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【第21話】雨の日の保健室──神代さんの横顔

【第21話】雨の日の保健室──神代さんの横顔


 予報通り、雨だった。


 朝から空が低い。灰色の雲が屋根すれすれまで降りてきていて、校舎の四階にいると雲の腹に手が届きそうだ。届いたところで何も変わらないが、この天気は保健室日和と言っていい。


 雨の日の学校は、音の質が変わる。廊下を歩く上履きの音が吸われる。教室の喧騒がくぐもる。休み時間のざわめきが、壁の向こうの出来事のように遠い。


 湿度が高い。前髪が重い。右足首はもう痛まない。テーピングも外した。体育祭の痕跡は消えた。消えたが、あの日から積み上がったものは消えていない。


 昨日、八代に「何なんだろうな」と言った。「付き合ってない」の代わりに。否定を手放した。代わりに問いを抱えた。答えはまだない。


 ◇


 昼休み。保健室のドアを開けた。


 消毒液の匂い。白いカーテン。窓を叩く雨の音が、空間を別の場所に変えている。普段の保健室にもう一枚、透明な膜が被さっているような静けさ。


「あ、今日も来たの」


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいた。いつもの挨拶。だが今日は続きがある。


「私、午後から保健主事会議。二時間くらい空ける。何かあったら職員室に連絡して」


「……はい」


 朝倉先生が立ち上がり、書類を揃え、マグカップを洗い場に置いた。


「あと、カーテンは──」


「閉めません」


 朝倉先生が満足そうにうなずいた。


「よろしい」


 朝倉先生が出ていった。保健室に俺一人。窓の外の雨が音量を上げた気がする。壁時計の秒針がやけに大きく聞こえる。


 パイプベッドに座った。いつもの場所。隣の席は空いている。


 五分。


 十分。


 弁当の袋を膝の上に置いたまま、開けないでいる。一人で食べればいい。数ヶ月前まではそうしていた。コンビニのパンを齧って、天井を見て、チャイムが鳴ったら教室に戻る。それだけの昼休み。


 それだけで、よかったはずだ。


 ドアが開いた。


「……湊くん」


 神代さんが入ってきた。いつもの二つの弁当箱。だが、声のトーンがいつもと違う。いつもの甘い呼びかけではない。ハートが消えている。語尾に甘さがない。半音どころか一音、低い。


 靴を脱いでスリッパに履き替える動作がゆっくりだった。ドアを閉めた。肩の力が抜ける。いつもの切り替え。──だが今日は「切り替え」というより「崩落」に近い。保健室に入った瞬間、張っていた糸が一本ずつ切れていくような。


「……朝倉先生は?」


「会議。午後から」


 神代さんが小さくうなずいた。


 神代さんが隣のベッドに座った。いつもより遠い。半歩分。数センチの差だが、この人の距離感を知っている身体が即座に検知する。誤差ではない。意図がある。


 弁当箱を広げた。二段重ね。蓋を開ける。白米、鮭の塩焼き、きんぴらごぼう、ブロッコリーの胡麻和え。いつも通りの完璧な栄養バランス。だが、いつもなら弾んだ声でメニューの解説が入る。今日はない。


 黙って箸を手に取った。俺も自分の弁当を開けた。──弁当。神代さんが作ってくれた弁当。いつの間にか、コンビニのパンを買わなくなっている。この人の弁当が「俺の昼食」として定着している。兵站が完全に掌握されている。


 食べた。二人とも無言。雨の音だけが保健室を埋めている。


 蛍光灯の光が白い。雨の日は自然光が入らないぶん、人工の白さが強調される。神代さんの黒髪が蛍光灯に照らされて、青みがかって見える。


 食べ終わった。箸を置いた。


「……美味しかった?」


 神代さんが聞いた。いつもなら即座に「やった」と弾む場面だが、今日は確認の温度。俺がうなずくと、口元だけが少しだけ緩んだ。


「よかった♡」


 小さな声。いつもの三割くらいの出力。だがハートは消えなかった。この人の「好き」の部品は、疲れていても最低限は稼働する。


 神代さんが弁当箱の蓋を閉じて、窓の方に目を向けた。雨が流れるガラス越しに、校庭のぼやけた輪郭が見える。桜の木が水を吸って黒い。


 横顔。


 いつもの「ふわり」とした表情ではない。目が少しだけ細い。口元が引き結ばれている。疲れている、と思った。「お花畑モード」の残量がゼロに近い日。こういう日もあるのか。──当たり前だ。この人も人間だ。毎日フルパワーで笑えるわけがない。


