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【第23話】湊の言葉

【第23話】湊の言葉


 金曜日。朝から空気が乾いている。


 昨夜、神代さんは何時に寝たのだろう。生徒会のポスター。クラスの企画書。予算案の残り。三つの仕事を抱えて「大丈夫だよ」と返した人間が、金曜の朝にどんな顔で教室にいるのか。


 答えは、すぐにわかった。


 一時間目の前、廊下の向こうに神代さんが見えた。背筋は真っ直ぐ。制服に皺はない。髪は揃っている。いつも通りの完璧。──だが目元に、コンシーラーでは隠しきれない影がある。ファンデーションの下に疲労が滲んでいる。二メートル離れた位置からでもわかる。


 俺がわかるということは、誰も気づいていないということだ。この学校で神代澪の表情の微差を読み取る人間は、たぶん朝倉先生と俺くらいしかいない。


 いや。俺が読み取れるようになったのは、ここ数日の話だ。鎧の継ぎ目が見えるようになったのは、あの雨の日の保健室から。


 ◇


 午前中の授業が過ぎた。古典、数学、英語。活字が目の前を通過していく。ノートは取っている。だが筆圧が浅い。頭の半分が別の場所にある。


 昼休みのチャイムが鳴った。


 鞄から弁当を取り出した。今日も神代さんが作ってくれた弁当。朝、下駄箱に入っていた。メモが添えてあった。「今日はハンバーグだよ。頑張って作った」。丸い文字。末尾にハートはなかった。書き忘れたのか、書く余裕がなかったのか。


 保健室に向かった。廊下を歩く。上履きの音がリノリウムに落ちる。


 ドアを開けた。


 朝倉先生がデスクにいた。コーヒーの匂い。いつもの光景。


「あ、今日も来たの」


「……はい」


 パイプベッドに座った。弁当を膝に置く。隣の席は空いている。


 十二時十五分。


 十二時二十分。


 十二時二十五分。


 壁時計の秒針を目で追っている。普段、神代さんは十二時十分前後に来る。五分の遅刻は珍しくない。十分なら少し気になる。十五分は──初めてだ。


 弁当の蓋を開けた。ハンバーグ。デミグラスソースが丁寧にかけてある。付け合わせのブロッコリーとにんじんのグラッセ。ミニトマト。彩りが計算されている。これを作った時間帯を逆算すると、ポスターと企画書を終わらせてから料理に取りかかったとして──何時間寝たんだ、この人は。


 食べた。美味い。ハンバーグの肉汁が口の中で広がった。合い挽き肉のバランスが完璧だ。完璧。この人はどこまでも完璧を貫く。弁当にまで。睡眠を削ってまで。


 十二時三十分。


 食べ終わった。箸を置いた。隣のベッドはまだ空いている。


 朝倉先生がデスクからこちらを見た。何も言わない。コーヒーのカップを口に運ぶ。視線だけがこちらを測っている。この人は黙って観察するタイプの大人だ。質問は最小限。だが見ている量は最大限。


