第12話 : 養うね♡(物理)
【第12話】養うね♡(物理)
俺の保健室には、いつの間にか備品が増えている。
カタログを作成したわけではない。棚卸しをしたわけでもない。だが毎日通っていれば、風景の変化には気づく。保健室の窓際──俺と神代さんの定位置──の半径一メートルに、三週間前には存在しなかった物品が複数ある。
整理しよう。
第一に、弁当箱。二段式。カバーは紺色の布製で、保健室のスチール棚の下段に毎朝収納される。所有者は神代澪。中身は日替わりだが、白米・主菜・副菜二品の構成は固定。味付けは俺の「うまい」をフィードバックにして週単位で微調整されている。先週の肉じゃがが甘めになったのは、俺が「……うまい」と言ったあとに「甘い方が好き?」と聞かれ、否定しなかったからだ。否定しないことが肯定になるシステムは、教室の噂だけでなく弁当の味付けにも適用されている。
第二に、麦茶。紙パック。保健室の小型冷蔵庫の中に常時二本ストックされている。朝倉先生の許可は「勝手に取った」のか「取り付けた」のか不明だが、冷蔵庫を開けると麦茶がある。銘柄は俺が購買で買っていたものと同じだ。いつ観察した。
第三に、ブランケット。薄いグレー。昨日から新規追加された装備品。窓際の椅子の背もたれにかけてある。俺専用。タグは昨日切った。
以上が現時点での支援物資リストだ。弁当が食糧。麦茶が飲料水。ブランケットが防寒具。衣食住のうち「食」と「衣」がカバーされている。「住」は保健室そのものだ。
この支援体制を軍事的に評価するなら、兵站が完成しつつある。前線の兵士──俺──が戦闘に集中できるよう、後方支援が整備されている。問題は、俺が何と戦っているのか不明な点だ。教室の空気か。噂か。自分自身か。
そして今日、兵站に新たな物資が追加された。
◇
火曜日の朝。保健室に寄ってから教室に向かうのが最近のルーティンになっている。弁当を棚に置くためだ。自分の弁当ではない。神代さんに頼まれたからだ。
「朝、先に置いておいてくれると嬉しいな♡」
あの声と弁当箱を同時に差し出され、断る隙がなかった。いつから俺は弁当の搬入係になった。
保健室のドアを開けた。朝倉先生がコーヒーを淹れている。湯気が朝の光に白く立つ。
「あ、今日も来たの」
「……弁当、置きに」
先生がマグカップに口をつけた。
「弁当ね。はいはい」
先生は何も追及しない。追及しないが、「はいはい」の二回目にわずかな含みがある。
弁当を棚に置いた。横に麦茶のストックが見える。冷蔵庫のほうにも二本。補充されている。俺が補充したのではない。誰が補充しているのか。答えは一つしかない。
教室に向かった。一時間目。古典。
古典の教科書が、ない。
鞄の中を探る。国語総合はある。古典はない。家の机に置いてきた。昨日、予習しようとして開いて、そのまま閉じて棚に戻した記憶がある。やってしまった。教科書忘れ。月に一回くらいの頻度で発生する凡ミスだ。
隣の席に借りに行くか。行けない。コミュ障だ。「教科書見せて」の一言が物理的に出力されない。先生に正直に言うか。教室の前で「忘れました」と発声するくらいなら、古典のない人生を受け入れたほうがマシだ。
授業開始三分前。覚悟を決めようとしたとき、教室のドアが開いた。
見覚えのある背中が、こちらに向かってくる。──いや、背中ではない。正面だ。
隣のクラスの女子。制服の着こなしが隙なく美しい。黒髪が肩で揺れている。
神代澪。外の顔。完璧な微笑みを装備した状態で、俺のクラスの教室に入ってきた。
「黒瀬くん」
外の顔は「黒瀬くん」呼びだ。教室中の視線が俺に集まった。噂レベル3の世界では、神代澪が俺のクラスに来るだけでイベントになる。
「……何」
神代さんが手に持っていたものを差し出した。
コピー用紙。数枚。ホチキスで留めてある。
「今日の古典、ここ使うでしょ? コピーしておいたよ」
古典の教科書の、今日の授業範囲のコピー。
俺が忘れたことを、なぜ知っている。
「……なんで」
神代さんが首を傾げた。外の顔のまま。
「朝、保健室に弁当置きに来たとき、鞄が少し開いてたから。古典が入ってないなって」