 普段なら、俺はこの沈黙を居心地よく受け取る。保健室の沈黙は味方だ。黙っていても許される空間。だが今日の沈黙は温度が違う。低い。湿っている。雨のせいだけではない。


「……どうかした?」


 口が動いた。自分で驚いた。


 俺から声をかけた。「黒瀬湊が自分から話しかける」は、天気予報で言えば「局地的に雹が降る」くらいの確率だ。年に数回あるかないか。それが今日、発生した。


 神代さんがゆっくりこちらを向いた。目が合った。黒い瞳の奥に、いつもの光がない。消えているのではなく、奥の方に引っ込んでいる。


「ん……ちょっと、疲れちゃっただけ」


 声が小さい。教室で聞く「神代さん」の声でも、保健室で聞く「澪」の声でもない。どこにも分類できない、素の音。


「……ここにいると、楽だなって♡」


 楽。この人にとって保健室は「楽な場所」。完璧を求められない場所。「さすが神代さん」と言われない場所。笑顔を張り続けなくていい場所。


 ──俺と同じだ。


 保健室に逃げ込む理由が。教室の空気が重くて、人の視線が痛くて、ここでだけ息ができる。俺はコミュ障だからここにいる。この人は──完璧すぎるからここにいる。


 逃げ場が同じだった。最初から。


「……うん」


 それしか言えなかった。「わかる」と言いたかった。「俺もだ」と言いたかった。だが言葉が形にならない。液体のまま喉の底に溜まっている。


 雨が窓を叩いている。秒針が回っている。二人の間に、音だけが存在する時間。


 神代さんが窓に背を預けた。ガラスの冷たさが背中に触れているはずだが、気にしていない。


「今日ね、一時間目の前に生徒会の打ち合わせがあって」


 ぽつりと話し始めた。


「文化祭の予算案。各クラスの希望を全部聞いて、調整して、顧問の先生に確認もらって。あと三年生の引き継ぎ資料も同時に作ってて」


 淡々と述べている。不満を言っているわけではない。事実を並べている。だが、事実の量が異常だ。一時間目の前にその作業量。朝何時に来ているんだ。


「それで二時間目の後に、クラスの子に相談されて」


 相談。成績のことか、人間関係のことか。詳細は言わなかった。


「三時間目に英語の小テストがあって、四時間目に体育。今日雨だから体育館。バドミントン」


 そこで少し笑った。力のない笑み。


「ペアを組むとき、誰と組んでも相手が緊張するの。『神代さんと組めるなんて』って」


 緊張。相手が。この人の「完璧」は、周囲に壁を作る。近づきたいのに近づけない。近づいてきても、対等ではなく「格上と組む」緊張感。


「……嬉しいんだけどね、それは。でもたまに、ちょっとだけ」


 言葉が途切れた。窓の雨を見ている。


「疲れる」


 一言。その一言が、保健室の空気を変えた。


 疲れる。学年一の完璧美少女が、「疲れる」と言った。教室では絶対に出さない音。廊下でも、生徒会室でも、体育館でも。ここでだけ漏れる本音。


 俺は黙っていた。黙って聞いていた。何か気の利いたことを言いたい。だが俺の語彙にはカウンセリング用語が存在しない。「大変だね」は安い。「頑張ってるね」は空虚だ。「わかるよ」は嘘っぽい。


 どれもダメだ。


 ──飴。前に飴を渡したことがある。あのときは手元にたまたまあった。今日はない。代わりに何がある。言葉がないなら行動で。行動もない。ブランケットをかける? 寒くない。飲み物を買ってくる? 購買は遠い。


 消去法の果てに残ったのは──ただ、ここにいること。


 隣に座った。半歩分の距離を詰めた。神代さんが空けた距離を、俺から埋めた。肩は触れていない。だが、体温が届く距離。


 神代さんが少しだけ目を見開いた。それからまた窓を見た。雨を見ている。


「……湊くんは、私がここにいるの……迷惑?」


 心臓が縮んだ。


 迷惑。この人がここにいることが。弁当を作ってくれて、飲み物を用意してくれて、ブランケットをかけてくれて、隣に座ってくれて。それが、迷惑かと。


 ──迷惑なわけがない。


 だが「迷惑じゃない」が口から出ない。喉の奥で渋滞している。もっと正確な言葉があるはずだ。もっと正直な音が。だが形にならない。液体のまま溜まっている。


 長い沈黙。五秒。十秒。雨が窓を叩く音が数えられる。


「……別に」


 出た。結局それだ。


 別に。便利な二文字。「理由はない」とも「気にするな」とも取れる万能語。だが今日の「別に」には、いつもとは違う重力がある。


 ──五パターンの返事を脳内で比較検討した結果がこれだ。「大丈夫だよ」→ 似合わない。「気にすんな」→ 軽すぎる。「俺でよければ聞く」→ 長い。「うん」→ 短い。「別に」→ ……消極的だが、嘘がない。


 最も不器用な選択肢を選んでいる自覚はある。だが俺の言語能力は今日もこの程度だ。


 神代さんが窓から俺に目を移した。数秒。


 笑った。


 いつもの「えへへ」ではない。「ふふ」でもない。ハートがつかない、音量の小さい笑み。口元だけがわずかに緩んで、目が少しだけ潤んでいる。泣いているのではない。たぶん。乾いていた何かが湿った、という感じ。


