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第11話 : 噂レベル3の世界

【第11話】噂レベル3の世界


月曜日の教室は、金曜日とは別の国だった。


 入国審査はなかった。パスポートの確認も、ビザの提示も求められなかった。俺は週末を挟んで、知らない間に異国に編入されていた。公用語は「黒瀬と神代さん、付き合ってるでしょ」。


 席に着く。鞄を下ろす。その三秒の間に、変化に気づいた。


 視線の質が違う。


 先週の金曜日まで、教室の視線は「問い」だった。疑問符を含んだ目。「本当かな」「マジかな」「どうなんだろう」。不確定なものを確認しようとする、探りの目線。


 月曜日の視線は「認定」だ。疑問符が消えている。ピリオドに置き換わっている。「付き合ってる」。終止符。確定事項として処理済み。


 土日を挟んで何が起きたのか。たった二日間で噂がアップグレードされた。バージョンが上がっている。金曜のver.2.0──疑惑──から、月曜のver.3.0──確信──に。週末のアップデートが速すぎる。メンテナンス期間が足りていない。


「おはよう黒瀬」


 八代が、いつもより早い。珍しく俺より先に教室にいた。


「……おはよう」


 八代が鞄をロッカーに押し込みながら聞いた。


「週末どうだった?」


「……普通だけど」


 八代が頷いた。だが目は笑っている。


「お前の知らないところで、週末は普通じゃなかったぞ」


 声を低くして続けた。


「金曜の放課後から、クラスのグループLINEがえらいことになってた。田中の報告と渡辺の写真がセットで回って、土曜の昼には学年のほぼ全員が把握した。日曜には隣の学年にも漏れたって噂がある」


 グループLINE。俺は参加していない。正確には、招待されたが通知を切ったまま一度も開いていない。コミュ障にとってグループLINEは公開処刑場だ。だが処刑場に出席しなくても、判決は下される。


「で、全体の空気としては」


 八代が腕を組んだ。


「『黒瀬は否定しなかった=認めた』で決着。もう『付き合ってるの?』って聞くフェーズは終わった。今は『いつからなの?』のフェーズ」


 いつから。いつからって、何がいつからだ。付き合っていないのだから「いつから」は存在しない。存在しない時系列を問われても、回答のしようがない。ない日付を答えることはできない。


「ちなみに今の主流の説は、『保健室で毎日弁当食ってる時点で付き合ってないわけがない』。反論ある?」


 ある。あるが、言えない。反論の材料はある。弁当は神代さんが一方的に作ってくる。俺が頼んだわけではない。最初は多く作りすぎたと言っていた。その「作りすぎた」が三週間続いていることの説明がつかないだけで──。


 説明がつかないのは弁解として致命的だ。


「……反論、ない」


「だろうな」


 八代が肩をすくめた。


 ◇


 一時間目が始まる前。異変は教室の外でも起きていた。


 トイレに行って戻る途中、廊下ですれ違った他クラスの男子が、俺を見て小さく会釈した。知らない。面識がない。なのに会釈をされた。


 最初は人違いかと思った。だが二回目が来た。渡り廊下で、別クラスの女子二人組が「あ」という顔をして、囁き合いながら通り過ぎた。三回目。階段で一年生の男子が俺を見て「あの人……」と友人に何か言っている。


 見られている。名指しではない。だが「あの人」の指す対象が俺であることは、視線の角度から推定できる。


 金曜日までは「保健室で何かあるらしい黒瀬」だった。月曜日には「神代さんの彼氏の黒瀬」に更新されている。校内における俺の認識タグが書き換えられた。「無口」「目つきが悪い」「保健室によくいる」──それらの属性の上に「神代澪の彼氏」が最上位タグとして貼りつけられた。


 目立たないことだけが取り柄だった俺のステルス機能が、完全に無効化されている。


 ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 席にいると、隣のクラスの女子が二人、教室の入口から俺を覗いている。目が合った。逃げない。逃げないどころか、手招きしている。


