【第24話】朝倉先生は見ている
【第24話】朝倉先生は見ている
月曜日。ポケットの中に飴が三粒ある。
約束通り──いや、約束とは呼べない。金曜日の保健室で「二個」と決着がついた交渉を、俺が一方的に「三個」に上方修正しただけだ。予備を含めた兵站計画。合理的な判断。合理的に決まっている。
日曜日にコンビニで飴を買っている自分を、客観的に見たらどうなるか。いちご味の棚の前で三十秒立ち止まった男子高校生。結論:考えないことにする。
◇
午前中の授業を消化した。休み時間、八代が背後から声をかけてきた。
「黒瀬。お前、朝からポケットに手突っ込んでるけど、何入ってんの」
この男の観察力は民間の偵察衛星を超えている。軍事衛星だ。
「……飴」
「飴? ……あ、もしかして神代さんに?」
沈黙。肯定とも否定ともつかない間。八代が口角を上げた。
「お前、飴持って学校来るキャラだったっけ」
俺は答えず、窓の外を見た。八代が笑って去った。「いいじゃん、がんばれ」。何を頑張るのかは聞かなかった。
◇
昼休み。保健室。
ドアを開けた。朝倉先生がデスクにいる。コーヒー。パソコン。いつもの光景。
「あ、今日も来たの」
「……はい」
席に座った。弁当を出す。今日も下駄箱に入っていた。メモ付き。「月曜日だよ。がんばろうね」。最後にハートマークがペンで描いてある。活字じゃなく手描き。角が丸くて、少し歪んでいる。完璧じゃないハート。──それがいい、と思った。末期だ。
二分後、ドアが開いた。
「湊くん♡」
神代さん。声が明るい。金曜日の「嫌なこと」が週末で浄化されたらしく、表情がいつもの保健室モードに戻っている。肩が低い。目元が柔らかい。切り替え完了。
「……うん」
「月曜日。来たよ♡」
その一言に含まれる意味。金曜日の約束。飴。保健室。全部が二文字に詰まっている。
ポケットから飴を三粒、手の平に乗せた。差し出した。
神代さんが手の中を見た。赤い包み紙。いちご味。三粒。
「……三個ある」
「二個って言っただろ。予備」
神代さんが口元を押さえて笑った。
「予備♡」
何がおかしいのか。兵站用語のどこに笑いの要素がある。
飴を一粒、丁寧に包み紙を剥いて口に含んだ。残り二粒はスカートのポケットに入れた。金曜に続いて、いちご味が保健室に微かに香る。
弁当を食べた。今日は鮭の塩焼き。大根おろし添え。副菜はきんぴらごぼうと卵焼き。和食回。先週「和食が好き」と言った記録が即座に反映されている。この人のデータベースは企業のCRMシステムに匹敵する。
食べ終わった。穏やかな時間。金曜のポスター事件が嘘のように、空気が凪いでいる。
「ね、湊くん。金曜のポスター、結局最初のバージョンで通ったんだ」
「……そうか」
神代さんが弁当箱の蓋を閉じた。
「うん。三年生も『ごめんね、最初ので十分だった』って」
謝られた。それ自体はいいことだ。だが神代さんの声に引っかかりはない。「大丈夫」で処理済みの案件。金曜の夜中三時は月曜には帳消しになっている。帳消しにしなければ、次の一週間を完璧に乗り切れない。この人は常に前方を見ている。
「よかったな」
「うん♡」
チャイムが鳴った。昼休み終了。神代さんが立ち上がった。切り替わる。三秒。完璧が装着される。ドアが閉まった。
俺も立ち上がろうとした。
「黒瀬くん」
朝倉先生の声。デスクからこちらを見ている。パソコンの画面ではなく、俺を。
「ちょっといい? 五時間目の前に」
朝倉先生が生徒を個別に呼び止めるのは珍しくない。養護教諭の仕事には心の観察も含まれる。だがこの人が俺を個別に呼び止めたのは──初めてだ。
「……はい」
席に座り直した。朝倉先生がコーヒーカップをデスクに置いた。両手を組んで、こちらを見た。
間。五秒。朝倉先生は沈黙の扱いが上手い。黙ることで相手に考える時間を与える。俺と同じタイプだ。ただし俺の沈黙は語彙不足が原因で、先生の沈黙は意図的な設計だ。
「黒瀬くん。一つ聞いていい?」
「……はい」
朝倉先生がまっすぐこちらを見た。
「神代さんのこと、どう思ってる?」
直球だった。予告なし。助走なし。ストレートの剛速球。キャッチャーミットを構える前にボールが来た。
「……どう、とは」
「どう、はどう。そのまんまの意味」
声は平坦だ。糾弾でも詰問でもない。ただ、聞いている。