観察力が異常値を叩き出している。弁当の搬入係をしている数秒の間に、俺の鞄の中身をスキャンしたのか。空港の手荷物検査並みの精度だ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
──外の顔なのに甘い余韻がついた。いや、気のせいかもしれない。音声としては丁寧語で終わっている。だが耳の奥に残る響きに、保健室と同じ温度がある。気のせいだ。たぶん。
神代さんが去った。教室がざわつく。
「……黒瀬、今のなに?」
隣の席の男子が聞いてきた。
「教科書忘れたから、コピー」
「それを神代さんが持ってくるの?」
質問の意味はわかる。教科書を忘れた人間にコピーを届ける行為は、一般的には「友人」か「家族」の管轄だ。クラスも違う女子が朝の教室に乗り込んでくるのは、一般的ではない。
「…………」
黙った。否定する言葉がない。説明する言葉もない。「あいつの観察力がおかしいだけだ」は弁解として機能しない。
八代が後ろから肩を叩いた。
「黒瀬。お前、もう完全に養われてんな」
養われている。その表現は、的を射ている。的の中心を貫通して、裏の壁にまで到達している。
◇
昼休み。
保健室。
いつもの定位置。いつもの弁当。今日はそぼろご飯と筑前煮。和食路線が安定している。
「今日のそぼろ、ちょっと生姜多めにしてみた♡」
一口。生姜の風味が鮭弁当の和食路線とは別の方向に踏み込んでいる。
「……うまい」
「ほんと? やった」
フィードバックループが高速回転している。俺の一語が、翌日の弁当に反映される。開発サイクルが一日。スタートアップ企業並みの改善速度だ。
白石杏が保健室に入ってきた。
「おじゃましまーす。……あ、今日も二人でお弁当?」
杏は保健室の常連だが、火曜日に来るのは珍しい。体調が悪いのか。
「ちょっと頭痛いかも〜」
と言いつつ、俺たちの向かいに座った。頭痛の割に元気だ。
杏の視線が、弁当を往復している。俺の手元。神代さんの手元。弁当箱の色違い。
「ねえねえ、それ澪ちゃんが作ったの?」
「うん」
杏が身を乗り出した。
「二人ぶん毎日作ってるの?」
神代さんが頷いた。
「毎日♡」
杏が目を見開いた。感嘆の表情。演劇部なら満点の驚き顔。
「えっ、毎日……。すごくない? お弁当って朝早いし、二人ぶんって量もあるし」
杏が保健室を見回した。窓際のブランケット。冷蔵庫の麦茶。棚に整列している弁当箱のカバー。
「ていうか、なんか増えてない? 前来たときよりモノが多い気がする」
気がするのではなく、実際に多い。
神代さんが指折り数え始めた。
「えっとね、お弁当でしょ、麦茶でしょ、ブランケットでしょ、今日は教科書のコピーも持ってきたし」
自分で列挙している。本人に悪気はない。悪気がないからこそ、リストが伸びる。
「あと、湊くんが風邪ひいたら困るから、マスクも置いてあるよ」
マスク。初耳だ。
「……マスク?」
「うん。棚の上の段、ティッシュの横」
見た。あった。個包装のマスクが五枚、輪ゴムで束ねてある。いつ置いた。気づかなかった。
杏が両手で頬を押さえた。
「澪ちゃんすごい……もう完全にお嫁さんじゃん」
お嫁さん。その単語が保健室の空気に溶けた。澪が──神代さんが、一瞬だけ表情を崩した。崩した、というか、柔らかくなった。保健室モードの「ふわり」ともまた違う、照れに近い何か。
「お嫁さんは言いすぎだよ〜」
否定の語尾が伸びている。本気の否定ではない。
朝倉先生がデスクから振り返った。コーヒーカップを持ったまま、俺たちを見ている。目が据わっている。月曜日とは別種の不機嫌だ。
「……神代さん。ここは保健室であって新婚家庭ではないんだけど」
新婚家庭。先生がその比喩を使った。杏の「お嫁さん」を先生が公式に追認してしまった。養護教諭の発言は保健室においては行政判断に近い。
「えっ、新婚家庭?」
杏が食いついた。先生は「たとえ話」と言いたげに手を振った。
「たとえ話。たとえ話よ。……でもね、弁当、飲み物、ブランケット、教科書、マスク。もうここに足りないのは住民票くらいでしょう」
住民票。先生のたとえが行政書類に到達した。
俺は弁当のそぼろを噛みながら、目の前に並ぶ物資を改めて見た。弁当。麦茶。ブランケット。教科書のコピー。マスク。
五品目。
