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【第20話】第二幕終了──「付き合ってません」が通じない世界

【第20話】第二幕終了──「付き合ってません」が通じない世界


 水曜日。風紀委員会の日。


 朝から胃が重い。昨夜、柊からLINEが来ていた。「明日の放課後、委員会室へお越しください。十分程度で終わります」。十分。裁判の判決言い渡しだって十分で終わる。長さの問題じゃない。密度の問題だ。


 教室で八代が声をかけてきた。


「おい黒瀬、今日なんか顔色悪くないか?」


「……別に」


 八代が眉を寄せた。


「嘘つけ。朝から給食の献立表みたいな顔してるぞ」


 給食の献立表。八代の比喩は毎回着地点が読めない。だが確かに顔色は悪いだろう。今日、公式の場で「付き合ってない」と言わなければならない。言い慣れたはずの四文字が、喉の奥で鉛に変わっている。


 ◇


 昼休み。保健室。


 神代さんが弁当を広げた。今日は鶏の照り焼き。先週「肉が食べたい」と呟いたのを反映している。この人の記憶力はボイスレコーダーと同等の精度を持つ。発言の五日後に弁当として具現化される。変換効率が恐ろしい。


「湊くん、今日元気ない?」


「……元気だ」


 神代さんが首を傾げた。


「嘘。目が合わないもん」


 意識して避けているわけではない。ないが、今日この人の目を見ると、委員会で「付き合ってない」と言い切る覚悟が溶ける気がする。


「……今日、放課後、柊の委員会に呼ばれてる」


 神代さんが箸を止めた。


「写真の件?」


 うなずいた。数秒の間。それから、いつもの笑顔。


「大丈夫だよ♡」


 大丈夫。何が大丈夫なのか。俺が大丈夫なのか。写真の件が大丈夫なのか。それとも──「付き合ってない」と言っても大丈夫、という許可か。三つ目の解釈が一番深く刺さった。


 朝倉先生がデスクからこちらを見た。何も言わない。コーヒーを飲んでいる。視線だけが「頑張りなさい」と言っている。何を頑張るのかは明示されない。この人の応援はいつも解像度が低い。


 ◇


 放課後。委員会室。


 第二会議室と呼ばれている小さな部屋。長机が四つ、パイプ椅子が八つ。黒板に「風紀委員会」と書かれている。字が几帳面だ。柊の筆跡だろう。


 入室した。


 柊が正面に座っていた。隣に副委員長の三年生。眼鏡をかけた男子で、名前は知らない。残りの席に風紀委員が三名。全員の視線が俺に集まる。


 法廷だ。被告人席に座る心境。弁護人不在。検察官は柊。裁判官は副委員長。傍聴席に陪審員が三名。量刑は不明。


「黒瀬くん、お忙しいところありがとうございます」


 柊が立ち上がった。クリアファイルを手にしている。月曜に見たものと同じだが、厚みが増している。二日間で資料が追加されたのか。増殖速度が捜査一課レベルだ。


「本日は、体育祭時に撮影・拡散された写真に関する件について審議します」


 柊がファイルを開き、プリントアウトを並べた。三枚。あの三枚。救護テント全景。テーピング。膝枕に見える角度。


 副委員長が写真を手に取り、表を見て裏返し、もう一度表を見た。


「……これ、何が問題なの?」


 第一声がそれだった。柊が姿勢を正す。


「この写真は、体育祭当日に救護テント内で無許可撮影され、LINEおよびSNSを通じて全校規模で拡散されました。校則第十四条のプライバシー保護規定に──」


 副委員長が手を振った。


「いや、そうじゃなくて。これ、カップルの写真でしょ。付き合ってるんでしょ?」


 風紀委員三名のうち二名がうなずいた。全員が「写真の内容」ではなく「写真の背景」に興味を示している。プライバシー侵害の議題が恋愛話にすり替わった。会議の生産性を破壊する最大の要因だ。


