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【第22話】完璧の値段

【第22話】完璧の値段


 雨は昨日のうちに上がった。


 朝の教室。窓から差し込む光が机の表面で白く跳ねている。雨上がりの空は妙に透明で、遠くの山の輪郭まで見える。視界の解像度が上がった日。


 だがそのぶん、余計なものまで見えてしまう。


 一時間目が始まる五分前。窓際の席から廊下側を見ると、別クラスの教室に向かう生徒の流れが見える。その中に──見つけてしまった。神代さんが廊下を歩いている。背筋が伸びて、制服に皺がなくて、黒髪がまっすぐ背中を流れている。


 昨日の保健室で「疲れた」と呟いた人間と同一人物とは思えない。完璧な外殻。継ぎ目が見えない。


 隣の席の女子が神代さんに声をかけた。「澪ちゃん、おはよう。昨日のプリントありがとね」。神代さんが微笑んで返す。「ううん、全然。いつでも言ってね」──柔らかい声。ハート付きの甘さとは違う、社交の温度。


 外でもあの調子なのか、と一瞬考えた。


 いや、違う。外の笑顔と保健室の笑顔は別物だ。外の微笑みは制服の一部。ボタンやリボンと同じ装備品。保健室のそれは──もっと体温が近い。手渡しと宅配便くらいの差がある。


「おい黒瀬、また窓の外見てんのか」


 八代が背後から声をかけてきた。反射で視線を戻す。


「見てない」


「嘘つけ。神代さんの方だろ」


 八代の観測精度が衛星レベルに達している。偵察衛星だ。解像度が高すぎる。


「別に。窓の外を見てただけだ」


「窓の外に神代さんがいたんだろ。同じことだよ」


 八代が笑って自分の席に戻った。同じことではない。だが反論する語彙が見つからなかった。


 ◇


 二時間目。古典。


 教科書を開いているが、活字が滑っていく。頭の中に昨日の映像が残っている。保健室のドアに手をかけた瞬間、三秒で切り替わった神代さんの表情。鎧を纏う速度。プロの早替わり。


 あれを毎日やっている。朝、家を出た瞬間から。学校にいる八時間、ずっと。


 完璧な笑顔。完璧な受け答え。完璧な成績。完璧な気配り。先生からの信頼。クラスメイトからの尊敬。後輩からの憧れ。生徒会での評価。全方位に隙がない。


 隙がないということは、休める場所がないということだ。


 鎧は守ってくれる。だが、重い。一日中着ていたら、誰だって肩が潰れる。昨日の「疲れた」はその重さが漏れた瞬間だった。


 古典の先生が「黒瀬、ここ読んで」と指名した。立ち上がる。教科書の該当箇所を読む。「春はあけぼの」。声が小さいと言われた。いつものことだ。座る。


 俺の鎧は沈黙だ。黙っていれば傷つかない。話しかけられなければ失敗しない。教室に居場所がないなら保健室に逃げればいい。それが俺の防御戦略だった。


 神代さんの鎧は完璧だ。笑っていれば誰も踏み込んでこない。期待に応えていれば疑われない。「さすが神代さん」と言われ続ければ、自分の内側を見せなくて済む。


 手段が違う。構造は同じ。昨日、保健室でそう思った。


 だが今日、一つ気づいたことがある。


 俺の沈黙は「逃げ」だ。人から離れるための壁。一方、神代さんの完璧は「繋がり」のための壁だ。人と関わり続けるために、本当の自分を隠す。俺は人を遠ざけ、この人は人を引き寄せる。ベクトルが真逆なのに、孤独の深さが同じ。