これを軍事用語で言えば、兵站の完成だ。食糧、飲料、防寒装備、情報支援、医療物資。前線維持に必要な五大要素がすべて揃っている。俺は完全に後方支援を受けている。補給線が確立され、持続的な作戦行動が可能になっている。
問題は、この補給線が一人の女子高生によって運営されていることだ。
「……神代さん」
「ん?」
口を開いた。何を言うべきか、考えている。「やりすぎだ」と言うべきか。「やめてくれ」と言うべきか。このまま支援を受け続けるのはおかしい。おかしいことはわかっている。対価を払っていない。金銭も、労力も、感情も。一方的に受け取るだけの関係は、どこかで破綻する。
「……そんなに、しなくていい」
出た言葉は、予想より弱かった。「やめろ」ではなく「しなくていい」。命令ではなく許可の取り消し。だが許可した覚えもない。最初から、許可を求められたことがない。
神代さんが少し首を傾げた。
「したいからしてるだけだよ?」
したいから。動機が本人の意思に完結している。俺がどう思うかは計算に入っていない。いや、入っているのかもしれないが、結果として行動が先に来る。俺の返答を待たずに弁当が出現し、麦茶が補充され、ブランケットが椅子にかかり、コピーが届き、マスクが棚に並ぶ。
「でも、おかしいだろ。……こんなに」
「おかしくないよ」
おかしくない。おかしくないと言い切れる神経が、すでにおかしい。だがその「おかしさ」を笑顔で包装されると、反論の糸口が消える。
杏が俺と神代さんを交互に見ている。にこにこしている。観戦モードだ。
「湊くんさあ、素直にありがとうって言えばいいのに〜」
杏が助け舟を出したのか、追い打ちをかけたのか、判別がつかない。
朝倉先生がマグカップを置いた。
「白石さん、頭痛は治った?」
「あ、治りました」
先生が書類に目を落とした。淡々と。
「じゃあ教室に戻りなさい」
杏が「えー」と口を尖らせたが、先生の目が本気だったらしく、素直に立ち上がった。
「じゃあね〜。湊くん、澪ちゃんを大事にしなよ〜」
去り際の台詞が、教室で言われる「彼氏としてのアドバイス」と同じ構造をしている。保健室の中でも外でも、俺は同じことを言われる。
◇
杏が去った後。保健室に三人──俺、神代さん、朝倉先生。
弁当を食べ終えた。文庫本を開いた。ブランケットを膝にかけた。
いつものルーティン。いつもの静けさ。窓から入る午後の光が、リノリウムの床に四角く落ちている。
神代さんも文庫本を開いている。隣の席。肩は触れていないが、ブランケットの端が神代さんの椅子の脚に触れている。布一枚の接続。物理的には意味のない距離だが、視覚的には「繋がっている」ように見える。
ページをめくる音が重なった。俺の文庫本と、神代さんの文庫本。
この並行読書が、いつから始まったのか。保健室に来て弁当を食べて、食後に本を読む。それだけのことだ。会話はほとんどない。必要がない。隣にいて、同じ時間を過ごして、チャイムが鳴ったら教室に戻る。
それだけのことが、なぜ「養う」と表現されるのか。
弁当を作ること。飲み物を用意すること。ブランケットを買うこと。教科書をコピーすること。マスクを置くこと。一つ一つは「親切」で説明がつく。二つまでは「お節介」で済む。三つになると「過剰」に入る。五つ揃うと──杏の言葉を借りるなら「お嫁さん」になる。
量が質を変える。一つの親切は善意だが、五つの親切は関係性の表明になる。
「……神代さん」
文庫本から目を上げずに、声だけ出した。
「ん〜?」
こちらも文庫本に目を落としたまま。
「……なんで、ここまでするんだ」
聞いてしまった。聞くべきではなかったかもしれない。答えによっては、この保健室の空気が変わる。
神代さんが文庫本のページに指を挟んだ。顔を上げた。俺を見た。
二秒の沈黙。
「湊くんがいるから♡」
答えになっていない。なっていないが、それ以上の答えはないと言わんばかりの確信がこもっている。
「俺がいるから、って……」
「湊くんがここにいて、お弁当食べて、本読んで、たまに『うまい』って言ってくれるから。それだけで、いいの」
それだけでいい。それだけ。俺がやっていることは何だ。保健室に来て、弁当を食べて、本を読んで、「うまい」と言う。それだけだ。対価と呼ぶには小さすぎる。感謝と呼ぶには足りなすぎる。
