【第17話】体育祭当日・前半──応援席の女神
【第17話】体育祭当日・前半──応援席の女神
体育祭の朝は、快晴だった。
十月の空に雲がない。日差しが痛いほど直線的で、グラウンドの土が白く乾いている。絶好の体育祭日和。走る側としては暑すぎる気もするが、天気に文句をつけてもスケジュールは変わらない。
体操服に着替えた。白のTシャツにクラスカラーのゼッケン。二年三組は青。背中に「27 黒瀬」と書いてある。出席番号が背中に貼りつく感覚は、どこか囚人番号に似ている。
グラウンドに出た。全校生徒が集まっている。入場行進の隊列が学年ごとに並んでいる。声、笛、拡声器、ブラスバンドの練習音。音の密度が教室の五倍はある。コミュ障の俺にとって、これは戦場だ。サバンナのど真ん中に放り出されたインドア派の心境。
八代が隣に並んだ。同じ青ゼッケン。
「おい黒瀬、顔死んでるぞ」
「……生まれつきだ」
八代が肘で小突いてきた。
「嘘つけ。緊張してんだろ」
緊張している。リレーの第三走者。走ること自体は問題ない。足は速くもなく遅くもない。問題は人の視線だ。全校生徒の前で走る。注目される。普段、教室の隅で呼吸を最小限にしている人間が、衆目の中を全力疾走する。異常事態だ。
「……走るだけだろ。走ればいい」
「そうそう。走ればいい。──で、お前のことだから気づいてないだろうけど」
八代が顎でグラウンドの向こう側を指した。
「あっちの応援席、見てみろ」
見た。
二年四組の応援席。青ではなく赤のゼッケンの集団。別クラスの区域。俺の視界には赤い点の群れにしか見えない。
その中に、一点。
黒髪が風に揺れている。赤いゼッケンの上に、見覚えのある姿勢の良さ。周囲の生徒と話しながら、こちらの方を──。
目が合った。
正確には、合った気がした。五十メートルの距離で目が合うことは物理的に可能なのか。虹彩の反射光の角度が偶然一致しただけかもしれない。だが、相手が手を振った。小さく。控えめに。片手を胸の高さまで上げて、指先をひらひら。
俺に向けた合図だ。
「……」
「見えたか? あいつ、さっきからずっとお前の方見てるぞ」
八代が笑っている。入場行進の整列中に、情報を収集している。ジャーナリストの本能が体育祭でも発動している。
「……たまたまだろ」
「たまたま五十メートル先のお前を見つけてたまたま手を振る。すげえ偶然だな」
反論しなかった。できなかった。
◇
午前の部が始まった。
最初の種目は百メートル走。俺は出場しない。応援席で座っているだけだ。
座っているだけなのに、落ち着かない。リレーは午前の最後の種目。あと二時間ほど。二時間の猶予が長いのか短いのか判断がつかない。死刑囚の最後の朝食のような時間感覚。比喩が物騒だ。
二人三脚、玉入れ、綱引き。種目が進む。俺のクラスは綱引きで二回勝った。クラスが盛り上がっている。俺はその盛り上がりの末席で、拍手だけしている。拍手は声を出さなくていい。コミュ障に優しい応援方法だ。
十時半。
騎馬戦が始まった。男子の種目。俺はこれにも出ない。出場種目がリレーだけなのは、クラス委員の温情か、あるいは俺の体育の成績を鑑みた合理的判断か。
騎馬戦のフィールドを見ている。帽子を奪い合う男子たちの雄叫び。審判の笛。倒れる騎馬。巻き上がる砂埃。原始的なスポーツだ。文明社会がなぜこの競技を学校行事に組み込んだのか理解に苦しむ。
──と。
騎馬戦のフィールドの向こう側に、救護テントが見えた。白いテントの下に、パイプ椅子と救急箱。朝倉先生が座っている。
その隣に。
神代澪がいた。
救護テント担当。先週言っていた通りだ。白衣は着ていないが、腕章をつけている。保健委員の腕章。救護係としてテントに詰めている。
朝倉先生と並んで座っている横顔が、保健室の延長のように見える。場所がグラウンドに移っただけで、あの人が医療系の椅子に座っている光景は変わらない。
神代さんがこちらに気づいた。
手を振った。今度は先ほどより少し大きく。朝倉先生がその隣で、コーヒーの紙カップを口に当てたまま、こちらを見た。見たが、何も言わなかった。言わないが、目が「あんたたち体育祭でもそれか」と語っている。
