせて小さくなっている。俺の方が背が高い。歩幅が違う。それを調整するように、半歩遅れて歩いている。保健室のドアから出る三秒の切り替え──が、今日は起きていなかった。図書室を出ても、まだ半透明の状態。完全な校内モードに戻っていない。


 階段を降りた。二階の廊下。


 ──視線を感じた。


 左。窓の外ではない。廊下の向こう。部活帰りらしい女子のグループが、こちらを見ていた。三人。知らない顔。一年か三年だろう。


 目が合った。一人が小声で何か言った。隣の子がうなずいた。三人目がスマホを取り出しかけて、やめた。


 神代さんは気づいていない。──いや、気づいている。だが反応しなかった。歩調を変えなかった。表情も変えなかった。ただ、半歩遅れの距離をそのまま保って、下駄箱まで歩いた。


 靴を履き替えた。校門。


「じゃあ、また明日ね。保健室で♡」


「……うん」


 神代さんが左に曲がった。俺は右。通学路が逆だ。背中が小さくなっていく。


 十月の風が吹いた。日が暮れかけている。空がオレンジから紫に変わる境目。


 図書室は、悪くなかった。


 保健室とは違う空気。違う距離。違う光。同じ人なのに、見え方が変わった。対面で見る横顔と正面。ページをめくる指。唇の動き。あの小さな笑い声。「ここも、いいよね」の温度。


 保健室は安全地帯だ。壁がある。ドアがある。朝倉先生がいる。守られた空間。


 図書室には壁がない──いや、壁はある。だが空気が違う。開放されている。保健室の密室感がない分、呼吸が少し深くなる。その分、感情も深くなった気がする。


 名前。まだつかない。だが輪郭が濃くなっている。ぼやけていた影が、今日少し鮮明になった。図書室の西日が照らしたのは神代さんの横顔だけじゃない。俺の中の、名前のないものの輪郭も。


 ──さっきの女子グループ。廊下で見ていた三人。あれが気になる。


 噂レベルは既に公式認定だ。今さら目撃されたところで影響はない。ないはずだ。だが、あの三人の視線には好奇心ではなく、別の色があった気がする。品定めの色。「この人が神代さんの──」と確認するような。


 気のせいだろうか。


 気のせいであってほしいと思いながら、十月の帰り道を歩いた。ポケットの中は空っぽ。明日は木曜日。保健室。飴を持っていく。それだけは確かだ。


 それ以外のことは、まだ何もわからない。わからないまま、足を進めている。地図のない森の中を。だが少なくとも、隣に──いや、対面に、同じ森を歩いている人がいる。


 それだけで、足が止まらない理由にはなっている。

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