表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/40

【第16話】体育祭準備──「一緒に帰ろ♡」の意味

【第16話】体育祭準備──「一緒に帰ろ♡」の意味


 体育祭の準備期間が始まった。


 中間テストの余韻が消える前に、次の波が来る。学校行事は連鎖反応だ。一つの核分裂が終わるより先に、次のウランが臨界に達する。教室の掲示板にはテスト範囲表と入れ替わりで、体育祭のクラス対抗種目表が貼り出された。


 クラスの出し物。応援合戦。リレー。二人三脚。騎馬戦。


 俺の名前は「クラス対抗リレー・第三走者」の欄に入っている。誰が俺をエントリーしたのか。クラス委員の采配か、あるいは「足だけは普通に速い」という認識が出席番号順の名簿を通過したのか。


 問題は、準備期間中は放課後の作業が義務化されることだ。


 応援用の横断幕を作る。飾りつけの材料を切る。当日の段取りを確認する。これらはすべて放課後に行われる。つまり、保健室に行く時間がない。


 保健室に行けない放課後。これが何を意味するか。弁当の時間は昼休みだから変わらない。だが放課後の読書タイムが消滅する。あの静寂が消える。


 ──いや、それより。


 神代さんに会えない時間が増える。


 その事実を「問題」と認識している自分に気づいて、少し狼狽えた。いつから保健室の価値を「神代さんがいること」で計算するようになったのか。一ヶ月前の俺なら、保健室の価値は「静けさ」と「一人の時間」だった。


 変数が入れ替わっている。方程式の主項が、いつの間にか。


 ◇


 月曜日。放課後。教室。


 横断幕の制作が始まった。模造紙四枚を繋げて、クラスのスローガンを書く。スローガンは「燃えろ二年三組」。燃えたくない。個人的には消火活動に徹したい。


 俺の担当は、模造紙に下書き線を引く作業だ。定規と鉛筆。地味な仕事だが、人と話す必要がないという点で最適配置だ。誰かが気を利かせてくれたのか、単に残り物がこれだったのか。どちらにしても感謝する。


 教室の窓際で模造紙を広げている。周囲はクラスメイトが賑やかに作業している。画用紙を切る音、ペンの蓋が外れる音、笑い声。俺はそこから半径三メートルの静寂圏で、黙々と直線を引いている。


 四時半。


 教室のドアが開いた。


 空気が変わった。物理的にではなく、クラスメイトたちの視線の温度が。ドアの方を向いた十数人の目が、一斉に同じ表情になった。「あっ」という表情。


「失礼します」


 神代澪が立っていた。


 制服は着崩していない。髪はいつも通り整っている。だが、その手には──コンビニの袋がぶら下がっている。透明な袋の中身が見える。ペットボトルの水、スポーツドリンク、栄養バーが三つ。


 別クラスの人間が、作業中の教室に入ってくる。しかもコンビニ袋を提げて。意味は一つしかない。差し入れだ。


 問題は、誰への差し入れか。


 クラス全員がわかっている。


 神代さんが教室を横切った。周囲の視線がガラスのショーケースの中の宝石を追うように、その動線を辿る。真っ直ぐ。迷いなく。窓際の、模造紙と定規と鉛筆に囲まれた俺のもとへ。


「湊くん、作業お疲れさま。差し入れ持ってきたよ」


 コンビニ袋が俺の机に置かれた。ペットボトルの結露が模造紙に触れかけて、神代さんがさっとずらした。こういう細やかさは相変わらずだ。戦場にケータリングを届ける業者の手際。


「水分ちゃんと摂ってね♡」


 教室が静まった。


 正確に言えば、会話は続いている。だが音量が半分になった。全員が耳をこちらに向けている。ウサギの群れが天敵の気配を察知したときの、あの全方位警戒態勢。ただし警戒対象は俺と神代さんだ。天敵ではなく見世物。


「……あ、ありがとう」


 声が裏返った。裏返り方が甲高い。思春期のボイスクラックが今さら発動するな。


 神代さんは教室では「外の顔」のはずだ。だが今の「湊くん」には甘さが混入していた。周波数が保健室寄り。完全に切り替わっていない。いつもは精密機器のように正確なモードチェンジが、今日は境界線がぼやけている。


