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【第13話】柊栞の逆襲(再び自爆)

【第13話】柊栞の逆襲(再び自爆)


柊栞という名前を、俺は最近まで知らなかった。


 知ったのは先週だ。八代に「あの風紀委員の子、また保健室の前うろうろしてたぞ」と言われ、「誰」と返したら「柊。柊栞。お前の彼女のことを調べてる子」と説明された。彼女ではない。だが八代にとって訂正は「照れ隠し」として処理されるので、言うだけ無駄だ。


 その柊栞が、今日、保健室に直接乗り込んできた。


 ◇


 水曜日の昼休み。


 いつもの定位置。いつもの弁当。今日は鶏の照り焼きと、きんぴらごぼう。弁当のおかずを覚えるようになった自分が少し怖い。メニューの記憶は食レポライターの職務であって、高校二年生の義務ではない。


 神代さんが向かいの椅子に座っている。文庫本を膝に乗せ、卵焼きを箸でつまんでいる。窓からの光が黒髪に反射して、保健室の蛍光灯よりも明るい。


「……うまい」


「ほんと? 今日は甘さ控えめにしてみたの」


 控えめ。先週の「甘い方が好き?」のフィードバックから、微調整が入っている。今週の開発テーマは甘さの最適化らしい。俺の舌がデバッグ用のテスト環境になっている。


 ブランケットが膝にかかっている。グレーの、あの新品。もう新品ではない。二日で生活必需品になった。膝にかけると保健室の温度が二度上がる。体感温度の話だ。室温は変わっていない。


 朝倉先生がデスクでカルテを整理している。水曜日の先生は比較的穏やかだ。週の真ん中は精神的にも真ん中らしい。


 保健室のドアがノックされた。


 ノック。珍しい。この部屋をノックする人間は限られている。体調不良の生徒はノックなしで入ってくる。ノックして返事を待つのは、礼儀正しい人間か、用件に自信がない人間だ。


「……どうぞ」


 朝倉先生が答えた。


 ドアが開いた。


 眼鏡の女子。制服のリボンがきっちり結ばれている。胸元に風紀委員のバッジ。手にはクリップボードとペン。装備が完璧だ。戦場に赴く兵士のような準備の良さ。


「失礼します。風紀委員の柊です。保健室の利用状況について確認させていただきたいのですが」


 声が硬い。台本を読んでいるような正確さ。練習してきたな、と思った。


 朝倉先生がコーヒーカップを置いた。


「利用状況? 具体的には?」


「はい。最近、保健室の利用頻度に偏りがあるとの報告がありまして。特定の生徒が昼休みに毎日利用しているとの情報を確認しています」


 特定の生徒。それは俺と神代さんのことだ。保健室の常連が問題視されている。


 俺は弁当の箸を止めた。神代さんも箸を止めた。二人同時に止まった。同期されている。


 柊がクリップボードに目を落とした。


「保健室の利用記録を確認したところ、黒瀬湊さんと神代澪さんの保健室滞在時間が、ここ三週間にわたり昼休みの時間帯で完全に一致しています」


 完全に一致。当たり前だ。一緒に弁当を食べているのだから、来る時間も帰る時間もだいたい同じになる。だが「完全に一致」と統計的に表現されると、意図的な行動に聞こえる。意図的であることは否定しない。否定しないが、意図の内容が柊の想定とは違う。


「交際しているかどうかは、風紀委員の管轄外です。ですが、保健室を私的な──その、デートスポットとして利用しているのであれば、それは問題です」


 デートスポット。消毒液と骨格標本のポスターがあるデートスポット。世界で最もロマンチックではないこの空間が、デートスポット認定を受けている。


 朝倉先生が眉を上げた。


「柊さん。保健室の利用記録って、どこから?」


「保健室の入退室記録です。体調不良で来室した生徒の記録から、黒瀬さんと神代さんの名前が──」


 朝倉先生がコーヒーカップを持ったまま、柊の言葉を遮った。


「あ、それ、二人とも体調不良では来てないわよ。黒瀬くんは一年の時からの常連で、私が許可してる。神代さんも最近は常連だけど、保健室の利用は自由。昼休みに来て静かに過ごすぶんには、誰でもウェルカム」


 朝倉先生の説明が淡々と柊の前提を崩していく。利用記録に名前がないのは、体調不良ではなく「休憩」として処理されているからだ。風紀的に問題があるなら、管理者である先生が判断する。


