【第14話】八代凛太郎の取材ノート
【第14話】八代凛太郎の取材ノート
祈りは通じなかった。
木曜日の朝。教室に入った瞬間、八代凛太郎が俺の机の前に座っていた。自分の席ではない。俺の席の前だ。椅子を逆向きにして、背もたれに腕を乗せ、こちらを向いている。待ち伏せの姿勢。
その手に、紙があった。
見覚えのある紙だ。クリップボードに挟まっていた、あの紙。柊栞の調査メモ。半ページぶんの、俺と神代さんの保健室生活の記録。
「おはよう黒瀬。いい朝だな」
いい朝ではない。最悪の朝だ。祈りの有効期限は二十四時間だった。
「……なんで、それ持ってる」
「ん? ああ、これ?」
八代が紙をひらひら振った。風紀委員の書類が、こうもあっさり民間に流出するとは。情報管理の概念がこの学校には存在しない。
「柊が落としたのを拾った。善意で届けようと思ったんだけど、つい読んじゃってさ」
善意。善意で拾い、善意で読み、善意で俺の前に座っている。善意は時として核弾頭より破壊力がある。
「……返せ」
「待て待て。まず確認させてくれよ。これ、マジ?」
八代が紙を机の上に広げた。柊の丁寧な字が並んでいる。俺は読みたくないが、視界に入る。
『黒瀬湊・神代澪 保健室利用状況 調査メモ』
タイトルからして公文書だ。
『① 弁当箱 二人ぶん、手作り。昼休みに毎日持参。棚に保管用カバーあり』
『② 麦茶 冷蔵庫に常時ストック。「黒瀬くん用」の付箋あり(神代澪の筆跡)』
『③ ブランケット グレー、新品。黒瀬湊の膝にかけてあった。神代澪がかけ直す動作を確認(愛情表現と思われる)』
『④ 教科書コピー 黒瀬湊が古典の教科書を忘れた際、神代澪がコピーを届けた(別クラスから)』
『⑤ マスク 棚に個包装5枚。神代澪が設置したものと推定』
番号つきのリスト。柊が几帳面に項目を分けて記録している。風紀委員の調査報告書というより、在庫管理台帳だ。あるいは、新婚家庭の家計簿。
『結論:保健室の利用については管理者(朝倉先生)の許可があり、風紀上の問題は認められない。ただし、上記の状況から二人の関係は極めて親密であると推察される』
「極めて親密」。柊がその表現を選んだのは、「交際中」と断定する証拠がないからだ。だが「極めて親密」は「交際中」の婉曲表現として十分に機能する。
八代がにやにやしている。にやにやの純度が高い。不純物のない、混じりけのないにやにや。
「黒瀬。これ、もう言い逃れできないだろ」
「……何が」
八代が紙の項目を一つずつ指でなぞった。
「何がって。弁当二人ぶん。冷蔵庫に名前。ブランケットかけ直し。教科書のコピーわざわざ届ける。マスクまで常備。──これ全部、普通の友達がやることか?」
普通の友達がやることではない。それは俺が一番わかっている。わかっているが、認めると別の問題が発生する。
「……友達じゃないとも言ってない」
八代が肘を机について顎を乗せた。
「じゃあ何なんだよ」
何なんだ。その質問に答えられるなら、俺はこんなに困っていない。
八代が身を乗り出した。机の上に両肘をついて、顔が近い。こういうとき、こいつの目はジャーナリストのそれになる。真実を追求する目。だが追求の先にあるのは公共の利益ではなく、クラスの話題提供だ。
「黒瀬、俺はお前の味方だぞ? ただ事実を確認したいだけで」
味方。味方と名乗る人間ほど信用できない存在はない。特に、情報を武器にする味方は。
「……付き合ってない」
言った。今日も言った。もう何回目かわからない。この台詞は俺の口癖になりつつある。自己暗示か呪文か、どちらにしても効力が薄れている。
「ふーん」
八代が俺の顔を覗き込んだ。三秒。
「顔が赤いぞ、黒瀬」
赤い。反論できない。鏡がなくても、頬の温度でわかる。暖房は入っていない。室温は正常だ。異常なのは俺の自律神経だ。
「顔が本音を語ってんだよなあ」
八代が椅子の背もたれに体重を預けた。満足そうな顔。検察官が自白を引き出した後の表情。
「なあ黒瀬、俺から一つ提案がある」
「……聞かない」
八代が片手を上げた。制止のジェスチャー。
「まあ聞けよ。お前が否定し続けるのは自由だ。でも、この情報」