 ──いや、もしかすると、神代さんの方がしんどいかもしれない。


 俺は逃げれば一人になれる。一人になれば楽になる。だが神代さんは、人の中にいながら一人だ。逃げ場がない。保健室以外には。


 チャイムが鳴った。二時間目終了。


 ◇


 三時間目と四時間目の間の休み時間。廊下に出た。トイレに向かう途中、階段の踊り場で足が止まった。


 階下の廊下が見える。神代さんが歩いていた。周囲に人がいる。三年の女子が話しかけていた。


「神代さん、生徒会のポスター、やっぱりお願いしていい? 澪ちゃんのデザインが一番いいって皆言ってて」


 声がここまで届く。階段の構造が音を拾う。


「もちろんです。いつまでに必要ですか?」


「金曜……って急すぎるかな」


 三年の女子が申し訳なさそうに首を傾げた。だが神代さんは間を置かなかった。


「大丈夫です。金曜の朝までにお渡ししますね」


 間髪入れない承諾。金曜。今日は木曜。つまり今夜中に仕上げるということだ。昨日の時点で生徒会の予算案と引き継ぎ資料を抱えていたはず。その上にポスター。


 三年の女子が「さすが澪ちゃん、頼りになる」と笑った。


 さすが。その二文字が錘になっていることを、言っている側は知らない。


「ありがとうございます。楽しみにしてますね」


 神代さんが微笑んだ。完璧な微笑み。継ぎ目なし。ここからでは目元の細部まで見えないが、あの笑顔の裏に何があるか、昨日の俺は知ってしまった。


 踊り場から動けないでいる俺に、後ろから声がかかった。


「湊くん、何見てるの?」


 白石杏。保健室の常連仲間。明るい声と、鋭い勘の持ち主。


「……何も」


「嘘〜。階段から下覗いてたじゃん」


 杏が隣に並んで階下を見た。神代さんが三年の女子と別れて、自分のクラスに戻っていくところ。


「あ、澪ちゃんだ」


 杏が何気なく言った。


「澪ちゃんって大変だよね。みんなの期待背負ってさ」


 何気ない一言。杏にとっては世間話の延長だろう。だが俺にとっては、昨日の保健室の光景とぴったり重なる台詞だ。


「生徒会でしょ、クラスの行事でしょ、成績もトップでしょ。先生にも頼られてるし、後輩にも慕われてるし。すごいけど、ちょっと心配になる時あるんだよね〜」


 杏が階段の手すりに頬杖をついた。


「あの子、断らないから。誰に何頼まれても」


 断らない。昨日の「金曜の朝までに」もそうだ。今朝聞こえた「いつでも言ってね」もそうだ。完璧の鎧は、NOを言えない構造になっている。NOを言った瞬間に「さすが神代さん」の評価が揺らぐ。揺らいだら、自分を守れなくなる。


「……そうだな」


 口から出た。珍しく、同意の言葉。


 杏が少し驚いた顔をした。俺が自分から同意することが珍しいのだろう。俺自身も驚いている。


「湊くんも気づいてるんだ」


「……何が」


 杏が階下の廊下に目を戻した。神代さんの姿はもう見えない。


「澪ちゃんが無理してること」


 無理。そう、無理をしている。昨日の保健室で「疲れた」と言ったのは、無理の蓄積が水面を超えた瞬間だ。


「でもさ、澪ちゃん、保健室にいるとき全然違うよね」


 杏が笑った。屈託がない。


「湊くんの隣にいるとき、めっちゃ楽しそう。あれが素なんじゃないかな〜って思う」


 素。保健室の神代さんが「素」。外の完璧が「鎧」。杏は感覚でそれを掴んでいる。分析ではなく直感で。


「ま、湊くんがいるから大丈夫でしょ。保健室っていう充電ステーションがあるし」


 杏が手を振って去っていった。「じゃあね〜、四時間目遅れちゃう」。


 充電ステーション。保健室が。俺が。


 ──俺は充電器なのか。


 階段を降りた。教室に向かう。廊下を歩きながら、杏の言葉が残っている。「湊くんがいるから大丈夫」。本当にそうか。俺はただ黙って隣に座っているだけだ。「別に」しか言えない人間が、誰かの充電器になれるのか。


 教室のドアを開けた。席に着いた。


 窓の外、雨上がりの空が青い。


 ◇


 昼休み。保健室。


 ドアを開ける前に、一瞬立ち止まった。ドアの向こうに神代さんがいる。いつも通り弁当を用意して、いつも通り笑顔で「湊くん」と呼ぶ。


 その「いつも通り」の裏に、何があるかを知ってしまった。知った上で、どう向き合えばいいのか、まだわからない。


 ドアを開けた。


 神代さんがいた。窓際のパイプベッドに座って、弁当箱を膝に乗せている。俺が入った瞬間、顔を上げた。


 小さく息を吐いた。


 ──そこだ。その「ふぅ」。校内モードから保健室モードへの切り替え。昨日まではぼんやり感じていたものが、今日ははっきり見える。肩の位置が二センチ下がる。背筋の角度が変わる。目元の筋肉が緩む。三秒。衣装チェンジ完了。


