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【第18話】体育祭当日・後半──騎馬戦の"姫"

【第18話】体育祭当日・後半──騎馬戦の"姫"


 神代さんの足が速い。


 救護テントから飛び出した黒髪が、グラウンドの砂を蹴って一直線にこちらへ向かってくる。陸上部の短距離走者かと見紛う加速。体育祭の種目にエントリーすべきだ。


 八代に肩を借りたまま、足を引きずっている。右足首が熱い。腫れ始めている気がする。地面を踏むたびに電流が足首から膝まで駆け上がる。


「湊くんっ」


 甘さのない声だった。いつもの語尾の記号が消えている。純粋な心配だけで構成された音。普段の呼びかけとは質が違う。金属的な硬さがある。


「おい神代さん、こっち大丈夫だから──」


 八代が言い終わる前に、神代さんが俺の反対側に入った。左肩の下に体を滑り込ませる。八代と神代さんに両側から支えられた格好になった。


「足、見せて。右?」


「……うん」


 神代さんの手が俺の腕を掴んだ。力加減が的確だ。


「体重かけないで。こっちに預けて」


 預けた。というか、預けざるを得ない。右足に力を入れると激痛が走る。神代さんの肩は細いが、支え方に迷いがない。体幹がしっかりしている。


 グラウンドの端を三人で歩いている。騎馬戦はまだ続いているが、試合の外で起きた出来事にも視線が集まっている。怪我をした男子を、左右から支える男女。片方は同クラスの八代。もう片方は学年の女神。


 絵面が完全にドラマだ。今すぐ透明人間になりたい。


 救護テントに着いた。パイプ椅子に座らされた。八代が俺の肩を離す。


「よし、あとは任せた」


 八代が神代さんに向かって言った。任せるな。ここは救護テントだ。任せるなら朝倉先生に任せろ。


「八代くん、ありがとう」


 神代さんが頭を下げた。丁寧な外の声。だが硬さが残っている。本気の心配が外モードのフィルターを通しきれていない。


 八代がグラウンドへ走って戻った。


 テントの中。俺、神代さん、朝倉先生。パイプ椅子が四つ、救急箱、クーラーボックス。幌が風で揺れている。


 朝倉先生が立ち上がった──が、神代さんの方が速かった。


 膝をついた。俺の前に。グラウンドの砂の上に、スカートの膝が触れるのも構わず。右足のスニーカーの紐を解き始めている。


「ちょ──」


「動かないで。腫れてる」


 スニーカーが脱がされた。靴下もずらされた。右足首が露出する。見下ろす。赤くなっている。角度によっては紫がかっている。


「……捻挫だね。外側。たぶん前距腓靭帯」


 診断名が出てきた。前距腓靭帯。なぜその単語を知っている。保健委員の範囲を逸脱していないか。


 朝倉先生が近づいてきた。腕を組んでいる。


「……ここ救護テントだから、私がやるんだけど」


 正論だ。養護教諭がいる場で、保健委員が主導権を握る道理はない。医療の指揮系統の問題だ。


「あ、すみません。つい♡」


 つい。靭帯の名称まで特定する行為が「つい」で済むのか。交通事故の現場で一般人が「つい心臓マッサージしちゃいました」と言ったら、それは一般人ではない。


 朝倉先生が一瞬、神代さんの手元を見た。それから小さくうなずいた。


「……手際はいいわね。続けて」


 許可が出た。救急箱からテーピングテープとコールドスプレーを取り出して、神代さんに渡す。養護教諭から保健委員への現場バトンタッチ。通常のプロトコルからは逸脱しているが、朝倉先生の判断基準は常に実利だ。


 コールドスプレーが足首に当たった。冷たい。痛みが一瞬だけ遠のく。


 テーピングが始まった。


 白いテープが足首に巻かれていく。指が骨の形を確かめるように触れる。テープを引き出す、切る、貼る。一連の動作に淀みがない。


「……なんで、テーピングできるんだ」


「お父さんが整形外科の先生なの。小さい頃から見てた」


 整形外科。納得した。幼少期から外科医の手技を見て育った人間が、足首の靭帯を即座に特定する。環境学習の賜物だ。


 ──いや、「納得」している場合ではない。


 問題は距離だ。


 神代さんの顔が、俺の膝の高さにある。黒髪が垂れて足首の近くで揺れている。テープを引くたびに指が肌に触れる。触れるたびに、痛みとは無関係な電気信号が背骨を駆け上がる。


