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【第19話】体育祭の"写真"が出回る

【第19話】体育祭の"写真"が出回る


 月曜日が来た。


 予想通り──いや、予想以上に、教室の空気が変わっていた。


 朝、靴箱を開けた瞬間から違和感がある。すれ違う生徒の視線が普段より三秒長い。三秒。たった三秒だが、コミュ障にとって三秒の注視は三時間に相当する。相対性理論の実証実験が月曜朝の昇降口で開催されている。


 右足首はまだ少し痛む。土曜に湿布を貼り、日曜は一日安静にしていた。腫れは引いた。テーピングは自分で巻き直した。神代さんほど上手くはないが、歩行に支障はない。


 教室に入った。


「おはよう黒瀬──って、足大丈夫か?」


 八代が開口一番、足元を見た。クラスメイトが三人ほど振り返った。俺の足を見て、俺の顔を見て、何か言いたそうな表情をして、口を閉じた。


 あの写真を見たのだ。全員。


 席に座った。鞄を机にかける。いつもの月曜日のはずが、背中に刺さる視線の密度が動物園のパンダ舎レベルだ。見世物じゃない。


「黒瀬」


 後ろの席の田中が声をかけてきた。リレーでバトンを渡した相手だ。


「体育祭お疲れ。……あと、おめでとう」


「…………何が」


 田中が笑った。意味深な、善意の笑顔。


「あの写真見てさ。神代さんとの。いい感じじゃん」


 おめでとう。結婚か。出産か。国家資格の取得か。テーピングを巻いてもらっただけで祝福される世界線に俺は生きている。


「……あれはテーピングだ」


「テーピングだったんだ。──でも、いい写真だよな」


 いい写真──その評価が下されている時点で、テーピングという事実は装飾でしかない。見た人間が「いい」と判断したのは医療行為の手際ではなく、そこに映る二人の距離感だ。


 一時間目までの十五分で、「おめでとう」を四回、「いい写真」を三回、「神代さんと付き合ってるんだよね?」を二回浴びた。


 全てに「……ありがとう」「テーピングです」「付き合ってない」と返した。返したが、どの返答も相手に着弾していない。発射された弾が空中で蒸発する。言葉が意味を持たない月曜日。


 ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 廊下を歩いていると、知らない一年生の女子二人組とすれ違った。小声が聞こえた。


「あの人だよ。黒瀬先輩」


「え、あの写真の? 神代先輩の彼氏さん?」


 ひそひそ声の音量設定がバグっている。全部聞こえている。もう少し小さく話すか、俺の聴覚を破壊してほしい。


 トイレの個室に入った。鍵を閉めた。スマホを取り出した。


 クラスLINEを開く。土曜日の体育祭直後からメッセージが怒涛に流れている。「お疲れ」「三位だったね」「リレー熱かった」。普通の会話。


 その中に、写真が三枚。


 一枚目。救護テントの全景。パイプ椅子に座った男子と、その前に膝をつく女子。距離が近い。黒髪のロングヘアが画面を支配している。


 二枚目。ややアップ。テーピングを巻く手元。白いテープが足首に──足首のはずだが、角度のせいで太腿に見えなくもない。膝の上にある手、その手に支えられた足、寄り添う黒髪。


 膝枕だ。どう見ても。


 三枚目。テーピング完了後。俺が立ち上がろうとして、神代さんが見上げている。あの「えへへ」の笑顔。光の加減で、二人の表情がやけに柔らかい。


 写真の下のコメント欄が燃えている。


「黒瀬と神代さん!!!」「えっこれ膝枕じゃん」「推せる」


 推せる。俺たちはいつからアイドルユニットになったのか。推しグッズは足首のテーピングか。


 学年全体のグループLINEにも同じ写真が転載されていた。コメント数が百件を超えている。全部は読めない。読みたくない。


 コメントの傾向を分類すると三つに大別される。


 一、祝福系。「おめでとう」「お似合い」「推し」。善意の弾丸。善意だから防ぎようがない。


 二、驚愕系。「黒瀬って誰」「保健室の人でしょ」「え、あの怖い顔の?」「神代さんの彼氏だよ」。俺の個人情報が「神代さんの彼氏」で完結している。アイデンティティの消滅。


 三、検証系。「これ膝枕じゃない?」「テーピングだって」「でもこの角度は膝枕に見える」「つまり膝枕テーピング」。新概念が誕生している。膝枕テーピング。そんな医療行為は存在しない。