どう思っているか。金曜日の飴。「ひどいな」の三文字。「無理すんな」のLINE。守りたいと思ったこと。共感と名付けて、名前が違うと気づいたこと。ポケットに飴を三粒入れた朝の気持ち。
全部が頭の中を巡った。巡ったが、言葉にならない。漏斗の注ぎ口が細すぎて、中身が一度に出てこない。
「……わかりません」
正直な答え。嘘ではない。わからないのだ。わからないことだけがわかっている。
朝倉先生が少し目を細めた。怒っていない。呆れてもいない。そう答えることを予測していたような顔。
「そう」
一拍。コーヒーを一口。カップを置いた。
「わからないなら、わかるまで大事にしなさい」
声のトーンが変わった。平坦なまま、だが重心が低くなった。養護教諭の声ではなく、大人の声。
「少なくとも、あの子がここで笑えるのは、あなたがいるからよ」
心臓が跳ねた。
杏が言っていたのと同じ構造の言葉。だが重みが違う。杏の言葉は友人の直感。朝倉先生の言葉は、何ヶ月もこの保健室で二人を見続けてきた大人の観察結果だ。
「……俺が、ですか」
「あなたが。黙って隣に座ってるだけの、あなたが」
黙って隣に座ってるだけ。飴を渡すくらいしかできない人間が、あの人の笑顔の理由になっている。
朝倉先生がデスクの引き出しからファイルを取り出した。保健室の利用記録。
「神代さんがここに来始めたのは、今学期の始めから。あなたがいる日といない日で、滞在時間が全然違ったの」
言われてみれば、つじつまが合う。
「私は養護教諭だから、生徒の顔色を見るのが仕事。あの子の顔色が一番良くなるのは、あなたの隣に座ってるとき」
この保健室で何ヶ月も見ている。カーテンを開けろと言いながら、コーヒーを飲みながら。視界の端で、ずっと。
「先生は……金曜の飴のこと、見てましたか」
「見てたわよ。目の前だもの」
飴を渡すところも、神代さんの泣きそうな笑顔も、全部。「いい飴、持ってるじゃない」はその感想だった。朝倉先生がファイルを閉じた。
「言葉が上手い人がいい相手とは限らない。あの子の周り、言葉が上手い人ばかりでしょう。『さすが神代さん』『頼りにしてる』。全部、言葉は丁寧で中身は消費。あの子を使ってるだけ」
消費。完璧な神代澪を使っている。言葉は褒めているのに実態は搾取。金曜のポスターの件がまさにそうだ。
「あなたは消費しない。何も求めない。それが、あの子にとってはたぶん初めてなのよ」
何も求めない。完璧を求めない。笑顔を求めない。ただ隣にいる。弁当を食べる。飴を渡す。
「大事にしなさい。焦らなくていい。答えが出なくてもいい。ただ、あの子が鎧を脱げる場所を、なくさないで」
「……はい」
声の振動がいつもと違った。腹の底から出た「はい」。
朝倉先生がうなずいた。コーヒーを一口。──口調が変わった。温度がゼロに近い声。
「あと。保健室でイチャイチャするのは、私の目の前では控えてくれると助かるんだけど」
「イチャイチャしてません」
朝倉先生が眉一つ動かさず言った。
「飴を手渡しで渡して、相手が泣きそうな顔で笑うの、世間ではそう呼ぶのよ」
呼ばない。呼ばないはずだ。──呼ぶのか。
「……すみません」
朝倉先生が軽くため息をついた。
「怒ってない。胃が持たないだけ。──五時間目、行きなさい」
「……はい。ありがとうございました」
立ち上がった。ドアに向かう。背後から声。
「黒瀬くん。いちご味、いい選択だったわよ」
飴の味は正解だったらしい。百二十円の正解。安い勝利だが、勝ちは勝ちだ。
◇
五時間目。教室。
数学の教科書を開いている。だが数式の上に、朝倉先生の言葉が重なる。
「あの子がここで笑えるのは、あなたがいるからよ」。杏も同じことを言った。八代は「大事にしろ」と言った。朝倉先生は「大事にしなさい」と言った。三人が同じ結論に至っている。
俺が保健室にいることに意味がある、という仮説。サンプル数三。統計的には不十分だが方向性は一致している。
朝倉先生の問いに戻る。「どう思ってる?」。わからない、と答えた。本当にわからないのか。
ポケットに手を入れた。飴は全部渡した。空っぽ。だが指先に、神代さんの掌に飴を置いたときの温度が残っている。
わからない。わからないが──嫌じゃない。もっと、と指先が何かを掴みかけている。だが名前がない。地図なしで森を歩いている状態。
