【第16話】体育祭準備──「一緒に帰ろ♡」の意味
【第16話】体育祭準備──「一緒に帰ろ♡」の意味
体育祭の準備期間が始まった。
中間テストの余韻が消える前に、次の波が来る。学校行事は連鎖反応だ。一つの核分裂が終わるより先に、次のウランが臨界に達する。教室の掲示板にはテスト範囲表と入れ替わりで、体育祭のクラス対抗種目表が貼り出された。
クラスの出し物。応援合戦。リレー。二人三脚。騎馬戦。
俺の名前は「クラス対抗リレー・第三走者」の欄に入っている。誰が俺をエントリーしたのか。クラス委員の采配か、あるいは「足だけは普通に速い」という認識が出席番号順の名簿を通過したのか。
問題は、準備期間中は放課後の作業が義務化されることだ。
応援用の横断幕を作る。飾りつけの材料を切る。当日の段取りを確認する。これらはすべて放課後に行われる。つまり、保健室に行く時間がない。
保健室に行けない放課後。これが何を意味するか。弁当の時間は昼休みだから変わらない。だが放課後の読書タイムが消滅する。あの静寂が消える。
──いや、それより。
神代さんに会えない時間が増える。
その事実を「問題」と認識している自分に気づいて、少し狼狽えた。いつから保健室の価値を「神代さんがいること」で計算するようになったのか。一ヶ月前の俺なら、保健室の価値は「静けさ」と「一人の時間」だった。
変数が入れ替わっている。方程式の主項が、いつの間にか。
◇
月曜日。放課後。教室。
横断幕の制作が始まった。模造紙四枚を繋げて、クラスのスローガンを書く。スローガンは「燃えろ二年三組」。燃えたくない。個人的には消火活動に徹したい。
俺の担当は、模造紙に下書き線を引く作業だ。定規と鉛筆。地味な仕事だが、人と話す必要がないという点で最適配置だ。誰かが気を利かせてくれたのか、単に残り物がこれだったのか。どちらにしても感謝する。
教室の窓際で模造紙を広げている。周囲はクラスメイトが賑やかに作業している。画用紙を切る音、ペンの蓋が外れる音、笑い声。俺はそこから半径三メートルの静寂圏で、黙々と直線を引いている。
四時半。
教室のドアが開いた。
空気が変わった。物理的にではなく、クラスメイトたちの視線の温度が。ドアの方を向いた十数人の目が、一斉に同じ表情になった。「あっ」という表情。
「失礼します」
神代澪が立っていた。
制服は着崩していない。髪はいつも通り整っている。だが、その手には──コンビニの袋がぶら下がっている。透明な袋の中身が見える。ペットボトルの水、スポーツドリンク、栄養バーが三つ。
別クラスの人間が、作業中の教室に入ってくる。しかもコンビニ袋を提げて。意味は一つしかない。差し入れだ。
問題は、誰への差し入れか。
クラス全員がわかっている。
神代さんが教室を横切った。周囲の視線がガラスのショーケースの中の宝石を追うように、その動線を辿る。真っ直ぐ。迷いなく。窓際の、模造紙と定規と鉛筆に囲まれた俺のもとへ。
「湊くん、作業お疲れさま。差し入れ持ってきたよ」
コンビニ袋が俺の机に置かれた。ペットボトルの結露が模造紙に触れかけて、神代さんがさっとずらした。こういう細やかさは相変わらずだ。戦場にケータリングを届ける業者の手際。
「水分ちゃんと摂ってね♡」
教室が静まった。
正確に言えば、会話は続いている。だが音量が半分になった。全員が耳をこちらに向けている。ウサギの群れが天敵の気配を察知したときの、あの全方位警戒態勢。ただし警戒対象は俺と神代さんだ。天敵ではなく見世物。
「……あ、ありがとう」
声が裏返った。裏返り方が甲高い。思春期のボイスクラックが今さら発動するな。
神代さんは教室では「外の顔」のはずだ。だが今の「湊くん」には甘さが混入していた。周波数が保健室寄り。完全に切り替わっていない。いつもは精密機器のように正確なモードチェンジが、今日は境界線がぼやけている。
あるいは、意図的に境界線を消しているのか。
「栄養バー、チョコ味にしたの。湊くんチョコ好きでしょ?」
好きだ。好きだが、今この教室で「チョコ好き」を確認されると、個人情報が公開処刑されている感覚になる。俺の嗜好品データが傍聴席に筒抜けだ。