 柊の表情が揺れた。だが、すぐに持ち直した。クリップボードを握り直す。


「で、では。実際の利用状況を、この目で確認させてください」


 この目で確認。つまり今、まさにこの場面を「証拠」として記録するつもりだ。


 柊が保健室の中を見回した。目が順番に止まる。


 まず、弁当。二人ぶんの弁当箱が机の上に開いている。おかずの彩りが良い。同じデザインの箸が二膳。


 次に、ブランケット。俺の膝にかかっているグレーのブランケット。新品のタグはもう切ってある。


 その次に、冷蔵庫。扉に貼られた「麦茶ストック:黒瀬くん用」と書かれた付箋──いつの間にか貼られている。神代さんの字だ。丸い文字。


 最後に、棚。弁当箱のカバーが置かれ、その横にマスクの束。整然と並んでいる。


 柊のペンが動いた。クリップボードに何かを書いている。書く速度が速い。情報量が多いのだろう。


 俺は弁当に視線を戻した。照り焼きの残りを口に運ぶ。食べていないと手持ち無沙汰だ。取り調べ中に食事を続ける被疑者の気分。


 柊がメモを取りながら呟いた。声に出ているのは無意識だろう。


「弁当箱……二人ぶん……手作り……生活支援……ブランケット……私物の持ち込み……冷蔵庫に名前……」


 記録が積み上がっている。客観的事実の列挙。だが事実を並べると、「保健室の不正利用」ではなく「同棲の実態」が浮かぶ。柊が調べるほど、結論が「交際の証拠」に収束していく。


 そのとき、神代さんが動いた。


 立ち上がって、俺の隣に来た。ブランケットが少しずれている。膝からずり落ちかけている。俺が食事に集中している間にずれたらしい。


 神代さんが屈んで、ブランケットの端を直した。丁寧に、膝全体を覆うように整えた。


「湊くん、ずれてるよ♡」


 その動作を、柊は至近距離で見ていた。


 ペンが止まった。


 二秒の沈黙。


 ペンが再び動いた。今度は速い。


「──神代澪、黒瀬湊にブランケットをかけ直す。愛情表現と思われる」


 声に出して書いている。調査報告書に「愛情表現と思われる」を記載する風紀委員。それは風紀の報告書なのか、恋愛観察日誌なのか。


 神代さんが自分の席に戻った。何事もなかったように卵焼きの続きを食べ始めた。柊の存在が視界に入っているのかいないのか、判別できない。


「あの──」


 柊が口を開いた。少し声が震えている。


「……もう一点、確認させてください。冷蔵庫の付箋に『黒瀬くん用』とありますが、保健室の冷蔵庫を個人の物資保管に使用することは」


 朝倉先生が手を上げた。制止。


「それは私が許可してるわ。麦茶の二、三本くらい、冷蔵庫の空きスペースに入れても問題ない。他の生徒が利用する医薬品の保管に支障がない範囲で」


「……そう、ですか」


 柊のクリップボードの紙が、もう半分埋まっている。来室してからまだ十分も経っていない。情報収集の速度が異常だ。だが収集された情報の性質が、本人の意図とずれている。


 「保健室の不正利用」を証明するために来たはずが、メモに残っているのは「弁当二人ぶん」「ブランケットをかけ直す」「冷蔵庫に名前入り付箋」。どれも風紀違反の証拠ではなく、交際の証拠だ。


 柊自身も、それに気づき始めている。


 ペンを持つ手が止まった。クリップボードの記載内容を読み返している。眉間のしわが深くなった。


「……これは」


 呟いた。


「……私は何を調べているんですか……」


 二回目だ。八代の情報によると、最初の調査でも同じ台詞が出たらしい。学習しない。いや、学習した結果「今度は切り口を変えよう」と思って来たはずなのに、着地点が一度目と同じになっている。


 朝倉先生がコーヒーを一口飲んだ。


「柊さん、結論は?」


「…………保健室の利用については、管理者である朝倉先生が許可しているため、風紀上の問題は認められません」


 敗北宣言だ。丁寧語の敗北宣言。


「ただし」


 柊がペンを握り直した。最後の抵抗。


「ただし、状況証拠として記録は残させていただきます。今後、同様の事例が他の生徒から報告された場合の参考資料として」


 参考資料。柊の調査メモが「参考資料」として保管される。その中身は弁当の詳細と、ブランケットのかけ直しと、冷蔵庫の付箋。参考になるのは風紀ではなく、交際の実態だ。


「……わかりました。では、失礼します」


 柊がドアに向かった。背筋がまっすぐだ。負けたが姿勢は崩さない。風紀委員の矜持。


 ドアノブに手をかけた瞬間、振り返った。


「……黒瀬さん」


「……何」


 柊がクリアファイルの端を指で整えた。視線が泳いでいる。


「あの──交際されているなら、それ自体は風紀に反しません。ただ、公共の場である保健室で、あまり……その」


 言葉が詰まった。頬が少し赤い。


「……あまり甘い空気を出さないでいただけると、調査する側としては助かります」


 甘い空気。出している自覚はない。ないが、否定すると「甘い空気に無自覚なカップル」になる。肯定すると「自覚的に甘い空気を出しているカップル」になる。どちらに転んでもカップル認定だ。