「黒瀬、救護テント見てニヤけるな。変態に見えるぞ」
八代が背後から声をかけてきた。こいつは人の視線を監視する仕事に就くべきだ。
「ニヤけてない」
「はいはい。──あ、そろそろリレーだぞ。準備しとけよ」
◇
クラス対抗リレー。午前の部の最終種目。
各クラス六人の走者が、一人二百メートルを走る。合計千二百メートル。第三走者の俺は六百メートル地点から走り出す。
バトンゾーンで待機している。前の走者──隣の席の田中が、第二コーナーを回ってくるのが見える。順位は三位。悪くない。トップとの差は五メートルほど。挽回可能な距離。
心臓がうるさい。心拍数がリレー前にリレーを走っている。体力の先払い。開始前にスタミナを消費するな。
グラウンドの向こうから、声が聞こえた。
「湊くん、頑張れーっ!」
甘い声ではなかった。叫びだった。腹から出した声。日頃の甘い呼びかけの三倍の音量。四組の応援席ではなく、なぜか二年三組の応援席のすぐ横のフェンス際から、黒髪の女子が身を乗り出して叫んでいる。
──どこから来た。
救護テントにいたはずだ。朝倉先生の隣に座っていたはずだ。いつの間にフェンス際に移動した。瞬間移動か。テレポーテーション能力の持ち主か。
周囲がざわついた。
三組の応援席にいた生徒が一斉に振り返った。四組の女子が応援席の端からフェンスを握って叫んでいる。異常事態だ。別クラスの人間が、別クラスの応援区域まで来て、特定の個人の名前を叫んでいる。
「黒瀬の彼女じゃん」
誰かが言った。聞こえた。聞こえなければよかった。
「頑張ってーっ!」
もう一声。追加砲撃。俺のメンタルが着弾地点で炎上している。頼むから静かにしてくれ。いや、ありがたいのか。応援されて嬉しいのか。わからない。わからないまま、バトンが近づいてくる。
田中が走ってきた。バトンを差し出す右手が見える。
受け取った。金属のバトンが掌に冷たい。
走った。
二百メートル。コーナーを二つ回るトラック半周。足が地面を蹴る。腕を振る。風が顔に当たる。
走りながら思った。コミュ障で教室の隅にいて、保健室に逃げ込んでいた人間が、全校生徒の前を走っている。しかもその人間の名前を、学年一の美少女が全力で叫んでいる。一年前の自分に言っても信じないだろう。
コーナーを回った。フェンス際を通過する。視界の端に、黒髪が映った。こちらを見ている。両手をグーにして、胸の前で握っている。祈るような姿勢。
俺の足が少し速くなった。気のせいかもしれない。アドレナリンのせいかもしれない。フェンス際の人影のせいかもしれない。因果関係は不明だ。
第四走者にバトンを渡した。順位は二位に上がっていた。
走り終えた直後、膝に手をついて息を整えた。肺が酸素を求めている。二百メートルの全力疾走。普段運動しない人間にとっては短距離でも致命的だ。
「黒瀬ーっ、ナイスラン!」
八代が走ってきた。肩を叩かれた。こいつは第一走者で走り終えている。
「お前、三位から二位に上げたじゃん。すげえ」
「……たまたまだ」
八代がペットボトルの蓋を開けながら、にやりと笑った。
「たまたまね。……彼女の応援で速くなるタイプだろ、お前」
否定できなかった。否定できない事案が多すぎる。
リレーの結果、二年三組は二位でフィニッシュした。クラスが湧いた。俺は端っこで拍手だけしていた。だが、何人かのクラスメイトが「黒瀬が順位上げた」と言ってくれた。人生で初めて、体育の場面で肯定的な評価を受けた。
──体育祭、悪くないかもしれない。
その感想が浮かんだこと自体が、一年前とは違う。
◇
昼休み。
午前の部が終わり、各クラスで弁当の時間。
だが俺の弁当は保健室──ではなく、救護テントにある。正確に言えば、救護テントに弁当を持った人間がいる。
八代に「飯食ってくる」とだけ告げて、救護テントに向かった。
「どこ行くか聞かないぞ。知ってるから」
八代の声を背中に受けながら歩いた。
救護テントは午前中に軽い擦り傷の処置が二件あっただけで、今は閑散としている。パイプ椅子が四つ。救急箱。クーラーボックス。ビニールシートの上に朝倉先生が座って、弁当を食べている。
