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【第15話】中間テストと"彼女の教え方"

【第15話】中間テストと"彼女の教え方"


中間テストまで、あと四日。


 この事実に気づいたのは、担任が時間割変更のプリントを配ったときだ。テスト範囲表が添付されている。古典、数学Ⅱ、英語表現、化学基礎。文字の羅列が墓碑銘に見える。ここに俺の成績が埋葬されるのだ。


 弁当箱のカバーは昨夜洗った。洗って乾かして、今朝鞄に入れた。それだけの動作に達成感がある。小さな返済。利息にもならないが、やらないよりはマシだ。


 金曜日の昼休み。保健室。


 弁当を開けた。今日は唐揚げとポテトサラダ。揚げ物を弁当に入れると油でベタつくことがある。だがこの唐揚げはカラッとしている。冷めても衣のサクサク感が残る揚げ方。もはや家庭料理の域を超えている。プロの仕出し弁当と張り合えるレベルだ。


「……うまい」


「ほんと♡ 唐揚げは自信あるの」


 自信作。確かに自信に見合うクオリティだ。俺のフィードバック「うまい」は語彙として貧弱だが、意味の密度は高い。二文字に全感想を圧縮している。


 食べ終わった弁当箱をカバーに入れた。洗ったばかりのカバー。紺色の布がわずかに洗剤の匂いを残している。


 神代さんがそれを見た。


「……あ」


 小さな声。気づいたのか。気づいたとしたら、観察力が優秀すぎる。カバーを洗った程度で反応するのか。


「湊くん、それ洗ってくれたの?」


「……別に。汚れてたから」


 嘘だ。汚れてはいなかった。洗いたかったから洗った。理由はそれだけだ。


 神代さんの目が細くなった。保健室モードの、やわらかい笑顔。だがいつもの甘い台詞は出てこない。代わりに、少し黙って、それから。


「……ありがとう♡」


 静かな声だった。いつもの甘さとは違う温度。


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲みながら、一瞬だけこちらを見た。すぐに視線を戻した。見なかったことにするスキルが日に日に磨かれている。


「……ところで湊くん、来週テストだよね?」


「……知ってる」


 神代さんが文庫本を閉じた。こちらを向く。視線が真っ直ぐだ。


「勉強してる?」


 していない。テスト範囲表をもらって墓碑銘と形容したのがつい三時間前だ。準備は精神的な覚悟すら整っていない。


「……まあ、これから」


「じゃあ、一緒に勉強しよう♡」


 来た。予想はしていた。八代が「テスト期間、勉強教えてもらうチャンスだろ」と言っていた。その予言が二十四時間で成就した。八代は預言者か。ノストラダムスの後継者か。


「……いいのか? 忙しいだろ」


「忙しくないよ? テスト勉強は自分もするし、一緒にやった方が効率いいでしょ」


 効率。確かに教え合いは効率的だ。だが「教え合い」が成立するには、双方に教えられる分野が必要だ。神代さんはほぼ全教科が得意だ。俺が教えられるのは──何もない。一方通行の効率化。それは「教えてもらう」と同義だ。


「……迷惑じゃないか」


「迷惑じゃないよ。楽しいもん」


 楽しい。人に勉強を教えるのが楽しい。聖人か。教育の女神か。


「じゃあ月曜日から、放課後ここで。テストが終わるまで」


 スケジュールが確定した。俺の意見を聞く前に。いや、聞かれたところで断る語彙を持っていない。


 ◇


 月曜日。放課後。保健室。


 机の上にテキストとノートが広がっている。保健室がにわかに自習室の様相を呈している。消毒液の匂いと鉛筆の音。組み合わせとしては新鮮だ。


 神代さんが俺の隣に座っている。隣。向かいではなく、隣。ノートを覗き込むには隣の方が都合がいい。理屈はわかる。だが、肩が触れている。


「ここ、この公式をまず覚えて。そうすると応用が三パターン出てくるから」


 数学Ⅱ。三角関数の加法定理。神代さんの説明が明瞭だ。教科書の文章を噛み砕いて、俺の理解速度に合わせてくれる。学校の授業より三倍わかりやすい。


「sin(α+β)は、sinαcosβ+cosαsinβ。覚え方はね──」


 顔が近い。公式を教えてくれているが、ノートを指差す指と、その指の持ち主の横顔が同時に視界に入る。黒髪が揺れて、耳の後ろが見えた。耳たぶが小さい。


 ──集中しろ。三角関数だ。sinとcosだ。耳たぶではない。


「湊くん、聞いてる?」


「……聞いてる」


 神代さんがノートの空白を指で叩いた。


「じゃあ、今の公式書いてみて」


 ノートにペンを走らせた。sin(α+β)=sinαcosβ+cosαsinβ。書けた。脳から手への伝達経路が、神代さんの声を経由すると効率が上がるらしい。教育工学的に説明がつくのか、これは。