 十二時三十五分。


 ドアが開いた。


 神代さんが入ってきた。


 一目で、いつもと違うとわかった。


 表情が硬い。唇が真一文字に閉じている。肩のラインがいつもより高い。力が入っている。鎧を脱ぐ前の、まだ校内モードが残っている状態。


 靴をスリッパに履き替えた。ドアを閉めた。──ここで普段なら、小さく息を吐いて切り替わる。肩が下がって、目元が緩んで、甘い呼びかけが来る。


 今日は来なかった。


「……ごめんね、遅くなった」


 声が低い。ハートがない。昨日の昼休みよりさらに出力が落ちている。充電残量がゼロに近い端末のように、起動はしているが画面が暗い。


 隣のベッドに座った。弁当箱を膝に置いたが、蓋を開けない。


「……食べないのか」


 俺から声をかけた。二日連続で俺から話しかけている。一週間前なら異常気象だが、最近は局地的な雹程度にまで頻度が上がってきた。


 神代さんが弁当箱を見下ろした。


「……うん。ちょっとだけ、待って」


 待った。三十秒。一分。弁当の蓋に手をかけて、開けない。指が動かない。


 朝倉先生が無言で立ち上がり、棚から紙コップを取り出して、ウォーターサーバーの水を注いだ。神代さんの前に置いた。


「水。飲みなさい」


 神代さんが「ありがとうございます」と受け取った。一口飲んだ。紙コップを両手で包んでいる。手が小さく見える。


 朝倉先生がデスクに戻った。またパソコンに向かう。介入は最小限。必要な分だけ手を伸ばして、あとは引く。養護教諭の距離感だ。


 俺は黙って隣に座っている。何も言わない。言えない。「どうかした」と聞きたい。聞きたいが、喉が錆びた蛇口のように動かない。


 二分が過ぎた。


「……今日、ちょっと嫌なことがあって」


 神代さんがぽつりと言った。紙コップの水面を見ている。


 嫌なこと。何があったのか。誰かに何か言われたのか。仕事が増えたのか。失敗したのか。詳細は言わなかった。言わないということは、言いたくないか、言葉にならないかのどちらかだ。


 俺は聞き返さなかった。聞き返す語彙がないのではなく、聞き返すべきではないと判断した。この人が言いたければ言う。言いたくなければ言わない。それでいい。保健室はそういう場所だ。全部話す必要はない。


「嫌」。たった一文字。だがその一文字が、完璧な鎧に入った亀裂だ。教室では絶対に言わない。廊下でも、生徒会室でも。ここでだけ、俺の隣でだけ、亀裂から中身が漏れる。


 何か言いたい。


 何か──してあげたい。


 語彙がない。カウンセリングの教科書を読んだことがない。「大丈夫?」は空っぽだ。「話してみ?」は俺のキャラじゃない。「気にすんな」は的外れだ。昨日LINEで「無理すんな」と打ったが、今日の状況はそれとも違う。もう無理した後だ。無理した結果、ここにいる。


 言葉がないなら、行動で。


 行動。何をする。選択肢を洗い出す。


 ──声をかける。「大丈夫か」。ダメだ。「大丈夫」と返されて終わる。会話が一往復で完結するパターンに入る。


 ──肩を叩く。物理的接触。待て。文脈によってはセクハラだ。体育祭のテーピングのときは神代さんから触れてきた。俺からは──ハードルが高い。却下。


 ──背中をさする。肩を叩くの上位互換。さらに却下。


 ──何か食べ物を渡す。食べ物。弁当は食べ終わった。購買は遠い。手元にあるもの──。


 ポケットに手を入れた。


 指先に触れたものがある。飴。袋入りの飴が一粒。昨日の帰り道、コンビニに寄ったときに買った。理由は特にない。──嘘だ。理由はある。


 先週、保健室で神代さんが杏と話していた。「この飴好きなんだよね。いちご味」。杏が「え、澪ちゃん飴とか食べるんだ。意外〜」。神代さんが「保健室でだけね。教室では食べないの」。保健室限定のおやつ。


 それを聞いていた。記憶していた。昨日コンビニで同じ飴を見つけて、手が伸びた。一袋買った。今朝、一粒だけポケットに入れた。理由は──わからない。わからないが、入れた。


 消去法の最終生存者。声も出ない。触れることもできない。手元にあるのは、いちご味の飴が一粒。


 取り出した。


 神代さんの手に置いた。紙コップを持っている右手ではなく、膝の上に置かれた左手の掌に。指が触れた。一瞬。体温を感じた。すぐ離した。


 神代さんが手の中を見た。


 赤い包み紙。いちご味の飴。見覚えがあるはずだ。先週自分が「好き」と言った飴。


 目が丸くなった。


「……これ」


「…………」


 俺は何も言わない。言えない。「好きって言ってただろ」とか「元気出せ」とか、そういう台詞はラノベの主人公の仕事だ。俺はラノベの主人公ではない。コミュ障の保健室常連。語彙は砂漠並みに乾いている。