「湊くん♡ 今日も来てくれた」


 ハート付き。声が半音高い。保健室モード起動。


「……毎日来てる」


「だから嬉しいの。毎日来てくれて」


 弁当の蓋を開けた。今日は豚の生姜焼き。キャベツの千切りが添えてある。茶色と緑のバランスが計算されている。弁当にも「完璧」が適用されている。だがこれは鎧ではない。この弁当は──何だろう。


「はい、湊くんの分」


 弁当箱を差し出された。受け取った。手が触れた。一瞬だが、指先の温度が伝わった。


「……ありがとう」


 食べた。美味い。生姜焼きの味付けが俺の好みに最適化されている。先週「濃い味が好き」と言ったのを反映している。ボイスレコーダー級の記憶力は今日も健在だ。


 朝倉先生がデスクでパソコンを打っている。今日はいる。コーヒーの香りが保健室に漂っている。通常営業。


 食べ終わった。箸を置いた。


「ね、湊くん」


「……ん」


 神代さんが弁当箱の蓋を閉じながら、何気ない口調で言った。


「今日の午後、生徒会で文化祭の下見があるんだ。体育館の使い方とか確認するの」


 うなずいた。神代さんは続ける。


「それで明日の朝までにポスターも仕上げなきゃで」


 さらっと言った。ポスター。今朝、階段の踊り場で聞いた件。金曜の朝まで。


「あと、クラスの出し物の企画書も手伝うことになっちゃって」


 手伝う「ことになっちゃって」。自分から引き受けたのか、頼まれたのか。たぶん後者だ。断れなかった。断らなかった。


 三つの仕事を並行して、弁当を二つ作って、保健室で笑っている。この人のタスク管理能力は企業の管理職に匹敵する。だがキャパシティは高校二年生だ。身体は一つしかない。


「忙しいな」


 口から出た。二文字ではなく、四文字。進歩だ。


 神代さんが少し目を丸くした。それから笑った。


「大丈夫だよ♡ 慣れてるから」


 慣れている。そう、慣れているのだろう。完璧を維持するために、限界まで詰め込むことに。


 「大丈夫」。昨日の「疲れた」と今日の「大丈夫」は矛盾しない。疲れているが大丈夫。大丈夫だが疲れている。両方が同時に成立する。保健室で「疲れた」を吐き出せるから、外で「大丈夫」と言い続けられる。


 ──そのシステムで、いつまで持つんだ。


 朝倉先生がコーヒーを一口飲んだ。デスクからこちらを見ている。何も言わない。だが視線の温度が、いつもと少し違う気がした。


 ◇


 五時間目。


 教室で授業を受けている。だが頭の半分は別のことを考えている。


 完璧の値段。


 朝から数えてみた。神代さんが今日一日で背負っているもの。生徒会の文化祭下見。ポスターのデザイン。クラスの企画書。通常の授業。友人の相談。後輩のフォロー。弁当の準備。笑顔の維持。


 全部足したら、一日の容量を超えている。だが神代さんは超えた分を「保健室」で精算している。あの場所で力を抜いて、チャージして、また外に出ていく。


 俺は何をしているのか。


 隣に座って、弁当を食べて、「別に」と言って、それだけだ。充電ステーションどころか、置き石だ。そこにあるだけで何もしない。


 ──いや。


 杏が言った。「湊くんの隣にいるとき、めっちゃ楽しそう」。


 もし本当にそうなら、俺がそこにいること自体に意味があるのか。何も言わなくても。何もできなくても。ただ、同じ空間で弁当を食べているだけで。


 それは──共感なのか。同情なのか。


 同類だから、わかる。鎧を脱げる場所がどれだけ貴重か。黙っていても許される相手がどれだけ稀か。俺にとっての保健室がそうだったように、神代さんにとっても。


 だから俺は、この人の「疲れた」がわかる。完璧の裏の「ふぅ」が見える。見えた上で、何もしない。何も言わない。それを「優しさ」と呼ぶには怠惰すぎる。


 守りたい、と思った。


 ──待て。今、何を考えた。


 守りたい。何を。誰から。完璧の鎧を脱がなくていい場所を、守りたい。あの人が「疲れた」と言える空間を、守りたい。


 それは──何だ。


 同類への共感だ。俺も保健室に救われた。だからこの人の保健室も守りたい。それだけだ。同じ構造を持つ人間同士の相互扶助。合理的な感情。


 そう名前をつけた。


 名前をつけたが、胸の奥がざわついている。ラベルの下に、もっと別の何かが隠れている気がする。だが今はまだ、ラベルを剥がすつもりはない。剥がしたら、収拾がつかなくなる。