教室の反対側で、八代が両手で顔を覆っている。笑いをこらえている。こらえきれていない。肩が震えている。
「ほかのみなさんも、頑張ってくださいね」
神代さんがクラス全体に向かって微笑んだ。外の顔。完璧な笑顔。「ほかのみなさん」。つまり俺は「ほか」ではない。分類上、俺だけが別カテゴリに属している。
「……もう帰っていいぞ」
小声で言った。頼むから帰ってくれ。この教室に一秒いるごとに、俺の社会的体力が削られている。
「うん、じゃあまたね♡」
手を振って去っていく。ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
三秒の沈黙。
教室が爆発した。
「黒瀬ーっ!」
男子が叫んだ。名前を呼ばれただけだが、その声量と音圧は甲子園のスタンドに匹敵する。
「いやー、神代さんがわざわざ差し入れとか!」
「チョコ好きなの知ってんだ。もう完全に把握済みじゃん」
女子が頬を染めて囁き合っている。
「水分摂ってね、だって。お母さんかよ。いや、お母さんより甘いわ」
俺は模造紙に顔を伏せた。下書き線がまだ三本目だ。定規が手の中で震えている。線が引けない。直線が曲がる。心拍数が直線を歪ませている。
八代が歩いてきた。俺の隣にしゃがむ。
「黒瀬」
「……なんだ」
八代が腕を組んだ。珍しく真面目な顔をしている。
「お前、まだ付き合ってないは無理があるぞ」
知っている。無理がある。だが事実として付き合っていない。事実と外見の乖離が拡大する一方だ。
「……差し入れくらい普通だろ」
「普通の差し入れは"クラスに"持ってくるんだよ。"個人に"持ってくるのは普通じゃない」
反論できなかった。
八代が立ち上がりながら、ペットボトルの水を一本取った。
「一本もらうな」
「俺のだぞ」
八代がペットボトルのラベルを指で弾いた。
「神代さんが"ほかのみなさんも"って言ったろ。俺も"みなさん"だ」
屁理屈だが、取り返す気力がない。スポーツドリンクは死守した。
◇
火曜日、水曜日と放課後の作業が続いた。
横断幕は完成に近づいている。俺の下書き線の上に、絵の上手い女子が「燃えろ二年三組」と力強い文字を書き入れた。炎のイラストつき。クオリティが高い。俺の下書き線が報われた気がする。
神代さんは火曜日にも差し入れを持ってきた。今度は紙パックのジュースと、個包装のクッキーをクラス人数ぶん。「みなさんで食べてください」と全体に配ったが、最初の一つを俺に渡すとき、目が合って、少し笑った。
それだけだ。それだけなのに、八代が「ファーストサーブはお前かよ」と小声で言ってきた。テニスの比喩。打ち返す方法がわからない。
水曜日には差し入れはなかった。だがクラスの女子が「今日は神代さん来ないの?」と俺に聞いてきた。俺が神代さんの行動を管理しているわけではない。秘書でも代理人でもない。
「……知らない」
「えー、彼女の予定把握してないの?」
彼女ではない。その説明を何百回繰り返せば浸透するのか。地層に化石が堆積するより遅い。
◇
木曜日。放課後。
作業が終わった。今日は早かった。リレーの走順確認と、当日のシフト表の配布だけ。五時前には解散。
久しぶりに保健室に寄れる。
そう思って廊下に出た。足が保健室に向かう。条件反射だ。パブロフの犬が鐘の音で唾液を出すように、放課後の自由時間で足が保健室に向く。
保健室のドアを開けた。
誰もいない。
朝倉先生はいる。デスクでペンを回している。暇そうだ。
「あら、珍しい。最近来なかったじゃない」
「……作業で」
朝倉先生が椅子を回してこちらを向いた。
「知ってるわよ。体育祭準備でしょう」
朝倉先生がコーヒーカップに口をつけた。
「神代さんなら、今日は生徒会の打ち合わせだって」
聞いていない。聞いていないが、朝倉先生は俺が何を確認しに来たか理解している。透視能力者か。いや、単純に観察力だ。
「……別に、神代さんに用があるわけじゃ」
「はいはい」
流された。朝倉先生の「はいはい」は「嘘つきなさい」の同義語だ。