柊のメモを指で叩く。八代の目が据わっている。
「これ、クラスの知る権利ってやつがあるだろ。みんな気になってるんだよ、お前と神代さんのこと」
知る権利。憲法の話を教室の噂に適用するな。権利の範囲が拡大解釈されている。最高裁も認めない拡大解釈だ。
「だから、取材させてくれ」
「取材」
聞き返す声が裏返った。
「そう。俺が質問する。お前が答える。事実だけでいい。嘘はつかなくていい。答えたくないことは黙っていい」
黙っていい。それは優しさではない。罠だ。俺が黙ると、黙ったこと自体が「肯定」として処理される。このシステムは教室の噂にも、神代さんとの関係にも、等しく適用される。沈黙は金ではない。沈黙は自白だ。
「……断る」
「断る権利も認める。でも、断ったら俺が自分で書くぞ? お前の証言なしで。そっちのほうが怖くないか?」
怖い。八代の想像力は事実を超える。俺の証言なしに書かれた記事は、現実よりも劇的で、現実よりも甘く、現実よりも嘘くさいのに、なぜか人はそちらを信じる。
詰んでいる。取材を受けても地獄、断っても地獄。
「……三問まで」
「五問」
即座に倍額が返ってきた。値札交渉が始まっている。
「三問」
八代が指を折った。
「四問。最終オファー」
三秒。
「…………四問」
交渉が成立した。俺の人権が四問ぶんの回答で売られた。
◇
八代凛太郎の取材が始まった。場所は教室の端。朝のホームルームまで十五分。周囲に人はいるが、この距離なら声は届かない。
「じゃあ一問目。神代さんの弁当、いつから食べてる?」
「……三週間くらい前から」
八代がスマホを取り出した。
「三週間。毎日?」
質問が連射されている。機関銃の弾倉交換並みの速度だ。
「それ二問目にカウントされるからな」
「細かいな。……じゃあ二問目にする。毎日か?」
指がスマホの画面を叩いた。
「……平日は」
「平日は毎日、神代さんの手作り弁当を保健室で食べている。OK」
八代がスマホにメモしている。フリック入力の速度が異常に速い。記者の技能だ。
「三問目。ブランケット、あれ神代さんが買ったの?」
「……たぶん」
八代の眉が上がった。
「たぶん? 本人に聞いてないの?」
「聞いてない。……気がついたらあった」
八代が笑った。呆れと感心が混じった笑い。
「気がついたらブランケットがあった。すげえな。サンタクロースかよ」
サンタクロース。その比喩は的を射ている。神代さんの支援物資は、いつもプレゼントのように予告なく現れる。ただし、サンタは年に一度だ。神代さんは毎日だ。
「ラスト、四問目」
八代がスマホをしまった。顔が少し真面目になった。
「お前、神代さんのこと、どう思ってる?」
空気が変わった。八代の声から茶化しの成分が抜けている。
「……どうって」
「好きなのか?」
直球。避けられない球速。俺の打席に立つ能力では、ファウルすら打てない。
口を開いた。閉じた。また開いた。
「……わからない」
それが正直な答えだった。わからない。好きなのかもしれない。好きじゃないのかもしれない。神代さんといるとき、心臓が変な動き方をする。弁当を食べるとうまい。ブランケットが温かい。笑顔を見ると目が離せない。それが「好き」なのかどうか、判定する基準を俺は持っていない。
八代が三秒ほど俺を見て、それから笑った。嘲笑ではない。少し呆れた、でも温かい笑い。
「わからない、か。──まあ、それが今のお前の精一杯だよな」
精一杯。その通りだ。
「ただし」
八代が人差し指を立てた。
「"わからない"は"違う"じゃないからな。俺はそう書くぞ」
書く。何を書くんだ。どこに書くんだ。
「記事にすんのかよ」
「記事って。新聞部じゃねえよ。ただ、聞かれたら答えるだけだ」
聞かれたら答える。八代は聞かれなくても答える男だ。聞かれる前に情報を配布する男だ。
「……頼むから盛るなよ」
「盛らない盛らない。事実だけだ。──事実がすでに盛り上がってるから、盛る必要がないんだよ」
反論できなかった。
◇
昼休み。
保健室に向かう足取りが重い。朝の取材の内容が、今頃どう加工されているか。八代のスマホに入力されたメモが、どう変換されているか。