 あるいは、意図的に境界線を消しているのか。


「栄養バー、チョコ味にしたの。湊くんチョコ好きでしょ?」


 好きだ。好きだが、今この教室で「チョコ好き」を確認されると、個人情報が公開処刑されている感覚になる。俺の嗜好品データが傍聴席に筒抜けだ。


 教室の反対側で、八代が両手で顔を覆っている。笑いをこらえている。こらえきれていない。肩が震えている。


「ほかのみなさんも、頑張ってくださいね」


 神代さんがクラス全体に向かって微笑んだ。外の顔。完璧な笑顔。「ほかのみなさん」。つまり俺は「ほか」ではない。分類上、俺だけが別カテゴリに属している。


「……もう帰っていいぞ」


 小声で言った。頼むから帰ってくれ。この教室に一秒いるごとに、俺の社会的体力が削られている。


「うん、じゃあまたね♡」


 手を振って去っていく。ドアが閉まる。足音が遠ざかる。


 三秒の沈黙。


 教室が爆発した。


「黒瀬ーっ!」


 男子が叫んだ。名前を呼ばれただけだが、その声量と音圧は甲子園のスタンドに匹敵する。


「いやー、神代さんがわざわざ差し入れとか!」


「チョコ好きなの知ってんだ。もう完全に把握済みじゃん」


 女子が頬を染めて囁き合っている。


「水分摂ってね、だって。お母さんかよ。いや、お母さんより甘いわ」


 俺は模造紙に顔を伏せた。下書き線がまだ三本目だ。定規が手の中で震えている。線が引けない。直線が曲がる。心拍数が直線を歪ませている。


 八代が歩いてきた。俺の隣にしゃがむ。


「黒瀬」


「……なんだ」


 八代が腕を組んだ。珍しく真面目な顔をしている。


「お前、まだ付き合ってないは無理があるぞ」


 知っている。無理がある。だが事実として付き合っていない。事実と外見の乖離が拡大する一方だ。


「……差し入れくらい普通だろ」


「普通の差し入れは"クラスに"持ってくるんだよ。"個人に"持ってくるのは普通じゃない」


 反論できなかった。


 八代が立ち上がりながら、ペットボトルの水を一本取った。


「一本もらうな」


「俺のだぞ」


 八代がペットボトルのラベルを指で弾いた。


「神代さんが"ほかのみなさんも"って言ったろ。俺も"みなさん"だ」


 屁理屈だが、取り返す気力がない。スポーツドリンクは死守した。


 ◇


 火曜日、水曜日と放課後の作業が続いた。


 横断幕は完成に近づいている。俺の下書き線の上に、絵の上手い女子が「燃えろ二年三組」と力強い文字を書き入れた。炎のイラストつき。クオリティが高い。俺の下書き線が報われた気がする。


 神代さんは火曜日にも差し入れを持ってきた。今度は紙パックのジュースと、個包装のクッキーをクラス人数ぶん。「みなさんで食べてください」と全体に配ったが、最初の一つを俺に渡すとき、目が合って、少し笑った。


 それだけだ。それだけなのに、八代が「ファーストサーブはお前かよ」と小声で言ってきた。テニスの比喩。打ち返す方法がわからない。


 水曜日には差し入れはなかった。だがクラスの女子が「今日は神代さん来ないの?」と俺に聞いてきた。俺が神代さんの行動を管理しているわけではない。秘書でも代理人でもない。


「……知らない」


「えー、彼女の予定把握してないの?」


 彼女ではない。その説明を何百回繰り返せば浸透するのか。地層に化石が堆積するより遅い。


 ◇


 木曜日。放課後。


 作業が終わった。今日は早かった。リレーの走順確認と、当日のシフト表の配布だけ。五時前には解散。


 久しぶりに保健室に寄れる。


 そう思って廊下に出た。足が保健室に向かう。条件反射だ。パブロフの犬が鐘の音で唾液を出すように、放課後の自由時間で足が保健室に向く。


 保健室のドアを開けた。


 誰もいない。


 朝倉先生はいる。デスクでペンを回している。暇そうだ。


「あら、珍しい。最近来なかったじゃない」


「……作業で」


 朝倉先生が椅子を回してこちらを向いた。


「知ってるわよ。体育祭準備でしょう」


 朝倉先生がコーヒーカップに口をつけた。


「神代さんなら、今日は生徒会の打ち合わせだって」


 聞いていない。聞いていないが、朝倉先生は俺が何を確認しに来たか理解している。透視能力者か。いや、単純に観察力だ。


「……別に、神代さんに用があるわけじゃ」


「はいはい」


 流された。朝倉先生の「はいはい」は「嘘つきなさい」の同義語だ。


 保健室に少しだけ座った。窓際の椅子。いつもの位置。向かいの椅子は空いている。空いているだけだ。誰もいない。


 文庫本を開いた。読めた。読めるが、静かすぎる。


 一ヶ月前、この静けさが好きだった。誰もいない保健室。一人の時間。本だけがある空間。今もこの静けさは嫌いではない。嫌いではないが、「物足りない」が追加された。感情のプルダウンメニューに新しい選択肢が増えている。


