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第2話 : 女神、降臨す(場所を間違えている)

 第2話 : 女神、降臨す(場所を間違えている)


 昨日の出来事は、きっと事故だ。


 交通事故みたいなものだ。偶然、同じ時間に、同じ場所に、たまたま居合わせた。ただそれだけ。事故に再現性はない。明日また同じ交差点で同じ車にぶつかる確率は限りなくゼロに近い。


 だから今日の保健室は、いつも通りだ。


 ──そう自分に言い聞かせながら、俺は昼休みのチャイムと同時に教室を出た。


 ◇


 廊下を歩く足取りが、いつもより少しだけ速い。


 気のせいだ。たぶん。今日は四限目が体育で、着替えの関係で動きが機敏になっている。それだけだ。保健室に急いでいるわけではない。断じて。


 一階東棟、廊下の突き当たり。白いドア。


 ノブに手をかける前に、一瞬だけ耳を澄ませた。


 ドアの向こうに人の気配がないことを確認する。昨日まではこんなことしなかった。偵察行動が追加されている時点で、日常に何かが侵入した証拠だ。


 ドアを開ける。


「あ、今日も来たの」


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいる。いつも通りだ。パソコンの画面を見ながら、こちらを見もしない。


「はい」


「具合悪い?」


「……いえ」


「じゃあいつもの?」


「……はい」


 四往復。完璧な定型文。世界はまだ正常だ。


 窓際の二番目のベッドに向かう。カーテンを七割引く。リュックから文庫本を取り出す。今日の昼飯はコンビニのツナマヨおにぎりと紙パックの緑茶。


 昨日と同じ空間。同じ匂い。同じ静けさ。


 ほら、何も変わっていない。


 神代澪が保健室に来たのは一回きりのイレギュラーで、今日からは元の平穏が────


 ──コン、コン。


 おにぎりの包装を半分剥いた状態で、手が止まった。


 ノックだ。保健室のドアを叩く音。昨日と同じリズム。控えめで、けれどためらいのない二回のノック。


 いや、待て。保健室にノックして入ってくる生徒は神代澪だけではない。体調不良の生徒かもしれない。怪我をした一年生かもしれない。そもそも保健室は公共施設だ。ノックする人間は日本に何百万人といる。


 朝倉先生が「はーい」と答える。


 ドアが開いた。


「──失礼します」


 澄んだ声。高すぎず、低すぎず、教室のざわめきの中でも通る声。


 聞き間違えるはずがなかった。昨日の今日で、この声は俺の聴覚野に刻まれている。


 神代澪が、保健室に入ってきた。


 ◇


 事故には再現性がないと言ったな。


 あれは嘘だ。


 ◇


 足音がリノリウムの床を踏む。軽くて、迷いがない。昨日みたいに朝倉先生に「少し休みたくて」と言うでもなく、まるで自分の教室に入るみたいな自然さで保健室の空気に溶け込んでいく。


「朝倉先生、こんにちは」


「こんにちは。今日も?」


「はい。いいですか?」


「いいわよ。ベッド空いてるから」


 その「空いてるベッド」は四つある。手前の二つが空いている。


 なのに足音は、まっすぐこちらに向かってくる。


 予測されていた。予測されていたのに、対策を何も講じていなかった。軍事用語で言えば、敵の進攻ルートを把握しておきながら防衛線を構築しなかった司令官の怠慢だ。俺の参謀本部は昨晩から機能を停止していたらしい。


 カーテンの隙間から、白い手が現れる。


 昨日と同じ仕草で、布地がするりと横に引かれた。


「──あ」


 神代さんが、俺を見て微笑んだ。


「いた」


 一文字の動詞。「いた」。まるで探し物を見つけたときの声だった。


 俺はおにぎりを片手に持ったまま固まっている。ツナマヨの匂いが保健室の消毒液に混じる。間抜けな構図だった。昨日のカレーパンから何も進歩していない。


「隣、いいですか?」


 昨日と同じ質問。そして昨日と同じく、俺は何も答えられない。


 神代さんは昨日と同じく、俺の沈黙を「どうぞ」と解釈した。隣のベッドに腰を下ろす。上履きを脱いで、足をベッドの上に上げる。スカートの裾を軽く押さえて、窓の方を向いた。