 痛い。痛いのに、心拍数が痛みとは別の理由で上がっている。交感神経と副交感神経がリングの上で殴り合っている。


 テントの外。


 視界の端に、人影が増えていた。


 騎馬戦が終わったのだろう。グラウンドから引き上げてきた生徒たちが、救護テントの前を通りかかり──足を止めている。二人分、五人分、十人分。


 白いテントは三方が開放されている。プライバシーはゼロだ。救護テントは公共空間。中で起きていることは外から丸見え。


 つまり、学年の女神が膝をついて男子生徒の足にテーピングを巻いている光景が、歩く全ての人間から視認可能だ。


「……見られてる」


 神代さんが顔を上げた。テープを持ったまま。俺の足首に手を添えたまま。この角度、この体勢から見上げる動作。首が傾いて黒髪がさらりと流れた。


 ──映画のワンシーンか。


 テントの外で、スマホを構えた手が見えた。一つ、二つ、三つ。


「……撮ってる」


「気にしないで。今はこっちが大事♡」


 こっち。俺の足首のテーピング。治療行為だ。正当な救護活動だ。だが客観的に見れば「怪我した彼氏の足にテーピングを巻く美少女彼女」以外の何物でもない。


 朝倉先生がパイプ椅子に座ったまま、テントの外を眺めた。スマホの群れを見た。ため息をついた。


「……私が巻いてたら、誰も写真撮らなかったわね」


 間違いない。養護教諭のテーピングはニュース性ゼロだ。だが「神代澪がテーピングを巻く」は校内トップニュースになる。報道価値が被写体で決まる構造はメディアの根本原理と同じだ。


「はい、できた」


 テーピングが完成した。足首が白いテープで固定されている。動かしてみる。痛みはあるが、さっきより安定している。


「立てる? ゆっくりね」


 立ち上がった。恐る恐る体重をかける。痛い。だが崩れない。テーピングが関節を補強している。


「……ありがとう」


「えへへ♡」


 笑った。さっきまでの硬い表情が溶けて、保健室モードの笑顔に戻っている。安心が心配を上書きしたのだろう。


 テントの外のスマホが、その笑顔も記録した。間違いなく。


 朝倉先生が立ち上がった。


「念のため言っておくけど、今日はもう走らないでね。冷やして安静」


「……はい」


 朝倉先生が紙カップを置いた。


「あと」


 テントの外を見た。スマホを構えていた生徒たちが視線を逸らして散っていく。散る速度が有罪だ。


「神代さん。テーピングの手際は褒めるけど、次からは私に任せなさい」


「……はい」


 神代さんが素直にうなずいた。自覚があるのだろう。だが、うつむいたまま小さく付け加えた。


「でも、湊くんが怪我したら、やっぱり走っちゃうと思います♡」


 朝倉先生が目を閉じた。長い三秒。教育者としての正論と、この人にしか出せない言葉の間で何かを飲み込んだ顔。


「……知ってるわよ」


 それだけ言って、コーヒーの最後の一口を飲み干した。


 ◇


 閉会式が始まった。


 パイプ椅子に座ったまま、テントの下からグラウンドを眺めている。全校生徒が整列している。校長の話、成績発表、表彰。


 二年三組は総合三位。リレー二位が効いた。騎馬戦は途中退場だが、チームとしての結果は悪くない。


 隣に神代さんが座っている。救護テント担当だからここにいること自体は正当だ。だが閉会式中にテントに残る理由は「患者がいるから」しかない。患者は俺だ。


「痛くない?」


「……大丈夫」


 神代さんが身を乗り出して、テーピングの状態を確認した。指先が足首の上をなぞる。


「帰り、荷物持つよ?」


「……いい」


 神代さんの眉が寄った。


「遠慮しないで」


 遠慮ではない。自立の問題だ。「学年の女神に荷物を持たせる怪我人」という構図は、俺の社会的立場をさらに複雑にする。


 閉会式が終わった。生徒が散っていく。


 八代が走ってきた。


「黒瀬、足どうだ」


「……歩ける」


 八代の目が俺の足首に落ちた。白いテーピングを見て口角が上がった。


「テーピング、神代さんがやったんだろ?」


 もう知っているのか。情報伝達速度が光の速度を超えている。


 八代が腕を組んだ。何かを考える顔。


「お前、ちょっとまずいことになってるぞ」


「……何が」


 八代がスマホを取り出した。画面を一度確認してから、こちらに向けた。


「さっきの救護テントの件。写真撮ったやつがいる。もうクラスLINEに上がってた」


 早い。閉会式の間に拡散が完了している。デジタル社会の伝播速度を人類は制御できていない。


「何枚くらい」


「三枚見た。角度が違うから別人が撮ってる」


 八代がスマホの画面を見せた。クラスLINEのスクリーンショット。


 写真が表示されている。


 救護テントの中。パイプ椅子に座った俺。その前に膝をつく神代さん。テーピングを巻く手元。角度のせいで、足首というより──太腿の上に見えなくもない。


 膝枕だ。


 この写真は、テーピングの文脈を知らない人間が見れば、膝枕にしか見えない。レンズの焦点距離と被写体の位置関係が最悪の光学的誤解を生んでいる。写真は一瞬を切り取る。切り取られた一瞬は、最も刺激的な解釈を呼ぶ。


「……膝枕じゃない」


 八代が両手を広げた。


「お前に言われなくてもわかるよ。でも見る側はそう見るだろ。──もう一年のLINEにも回ってるらしいぞ」


 一年。学年の壁を突破した。体育祭という全校イベントの日に、写真という物的証拠が全校に出回る。噂は口伝えだと減衰するが、画像データは劣化しない。原本が無限に複製される。核拡散と同じだ。一度広がったものは回収できない。