「すごい、合ってる♡」


 褒められた。テストでもないのに。公式を一つ書いただけで。


 だが、褒められると悪い気はしない。俺の脳が報酬を受け取っている。ドーパミンか何か知らないが、「もう一問やるか」という気分が湧いている。これが教育の魔力か。アメとムチのアメの部分。ムチは今のところ存在しない。アメだけの教育。生徒がつけ上がる。


 保健室のドアが開いた。


「あ〜、やってるやってる」


 白石杏。手にお菓子の袋を持っている。差し入れの体裁。


「あんも一緒に勉強する?」


 杏が隣のベッドに座った。テキストを広げる。英語表現の教科書。だが、開いたページをじっと見つめたあと、俺たちの方を見た。


 五秒。


「……うん、私はいいや」


「えっ、もう帰るの?」


 神代さんが首を傾げた。杏は教科書をしまいながら笑った。


「だって邪魔でしょ、勉強デートに。部外者が混ざると空気悪くなるし」


 勉強デート。違う。これは純粋な学習支援だ。


「デートじゃない」


「湊くんは否定するよね〜。でも、肩くっついてるよ?」


 見下ろした。肩がくっついている。いつからだ。三角関数の途中からか。加法定理の証明あたりからか。


「……これは、ノートを見るために」


「はいはい。じゃあお邪魔しました〜。……あ、お菓子は置いてくね」


 杏が手を振って去った。お菓子の袋だけがベッドの上に残されている。差し入れという名の退場プレゼント。


 朝倉先生がキーボードを打つ手を止めた。


「あのね、勉強するなら図書室があるでしょう」


 来た。正論。保健室は勉強をする場所ではない。保健室利用規定に「自習」は含まれていない。


「保健室の方が集中できるんです♡」


 神代さんが即答した。笑顔。完璧な笑顔。朝倉先生に向ける笑顔は外の顔に近いが、甘さが混入している。ハイブリッドモード。


 朝倉先生の眉が上がった。


「……誰が?」


 鋭い。この質問は核心を突いている。集中できているのは神代さんだけだ。俺は三角関数と耳たぶの間で集中力が分散している。


「二人ともですよ」


「二人とも、ね。……まあ、他に利用者がいない時間帯ならいいわ。静かにやって」


 許可が下りた。条件付きだが、朝倉先生の許可は保健室における最高法規だ。憲法より強い。


 ◇


 火曜日も、水曜日も。放課後の保健室で勉強が続いた。


 火曜日は古典。係り結びと敬語法。神代さんは古典が得意らしく、文法の説明が教科書より整理されている。「これ、主語が省略されてるの。でも敬語の種類で誰の動作かわかるんだよ」。言語学の講義のようだ。


 水曜日は化学基礎。モル計算。俺が最も苦手とする分野。数字とアルファベットが化学反応を起こして意味不明な記号列になる。神代さんが「モルは"個数の単位"だと思えばいいの。一ダースが十二個なのと同じで、一モルは六・〇二かける十の二十三乗個」と説明した。わかりやすすぎる。教壇に立てる。


 三日間で気づいたことがある。


 神代さんは教えるのが上手いだけではない。俺がどこでつまずくかを予測している。「ここ、たぶん引っかかると思うんだけど」と先回りしてくれる。俺の理解パターンを分析しているのだ。三日間で。データ収集と解析のスピードが研究者のそれだ。


 もう一つ気づいたことがある。


 勉強を教えてもらっている間、俺は神代さんと普通に会話できている。「ここがわからない」「こういうこと?」「なるほど」。教科の内容を介在させると、言葉が出る。直接的な会話は苦手だが、間に「数学」や「古典」というクッションがあると、声が喉に詰まらない。