 小さく息を吐く。


「……ふぅ」


 その一息で、何かが切り替わるのが見えた。


 肩の力が抜ける。背筋がほんの少しだけ丸くなる。表情から「完璧」の成分が薄れて、代わりに柔らかいものが滲む。


 昨日と同じだ。保健室に入った瞬間に、神代澪という人間のモードが変わる。廊下で見かける「学年の女神」ではない、もっとガードの緩い誰かになる。


 ──ちゃんと見るな。見るんじゃない。


 視線を文庫本に落とした。いや、まだ開いてすらいない。おにぎりを持ったままだ。このおにぎりをどうするべきか。食べるのか。食べていいのか。隣に神代澪がいる状態でツナマヨおにぎりを咀嚼する行為は、何かの法律に触れないだろうか。


 触れない。触れるわけがない。おにぎりを食べる権利は憲法で保障されている。たぶん。


 意を決して、おにぎりにかじりつく。米が口の中で崩れる。ツナマヨの味が広がる。うまい。うまいが、昨日のカレーパンほどは味がしない。環境は同じだ。消毒液の匂い、午後の光、窓の外の遠い喧騒。


 変数はひとつ。隣にいる人間の存在が、味覚に干渉している。


「おにぎり、好きなんですか?」


 声をかけられた。


 おにぎりが喉で詰まりかけた。緑茶で無理やり流し込む。


「……ローテーション、です」


「ローテーション?」


「……昨日はカレーパンで、今日はおにぎりで……」


「あはは、ちゃんと変えてるんだ」


 神代さんが小さく笑った。「あはは」だ。廊下で聞く上品な微笑みとは全然違う。もっと砕けていて、どこか子どもっぽい響きがある。


 この人は笑い方が何種類あるんだ。


「私、お弁当持ってきちゃった。ここで食べてもいいですか?」


 朝倉先生に聞くべき質問を、なぜか俺に向けてくる。管理者権限は俺にはない。だが朝倉先生は何も言わない。パソコンの画面を見たまま、関与しないという態度を全身で表現している。


 中立国の姿勢だった。スイスか、この人は。


「……俺に聞かれても」


「じゃあ、食べるね」


 俺の返答が許可になっている。どういう変換処理を経ればそうなるのか、自然言語処理の専門家に聞いてみたい。


 神代さんがカバンから弁当箱を取り出した。白い布に包まれた、小ぶりの一段弁当。布をほどく手つきが丁寧で、蓋を開けた瞬間に出汁の匂いがふわっと広がった。


 卵焼き。ほうれん草のおひたし。鶏の照り焼き。プチトマト。白飯。


 完璧だった。


 コンビニのおにぎりを握った俺の右手が、急に惨めに見える。いや、惨めとかそういう問題ではない。弁当のクオリティを比較する場面ではない。ここは保健室であって、料理対決の会場ではない。


「いただきます」


 神代さんが小さく手を合わせて、卵焼きをつまんだ。


 しばらく、保健室に二人分の咀嚼音だけが響いた。


 静かだ。


 昨日もそうだった。神代さんは話しかけてくるかと思いきや、食事が始まると黙る。無理に会話を作ろうとしない。テレビをつけずに食べる定食屋みたいな空気がある。


 悪くない──と、また思ってしまった。


 昨日と同じ感想を抱いている自分に気づいて、胃のあたりがざわつく。「悪くない」の再生産は危険だ。二回続けば傾向になる。三回続けば習慣になる。


 おにぎりを食べ終えて、緑茶を飲む。文庫本を開く。活字を追う。


 ──読めた。


 昨日は三ページしか進まなかったのに、今日は普通に読める。神代さんの存在に、脳が少しだけ慣れたのかもしれない。人間の適応能力というのは、良くも悪くも高い。


 ◇


「ね、それ何の本?」


 五分ほど経った頃、神代さんが聞いてきた。


 文庫本の表紙を見せる。SF短編集。地味な装丁で、ベストセラーには程遠い一冊だ。


「SF、好きなんですか?」


「……まあ」


「ふうん。どんな話?」


「……宇宙で、孤独な人が、静かに暮らす話……が多い」


「孤独で静か……湊くんっぽいね」


 心臓が跳ねた。


 今。


 今、この人は──。


「──あ」


 神代さんが口を押さえた。ほんの一瞬、目が泳いだ。


「ごめんなさい。黒瀬くん、でした」


 言い直した。


 だが、最初に出た音は確かに「みなとくん」だった。俺の下の名前。呼び捨てでもなくフルネームでもなく、「湊くん」。親しい相手に使う呼び方。


 なぜ。


 俺たちは昨日初めてまともに同じ空間にいた程度の関係だ。クラスも違う。会話の総量は両手で数えられる。下の名前で呼ばれる段階に、人間関係のどのフローチャートを辿っても到達しないはずだ。