「養うね♡」
満面の笑みだった。保健室モード全開の、花が咲くような笑顔。「養う」という動詞がこれほど軽やかに発音される場面を、俺は他に知らない。
朝倉先生がデスクでキーボードを叩く手を止めた。
「……聞こえてるからね、私」
先生の声は平坦だが、こめかみの辺りが微妙にひくついている。
俺は黙って文庫本に視線を戻した。活字が読めない。さっきの笑顔が網膜に焼きついている。昨日のスポットライトとは違う種類の眩しさ。昨日は照度が高かった。今日のは、照度ではなく色温度が高い。暖色。暖かい光。
◇
放課後。
神代さんが帰り支度をしている。弁当箱をカバーに入れ、文庫本をバッグにしまう。ブランケットを丁寧にたたんで椅子の背もたれにかける。明日もここにある前提の所作。
「じゃあ、また明日♡」
当然のように「明日」が存在している。
「……うん」
神代さんがドアに向かった。背筋が伸びる。外の顔が起動する。保健室の空気を脱いで、廊下の空気を纏う。切り替えの速さは毎回同じだ。
ドアノブに手をかけた瞬間、俺は声を出した。
「……神代さん」
振り返った。半分だけ。ドアを開けかけた姿勢のまま。
「……ありがとう」
小さい声だった。教室では届かないくらいの音量。でも保健室の距離なら、届く。
神代さんの表情が変わった。
保健室モードの「ふわり」ではなかった。外の顔の「完璧な微笑み」でもなかった。
口元が震えた。目が少し潤んだ。そして──笑った。どちらの顔でもない笑顔。形が整っていない。左右対称でもない。完璧ではない。だが、俺が三週間で見てきたどの笑顔よりも、その笑顔は本物だった。
「……うん♡」
声が掠れていた。
ドアが閉まった。廊下に出た足音が遠ざかる。上履きのゴム底がリノリウムを踏む、軽い音。
朝倉先生がコーヒーのおかわりを淹れている。背を向けたまま、何も言わなかった。
俺は椅子に座ったまま、閉じたドアを見ていた。
あの顔を、保健室モードの箱に入れてはいけない気がした。「甘い」「距離が近い」「お花畑」──そういうラベルで処理してきたものの下に、別のものが沈んでいる。
杏は「お嫁さん」と言った。朝倉先生は「新婚家庭」と言った。八代は「養われてる」と言った。どれも冗談の範囲だ。笑える距離にある表現だ。
でも、さっきの笑顔は冗談の距離にはなかった。
◇
帰り道。
鞄が昨日より軽い。弁当箱は保健室に置いてきた──いや、置いてきたのは神代さんの弁当箱であって、俺の持ち物ではない。だが俺の鞄に入っていたこともないのに、「置いてきた」という感覚がある。所有権の境界がぼやけている。
今日追加された物資。教科書のコピー。マスク。どちらも事前に告知されず、気づいたときにはそこにあった。神代さんの支援は予告なく着弾する。迎撃する暇がない。
弁当、麦茶、ブランケット、教科書のコピー、マスク。
五品目。朝倉先生は「足りないのは住民票くらい」と言った。住民票は行政手続きだから冗談として成立するが、冗談の精度が高すぎて笑えない。
来週には何が増えるのだろう。傘か。膝掛けの予備か。体温計か。もう何が追加されても驚かない。驚かない自分が、三週間前の自分からは想像できない。
──養うね。
あの声が耳に残っている。「養う」。扶養する。生活を支える。一人の人間の日常を、物資と行動で支える。
俺はいつからこの人の扶養に入ったんだ。扶養届にサインした記憶はない。
でも、弁当を食べた。麦茶を飲んだ。ブランケットにくるまった。コピーを使った。マスクの存在を確認した。受け取った時点で、届出は完了している。
──「ありがとう」と言った。
あの笑顔が返ってきた。完璧ではない、形の崩れた、本物の笑顔。
俺の「ありがとう」はあの笑顔に見合う重さだったのか。三文字に込められる情報量は限られている。もっと言うべきことがあったのではないか。「ありがとう」の後ろに続けるべき言葉が、あったのではないか。
何を続けるべきだったのか。
わからない。わからないが、「ありがとう」だけでは足りなかった気がしている。足りない分の借金が、弁当箱と一緒に保健室の棚に積まれている。
返済方法は、まだ見つかっていない。