 無視したい。無視したいが、手招きされて無視するのは、コミュ障であっても社会的にまずい。


 教室の入口まで行った。


「あの、黒瀬くんだよね? 神代さんの」


 文が途中で止まった。彼氏、とは言わなかった。だが後ろに続く単語は一つしかない。


「……何」


 二人のうち背の高い方が、スマホを胸の前で握りしめながら口を開いた。


「あのね、神代さんって誕生日いつ?」


 知らない。なぜ俺に聞く。


「……知らない」


「えっ、彼氏なのに知らないの?」


 彼氏ではない。彼氏ではないが、「彼氏ではない」と説明するよりも「誕生日を知らない」ことへの驚きの方が先に来ている。もう否定の機会すら与えられない構造だ。質問の前提に「交際中」が組み込まれているため、否定するには前提ごと覆す必要がある。だが前提を覆すコミュニケーションコストが高すぎて、俺の口座残高では支払えない。


「あ、じゃあ好きな食べ物は?」


「……わからない」


 嘘だ。りんごジュースが好きだ。弁当は和食中心で、卵焼きは甘め。飴はいちご味を選ぶ。知っている。三週間、隣で見てきた。だが「知っている」と答えたら、それこそ彼氏の回答になる。


「えー、ほんとに? まあいいけど。ありがとう」


 二人組が去った。情報を得られなかったはずなのに「ありがとう」と言われた。何の収穫もなかっただろうに。


 ──いや、違う。収穫はあった。「聞いてみたら否定しなかった」。それ自体が情報だ。


 噂レベル3の世界では、俺の沈黙がすべて肯定として翻訳される。


 ◇


 四時間目の移動教室。理科室に向かう廊下。


 前方に、見覚えのある黒髪が見えた。


 神代さんだ。別クラスの移動教室とルートが重なった。すれ違いざま、一瞬だけ目が合った。


 外の顔の神代澪。背筋がまっすぐで、表情が整っている。周囲には同じクラスの女子が数人。完璧なかたちをした笑顔。保健室の中とは違う人間。


 すれ違った。


 その瞬間、小さく声が聞こえた。


「放課後、保健室で♡」


 ──聞こえた。俺には聞こえた。周囲に聞こえたかどうかはわからない。聞こえていないことを祈る。だが祈りが通じた試しは、この三週間で一度もない。


 廊下を歩き続けた。心拍数が五秒間だけ跳ね上がった。五秒で収まるあたり、耐性ができつつある。耐性ができること自体が、すでに何かを受け入れている証拠だ。


 ◇


 昼休み。


 保健室のドアを開けた。


 消毒液と、ほのかに甘い匂い。今日のメニューはわからないが、弁当箱から漏れる湯気が窓の光に白く浮かんでいる。


「湊くん♡」


 この声は変わらない。教室が変わっても、廊下の空気が変わっても、保健室のドアをくぐれば同じ声が待っている。


 席に着いた。弁当の蓋を開けた。鮭弁当。焼き鮭が中央に鎮座し、ほうれん草のおひたしと卵焼きが脇を固めている。配色の美しさが弁当箱という小さな額縁に収まっている。


「……うまい」


「よかった♡」


 いつもの交換。俺の「うまい」と神代さんの「よかった」。最小限の語彙数で成立する昼食の儀式。


 朝倉先生がデスクでコーヒーを飲んでいた。月曜日の先生は少しだけ機嫌が悪い。週明けの書類が多いらしい。


 弁当を食べながら、午前中のことを反芻する。廊下の視線。知らない女子の質問。すれ違いざまの囁き。


「……神代さん」


「ん?」


 箸を置いて、こちらを向いた。


「……今日、俺に話しかけてきた人がいた」


 神代さんが箸を止めた。


「えっ、誰?」


「知らない人。隣のクラスの。神代さんの誕生日を聞かれた」


 神代さんが目を丸くした。三秒。それから、くすりと笑った。


「なにそれ。湊くん、私の誕生日知ってるの?」


「……知らない」


 神代さんが人差し指を立てた。


「十月二十三日♡ 覚えてね」


 情報がまたひとつ増えた。十月二十三日。俺の脳の中に、望んでいないデータベースが構築されつつある。りんごジュース。いちご味の飴。卵焼きは甘め。十月二十三日。全部、三週間で蓄積されたログだ。