「……いえ」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 神代さんは「えへへ」と照れたように笑って、鶏の照り焼きをつまんだ。


 「えへへ」。語彙がまた一つ増えた。この人の笑い方は辞書が一冊書ける。


 俺は文庫本に目を戻したが、さっきまで普通に読めていた活字が、また記号の羅列に戻っていた。


 適応は終了した。防壁は名前ひとつで崩壊するらしい。安い壁だ。


 ◇


 昼休みの後半、神代さんは弁当を片付けた後、窓の外をぼんやり見ていた。


 音楽でも聴いているのかと思ったが、イヤホンはしていない。スマホも触っていない。ただ、窓の向こうに広がるグラウンドと、その向こうの空を眺めている。


 運動部の声が遠くから聞こえる。昼休みのサッカー組が走り回っているのだろう。あの賑やかさは、保健室の窓ガラス越しだとテレビの音声みたいに現実味が薄い。


「静かだね、ここ」


 神代さんがぽつりと言った。独り言のような、話しかけているような、曖昧な声量だった。


「教室ってさ、ずっと誰かと話してないといけないでしょ。話すこと別にないのに、沈黙が怖いみたいに、みんな何かしゃべってる」


 ……わかる。


 その感覚は、痛いほどわかる。


 教室の沈黙は罪だ。誰かが黙ると、周りが不安になる。だから全員が常に言葉を発し続ける。中身があろうとなかろうと、音を出し続けることが義務になっている。BGMの止まったショッピングモールみたいに、静寂は不気味なものとして扱われる。


 俺はその義務を果たせないから、ここにいる。


「……わかる」


 気づいたら、声に出ていた。


 自分で驚いた。脳が許可を出す前に、口が動いていた。ミュートのまま固定されているはずのスピーカーから、音が出た。


 神代さんがこちらを向いた。


 少し驚いた顔。それから、ゆっくりと笑った。


「……だよね」


 同意だった。たった三文字の同意。


 それだけなのに、保健室の空気が少し変わった気がした。消毒液の匂いが薄くなって、代わりに何か別の──名前のつかない何かが、二人の間に漂った。


 いや。気のせいだ。消毒液の匂いが薄くなるわけがない。化学的にありえない。俺の鼻がおかしいだけだ。体調不良の可能性がある。ここは保健室だから、ある意味正しい場所にいる。


 ◇


 それから十分ほど、また沈黙が続いた。


 俺は文庫本を開いていたが、活字はほとんど頭に入っていなかった。入っていなかったが、不快ではなかった。


 ページをめくる音。時計の秒針。窓の外の風。たまに神代さんが小さく息を吐く音。


 保健室の静けさは昨日と同じはずなのに、色が違う。一人のときの静けさが白だとしたら、今の静けさはもう少し温かい色をしている。アイボリーとか、そういう。


 ──比喩が気持ち悪い。俺はいつからインテリアコーディネーターになったんだ。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 神代さんがベッドから立ち上がる。上履きを履く。弁当の包みをカバンにしまう。