「……付き合ってない」


「…………そうですか」


 信じていない。完全に信じていない。目が「この期に及んで」と語っている。クリップボードに半ページぶんの交際証拠を書いた直後に「付き合ってない」を聞かされたら、そうなる。


 柊がドアを開けて出ていった。足音が廊下に遠ざかる。真面目な足音だ。一歩一歩が正確で、迷いがない。


 ◇


 柊が去ったあと。保健室に静寂が戻った。


 朝倉先生がカルテの整理を再開している。何事もなかったかのように。先生にとっては想定内の出来事だったのだろう。保健室の管理者は、来室者のすべてに対応する。風紀委員の調査も、生徒の昼寝も、等しく「対応」の範囲内だ。


 神代さんが文庫本を開いた。弁当はもう食べ終わっている。弁当箱の蓋を閉め、カバーに入れ、棚に戻す。一連の動作が滑らかだ。三週間の反復で身についたルーティン。


「……ねえ、湊くん」


 文庫本のページに目を落としたまま、声だけが来た。


「さっきの子、一生懸命だったね」


 一生懸命。確かに柊は一生懸命だった。クリップボードとペンを持って、利用記録を調べて、現場を確認して、メモを取って。手順は完璧だった。結論だけが目的地と違う場所に着いた。


「……笑い事じゃないだろ」


 神代さんが顔を上げた。保健室モードの、やわらかい表情。


「笑ってないよ? 本当に一生懸命だなって思っただけ」


 笑っていない。確かに笑っていない。だが目元が穏やかすぎる。嵐の後の凪みたいな静けさだ。柊という嵐が去って、保健室が元の水域に戻った安堵がある。


「あの子のメモ、ちょっと見えたんだけど」


「……見えたのか」


 神代さんが頬杖をついた。


「『弁当箱二つ、手作り、色違い』って書いてあった。色違いじゃないよね。色は一緒だよ? 紺のカバーでしょ?」


 どうでもいい情報を訂正している。風紀委員のメモの正確性を気にする前に、弁当箱が色違いかどうかを気にする感覚がわからない。


「……色は関係ない」


「関係あるよ♡ お揃いの方がいいでしょ♡」


 お揃い。弁当箱がお揃い。柊がこの発言を聞いていたら、クリップボードの紙がもう一枚必要になっていた。


 朝倉先生が振り返った。


「……二人とも、調査が終わったからって甘い空気を再開しないで。柊さんの気持ちも考えなさい」


 俺は箸を置いた。


「甘い空気なんか出してません」


「出てるわよ。室温が二度上がった気がする」


 先生が体感温度で会話の糖度を測っている。保健室の温度計は正常だ。異常なのは、この空間に漂う何かだ。


 ◇


 五時間目。教室。


 古典の授業を受けながら、柊のメモのことを考えている。


 クリップボードに半ページ。「弁当」「ブランケット」「冷蔵庫の付箋」「ブランケットをかけ直す動作」。どれも風紀違反ではない。朝倉先生の許可済みだ。


 だが、あのメモが「参考資料」として保管されるということは、どこかに物理的に存在するということだ。紙に書かれた情報は、デジタルデータよりもコピーされにくいが、紛失しやすい。


 紛失した紙を拾う人間が、この学校にいる。


 八代凛太郎。情報の真空を嫌う男。柊の調査メモが八代の手に渡ったら、「参考資料」は「報道資料」に変換される。風紀委員の公式記録という箔がつけば、信憑性が跳ね上がる。


 ──考えすぎか。柊は真面目だ。メモの管理もちゃんとするだろう。


 そう信じたい。だが、信じたいことが実現した試しは、この一ヶ月で一度もない。


 ◇


 放課後。


 保健室に向かう途中、廊下で柊とすれ違った。


 柊は俺を見て、一瞬だけ立ち止まった。クリップボードはもう持っていない。代わりに、鞄の横にクリアファイルが挟まっている。中に紙が見える。


 あれがメモだ。調査報告書。半ページぶんの交際証拠カタログ。


「……黒瀬さん」


 足が止まった。


「……何」


 柊が姿勢を正した。


「先ほどの調査では、問題は認められませんでした。今後も保健室の適切な利用をお願いします」


 公式コメント。風紀委員としての締めくくり。


「……はい」


「それと」


 柊が目を逸らした。声が小さくなった。


「……あのブランケット、いいものですね。神代さんの趣味がいいんだと思います」


 趣味。ブランケットの趣味を褒められた。風紀委員が調査対象のブランケットを褒めている。調査報告書に「趣味がいい」は書かないでほしい。


「……どうも」


 柊が会釈して去った。真面目な足音が遠ざかる。


 クリアファイルが鞄の横で揺れている。あの中に、俺と神代さんの保健室での三週間が、箇条書きで要約されている。弁当の種類。ブランケットの色。冷蔵庫の付箋の文面。ブランケットをかけ直す動作の描写。