「おめでとう。お前と神代さん、全校公認カップルだ」


「おめでたくない」


 八代が肩をすくめた。悪びれない笑顔。


「俺はおめでたいと思うけどな。──ま、月曜の教室、覚悟しとけ」


 肩を叩いて去った。月曜日。あと二日。猶予があっても対策がない。


 ◇


 校門を出た。


 夕方六時。十月の空はもう暗い。体育祭の片付けが終わり、生徒がまばらに帰っていく。


 隣に神代さんがいた。俺の鞄を持っている。いつの間にか取られた。拒否したはずだが、気づいたら両方の鞄が彼女の手にあった。スリの逆だ。奪うのではなく与える方向の窃盗。


「……返せ」


「怪我してる人には持たせないの」


 鞄を取り返そうと手を伸ばしたが、神代さんが体をひねって避けた。


「片足怪我してるなら両手空けた方がいいよ。バランス取りやすいでしょ」


 論理的だ。反論できない。整形外科医の娘は歩行バランスまで考慮する。


 並んで歩いている。先週もそうだった。校門から交差点まで十五分。今日は片足を引きずっているから二十分かかるかもしれない。


「……遅くて悪い」


「ゆっくりでいいよ。急がないから」


 通学路に街灯が点き始めている。俺たちの後ろを歩く人影が、たぶんこちらを見ている。足を引きずる男と鞄を二つ持つ女。


 どこからどう見ても、怪我した彼氏を支える彼女だ。否定する気力がもうない。


「湊くん」


「……なんだ」


 神代さんが空を見上げた。最初の星が東の空に一つ光っている。


「体育祭、お疲れさま」


「……うん。澪も」


 名前で呼んだ。先週、校門で別れ際に口をついた呼び方。あのときは「言い間違い」として処理した。今日は自然に出た。訂正しなかった。


 神代さんが一瞬、歩みを遅くした。それから何も言わずに微笑んだ。先週のように「今、澪って言った?」とは聞かない。黙って受け入れた。


 それが嬉しかった。──嬉しいのか、これは。たぶん、嬉しい。


 交差点が見えてきた。ここで道が分かれる。


「はい、鞄」


 受け取った。肩にかける。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 神代さんが鞄の紐を整えながら、少し心配そうな顔をした。


「お風呂上がったら冷やしてね。湿布あるなら貼って」


「……わかった」


 神代さんがうなずいた。それから、少しだけ声のトーンを落とした。


「月曜日、まだ痛かったら保健室来てね♡」


 保健室。あの場所が、また待っている。


「じゃあね、湊くん」


 言葉を切って、少し間を置いた。夕闇の中で街灯がオレンジ色に点灯している。


「楽しかった。体育祭♡」


 笑って、手を振って、左に曲がっていった。背筋がまっすぐで、鞄を一つだけ持って、夕闇の中を歩いていく。


 俺は右に曲がった。足を引きずりながら。


 テーピングは優秀だが万能ではない。歩くたびに軽い痛みが走る。だが痛みの中に別の信号が混じっている。足首と胸が同時に響いている。片方は物理で、もう片方は名前がつかない。


 スマホが鳴った。八代。


『お疲れ。写真のヤツ、三年にも回ってるらしい。全校制覇おめでとう』


 三年。全学年に拡散した。体育祭という全校イベントの日に、全校規模の証拠写真が全校に出回る。完璧な拡散条件だ。


 もう一通。


『月曜、覚悟な。テーピングの写真マジで膝枕に見えるから。お前の名誉のために説明しとこうか?』


 八代の「説明」は「創作」と同義だ。情報のインフレーションに歯止めがきかない男に弁護を任せたら、テーピングが膝枕になり、膝枕が添い寝になる。


 返信した。「何もするな」。送信。


 家が見えてきた。玄関の明かり。母親が「おかえり」と言うだろう。「足どうしたの」と聞かれるだろう。テーピングを見て「上手に巻いたわね、誰がやったの」と──。


 その質問には、なんと答えればいい。


 門を開けた。


 体育祭が終わった。リレーを走った。騎馬戦で怪我をした。テーピングを巻いてもらった。写真が出回った。全部、保健室の外で起きたことだ。


 保健室の壁がなくても、あの人は走ってくる。膝をついてテーピングを巻く。鞄を持って一緒に帰る。


 保健室の中だけの関係だと、いつまで言い張れるのか。


 たぶん──もう言い張れない。


 月曜日が来る。写真が待っている。教室が待っている。


 だが、交差点で別れたとき、あの人は「楽しかった」と言った。怪我をして、写真を撮られて、噂がさらに広がった一日の終わりに、「楽しかった」と。


 俺は──楽しかったかは、わからない。


 足が痛い。恥ずかしかった。注目されて消えたかった。


 でも。


 テーピングを巻く指の冷たさを、まだ覚えている。「気にしないで、今はこっちが大事」という声を、まだ覚えている。


 楽しかったかは、わからない。


 でも、嫌ではなかった。それだけは確かだ。

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