 神代さんはそれに気づいているのか、いないのか。たぶん気づいている。気づいた上で、「勉強を教える」という口実を作ってくれている。


 ──いや、考えすぎか。


 ◇


 テスト期間。四日間。


 保健室の勉強会で得た知識が、答案用紙の上で再生される。三角関数の加法定理。古典の敬語法。化学のモル計算。神代さんの声で覚えた公式が、神代さんの声で再生される。


 試験中に人の声が聞こえるのは幻聴に近い。だが、幻聴のおかげで答えが書ける。正常か異常か判定に迷う。


 英語表現のテスト中、長文読解の問題が出た。内容は「文化の違いによるコミュニケーションの齟齬」。言葉が通じていても、意味が通じないことがある。言語の壁ではなく、文化の壁。


 ──言語の壁ではなく、性格の壁。


 俺と神代さんの間にあるのは、それだ。日本語は通じている。だが、俺の「別に」が意味するものと、神代さんがそこから読み取るものは、たぶん違う。


 「別に」は「どうでもいい」ではない。「言葉にできない」だ。


 ──集中しろ。今は英語だ。


 ◇


 テスト最終日。解放。


 教室の空気が軽い。四日間の圧力から解き放たれた生徒たちが、鎖を外された犬のように騒いでいる。


 俺の手応え。悪くない。例年より明らかに解けた問題が多い。特に数学と古典。化学は相変わらず怪しいが、モル計算は正解した自信がある。六・〇二かける十の二十三乗。ありがとう神代さん。


 結果が返ってきたのは翌週の木曜日だ。


 数学Ⅱ、七十二点。一学期末より十四点アップ。古典、六十八点。一学期末より十一点アップ。化学基礎、五十九点。一学期末より八点アップ。英語表現、六十五点。一学期末より五点アップ。


 全教科、上がっている。目立たない上がり方。首席になったわけではない。クラスの平均点付近をうろうろしていた成績が、平均をやや上回る程度に浮上しただけだ。


 だが、この学校で「黒瀬湊の成績が上がった」という事実は、単体では何の話題にもならない。問題は、その原因が特定されていることだ。


「黒瀬、テストどうだった?」


 八代が聞いてきた。答案を見せる義理はないが、隠すほどの成績でもない。


「……まあまあ」


「まあまあ。へえ。……神代さん効果?」


 即座に因果関係を結びつけてきた。探偵か。いや、この推理に技術は要らない。放課後の保健室で勉強していたことは、杏経由で広まっている。


「……関係ない」


「ははは、顔が正直だな。お前の成績が上がる理由なんて他にないだろ」


 反論の余地がない。事実として、他に原因がない。


 クラスの女子が二人、こちらを見てひそひそ話している。聞こえないふりをしたいが、教室の音響設計が悪い。


「やっぱ神代さんに教えてもらってたらしいよ」


「えー、いいなあ。彼女に勉強教えてもらえるとか勝ち組じゃん」


 彼女。また彼女認定。「勉強を教えてもらった」が「彼女に勉強を教えてもらった」に変換されている。主語に「彼女」が自動付与される。俺の行動すべてに「彼女の」という接頭辞がつく世界。


 八代が肩を組んできた。距離が近い。こいつも距離感がバグっている。


「なあ黒瀬。お前、ちゃんとお礼言ったか?」


「……何の」


 八代が呆れた顔をした。


「勉強教えてくれたことの。テスト上がったんなら、それくらい言えるだろ」


 お礼。言っていない。テストの結果を神代さんにまだ報告していない。報告する義務はないが、教えてもらって成績が上がって、それを伝えないのは──。


「……言う」


「おう。言え言え。あ、ついでに体育祭の話もしとけよ。来月だろ、準備始まるの」


 体育祭。そうだ。テストが終わったと思ったら、次の行事が控えている。学校行事は渋滞する高速道路だ。一つ抜けたと思ったら次の車列が見える。休憩エリアがない。


 ◇


 放課後。保健室。


 テスト期間が終わって、保健室は勉強会モードからいつもの空間に戻っている。机の上のテキストはなく、弁当箱のカバーと文庫本がある。日常の装備。


 神代さんが向かいの椅子に座っている。文庫本を読んでいる。テスト期間中は勉強に充てていた昼休みの読書を、取り戻すように没頭している。


 俺は文庫本を開いたまま、言葉を組み立てている。


 お礼。言うと決めた。八代に背中を押されたのは業腹だが、言うべきことは言うべきだ。「ありがとう」。たった五文字。これくらいは言える。言えるはずだ。弁当箱のカバーを洗えたのだから。