「付き合ってるかどうかは本件の論点ではありません」


 柊の声に芯が入った。真面目の純度が上がる。


「問題は無許可撮影とプライバシー侵害です。救護テントは医療行為の場であり──」


 副委員長が椅子の背にもたれた。


「でもさ、怪我した彼氏を看病してる写真だろ? 不適切な内容じゃないし」


 一拍。天井を見上げた副委員長が、軽い口調で言い放った。


「青春じゃん」


 青春。プライバシー保護規定が「青春」の二文字で上書きされた。法の支配が空気に屈する瞬間を目撃している。国会で法案が「いい話だから」で棄却されるようなものだ。


「副委員長──」


 柊の声がわずかに震えた。怒りではない。使命感が空中で行き場を失っている音だ。


「写真の内容ではなく撮影のプロセスが──」


「本人に聞いてみようよ」


 副委員長が俺に目を向けた。五つの視線が集中する。


「黒瀬くん、だっけ。この写真、消してほしい?」


 直球の質問。はいかいいえで答えられる。


 消してほしいか。──写真は確かに恥ずかしい。膝枕に見える角度は困る。全校に出回った状況は居心地が悪い。消えるなら消えてほしい。


 だが。


 あの写真に映っているのはテーピングだ。神代さんが走ってきて、膝をついて、俺の足首に白いテープを巻いてくれた。「消してほしい」と言うことは、あの行為自体を否定することにならないか。


「…………」


 沈黙。いつもの症状。副委員長が待っている。柊が待っている。


「……消さなくて、いいです」


 自分でも予想していなかった答えだった。


 柊が目を見開いた。


「えっ──いいんですか?」


「……撮り方はよくなかったと思います。でも……写真自体は」


 言葉が途切れる。写真自体は、何なのか。


「嫌じゃ、ないです」


 月曜日に神代さんが「この写真好きだよ」と言ったとき、俺は「よくない」と返した。だが心の底では──嫌ではなかった。


 副委員長がうなずいた。


「本人が問題ないなら、追及する必要ないんじゃない?」


 柊が立ちすくんでいる。用意した論理のすべてが着地点を失った。被害者が「被害はない」と証言した。弁論の前提が消えた。


「撮影マナーについては学年通信で注意喚起しとくよ。『行事中の撮影はマナーを守りましょう』的なやつ」


 副委員長が黒板にメモを書いた。それだけ。校則の審議が、学年通信のお知らせ一枚で終結した。


 風紀委員三名がうなずき、副委員長が「以上」と立ち上がる。


 柊だけが動かない。ファイルを胸に抱えたまま、椅子に座っている。


 委員たちが退室した。副委員長が「お疲れ」と言ってドアを閉める。


 部屋に残ったのは俺と柊の二人。


 柊がゆっくりとファイルを閉じた。中身が見える。プリントアウト、朝倉先生へのヒアリングメモ、保健室利用記録の集計表、八代のノートのコピー、目撃証言の一覧。分厚い。数ヶ月分の成果がそこに詰まっている。


「……柊」


 俺から声をかけた。珍しいことだ。


「……ありがとう。調べてくれて」


 柊がこちらを見た。メガネの奥の目が赤い。泣いているのではない。使命感の残り火だ。


「結局、何の役にも立てませんでした」


「役に立った。撮り方の問題を取り上げてくれたのは、正しかったと思う」


 柊が少し驚いた顔をした。俺がこんなに喋ること自体が珍しいのだろう。俺自身も驚いている。


「……ありがとうございます」


 柊がファイルを鞄にしまい、立ち上がった。ドアに向かいかけて、振り返る。


「黒瀬くん。最後に一つだけ」


 メガネの位置を直した。時間稼ぎの仕草。


「さっき『写真が嫌じゃない』とおっしゃいましたね」


「……はい」


 柊が唇を引き結んだ。何かを飲み込む顔。小さく息を吐く。


「それは──神代さんと一緒に映っているから、ですか」


 心臓が跳ねた。


 副委員長の「消してほしい?」よりも遥かに鋭い問い。核心に、一直線に刃が向いてくる。風紀委員の調査能力は証拠収集だけじゃない。心理の急所を突く尋問技術まで装備している。