保健室のドアを開けた。
神代さんが先に来ていた。弁当の支度をしている。俺の分も並んでいる。今日は鮭のムニエルと小松菜のおひたし。洋和折衷。弁当箱の中で異文化交流が行われている。
「湊くん、遅かったね♡」
「……ちょっと、教室で」
取材を受けていた、とは言えない。言ったら「何を聞かれたの?」が来る。答えたら「何て答えたの?」が来る。答えの内容が「わからない」だと──。
座った。弁当の蓋を開けた。鮭の表面に焦げ目がついている。美しい焦げ目だ。料理番組なら「いい焼き色ですね」と言われる焦げ目。
「……うまい」
「やった♡ ムニエル初挑戦だったの」
初挑戦。初挑戦でこの焼き加減。天才か。努力家か。どちらにしても、俺の「うまい」がこの完成度を引き出しているのだとしたら、フィードバックの責任が重い。
朝倉先生がデスクでキーボードを叩いている。今日は機嫌が普通だ。普通の先生は空気のように存在している。空気に感謝するのは酸素が薄くなったときだけだ。
弁当を食べ終えた。文庫本を開いた。
読めない。
活字の上を目が滑る。八代の四問目が頭の中で反響している。「好きなのか?」。直球。ストレート。時速百五十キロのど真ん中。俺はバットを振れなかった。「わからない」は見逃し三振にすらならない。ただ球を見送っただけだ。
神代さんが向かいで文庫本を読んでいる。ページをめくる指が細い。ひとさし指の爪が短く切られている。料理をする人間の爪だ。
この人の弁当を毎日食べている。この人のブランケットで膝を温めている。この人が用意した麦茶を飲んでいる。忘れ物をしたら、この人がコピーを届けてくれる。風邪をひかないように、マスクまで置いてくれている。
それに対して俺が返しているのは「うまい」と「ありがとう」だけだ。二語。語彙力が幼児レベル。
──どう思っているのか。
八代に聞かれた。「わからない」と答えた。嘘ではない。だが、誠実な答えでもない。「わからない」は考えることを放棄した人間の回答だ。わかろうとしていない。名前をつけるのが怖い。名前をつけたら、何かが変わってしまう。
変わることが、怖い。
この保健室の空気が。弁当の味が。文庫本を読む静けさが。変わることが。
「……湊くん、今日ぜんぜんページ進んでないよ♡」
見抜かれた。向かいから俺の文庫本を監視していたのか。観察力が相変わらず空港レベルだ。
「……考え事」
神代さんが小首を傾げた。
「何の?」
「……別に」
別に。便利な言葉。中身がない。中身がないから何も伝わらない。何も伝わらないから安全。安全だが、このままでは何も進まない。
俺は文庫本を閉じて、両手で顔を覆った。頭を抱えるとはこのことか。物理的に頭を抱えている。
「……湊くん?」
指の隙間から神代さんの顔が見える。心配そうな目。保健室モードの「ふわり」ではなく、もう少し真剣な表情。
「大丈夫だよ、私がいるから♡」
お前が原因だ。
──言えない。言えるわけがない。
◇
五時間目のチャイムが鳴った。神代さんが帰り支度をする。弁当箱をカバーに入れ、文庫本をしまう。
「じゃあ、放課後もね♡」
「……うん」
外の顔に切り替わる。背筋が伸びる。ドアを開けて、廊下に出る。切り替えの速さはいつも通りだ。
◇
放課後。
教室に戻ると、空気が変わっていた。
具体的に言えば、俺を見る目が変わっていた。昨日までは「噂の当事者」として遠巻きにされていた。今日は違う。「確定した事実の当事者」として、堂々と話しかけられている。
「黒瀬くん、神代さんとの弁当ってさ、いつから始まったの?」
クラスの女子が聞いてきた。「付き合ってるの?」ではなく「弁当はいつから?」。質問の前提が変わっている。交際は既定事項として、その詳細に興味が移行している。
「……三週間」
答えてしまった。嘘をつくより事実を言ったほうが楽だという判断。八代に答えたのと同じ回答。どうせ八代経由で広まっているのだから、本人が答えても情報量は変わらない。
「三週間。へ〜。じゃあけっこう最初の方から?」
「……最初から、ではない」
女子が頬に手を当てた。目がきらきらしている。好奇心の照度が高い。