「……神代さん」


 声が出た。


「ん?」


 文庫本から顔を上げた。窓からの光が目に入って、少し眩しそうに目を細めている。


「……テスト、上がった」


「ほんと?」


 身を乗り出してきた。目が輝いている。他人のテスト結果にここまで喜べる人間がいるのか。自分の成績ではないのに。


「数学は何点だった?」


「……七十二」


 神代さんが拳を握った。小さくガッツポーズ。他人の数学の点で拳を握る人間を初めて見た。


「すごい! 十四点も上がったんでしょ?」


 なぜ俺の一学期末の点数を知っているんだ。勉強会のとき、過去の答案を見せた覚えは──あった。弱点分析のために、と言われて過去の答案を出した。あのとき記憶したのか。十四点差を即座に算出する計算速度。


「古典は?」


「六十八」


 神代さんの笑顔が広がった。


「やったね♡」


 声が弾んでいる。保健室モード全開。自分が教えたことの成果が出て嬉しいのだろう。教育者の喜び。教え子の成長を見守る先生の表情に近い。


「……ありがとう」


 言えた。


 今度は、そこで止まらなかった。


「……教え方が、わかりやすかった。だから」


 「だから」の先が出てこない。だから上がった。だから助かった。だからありがとう。どれも言いたいのに、一つも最後まで言えない。文の途中で息が切れる。短距離走者が百メートルの途中で失速する感覚。


 神代さんが少し黙った。それから、ふわりと笑った。


「……教えるの、楽しかったよ。湊くんが真剣に聞いてくれるから」


 真剣に聞いていた。それは事実だ。真剣に聞かざるを得なかった。距離が近くて、声が耳に直接届いて、集中しないと意味不明な方向に思考が逸れるから。集中の動機が不純だが、結果としては真剣だった。


「またテスト前、教えてあげるね♡」


 次の予約が入った。期末テストの時期だ。それまでこの関係が続くことが前提になっている。前提にされることに、抵抗がない。


 それが少し、怖い。


 ◇


 夜。自宅。


 部屋の机に向かっている。テスト期間は終わったが、課題がある。提出物の残り。


 数学のワークを開いた。三角関数のページ。加法定理の問題が並んでいる。


 ──「sin(α+β)は、sinαcosβ+cosαsinβ。覚え方はね──」


 神代さんの声が再生された。脳内で。保健室で隣に座っていたときの声。肩が触れていたときの温度。ノートを指差す指。耳の後ろの髪。


 ペンが止まった。


 課題をやっているのに、考えているのは数学ではない。三角関数の公式を見ると、公式を教えてくれた人を思い出す。化学のモル計算を見ると、「一ダースが十二個なのと同じで」という声が聞こえる。古典の敬語法を見ると、「主語が省略されてるの」という説明が蘇る。


 教科書のすべてのページに、神代さんの声がインデックスされている。参考書を開くたびにブックマークが起動する。消せない。消す方法がわからない。消したいかどうかも、わからない。


 俺は今、保健室にいないのに、神代さんのことを考えている。


 保健室という場所を離れても、あの人が頭の中にいる。弁当の味を思い出すのは食事のときだけだ。ブランケットの温かさを思い出すのは寒いときだけだ。だが、勉強を教えてもらった記憶は、教科書を開くたびに、つまり毎日、再生される。


 ──「わかりたくないから"わからない"にしてるんじゃないのか?」


 八代の声も再生される。こっちは消したい。消したいのに消えない。


 机の上にスマホがある。画面は暗い。LINEを開けば、神代さんとのトーク画面がある。開かない。開いたら何か打ってしまいそうで。何を打つかも決まっていないのに。


 ワークのページに目を戻した。三角関数。sin、cos、tan。記号の羅列。意味はわかる。意味がわかるのは神代さんのおかげだ。


 部屋の時計が十一時を指している。明日も学校だ。明日も保健室に行く。明日も弁当を食べる。明日も「うまい」と言う。


 それだけで、明日が少し楽しみだと思っている自分がいる。


 ──保健室以外の場所で、あの人のことを考えている。


 その事実の意味に、まだ名前はつけない。つけないが、もう「わからない」とも言い切れなくなっている。


 課題は半分も終わっていない。ペンを持ち直した。集中しなければ。sinα。cosβ。加法定理。


 ──覚え方はね。


 また聞こえた。今日は眠れない気がする。

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