 そしてまた、あの切り替えが起きた。


 背筋が伸びる。表情が整う。肩に力が戻る。さっきまで窓の外をぼんやり見ていた人間が、数秒で「学年の女神」に再変換される。


 その変換の速さが、少しだけ引っかかった。


 慣れているのだ。この切り替えに。何百回、何千回と繰り返してきた動作のように、滑らかで、迷いがない。


「黒瀬くん」


 名前を呼ばれた。今度はちゃんと「黒瀬くん」だ。


「はい──いえ、なに……ですか」


 返事が迷子になった。「はい」と「なに」が衝突して、変な日本語が生まれた。三十八億年の進化の末に、人類はこんな不出来な返答を生産している。


 神代さんは笑わなかった。笑わずに、まっすぐ俺を見た。


「明日も来るね」


 疑問形ではなかった。


 昨日は「また来ていいですか?」だった。許可を求める形。俺の沈黙を勝手に「どうぞ」に変換したとはいえ、一応は問いかけの体裁を取っていた。


 今日は違う。


 「明日も来るね」。宣言だ。通告だ。昨日の沈黙が「同意」として処理された結果、今日からは事後報告で十分だと判断されたらしい。


 国際法的にどうなんだ、それは。


「……あ、うん」


 出た。


 初めて、肯定の言葉が出た。


 「あ、うん」。日本語として最も非力な同意表明。裁判で使ったら証拠能力を問われるレベルの弱さ。


 だが神代さんは、その弱々しい二音を聞いて──ぱっと表情を変えた。


 さっき整えたばかりの「完璧な顔」が、一瞬だけ崩れた。崩れたというか、ほころんだ。堅い蕾がひとつだけ開いたみたいに、唇の端が上がって、目が細くなった。


「──ありがとう♡」


 昨日と同じ「ありがとう」。


 だけど今日の方が、少しだけ声が弾んでいた。


 神代さんは小さく会釈して、保健室を出ていった。


 ドアが閉まる。足音が遠ざかる。


 廊下の先で、誰かが「あ、澪ちゃん」と声をかけるのが聞こえた。「うん、ちょっと保健室で休んでて」と神代さんが答える。いつもの、柔らかくて隙のない声。


 保健室の中で見せた顔とは、別の声。


 ◇


 朝倉先生がコーヒーカップを置いた。


「……来たね、今日も」


「……はい」


「明日も来るって」


「……はい」


「あの子、保健室で弁当食べてたけど」


「……はい」


「黒瀬くんの隣で」


「……はい」


「楽しかった?」


 返答に詰まった。


 「はい」のループが急に遮断された。楽しかったのか。楽しかったのかと聞かれると、わからない。楽しいとは違う。静かだった。悪くなかった。おにぎりの味が薄かった。文庫本が読めなかった。でも不快ではなかった。


 これは楽しいに分類されるのか。


「……わかりません」


「正直でよろしい」


 朝倉先生はそれだけ言って、パソコンに向き直った。


 俺はベッドに座ったまま、閉じた文庫本を見ていた。しおりの位置は昨日から五ページしか進んでいない。二日で五ページ。読書家としては壊滅的な進捗率だ。


 この調子では文庫本一冊読み終える前に、学期が終わる。


 ◇


 教室に戻る廊下を歩きながら、考えていた。


 神代澪は今日も来た。明日も来ると言った。


 昨日は気まぐれだと思った。一回きりのイレギュラーだと自分に言い聞かせた。交通事故に再現性はないと。


 事故は二日連続で起きた。


 しかも二日目の事故は、一日目より被害範囲が広がっている。弁当を食べた。会話が増えた。下の名前で呼ばれかけた。「明日も来る」と宣言された。


 これはもう事故ではない。


 事故が反復するなら、それは事故ではなく現象だ。あるいは計画。もしくは侵攻。国境を超えてきた軍隊が翌日も撤退しなかったら、それは偵察ではなく駐留だ。


 ……大げさだ。わかっている。たかが昼休みに保健室で弁当を食べただけだ。


 だが、俺の日常にとっては十分すぎる変化だった。


 教室のドアが見える。中から談笑が漏れる。いつもの喧騒。いつもの圧力。


 席についた。窓の外を見る。空はまだ明るい。春の、無駄に元気な青空。


 ポケットの中で拳を握った。掌がまだ少し汗ばんでいる。今日もだ。昨日と同じだ。


 頭の隅で、あの声がリフレインしている。


 「明日も来るね」。


 疑問形ではない、宣言としての「明日」。それに対して俺が返した、世界で最も頼りない同意。


 「あ、うん」。


 ──あの「うん」を、明日の俺は後悔するんだろうか。


 それとも。


 窓の外に目を向けたまま、答えの出ない問いを放置した。放置するのは得意だ。この十七年間、大事なことは全部放置して生きてきた。


 ただ──。


 ほんの少しだけ、明日の昼休みのチャイムが、いつもより待ち遠しく感じている自分がいた。


 気のせいだ。


 たぶん。

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