「……ありがとう」


 静かな声。雨音に半分溶けた。


 それだけだった。それだけなのに、保健室の温度が一度だけ上がった気がした。エアコンは動いていない。気のせいだ。──たぶん。


 神代さんが少しだけ体をこちらに傾けた。肩が触れた。一瞬。


「……もうちょっとだけ、このままでいい?♡」


 小声。ハートが戻りかけている。充電残量五パーセントの端末が最後の通知を送るような、かすかな信号。


「……うん」


 頷いた。雨の音だけが流れる保健室で、肩が触れたまま、チャイムを待った。


 ◇


 五時間目のチャイムが近い。


 神代さんが立ち上がった。弁当箱を袋に戻す。教室に戻る準備。


 靴を履き替える。背筋が伸びる。保健室のドアに手をかけた瞬間──スイッチが入った。


 振り返った神代さんの表情が、三秒前と違う。顔の筋肉の配置が変わる。目元が整う。口角が上がる。肩のラインが一直線になる。


 完璧な微笑み。


「じゃあね、湊くん♡」


 ハートが戻った。声のトーンが半音上がった。保健室モードから校内モードへの切り替え。衣装チェンジのように一瞬で完了する。プロの早替わりだ。


 ドアが開いた。廊下の喧騒が流れ込む。


 ドアの向こうに同じクラスの女子がいた。偶然通りかかったらしい。


「あ、澪ちゃん。保健室にいたの? 大丈夫?」


「うん、ちょっと頭痛がして。もう大丈夫♡ ありがとう」


 完璧な応答。心配させない笑顔。嘘は言っていない。頭痛がしたかどうかは知らないが、「もう大丈夫」は事実だろう。保健室で充電が完了した。


 ドアが閉まった。足音が遠ざかる。二人分の足音。廊下の角を曲がって、消えた。


 保健室に一人。


 さっきまで神代さんが座っていたベッドの端に、わずかな窪みが残っている。体温の痕跡。数分で消えるだろう。


 ──あの切り替えを、俺は今日、初めてはっきりと「見た」。


 知ってはいた。神代さんには外の顔と内の顔がある。保健室に入ると切り替わり、出ると戻る。だが今日、その切り替えの「瞬間」を目の当たりにした。三秒。たった三秒で、「疲れた」と呟いていた人間が「完璧な神代澪」に変わった。


 あれは──しんどくないのか。


 毎日。朝から夕方まで。教室で、廊下で、生徒会室で。完璧を纏い続ける。保健室でだけ脱ぐ。脱いだ瞬間に「疲れた」が出る。出し切ったらまた着る。


 鎧だ。あの笑顔は鎧だ。誰にも傷つけられないように、誰にも弱さを見せないように。完璧であり続けることで自分を守っている。


 俺のコミュ障と同じだ。俺は黙ることで身を守る。この人は笑うことで身を守る。手段が違うだけで、構造は同じ。


 ──保健室は、二人とも鎧を置ける場所だったのか。


 雨が窓を叩いている。さっきより強くなった。視界の外で雷が光った。音はまだ来ない。遠い。


 チャイムが鳴った。五時間目。教室に戻らなければ。


 立ち上がった。ドアノブに手をかけた。


 朝倉先生の言葉が浮かんだ。昨日の言葉。「本当に変わりたくないかどうかは──あの子自身にもわからないと思うわ」。


 変わりたくないかどうか。──あの「疲れた」は、今の状態を変えたいという信号じゃないのか。完璧のまま笑い続ける日常を、どこかで苦しいと思っている。それを保健室でだけ、俺の前でだけ、漏らす。


 漏らしてくれる。


 その事実が、喉の奥に引っかかっている。「別に」の裏側に、もう一つの言葉が沈んでいる。


 ドアを開けた。廊下に出た。雨の湿気が顔に触れた。


 教室に向かう。いつもの道。だが足取りが少しだけ違う。重いのではない。何かを引きずっているのでもない。足が、二つの場所に向かおうとしている。教室と、さっきまでいた場所と。


 引力が増している。保健室の引力が。神代さんがいない保健室にすら、引力がある。あの人の体温の痕跡が、ベッドの窪みが、「ありがとう」の残響が。


 教室に着いた。席に座った。


 窓の外、雨が降り続いている。別の校舎の窓が見える。あの向こうに、神代さんの教室がある。今ごろ完璧な姿勢で五時間目を受けているはずだ。さっきの「疲れた」が嘘のように。


 ──「別に」じゃない答えが、まだ喉の奥にある。


 あのとき、言えたはずだった。「別に」じゃなくて、もっと正確な言葉が。もっと正直な音が。ここにいていい、とか。俺も同じだ、とか。お前がここにいると俺も楽だ、とか。


 どれも正解に近い。近いが、正解そのものではない。正解がどこにあるのか、形すらわからない。ただ、「別に」ではないことだけは確かだ。


 次に、あの横顔を見たとき。


 雨でも晴れでもいい。保健室でも図書室でもいい。あの人が鎧を脱いで、「疲れた」と漏らしたとき。


 今度は──「別に」以外の何かを、返したい。


 返せるかどうかは、わからない。


 でも、返したいと思ったこと自体が、たぶん──昨日までの俺にはなかった感情だ。


 窓を叩く雨が、六時間目のチャイムで途切れた。

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