保健室に少しだけ座った。窓際の椅子。いつもの位置。向かいの椅子は空いている。空いているだけだ。誰もいない。
文庫本を開いた。読めた。読めるが、静かすぎる。
一ヶ月前、この静けさが好きだった。誰もいない保健室。一人の時間。本だけがある空間。今もこの静けさは嫌いではない。嫌いではないが、「物足りない」が追加された。感情のプルダウンメニューに新しい選択肢が増えている。
三十分で保健室を出た。いつもなら一時間はいる。短い。短い理由を分析すると不都合な結論が出そうなので、分析しない。
◇
校門を出た。
夕方五時半。十月の日没が早い。空がオレンジと紺色の境目にある。通学路に生徒の影がまばらに散っている。
校門の柱に、人が立っていた。
壁に背中を預けて、スマホを見ている。黒髪が夕日に透けて、少しだけ茶色に光っている。制服のスカートが風で揺れた。
神代澪。
生徒会の打ち合わせは終わったらしい。だが、なぜ校門に。帰るならとっくに帰っているはずの時間だ。
俺に気づいた。スマホをしまった。背中が壁から離れた。
「湊くん」
笑顔。夕日の中で笑っている。外の顔に近いが、目元だけが保健室の温度をしている。中間の表情。どちらでもない。あるいは、どちらでもある。
「……なんでいるんだ」
「待ってた」
待っていた。俺を。校門で。作業が終わるのを。
「……いつから」
「十分くらい前かな」
十分。十分間、校門の柱に背中を預けて、俺が出てくるのを待っていた。その間にスマホを見ていたのだろう。十分は長い。十分は短い。どちらにしても、「待つ」という行為に込められた意味が重い。
「一緒に帰ろ♡」
来た。
この台詞。この五文字。夕日の校門で。待ち伏せて。
ドラマなら挿入歌が流れるシーンだ。現実にはBGMがない。代わりに、遠くで野球部のノック音が鳴っている。カキン、カキン。情緒のかけらもない伴奏。
「……一緒に、って」
「帰る方向、同じでしょ? 途中まで」
同じだ。途中の交差点まで。十五分くらいの距離。歩いて十五分。並んで十五分。
「……まあ」
断る理由がない。断る語彙もない。断りたくもない。三つの不在が、一つの行動を決定した。
並んで歩き始めた。
校門を出て、歩道に出る。横並び。肩の間隔は三十センチくらい。保健室での距離よりは広い。だが、校門の前を通り過ぎる生徒たちの視界には、「二人で帰る男女」として映っている。
振り返った。
後ろを歩いていた女子のグループが、こちらを見て目をそらした。目をそらす速度が有罪。明らかに見ていた。
「……見られてる」
「そうかな?」
神代さんは気にしていない。あるいは気にしているが、気にしていないふりをしている。どちらにしても、足は止まらない。
「湊くん、今日の作業どうだった?」
「……横断幕、だいたい終わった」
神代さんが少し首を傾けた。興味深そうな目。
「すごいね。何を描いたの?」
「俺は下書き線だけ。……絵は別の人」
謙遜ではない。事実だ。だが神代さんは足を止めずに言った。
「下書きも大事だよ。土台がしっかりしてないと崩れるもん」
フォローが丁寧だ。下書き線を褒められる経験が人生で初めてだ。
「澪は? 生徒会の方は」
名前を呼んだ。
──いや待て。今、名前で呼んだか。「澪」と。口が滑った。保健室の外で名前を呼んだのは──初めてではないか。
神代さんが足を止めた。半歩。ほんの一瞬だけ。
「……今、澪って言った?」
「言ってない」
嘘だ。言った。言ったが、認めたら終わりだ。
「言った♡」
「言ってない。神代さんって言った」
神代さんの足が半歩遅れた。振り返ってこちらを見ている。
「聞こえたよ。澪って♡」
聞こえている。聞こえているなら否定しても無意味だ。音は発した瞬間に証拠になる。録音機器がなくても、相手の鼓膜に記録されている。
「……言い間違い」
「言い間違い、ね」
神代さんの──澪の唇が弧を描いた。満足そうな笑み。何かを勝ち取った人間の表情。
「いいよ、言い間違いでも。──嬉しかったから♡」
心臓が跳ねた。跳ねるだけでは足りず、回転した。体操選手のような回転。着地が安定しない。