 ◇


 放課後。


 教室を出た。保健室に寄ろうか迷った。だが神代さんは生徒会の下見があると言っていた。保健室にはいないだろう。


 下駄箱で靴を履き替えていると、八代がいた。


「お、黒瀬。今日も保健室?」


「……今日は帰る」


 八代が片眉を上げた。


「珍しいな。神代さんは?」


「生徒会」


 八代が靴紐を結びながら、ちらりとこちらを見た。


「お前、最近ちょっと変わったよな」


 何が、と視線で問い返した。


「前は神代さんの話になると全力で逃げてたけど、最近は逃げないっていうか。ちゃんと受け止めてる感じ」


 受け止めている。そうなのか。自覚はない。ないが、八代の観測が間違っているとも言い切れない。この男の人間観察は、方向性はめちゃくちゃだが精度だけは高い。


「気のせいだろ」


「気のせいじゃないよ。──ま、いいけど」


 八代が鞄を担いで歩き出した。俺も並ぶ。校門に向かう。


「黒瀬。一個だけ」


 八代が前を見たまま言った。


「神代さんってさ、お前の前でだけ違う顔してるだろ」


 心臓が跳ねた。八代がそれを知っているのか。


「俺は細かいことはわかんねーけど、あの子がお前の近くにいるとき、ちょっとだけ肩の力抜いてるのは見ててわかる。お前もそうだけどな」


 お前も。俺も肩の力が抜いている。保健室で。神代さんの隣で。


「……だから何だよ」


「だから何って──大事にしろよ、それ。以上」


 八代が左に曲がった。手を振って去った。


 俺は右に曲がった。一人の帰り道。


 大事にしろ。何を。誰を。──決まっている。だがその答えに、まだ正面から向き合えない。


 空が高い。雨上がりの夕焼けがオレンジと紫に割れている。昨日と同じ色。昨日と同じ道。だが見え方が違う。


 家に着いた。靴を脱いで、部屋に入って、鞄を置いた。


 スマホを見た。LINEの通知。神代さんからだった。


『今日も保健室ありがとう♡ 生姜焼き、美味しかった?』


 美味しかった。打った。送った。八秒で既読。


『よかった♡ 明日も作るね』


 明日も。変わらない予告。


 返信を打つ。指が止まる。「ありがとう」で十分だ。それ以上の言葉は不要だ。──不要なはずだ。


 だが指が勝手に動いた。


「無理すんな」


 打った。送信ボタンを押した。押してから後悔した。余計なことを言った。お前に何がわかる、と思われるかもしれない。おせっかいだ。俺は黙っているのが仕事のはずだ。


 既読がついた。入力中の表示。三つの点が長く踊っている。十秒。二十秒。いつもの神代さんの返信速度より明らかに遅い。


 来た。


『……ありがとう。大丈夫だよ♡』


 大丈夫。また大丈夫。──だが、「ありがとう」の前に沈黙があった。あの二十秒間、この人は何を考えていたのか。


 スマホを置いた。天井を見た。


 守りたい。そう思った。同類への共感だと名前をつけた。


 だが共感だけで「無理すんな」とは打たない。共感なら「大変だな」で止まる。「無理すんな」は、もう一歩踏み込んでいる。踏み込んだ自覚がある。


 ──名前が違う。


 共感じゃない。もっと正確な名前がある。だが今はまだ、手が届かない。指先が触れているのに掴めない。水面の下にある硬貨のように、屈折して位置がずれている。


 明日、保健室で。あの人が弁当を広げて、いつもの甘い声で名前を呼んだとき。その笑顔の奥にある「ふぅ」を知っている自分が、何を返せるか。


 「別に」でも「無理すんな」でもない、もっと正確な何かを。


 まだ見つからない。だが探している。探し始めている。


 それだけで、昨日までとは違う。

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