 スマホをポケットに戻した。個室の壁に背中を預けた。深呼吸。


 仮に膝枕だったとして、何が問題なのか。──問題は、俺が否定したいのに否定できないことだ。「付き合ってない」が口から出る。出るが、音が意味に変換されない。なぜか。


 その答えの手前で、チャイムが鳴った。


 ◇


 昼休み。保健室。


 いつものルーティン。教室から脱出してドアを開ける。消毒液の匂い。白いカーテン。


「あ、今日も来たの」


 朝倉先生がコーヒー片手にこちらを見た。視線が一瞬、足首に落ちた。


「足は?」


「……大丈夫です。自分で巻き直しました」


 朝倉先生が足首を確認した。テーピングを指で押す。


「腫れは引いてるわね。あと二、三日は無理しないで」


「……はい」


 朝倉先生がデスクに戻りかけて、ふと振り返った。


「写真、見たわよ」


 来た。朝倉先生まで。養護教諭のネットワークにも届いているのか。


「……あれはテーピングです」


 朝倉先生がコーヒーの紙カップに口をつけた。


「知ってるわよ。私の目の前でやってたんだから。でもね」


 間を置いた。カップの縁が唇を離れる。


「テーピングだろうと膝枕だろうと、あの子が走ってきたのは事実よ」


 反論の余地がない。写真の角度は誤解を生むが、「走ってきた」は角度に左右されない事実だ。俺が怪我をした瞬間に飛び出してきた。それだけは疑いようがない。


 保健室のドアが開いた。


「湊くん♡」


 神代さんが入ってきた。両手に弁当箱。いつもの二つ。ドアを閉めた瞬間、肩の力が抜ける。声のトーンが半音下がる。廊下と保健室の境界で、スイッチが切り替わる。


「足、痛くない?」


「……大丈夫」


 神代さんがうなずいて、弁当箱を広げた。


「今日はね、卵焼き甘めにしてあるよ♡」


 甘め。体育祭の弁当で俺が甘い卵焼きを食べたことを反映している。好みのデータベースが随時更新されている。


 弁当を受け取った。蓋を開けた。白米、卵焼き、鮭の塩焼き、ほうれん草の胡麻和え。栄養バランスが完璧だ。コンビニのパンを齧っていた数ヶ月前の自分に伝えたい。お前の昼食事情は激変するぞ、と。


「……うまい」


「やった♡」


 いつものやり取り。弁当を食べて、「うまい」と言って、笑顔が返ってくる。月曜日の教室は戦場だったが、保健室は今日も停戦地帯だ。


「ねえ湊くん」


「……ん」


 神代さんが弁当箱の蓋をゆっくり閉じた。何かを切り出す前の間。


「写真、見た?」


 本人から来た。


「……見た」


 神代さんがスマホを取り出した。画面にはあの二枚目。最も「膝枕」に見える角度の写真。


 画面を眺める神代さんの口元が緩んでいる。笑っている。


「……ふふ、いい写真♡」


 いい写真。この写真のせいで俺は朝から「おめでとう」を浴び、一年生に指さされ、トイレの個室で深呼吸する羽目になっている。どこが「いい写真」か。


 ──だが、この人が「いい写真」と言う理由は、たぶんシンプルだ。自分と俺が一緒に映っている。それだけで「いい」のだ。評価基準がいつも明快で、いつも俺の理解を三歩超えてくる。


「……よくない」


「よくないの?」


 神代さんの首が傾いた。黒髪が肩を滑る。


「膝枕に見える。テーピングなのに」


「でも、テーピングしたのは事実だよ?」


 正論だ。だが論点はそこじゃない。


「事実だけど、見え方の問題で──」


 神代さんがスマホをポケットにしまった。まっすぐこちらを見た。


「私は、この写真好きだよ♡」


 好き。写真の中の状況が好き。俺にテーピングを巻いている自分が好き。──あるいは、俺と一緒に映っている自分が好き。


 どの解釈も同じ方向を指している。


 言葉が出ない。いつもの症状。だが今日の「出ない」は、否定したくて出ないのとは色が違う。何を返せばいいかわからなくて出ない。


 朝倉先生がデスクから声をかけた。


「弁当冷めるわよ」


 箸を動かした。卵焼きが甘い。


 ◇


 五時間目の後。廊下で呼び止められた。


「黒瀬くん」


 柊栞。風紀委員。メガネの奥の目が真剣だ。真剣の純度がいつもより高い。


「少しお時間いいですか」


「……はい」


 廊下の端、窓際。人通りの少ない場所。柊が鞄からクリアファイルを取り出した。中に紙が数枚。


「体育祭の件について、お聞きしたいことがあります」


 柊がファイルを開いた。あの三枚の写真が紙にプリントアウトされている。わざわざ印刷したのか。調査への本気度が紙の厚さに比例している。


「この写真が、LINEおよびSNSで広範囲に拡散されていることを確認しました」


 柊が二枚目を指した。最も問題のある角度。


「一部の生徒の間で、これが『膝枕』であるという認識が広まっています」


「テーピングです」


 柊がうなずいた。メモ帳にペンを走らせている。


「朝倉先生にも確認済みです。テーピングであることは把握しています」


 把握している。にもかかわらず、ファイルを広げている。つまり柊の本題はテーピングの真偽ではない。


「問題は三点あります」


 箇条書き。この人は生まれながらの委員だ。


「一点目。無許可で他生徒を撮影しSNSに投稿した行為。校則の個人情報保護条項に抵触する可能性があります」


 柊がペンで紙をなぞった。続く。


「二点目。撮影場所が救護テントという医療行為の場であること。プライバシーの観点から問題があります」


 二点目まではフレームワークだ。本題は──。


「三点目」


 柊が一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「この写真の拡散により、黒瀬くんと神代さんの交際が全校で公然の事実として扱われている現状について」