 風紀委員の調査メモとしては異例の内容だろう。不正の証拠ではなく、親密さの証拠。柊自身がそれに気づいて「問題なし」と結論を出した。


 だが、過程で収集された情報は消えない。紙に書かれた事実は、紙が存在する限り残る。


 ◇


 保健室のドアを開けた。


「おかえり♡」


 この声が待っている場所。昨日と同じ。明日もたぶん同じ。


 窓際の椅子に座った。ブランケットを膝にかけた。文庫本を開いた。


 神代さんが向かいに座っている。さっきまでの柊の調査のことなど、もう考えていないような顔。文庫本のページをめくる指が穏やかだ。


 俺はページの上の文字を追いながら、別のことを考えている。


 柊のメモ。あの半ページの記録。客観的に見れば、あれは「事実の羅列」だ。弁当がある。ブランケットがある。冷蔵庫に名前がある。どれも嘘ではない。


 嘘ではないが、「付き合っている」も嘘だ。いや──嘘、だろうか。


 弁当を毎日食べている。ブランケットをかけてもらっている。冷蔵庫に自分の名前が貼ってある。この事実を第三者が見たら、何と判断するか。


 柊は「愛情表現と思われる」と書いた。風紀委員の観察眼。偏見ではなく、観察に基づく推定。


 推定が正しいかどうかは、俺にはまだわからない。


 わからないのに、「違う」と言い切れない自分がいる。昨日の「ありがとう」だけでは足りなかった感覚が、まだ胸の奥に残っている。足りない分を何で補うのか。言葉か、行動か、それとも──。


「湊くん」


 顔を上げた。神代さんが文庫本を閉じている。帰り支度。もうそんな時間か。


「明日も、ここにいるよ♡」


「……うん」


 短い返事。いつもの返事。だが今日は、「うん」の中に「いてほしい」が混じっている気がした。


 気がしただけだ。たぶん。


 神代さんが去った後、朝倉先生がデスクから立ち上がった。コーヒーカップを洗いに行くらしい。ドアの前で足を止めた。


「黒瀬くん」


 先生の声だった。振り返った。


「……はい」


「柊さんのメモ、気にしてる?」


 先生の勘は鋭い。俺が何を考えていたか、表情から読んだのだろう。


「……少し」


「あの子は真面目だから、メモの管理もちゃんとするわよ。たぶんね」


 たぶん。先生が「たぶん」をつけた。断言しなかった。つまり先生にも確証がない。


「……たぶん、ですか」


「たぶん。……まあ、仮に誰かの目に触れたとしても、書いてあるのは事実だけでしょう? 事実なら、困ることはないんじゃない?」


 事実なら困らない。理屈はそうだ。だが、事実の配列が生む印象は、事実そのものとは違う。「弁当を食べている」「ブランケットをかけてもらっている」「冷蔵庫に名前がある」──事実を三つ並べるだけで、「交際中」という印象が完成する。


 先生がドアを開けた。


「まあ、どうなっても私は保健室を守るから。安心しなさい」


 守る。先生がそう言った。保健室を守る。俺と神代さんの場所を、守る。


 先生が廊下に出た。足音が遠ざかる。


 一人になった保健室で、窓際の椅子に座っている。ブランケットがまだ温かい。文庫本のページは三十分で二ページしか進んでいない。


 棚を見た。弁当箱のカバー。マスクの束。冷蔵庫の付箋。全部が柊のメモに書かれている。半ページぶんの文字になって、クリアファイルに挟まれて、柊の鞄の中にある。


 あの紙が、このまま風紀委員の書類棚に眠ることを祈る。祈りが通じた試しはないが、祈るしかない。


 鞄を持って立ち上がった。ブランケットをたたんで椅子にかけた。明日もここにある。明日も俺はここに来る。


 記録されたものは、情報になる。情報は、人の手を渡る。


 ──考えすぎだ。


 保健室を出た。廊下の空気が冷たい。ブランケットのない世界は、少し肌寒い。

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