「でも毎日なんでしょ? すごいね〜。神代さん、朝早いのに大変じゃない?」
朝早い。そうだ。弁当を二人ぶん作るには、それなりの早起きが必要だ。毎朝。平日毎日。三週間。考えたことがなかった。いや、考えないようにしていた。考えると、「ありがとう」では足りないことが、もっと明確になるから。
別の男子が肩を叩いてきた。
「なあ黒瀬、神代さんって料理うまいの?」
「……うまい」
男子が唸った。
「マジか。いいなあ」
「いいなあ」。羨望。他人の弁当事情に羨望を向けられている。俺は一ヶ月前まで教室で誰とも話さなかった人間だ。その人間が、弁当の話題でクラスメイトと会話している。
八代が後ろから近づいてきた。腕を組んで、にやにやしている。
「盛ってないだろ? 事実だけだろ?」
八代が腕を組んで立っている。勝者の姿勢。
「……事実だけで十分な破壊力じゃねえか」
「だから言ったろ。盛る必要がないって」
八代が俺の隣の席に座った。声を落とした。
「なあ黒瀬、一個だけ言っていいか」
「……何」
八代の目が俺を真っ直ぐに捉えていた。
「お前さ、"わからない"で済ませてるけど、わかってるだろ。本当は」
心臓が跳ねた。
「わかってないから"わからない"って言ったんだろうが」
八代が首を傾げた。茶化す顔ではなかった。
「そうか? わかりたくないから"わからない"にしてるんじゃないのか?」
的を射ている。矢が的を貫通して壁に刺さっている。八代の観察力は噂の拡散にしか使われていないと思っていたが、たまに本質を突く。
「……うるさい」
「はいはい」
八代が立ち上がった。肩を叩いて去っていく。
「まあ、ゆっくり考えろよ。──あ、でも中間テストまでには決めとけよ。テスト期間、勉強教えてもらうチャンスだろ」
中間テスト。そうだ、来週だ。テスト期間が近づいている。保健室での日常は変わらないが、学校行事の時計は止まらない。
◇
帰り道。
今日一日で起きたことを整理する。
柊のメモが八代に渡った。渡るべきではなかったが、渡った。八代はそれを元に俺に取材を行い、四つの質問をした。弁当のこと、頻度のこと、ブランケットのこと、そして──「どう思っているか」。
俺の回答は「三週間」「平日」「たぶん」「わからない」。四語で要約される俺の保健室生活。
八代はその四語と柊のメモを組み合わせて、クラスに情報を提供した。盛っていない。事実だけ。だが事実の並べ方が巧みだ。弁当三週間、毎日手作り、ブランケットつき、冷蔵庫に名前。この羅列だけで、「交際中」以外の解釈は困難になる。
噂のレベルが上がった。「付き合ってるんじゃないか?」から「いつから付き合ってるの?」に。疑問符の位置が変わった。交際の有無ではなく、交際の開始時期が質問の対象になっている。
俺はまだ「付き合ってない」と言っている。言い続けている。だが、言葉の重力が軽くなっている。自分で言っていて、音だけが出て意味が追いついていない感覚がある。
──「わかりたくないから"わからない"にしてるんじゃないのか?」
八代の言葉が刺さっている。抜けない。
わかりたくない。その指摘は正確だ。わかったら、認めなければならない。認めたら、行動しなければならない。行動する能力を、俺は持っていない。「ありがとう」の三文字すら精一杯の人間が、それ以上の言葉を出力できるわけがない。
でも、「わからない」のまま弁当を食べ続けるのは──卑怯だろうか。
毎朝早起きして弁当を作っている人間がいる。俺のために。その人間に「わからない」を返すのは、「ありがとう」よりもずっとひどい答えなのではないか。
鞄が重い。今日は弁当箱を持ち帰った。カバンの中で弁当箱のカバーが布の面積ぶんの存在を主張している。紺色の布。神代さんの弁当箱と同じ素材。
帰ったら、このカバーを洗おう。洗って、明日持っていこう。
──それは「わからない」のままでもできることだ。
小さなことだ。弁当箱のカバーを洗う。それだけ。「好き」とも「ありがとう」とも言えなくても、カバーを洗うことはできる。
返済方法は、まだ見つかっていない。でも、利息を少しだけ減らすことならできるかもしれない。
たぶん。