その隣で、神代さんが弁当箱を広げていた。二つ。
「湊くん、お疲れさま♡」
声のトーンが保健室モードに戻っている。さっきの全力応援の声とは別人のようだ。さっきの声はスタジアムのアナウンサー。今の声はFMラジオの深夜枠。同一人物とは思えない音域の幅。
「……おう」
「リレー、かっこよかった♡」
弁当箱を受け取りながら首を振った。
「……別にかっこよくは」
神代さんが箸を止めて、こちらをまっすぐ見た。
「かっこよかったよ。二位に上げたんでしょ? 見てたもん」
見てた。フェンス際で見てた。両手をグーにして。
弁当箱の蓋を開けた。今日はおにぎりと卵焼きとウインナー。運動会の弁当の定番ラインナップだ。行楽弁当の模範解答。ウインナーにタコの切り込みが入っている。タコさんウインナー。小学生の遠足か。
「……タコ」
「かわいいでしょ♡」
かわいい。かわいいが、高校二年男子の弁当にタコさんウインナーが入っていることを周囲に知られたら、社会的な何かが死ぬ。
朝倉先生がおにぎりを噛みながら、ちらりとこちらを見た。
「……体育祭の救護テントで弁当デート。新しいわね」
「デートじゃないです」
横から、柔らかい声が被せてきた。
「デートじゃないですよ♡」
神代さんが俺と同じ台詞を言った。だが語尾にハートがついている。否定しながら肯定を付与するな。
朝倉先生がため息をついた。紙カップの麦茶を飲む。
「午後の種目、何があるの?」
「……俺はもう出番ない」
朝倉先生がうなずいた。クーラーボックスから紙コップの麦茶を注ぎ足す。
「そう。じゃあ怪我しないでね。ここに来る用事がないのが一番いいから」
朝倉先生の言葉は淡々としている。だが、養護教諭としてはそれが正しい。救護テントに世話になるのは本来好ましくない。
弁当を食べた。おにぎりの中身は鮭と昆布。卵焼きは甘い味つけ。外で食べる弁当はなぜか三割増しでうまい。開放的な空気のせいか、午前中の運動で消耗したせいか。
「……うまい」
「やった♡」
いつものやり取り。場所が保健室から救護テントに変わっただけ。消毒液の匂いがグラウンドの土埃に置き換わっただけ。
ふと気がついた。俺たちは今、保健室の外にいる。校門で一緒に帰った日もそうだった。教室に差し入れが来た日もそうだった。保健室という箱の外で、同じことをしている。弁当を食べて、「うまい」と言って、笑顔が返ってくる。
箱がなくても、中身は変わらない。
「ねえ湊くん、午後も応援席にいていい?」
「……俺の出番ないって言ったろ」
神代さんが首を横に傾けた。迷いのない瞳。
「出番なくても。湊くんのクラスの応援するの♡」
俺のクラスの応援。「湊くんの」が「クラスの」にかかっている。クラスの応援が目的なのか、「湊くんの」が目的なのか。日本語の係り受けが曖昧だ。だが、たぶん後者だ。
「……好きにすれば」
「好きにする♡」
即答。
昼休みの終わりを告げる放送が鳴った。午後の部が始まる。
◇
午後の最初の種目は、応援合戦。各クラスが横断幕を掲げて、応援パフォーマンスを行う。
俺が下書き線を引いた横断幕が、グラウンドの風に揺れている。「燃えろ二年三組」の文字。炎のイラスト。あの直線は俺が引いた。──だから何だと言われればそれまでだが、自分の手が関わったものが公衆の目に触れるのは、悪くない感覚だ。
応援席に座っている。隣に八代。
「なあ黒瀬」
「……なんだ」
八代がグラウンドに目を向けたまま、妙に楽しそうな声を出した。
「さっき、お前がリレー走ったとき。神代さんがフェンスに張り付いて応援してたじゃん」
「……知ってる」
八代が指を一本立てた。人差し指。何かを告発する検察官のポーズ。
「あれ、他クラスの一年から聞かれたぞ。"あの子、黒瀬先輩の彼女ですか?"って」
先輩。一年生に先輩呼ばわりされている。噂が学年の壁を完全に突破した。八代のLINEの通り。
「……何て答えた」
聞いてしまった。聞くべきではなかったかもしれない。
八代が歯を見せて笑った。
「"そうだよ"って言った」