 答えられなかった。うなずくことも、首を振ることもできなかった。


 柊はそれ以上追及しなかった。


「……失礼します」


 一礼して、出ていった。一人きりの委員会室。蛍光灯がジジ、と小さく鳴った。


 ◇


 保健室に向かった。


 放課後の廊下は人がまばらだ。部活に行く生徒、帰宅する生徒。俺はどちらでもない。保健室に向かう生徒。分類表に存在しないカテゴリー。


 ドアを開けた。


 神代さんがいた。窓際のパイプベッドに座って、膝の上に本を開いている。背中が少しだけ丸い。保健室モードの姿勢。


 俺が入った瞬間、顔を上げた。


「湊くん♡ おかえり」


 おかえり。帰宅の挨拶を保健室で交わしている。いつからこれが日常になったのか。気づいたらそうなっていた。


「……ただいま」


 自然に返した。朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいる。口を挟まない。


「委員会、どうだった?」


「……写真の件は終わった」


 神代さんが目を丸くした。


「終わった?」


「副委員長が『青春じゃん』って言って、終わった」


 一瞬のきょとんとした表情。それから笑い出した。声を抑えて、肩を揺らして。


「青春って……ふふ♡」


「笑い事じゃない」


 笑い事ではない。だが、この笑顔を見ると委員会室で固まっていた重圧がほどけていく。砂糖が水に溶けるように、喉の鉛が消えた。


「あと……俺、写真のこと聞かれた」


 神代さんが笑いを収めた。こちらを見る。


「消してほしいかって。──消さなくていい、って答えた」


 神代さんの表情が変わった。笑いの残像が消えて、別の何かが浮かぶ。柔らかくて、少し切実な光。


「……ほんとに?」


「ほんとに」


 神代さんが本を閉じて膝の上に置いた。


「よかった♡」


 一言。だがその一言の温度が高い。安堵の色がある。もしかして俺が「消してほしい」と言う可能性を、この人は恐れていたのか。あの写真を消すことは、テーピングの瞬間を否定すること。走ってきてくれたことを否定すること。


 それは──できない。


 窓から夕日が差し込んでいる。十月の光がオレンジ色に保健室の床を横切っている。


「ね、湊くん」


 神代さんが立ち上がった。窓の近くまで歩いて、振り返った。逆光で表情の細部が滲む。


「みんなが何て言っても、ここは変わらないから♡」


 ここ。保健室。俺と神代さんがいる場所。消毒液の匂いと白いカーテンと、朝倉先生のコーヒーの香り。


 変わらない──救われた。その一言に。


 だが同時に、別の問いが浮かぶ。


 「変わらない」。何が変わらないのか。この関係が変わらないのか。弁当を食べて、並んで座って、時々目が合って、時々逸らして。それが永遠に続く。


 ──それでいいのか?