 三十分で保健室を出た。いつもなら一時間はいる。短い。短い理由を分析すると不都合な結論が出そうなので、分析しない。


 ◇


 校門を出た。


 夕方五時半。十月の日没が早い。空がオレンジと紺色の境目にある。通学路に生徒の影がまばらに散っている。


 校門の柱に、人が立っていた。


 壁に背中を預けて、スマホを見ている。黒髪が夕日に透けて、少しだけ茶色に光っている。制服のスカートが風で揺れた。


 神代澪。


 生徒会の打ち合わせは終わったらしい。だが、なぜ校門に。帰るならとっくに帰っているはずの時間だ。


 俺に気づいた。スマホをしまった。背中が壁から離れた。


「湊くん」


 笑顔。夕日の中で笑っている。外の顔に近いが、目元だけが保健室の温度をしている。中間の表情。どちらでもない。あるいは、どちらでもある。


「……なんでいるんだ」


「待ってた」


 待っていた。俺を。校門で。作業が終わるのを。


「……いつから」


「十分くらい前かな」


 十分。十分間、校門の柱に背中を預けて、俺が出てくるのを待っていた。その間にスマホを見ていたのだろう。十分は長い。十分は短い。どちらにしても、「待つ」という行為に込められた意味が重い。


「一緒に帰ろ♡」


 来た。


 この台詞。この五文字。夕日の校門で。待ち伏せて。


 ドラマなら挿入歌が流れるシーンだ。現実にはBGMがない。代わりに、遠くで野球部のノック音が鳴っている。カキン、カキン。情緒のかけらもない伴奏。


「……一緒に、って」


「帰る方向、同じでしょ? 途中まで」


 同じだ。途中の交差点まで。十五分くらいの距離。歩いて十五分。並んで十五分。


「……まあ」


 断る理由がない。断る語彙もない。断りたくもない。三つの不在が、一つの行動を決定した。


 並んで歩き始めた。


 校門を出て、歩道に出る。横並び。肩の間隔は三十センチくらい。保健室での距離よりは広い。だが、校門の前を通り過ぎる生徒たちの視界には、「二人で帰る男女」として映っている。


 振り返った。


 後ろを歩いていた女子のグループが、こちらを見て目をそらした。目をそらす速度が有罪。明らかに見ていた。


「……見られてる」


「そうかな?」


 神代さんは気にしていない。あるいは気にしているが、気にしていないふりをしている。どちらにしても、足は止まらない。


「湊くん、今日の作業どうだった?」


「……横断幕、だいたい終わった」


 神代さんが少し首を傾けた。興味深そうな目。


「すごいね。何を描いたの?」


「俺は下書き線だけ。……絵は別の人」


 謙遜ではない。事実だ。だが神代さんは足を止めずに言った。


「下書きも大事だよ。土台がしっかりしてないと崩れるもん」


 フォローが丁寧だ。下書き線を褒められる経験が人生で初めてだ。


「澪は? 生徒会の方は」


 名前を呼んだ。


 ──いや待て。今、名前で呼んだか。「澪」と。口が滑った。保健室の外で名前を呼んだのは──初めてではないか。


 神代さんが足を止めた。半歩。ほんの一瞬だけ。


「……今、澪って言った?」


「言ってない」


 嘘だ。言った。言ったが、認めたら終わりだ。


「言った♡」


「言ってない。神代さんって言った」


 神代さんの足が半歩遅れた。振り返ってこちらを見ている。


「聞こえたよ。澪って♡」


 聞こえている。聞こえているなら否定しても無意味だ。音は発した瞬間に証拠になる。録音機器がなくても、相手の鼓膜に記録されている。


「……言い間違い」


「言い間違い、ね」


 神代さんの──澪の唇が弧を描いた。満足そうな笑み。何かを勝ち取った人間の表情。


「いいよ、言い間違いでも。──嬉しかったから♡」


 心臓が跳ねた。跳ねるだけでは足りず、回転した。体操選手のような回転。着地が安定しない。


 歩きを再開した。足が微妙にもつれる。歩道の平坦な地面につまずきそうになる。二足歩行が崩壊しかけている。人類が四百万年かけて獲得した直立歩行の技術が、一つの笑顔で危機に瀕している。