歩きを再開した。足が微妙にもつれる。歩道の平坦な地面につまずきそうになる。二足歩行が崩壊しかけている。人類が四百万年かけて獲得した直立歩行の技術が、一つの笑顔で危機に瀕している。
「生徒会の方はね、当日のシフトを決めてたの。私、救護テント担当になったよ」
「……救護テント」
聞き返した。神代さんがうなずく。
「うん。保健室の出張版みたいなもの。朝倉先生と一緒に」
救護テント。体育祭当日、グラウンドの隅に設置される白いテント。怪我人の応急処置を行う場所。保健委員と養護教諭が詰めている。
神代さんがそこにいる。つまり、体育祭当日、グラウンドのどこかで彼女に会える可能性がある。怪我をすれば確実に会える。
──怪我をしたいわけではない。断じて。
「湊くんはリレー出るんだよね?」
「……第三走者」
神代さんが微笑んだ。夕暮れの光の中で、目元がやわらかい。
「応援するね」
応援。普通の言葉だ。クラスメイトの競技を応援する。普通だ。だが、その「応援」の響きが普通に聞こえない。
「……別にいい」
「別によくないよ。頑張ってほしいもん」
頑張ってほしい。俺に。リレーで。なぜだ。俺が速く走ったところで、この人に何のメリットがある。
交差点が見えてきた。ここで道が分かれる。左に行くと神代さんの家の方角。右に行くと俺の家。十五分間の並走が終わる。
「あ、もうここだね」
神代さんが立ち止まった。交差点の信号が赤に変わる。夕日が建物の影に隠れて、空が紺色に傾いている。
「今日は一緒に帰れてよかった♡」
「……うん」
うん。一文字。だが、嘘ではない。
「じゃあね、湊くん。明日も頑張ろうね」
「……ああ」
手を振って、左に歩いていく。振り返らない。背中がまっすぐだ。夕暮れの通学路を、一人で歩いていく。
俺はしばらくその背中を見ていた。見ていたことに気づいて、前を向いた。右に曲がる。
帰り道。
十五分間を反芻している。差し入れのこと。教室の反応のこと。校門で待っていたこと。「一緒に帰ろ」。名前の呼び間違い。笑顔。「嬉しかったから」。
保健室の外だった。
全部、保健室の外で起きたことだ。教室。校門。通学路。保健室のドアの中では起きなかった。
一ヶ月前、俺と神代さんの接点は保健室だけだった。保健室というガラスの容器に入った関係。外に出れば蒸発するはずの、温室の植物のような。
それが、外に出始めている。
テスト期間に勉強を教えてもらった。教室で差し入れをもらった。校門で待ち合わせて一緒に帰った。保健室の壁を越えて、この関係が歩道の上を歩いている。
たぶん、周囲はとっくに気づいている。保健室の中だけの話ではないことに。噂は保健室を起点に広がったが、もはや保健室に限定されていない。教室にも、校門にも、通学路にも、この人の気配がある。
スマホが鳴った。八代からLINE。
『もう隠す気ないだろ、あの二人。てか下級生にも広まってるぞ』
下級生。噂が学年を超えた。二年生の保健室の話が、一年生にまで到達している。情報の伝播速度が光速に近づいている。
返信を打つ。「何の話だ」。送信。既読。即座に返事が来た。
『とぼけんなw 校門で神代さんと一緒に帰ってくとこ、何人に見られたと思ってる?』
何人。数えていない。数えたくもない。
『先輩も「二年の黒瀬と神代って付き合ってんの?」って聞いてきたぞ。学年の壁突破おめでとう』
おめでたくない。
スマホをポケットにしまった。夕暮れの住宅街を歩く。街灯がぽつぽつと点き始めている。
十五分前まで、ここを二人で歩いていた。
今は一人だ。一人なのに、隣の空間が広い。三十センチの間隔が、距離ではなく不在として認識される。
──体育祭が来る。
来週だ。準備期間があと三日。本番は土曜日。グラウンドで、保健室の外で、大勢の前で。救護テントに神代さんがいて、俺はリレーを走る。
応援するね、と言っていた。
その声を思い出しながら、右に曲がった交差点から、家までの道を歩いた。七分間。
七分間、ずっと考えていたのは三角関数でもリレーの走順でもなく、校門に立っていた人の横顔だった。