 朝倉先生がコーヒーの紙カップを置いた。静かな音。


「神代さん、もう下校時刻よ」


「あ、ほんとだ」


 神代さんが鞄を肩にかけた。ドアに手をかけ、最後にこちらを見た。


「じゃあね、湊くん。また明日♡」


 ドアが閉まった。上履きの足音が遠ざかる。廊下の向こうで消えた。


 保健室に俺と朝倉先生。


「……先生」


 朝倉先生がカップの中身を覗き込んだ。


「なに?」


「……『変わらない』って、いいことですか」


 コーヒーの残りを見つめている。数秒の間。


「変わらないことが安心なのは、変わるのが怖いからよ。安心と幸福は、似てるけど別物」


 一発で核心を射抜かれた。養護教諭の診断は身体だけに限らない。


「……俺は、怖いんですか」


「さあ。自分で診断しなさい」


 朝倉先生が立ち上がり、カップを洗い場に持っていった。蛇口の水音。


「ただ、一つだけ」


 水が止まった。


「あの子が『変わらない』って言ったのは、あなたを安心させるため。でも、本当に変わりたくないかどうかは──あの子自身にもわからないと思うわ」


 返す言葉がなかった。朝倉先生がカーテンを閉め始める。閉室の準備だ。


 ◇


 下駄箱。靴を履き替えていると、八代がいた。


「お、黒瀬。委員会終わった?」


「……うん」


 八代が靴紐を結びながら顔を上げた。


「で? どうだった」


「注意喚起で終了。写真は残る」


 八代が鼻を鳴らした。予想通り、という顔。


「だろうな。あの副委員長、面倒くさがりで有名だし」


 鞄を肩にかけ、校門に向かって歩き始めた。俺も並ぶ。夕暮れの通学路。靴音が二人分、アスファルトに落ちている。


「……八代」


「ん?」


 八代が足を止めた。こちらを見る。


「俺は、神代さんと──」


 付き合ってない。その四文字を言うために口を開いた。


 だが喉の奥で鉛が別の形に固まっている。四文字が消えた。代わりに浮かんだのは、さっきの柊の問いだ。「神代さんと一緒に映っているから、ですか」。


「……神代さんと、何なんだろうな」


 出た言葉がそれだった。「付き合ってない」ではなく、「何なんだろう」。否定ではなく、問い。


 八代が半歩だけ前を歩いた。横顔が見える。いつもの軽い笑みではない。どこか安心したような、納得したような表情。


「やっとそこまで来たか」


「…………何が」


 八代が空を見上げた。十月の夕空。オレンジと紫の境界が滲んでいる。


「お前がそれを自分で考え始めたってこと。ずっと『付き合ってない』で蓋してたろ。やっと中を見る気になった」


 肩を叩かれた。力加減がいつもより丁寧だ。


「答えは急がなくていいと思うぞ。でも、逃げんなよ」


 校門を出た。八代は左に曲がる。俺は右。


「じゃあな黒瀬。あ、そうだ」


 振り返った八代が、一言。


「自分でわかんないなら、あいつの顔見てこいよ。たぶん全部書いてある」


 手を振って去った。


 一人の帰り道。十五分で家に着く。先週は神代さんと並んで歩いた道だ。鞄を持たれて、足を引きずって、夕闘の中で「澪」と呼んだ道。今日は一人だが、隣に誰かがいた記憶が景色を上書きしている。


 スマホが鳴った。LINE。


 神代さんからだった。


『今日はお疲れさま。委員会、大変だったね』


 返信を打つ。二十秒迷って、四文字。「ありがとう」。送信。三秒で既読がついた。


 入力中の表示が点滅する。三つの点が踊っている。五秒。十秒。


『明日も保健室で待ってるね♡』


 明日も。変わらない日常の予告。保健室に行けば、あの人がいる。弁当と笑顔と、名前のない距離感がある。


 返信した。「うん」。一文字。八代なら「もうちょっと頑張れ」と笑うだろう。杏なら「短い〜」と呆れるだろう。


 だが今の俺にはこの一文字が限界だ。限界だが、嘘はない。


 明日も行く。保健室に。あの人のところに。


 「付き合ってない」はもう言えない。だからといって「付き合ってる」とも言えない。二つの岸の間で水に浮いているような状態だ。溺れてはいない。泳いでもいない。ただ漂っている。


 でも──流されている方向は、たぶん決まっている。俺が気づいていないだけで、潮の向きは最初から一つしかなかったのかもしれない。


 家が見えた。玄関の明かり。門を開けた。


 天気予報が明日の雨を告げていた。


 雨の日の保健室は、いつもより静かだ。窓を叩く水滴の音が、沈黙の代わりを務めてくれる。


 明日。雨の保健室で、あの人と向き合ったら──何が見えるんだろう。


 「変わらない」の中に、変わりたい何かが混じっている気がする。


 それが何なのかは、まだわからない。


 まだ、わからない。

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