 神代さんが飴を見つめている。三秒。五秒。包み紙の赤が蛍光灯の光を反射している。


 それから──笑った。


 泣きそうな笑顔。口元が震えている。目の縁が潤んでいる。だが涙は落ちなかった。落ちる寸前で、笑いが勝った。


「……覚えてたの」


 小さな声。


「…………」


 返事の代わりにうなずいた。声にするとたぶん裏返る。


「……ありがとう♡」


 ハートが戻った。だが音量は小さい。囁き声に近い。いつもの全力稼働ではなく、再起動したばかりのかすかな信号。


 神代さんが飴の包み紙を丁寧に剥いた。赤い粒を口に含んだ。頬が少し膨らんだ。


「……いちご」


 目を細めた。味を確かめるように、舌の上で転がしている。


「……うん」


「好き♡」


 飴のことを言っているのか。それとも──いや、飴のことだ。飴のことに決まっている。文脈的に。論理的に。百パーセント飴の話だ。九十八パーセント。


 残りの二パーセントが胸の奥で暴れているが、今は無視する。


 神代さんが弁当の蓋を開けた。食べ始めた。箸を動かす速度がゆっくりだ。だが、さっきまでの凍りついたような硬さは溶けている。


 朝倉先生がデスクから一瞬だけこちらを見た。視線が合った。先生は何も言わず、コーヒーを一口飲んで、またパソコンに戻った。口の端がわずかに上がった気がしたが、気のせいかもしれない。


 ◇


 昼休みの残り時間。


 神代さんが弁当を食べ終わった。箸を置いて、蓋を閉めて、小さく息を吐いた。


「……ね、湊くん」


 神代さんが紙コップを膝に置いた。水面がかすかに揺れている。


「……ん」


「さっきの嫌なこと、言ってもいい?」


 聞き返さなかったのに、自分から話し始めた。


「今朝、ポスター渡したの。三年生に」


 うなずいた。


「そしたら、『ここの色、もうちょっと明るくできない?』って」


 色の修正。デザインへのフィードバック。それ自体は普通のことだ。だが──。


「夜中の三時まで描いたんだけどね」


 さらっと言った。夜中の三時。昨日の夜から今朝までの間に、企画書とポスターを仕上げて、弁当を作って、登校した。その上でのリテイク要求。


「それで直して、四時間目に渡し直したら、『やっぱ前の方がよかったかも』って」


 前の方がよかった。一晩かけた修正が巻き戻された。


「で、結局最初のバージョンで確定♡」


 ハートをつけた。つけたが、声に力がない。笑ってはいる。だが、保健室モードの笑みではなく、校内モードの笑みに近い。外向きの「大丈夫」を内側にも貼っている。


「……ひどいな」


 口から出た。


 神代さんが目を丸くした。俺が感情を含んだ言葉を発すること自体が珍しいのだろう。「別に」「うん」「そうか」が俺の基本装備だ。「ひどいな」は装備リストに入っていない。


「ひどくないよ。三年生も悪気はないし、忙しいから仕方ないんだと思う」


「仕方なくない」


 また口が勝手に動いた。制御が効かない。昨日のLINEの「無理すんな」と同じだ。ブレーキが壊れている。


「三時まで作ったものを『やっぱ前の方がいい』はひどい」


 神代さんが黙った。俺を見ている。黒い瞳が少しだけ揺れた。


「……ありがとう」


 二回目の「ありがとう」。飴のときとは違う温度。もっと深い場所から出てきた声。


「誰も……そう言ってくれなかったから」


 誰も。誰も言わなかった。「さすが神代さん」と言う人は山ほどいる。「ひどいな」と怒ってくれる人はいなかった。


 俺は──怒っているのか。怒っている。何に。三年の先輩に。ポスターの件に。──いや、もっと広い範囲に。この人が「仕方ない」で飲み込んでいるすべてに。完璧を求められて、完璧に応えて、それが「当然」として処理される構造に。