先生は「わかるまで大事にしなさい」と言った。つまり、いつかわかる前提。この人は俺より先に答えを見ている。だが教えてはくれなかった。自分で辿り着けということだ。不親切だが、正しい。
◇
放課後。保健室。
ドアを開けた。神代さんがいた。窓際のパイプベッドに座って、小さな花瓶に白とピンクの花を活けている。
「あ、湊くん」
「……何してるんだ」
神代さんが花瓶を持ち上げて見せた。
「お花。先生のデスクに飾ろうと思って。いつもここを開けてくれてるでしょ? ありがとうって伝えたくて」
感謝。保健室を使わせてくれている朝倉先生への。
神代さんが花瓶を朝倉先生のデスクの端に置いた。先生はまだいない。白とピンクの花が、殺風景なデスクの上で揺れている。
「……似合わないな」
「えっ」
神代さんが目を丸くした。
「いや──先生のデスクに花があるのが。新鮮だ」
「そうかな。先生も女の人だよ? お花くらい飾ってもいいと思う」
それはそうだ。養護教諭のデスクに花があっていけない理由はない。
ドアが開いた。朝倉先生が戻ってきた。デスクに向かい、座ろうとして──花に気づいた。
「……これ」
「先生、いつもありがとうございます」
保健室の笑み。お花畑の住人がお花を贈っている。構図として完璧だ。朝倉先生が花を見た。
「……ありがとう」
短く言った。声は平坦。だがコーヒーカップを置く動作がいつもより丁寧だった。花瓶に当たらないように。
「ただし」
俺と神代さんを交互に見た。
「カーテンは閉めないでね。花があっても、ルールは変わらないから」
「閉めてません」
朝倉先生がまばたき一つで返した。
「予防よ」
神代さんがくすくす笑った。朝倉先生がため息をついた。デスクの上に花がある分、いつもより空気が柔らかい。
窓際のベッドに座った。神代さんが隣に来た。肩の距離は拳一つ分。窓から西日が差している。十月の夕方。
「ね、湊くん」
神代さんが飴の包み紙を指先でくるくる回しながら言った。
「今日の飴、三個もくれたでしょ」
「二個が約束で、一個は予備だ」
神代さんが包み紙をスカートのポケットにしまった。大事そうに。
「予備、明日のぶんにするね♡」
火曜日にも一粒残しておく。俺がいない場所でも、飴を通じて保健室が延長される。
「……来週も持ってくるか」
言ってしまった。口が先に動いた。ブレーキの性能が著しく劣化している。
神代さんが目を丸くした。それからゆっくりと笑った。金曜の泣きそうな笑みとも、いつものお花畑とも違う。もっと静かな、朝露のような笑み。
「……うん♡」
一音。一文字。だが今日一番の破壊力だった。心臓が肋骨を内側から蹴った。緊張か。気温のせいか。──どちらでもない。名前がつかないだけだ。
朝倉先生がデスクで花の横でコーヒーを飲んでいる。視線はパソコンに向いている。
◇
帰り道。空が紫に暮れていく。十月の日暮れは早い。
「わかるまで大事にしなさい」。まだわかっていない。だが今日、一つだけ確信が増えた。
あの保健室が、俺にとっても大事な場所になっていること。
金曜日は「神代さんにとっての保健室を守りたい」と思った。対象は「場所」だった。だが今日、朝倉先生と話して、飴を渡して、花を見て、「来週も持ってくるか」と言ってしまった後──守りたいものの輪郭が変わった。場所だけじゃない。あの場所で笑う人を。あの場所で息を吐く人を。
そして──保健室の外で。二人で過ごす時間があったら、どうだろう。保健室の中だけの関係が外に一歩出たら、何が変わるのか。何も変わらないのか。
考えている。保健室の外のことを、考え始めている。
家に着いた。スマホを見た。
『お花、先生よろこんでた♡ 湊くんのおかげだね』
俺のおかげではない。花を買ったのは神代さんだ。
『俺は何もしてない』
送った。三秒で既読。
『いてくれるだけでいいの♡』
朝倉先生と同じことを言っている。
天井を見た。スマホの画面だけが光っている。いてくれるだけでいい。そんなわけがない。もっと何かできるはずだ。──だが朝倉先生は「それでいいのよ」と言った。二人が同じ結論なら。
もしかすると、俺は自分を過小評価しすぎているのかもしれない。
まぶたの裏に、朝露のような笑みが残っている。