「おい」
八代が両手を広げた。悪気ゼロの顔。この男は善意で人を殺すタイプだ。
「だって否定する方が不自然だろ。あの応援見てさ」
反論できない。あの応援を見て「友達です」は通らない。物理的に声帯を震わせて言えたとしても、音の意味が空気中で蒸発する。
「まあ、お前がなんて言おうと、もうこの学校で"黒瀬と神代は付き合ってない"って信じてるやつ、ゼロだと思うぞ」
ゼロ。もはや少数派ですらない。絶滅種だ。「黒瀬湊と神代澪は付き合っていない」という説は、この学校においてフラットアースと同程度の信憑性しか持たない。
「……うるさい」
「はいはい。──あ、午後の種目始まるぞ」
応援合戦が終わり、午後の競技が進行していく。障害物走、大縄跳び。二年三組は大縄跳びで学年トップの記録を出した。八代が飛び上がって喜んでいる。
俺は応援席の端で、午後の日差しに目を細めている。出番のない体育祭は、観客席の映画鑑賞に近い。スクリーンの中で人が動いている。自分はその外側にいる。
だが完全に外側ではない。横断幕に自分の線がある。リレーで順位を上げた。クラスの一部として、歯車の一つとして、微かに噛み合っている。
フェンスの向こうに、赤いゼッケンが見えた。救護テントに戻った神代さんが、椅子に座ってこちらを見ている。目が合った。片手を振った。俺は──。
手を振り返した。
小さく。ほとんど指先だけの動き。八代に見つかったら一生からかわれる。だが、振った。振り返した。
午後の日差しが白い。グラウンドの土が風で舞う。
種目が進む。残りは男女混合騎馬戦と、閉会式のみ。
男女混合騎馬戦。午後の最終種目。二年生全クラスによるトーナメント。俺はこの種目にエントリーされていない──はずだった。
「おい黒瀬」
八代が走ってきた。顔が真剣だ。
「松井が足つった。お前、騎馬戦出てくれ。騎馬の前脚」
「……は?」
八代が両手を合わせた。拝み倒しの姿勢。こいつの真剣な顔は年に三回くらいしか見ない。
「頼む。人数合わないんだ」
松井。クラスの体育委員。足がつったのは大縄跳びの後だろう。人数が足りなければ、出場者を補充するしかない。
「……俺、騎馬戦やったことない」
「前脚は支えるだけだ。特に技術はいらない。走るより簡単だろ」
簡単ではない。騎馬戦は接触競技だ。押される。引っ張られる。倒れる可能性がある。
だが八代の目が切実だった。クラスのためだ。さっきリレーで順位を上げたのが「クラスの役に立つ」という体験を与えてしまった。断る理由が見つからない。
「…………わかった」
「サンキュー! じゃあ行くぞ、すぐだ」
引っ張られるようにグラウンドの中央へ向かう。
騎馬を組んだ。前脚の俺、後ろ脚が八代、もう一人が横。上に乗るのはクラスの女子。帽子取り合戦。他の騎馬から帽子を奪い、自分の帽子を守る。
審判の笛が鳴った。
グラウンドが動き出す。砂埃と歓声の壁。視界が狭い。前脚の姿勢では前方しか見えない。八代が後ろから「右行け!」「左!」と指示を飛ばす。
他クラスの騎馬が突っ込んでくる。衝突。肩がぶつかる。足が踏ん張る。体重がかかる。上に乗っている女子が帽子を守りながら手を伸ばす。
混戦。
右から別の騎馬が接近してきた。避けようとした。足元の地面が──砂が、滑った。
バランスが崩れた。
体が傾く。立て直そうとする。だが騎馬の重心が戻らない。上の人間を落とすわけにはいかない。踏ん張る。
右足が変な方向に曲がった。
痛みが走った。足首。捻った。
騎馬が崩れた。上の女子を八代が受け止める。俺はそのまま地面に手をついた。砂が掌に刺さる。
「黒瀬! 大丈夫か!」
八代の声が近い。
「……足」
右足首。力が入らない。立ち上がろうとしたが、体重をかけた瞬間、電気のような痛みが走った。
捻挫だ。たぶん。
審判が近づいてきた。笛を吹く。退場の指示。
「救護テント行け。立てるか?」
「……立てる」
立てなかった。八代に肩を借りて、グラウンドの端に向かう。
救護テントが見える。白いテントの下で、朝倉先生が立ち上がった。
その隣で──。
神代さんが、もう走り出していた。