 三点目。これだ。一と二は法的根拠。三が感情の核心。


「……俺たちは付き合ってないです」


「以前からそうおっしゃっていますね」


 柊のファイルの厚さが視界に入った。夏からの調査資料。保健室の利用記録、ブランケットの目撃証言、八代の取材ノートのコピー。全てがこのファイルに蓄積されている。証拠カタログの完成形だ。


「この件、風紀委員会で正式に取り上げることにしました」


 正式に。


「写真の無許可撮影と拡散は、校則のプライバシー保護規定に該当する可能性があります。委員会として調査し、必要があれば是正措置を提案します」


 柊が俺と神代さんのプライバシーの側に立っている。いつもの「証拠集め」ではなく、「被害者保護」の方向だ。風向きが変わった。


「……ありがとう」


 口から出た。自然に。


 柊が目を丸くした。メガネの奥の瞳が揺れた。


「い、いえ。風紀委員としての義務ですから」


 義務。柊はいつも義務で動く。だが今回の義務は、俺たちの側を向いている。


「ただし」


 柊が声のトーンを変えた。一段低い。


「委員会で取り上げるということは、お二人の関係も議論される可能性があるということです」


「……つまり」


 柊がクリアファイルを胸の前で抱え直した。


「説明を求められるかもしれません。『付き合っていない』で済むかは、わかりません」


 済まないかもしれない。公式の場で、関係を問われる。「付き合ってない」と言い切れるのか。言い切れたとして、その四文字は──本当に事実なのか。


「……わかりました」


「委員会は水曜日です。何かあればご連絡ください」


 柊が一礼して去った。廊下に西日が差している。


 ◇


 放課後。保健室に戻った。


 神代さんがいた。弁当箱を返しに来たついでに残っていたらしい。


「湊くん、おかえり♡」


 数時間ぶりの再会でおかえりが発動する。この人の辞書では、教室と保健室の往復が帰宅と出勤に分類されているようだ。


「……柊に捕まった」


「栞ちゃん? 何かあった?」


 栞ちゃん。いつの間にか下の名前で呼び合う関係になっている。


「写真の件。風紀委員会で取り上げるって」


 神代さんに共有した。この手の情報を自然に共有している自分に、わずかに引っかかる。


 神代さんが少し考える顔をした。いつもの即答モードではなく、数秒の空白。


「それって、私たちの関係も聞かれるの?」


「……かもしれない」


 神代さんが窓の方に目を向けた。夕方の光が差し込んでいる。


「ふうん」


 横顔がシルエットになる。


「聞かれたら、湊くんはなんて答えるの?」


 問いかけ。テストではない。だが、正解がどこかにある気がする。正解があるのに、俺にはまだ見えない。


「……付き合ってない、って答える」


 事実を。事実のはずのことを。


 神代さんが振り返った。笑っている。笑い方の種類がいつもと違う。「えへへ」でも「ふふ」でもない。少しだけ寂しそうな、でも納得しているような、薄い笑み。


「そっか♡」


 一言。語尾にハートがついている。ついているが、音がいつもより低い。半音ではなく一音分。空気が微かに冷えた気がした。


「でもね」


 神代さんが立ち上がった。鞄を肩にかける。帰り支度。


「写真のこと、怒ってないよ。撮った人にも、広めた人にも」


「……怒ってないのか」


 ドアノブに手をかけた。振り返った。夕日が背中にある。逆光で表情がよく見えない。


「だって、湊くんと一緒に映ってる写真だもん♡」


 ドアが閉まった。保健室に沈黙が戻る。消毒液の匂い。カーテンの揺れ。


 朝倉先生がコーヒーを一口飲んだ。


「嬉しそうだったわね、あの子。写真のこと」


「……はい」


 朝倉先生が紙カップを回した。コーヒーの残りを眺めている。


「で、あなたは?」


「……わかりません」


 朝倉先生はそれ以上何も聞かなかった。


 俺は天井を見上げた。蛍光灯が白い。


 水曜日に風紀委員会がある。そこで「付き合ってない」と言う。言うだろう。言うはずだ。


 だが、「そっか」と言ったときの声のトーンが消えない。いつもより低い語尾。いつもより短い笑顔。あの一音の中に、俺がまだ読めていない何かがある。


 「付き合ってない」。


 それは事実だ。事実のはずだ。


 はずなのに、その四文字が日に日に重くなっている。

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