「生徒会の方はね、当日のシフトを決めてたの。私、救護テント担当になったよ」


「……救護テント」


 聞き返した。神代さんがうなずく。


「うん。保健室の出張版みたいなもの。朝倉先生と一緒に」


 救護テント。体育祭当日、グラウンドの隅に設置される白いテント。怪我人の応急処置を行う場所。保健委員と養護教諭が詰めている。


 神代さんがそこにいる。つまり、体育祭当日、グラウンドのどこかで彼女に会える可能性がある。怪我をすれば確実に会える。


 ──怪我をしたいわけではない。断じて。


「湊くんはリレー出るんだよね?」


「……第三走者」


 神代さんが微笑んだ。夕暮れの光の中で、目元がやわらかい。


「応援するね」


 応援。普通の言葉だ。クラスメイトの競技を応援する。普通だ。だが、その「応援」の響きが普通に聞こえない。


「……別にいい」


「別によくないよ。頑張ってほしいもん」


 頑張ってほしい。俺に。リレーで。なぜだ。俺が速く走ったところで、この人に何のメリットがある。


 交差点が見えてきた。ここで道が分かれる。左に行くと神代さんの家の方角。右に行くと俺の家。十五分間の並走が終わる。


「あ、もうここだね」


 神代さんが立ち止まった。交差点の信号が赤に変わる。夕日が建物の影に隠れて、空が紺色に傾いている。


「今日は一緒に帰れてよかった♡」


「……うん」


 うん。一文字。だが、嘘ではない。


「じゃあね、湊くん。明日も頑張ろうね」


「……ああ」


 手を振って、左に歩いていく。振り返らない。背中がまっすぐだ。夕暮れの通学路を、一人で歩いていく。


 俺はしばらくその背中を見ていた。見ていたことに気づいて、前を向いた。右に曲がる。


 帰り道。


 十五分間を反芻している。差し入れのこと。教室の反応のこと。校門で待っていたこと。「一緒に帰ろ」。名前の呼び間違い。笑顔。「嬉しかったから」。


 保健室の外だった。


 全部、保健室の外で起きたことだ。教室。校門。通学路。保健室のドアの中では起きなかった。


 一ヶ月前、俺と神代さんの接点は保健室だけだった。保健室というガラスの容器に入った関係。外に出れば蒸発するはずの、温室の植物のような。


 それが、外に出始めている。


 テスト期間に勉強を教えてもらった。教室で差し入れをもらった。校門で待ち合わせて一緒に帰った。保健室の壁を越えて、この関係が歩道の上を歩いている。


 たぶん、周囲はとっくに気づいている。保健室の中だけの話ではないことに。噂は保健室を起点に広がったが、もはや保健室に限定されていない。教室にも、校門にも、通学路にも、この人の気配がある。


 スマホが鳴った。八代からLINE。


『もう隠す気ないだろ、あの二人。てか下級生にも広まってるぞ』


 下級生。噂が学年を超えた。二年生の保健室の話が、一年生にまで到達している。情報の伝播速度が光速に近づいている。


 返信を打つ。「何の話だ」。送信。既読。即座に返事が来た。


『とぼけんなw 校門で神代さんと一緒に帰ってくとこ、何人に見られたと思ってる?』


 何人。数えていない。数えたくもない。


『先輩も「二年の黒瀬と神代って付き合ってんの?」って聞いてきたぞ。学年の壁突破おめでとう』


 おめでたくない。


 スマホをポケットにしまった。夕暮れの住宅街を歩く。街灯がぽつぽつと点き始めている。


 十五分前まで、ここを二人で歩いていた。


 今は一人だ。一人なのに、隣の空間が広い。三十センチの間隔が、距離ではなく不在として認識される。


 ──体育祭が来る。


 来週だ。準備期間があと三日。本番は土曜日。グラウンドで、保健室の外で、大勢の前で。救護テントに神代さんがいて、俺はリレーを走る。


 応援するね、と言っていた。


 その声を思い出しながら、右に曲がった交差点から、家までの道を歩いた。七分間。


 七分間、ずっと考えていたのは三角関数でもリレーの走順でもなく、校門に立っていた人の横顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