 怒りの対象が個人ではなく構造だから、ぶつけようがない。ぶつけようがないから、「ひどいな」の三文字で漏れた。


 神代さんが飴を舌の上で転がした。いちご味が保健室に小さく香っている。


「湊くんって、言葉少ないけど……たまにすごく、刺さるね♡」


「……別に」


 別に。また「別に」。だが今日の「別に」は照れ隠しの「別に」だ。言い慣れた二文字の裏側が、日によって違う色に染まっていく。


「ね、湊くん」


「……なんだ」


 神代さんが口の中で飴を転がしながら、上目遣いで聞いた。


「飴、もう一個ある?」


 ポケットに手を入れた。──ない。一粒しか持ってこなかった。一粒で十分だと思った。見通しが甘かった。兵站計画の初歩的なミスだ。補給線に冗長性がない。


「……ない」


「そっか」


 神代さんが少しだけ残念そうな顔をして、すぐ笑った。今度は保健室の笑みだ。


「じゃあ、月曜日に持ってきて♡」


 月曜日。つまり週明け。つまりこの人は、月曜日も保健室に来る前提で話している。俺がいちご味の飴を持ってくる前提で。


「……一個だけか」


「ん〜、三個♡」


 三個。要求が強気だ。飴の数を巡って価格交渉が発生するとは、今朝の時点では予測していなかった。


「多い」


 神代さんが小首を傾げた。交渉の余地があると判断したらしい。


「じゃあ二個♡」


 値切り交渉。飴の個数を巡る攻防。さっきまでの硬い表情が嘘のように、声に抑揚が戻っている。飴一粒と「ひどいな」の三文字で、この人の表情がここまで変わる。


 言葉が出なくても、できることはある。


 ……たぶん。


 比喩を使った長文の慰めは無理だ。カウンセラーのような傾聴もできない。「大丈夫だよ」と包み込むような台詞も似合わない。


 だが、飴を一粒渡すことはできる。「ひどいな」と三文字で怒ることはできる。「無理すんな」とLINEに打つことはできる。


 俺にできるのは、そのくらいだ。コミュ障の保健室常連にできることの上限。短くて不器用で、誤解されやすい。


 だが──神代さんには届いている。少なくとも、今日は届いた。


 チャイムが鳴った。昼休み終了。


 神代さんが立ち上がった。弁当箱を袋に入れる。いつもの帰り支度。ドアに向かう。


 ──切り替わる。肩が上がる。背筋が伸びる。口元が整う。鎧の装着。三秒。


 だが今日は、振り返った。ドアに手をかけたまま。


「湊くん」


 振り返った目が、蛍光灯の光を反射していた。


「飴、嬉しかった。……ほんとに♡」


 ドアが開いた。廊下に出た。閉まった。足音が遠ざかる。


 保健室に俺と朝倉先生。


 朝倉先生がパソコンの画面から目を離した。こちらを見ている。


「……黒瀬くん」


「……はい」


 朝倉先生がコーヒーカップを持ち上げて、一口飲んだ。それから、独り言のように。


「いい飴、持ってるじゃない」


 それだけ言って、またパソコンに戻った。コーヒーを一口。


 いい飴。百二十円のいちご味。コンビニで誰でも買える。特別なものじゃない。──だが今日、この場で、この人に渡したことには、百二十円以上の意味があった。


 立ち上がった。教室に戻る。


 廊下を歩きながら、右のポケットに手を入れた。空っぽ。月曜日には二個入れておく。三個入れるかは迷うところだ。──三個にしよう。二個と言ったが、予備があった方がいい。兵站に冗長性を持たせるのは基本だ。


 教室に着いた。席に座った。


 窓の外、空が高い。金曜日の午後。週末を挟んで、月曜にまた保健室で会う。飴を三粒ポケットに入れて。


 あの人が「嫌なこと」を打ち明けてくれた。聞き返さなかったのに。飴を一粒渡しただけなのに。


 ──言葉が出なくても、できることがあった。


 小さい。拳銃どころか水鉄砲だ。だが、水鉄砲でも狙いが正確なら当たる。砂漠で一滴の水が命を繋ぐように、保健室の一粒の飴が、あの人の表情を溶かした。


 大げさだ。大げさな比喩だ。飴一粒にそこまでの価値はない。──だが、あの泣きそうな笑顔を思い出すと、大げさとも言い切れない。


 次は何ができるだろう。飴の次。「ひどいな」の次。「無理すんな」の次。


 一歩ずつ、手持ちの武器が増えている。全部ちっぽけだが、ゼロよりはましだ。「別に」しか言えなかった三日前より、確実に。


 月曜日。保健室。いちご味の飴、三粒。


 約束ではない。口約束ですらない。「じゃあ二個」「多い」──この程度のやり取り。だが俺の中では、もう確定事項になっている。


 朝倉先生の「いい飴、持ってるじゃない」が耳に残っている。あれは飴の話だけではなかった気がする。この人は常に二重の意味で喋る。表面は世間話、裏面は診断。


 何を診断されたのか。考える前に、五時間目が始まった。


 ノートを開いた。今日は筆圧がいつもより強い。

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