 朝倉先生がコーヒーカップを置いた。


「……黒瀬くん。最近、保健室に来る生徒が増えてるの、気づいてる?」


 気づいていない。俺は昼休みにしか来ないから、他の時間帯のことは知らない。


「神代さんがここの常連になってから、なんか理由つけて覗きに来る子が増えた。『頭が痛い』『お腹が痛い』って来て、入口からチラッと中を見て、すぐ帰る」


 視察だ。保健室が観光地化している。「神代さんと黒瀬が一緒にいる保健室」を見学しに来る生徒がいる。動物園の人気展示コーナーと同じ構造だ。ガラスの向こうにいるのが俺たちだという点を除けば。


 神代さんが首を傾げた。


「そうなんだ。気づかなかった」


「気づかないのはすごいわね」


 朝倉先生のツッコミが淡々と刺さる。


「まあ、体調悪いって言ってる以上は追い返せないんだけど。……ここは保健室であって展示室ではないので、見世物になるのは困ります」


 先生が俺と神代さんを交互に見た。


「あなたたちに自覚があるかは別として、ね」


 自覚。ない。いや、ある。ないと言いたいが、ある。俺たちが保健室で並んで弁当を食べている光景が、外から見てどう映るか──その自覚は、先週あたりから持ち始めている。持ち始めているが、持っていることを認めたくない。


「……すみません」


「謝らなくていいわよ。ただ、現状認識として。この保健室の人口は確実に増えてる。あなたたちのせいで」


 神代さんが「ごめんなさい」と微笑んだ。外の顔に近い、きれいな笑顔。朝倉先生が「いいけどカーテンは閉めないで」と付け足した。


 ◇


 五時間目の後。


 教室に戻ると、席に座った瞬間に声がかかった。今度は男子だ。


「黒瀬、神代さんって怒るとどんな感じ?」


 知らない。怒った神代さんを見たことがない。保健室の中ではずっと穏やかだ。外の顔も穏やかだ。怒りという感情が搭載されていないのかと思うほど、どちらの顔にも怒りがない。


「……知らない」


「マジ? 怒らせたことないの?」


 怒らせたこともないし、怒ったところも見ていない。そもそも付き合っていないのだから、喧嘩もない。だが「付き合っていない」を挿入する隙間が会話に存在しない。


「すげーな。よっぽど仲いいんだな」


 去っていった。「仲がいいから怒らせたことがない」という解釈になったらしい。違う。関係性の深さではなく、接点の種類の問題だ。保健室で弁当を食べて本を読むだけの関係に、怒る要素がない。


 だが「弁当を食べて本を読むだけの関係」を人はカップルと呼ぶのだろうか。呼ぶのだとしたら、俺の語彙の方が間違っている。


 もう一人。放課後前の休み時間に、別の男子が来た。


「黒瀬、今度の週末ヒマ? 何人かでカラオケ行くんだけど、お前も来ない? 神代さんも誘えば?」


 カラオケ。俺がカラオケに行くのか。コミュ障で教室の空気が吸えない俺が、密室で歌うのか。想像するだけで胃が裏返る。


「……いい」


「そっか。まあ、二人で過ごしたいよな。わかるわかる」


 わからない。断った理由はコミュ障であって、神代さんと二人で過ごしたいからではない。ではないのだが、否定しなければ「二人で過ごしたい」が事実として流通する。


 ──否定しなかった。また。


 金曜日の教室で覚えた感覚が、月曜日にも再現されている。否定の言葉が出ない。出ないことに慣れ始めている。慣れとは恐ろしいものだ。金曜日には驚きだったことが、月曜日にはもう日常になっている。


 ◇


 放課後。


 保健室に向かう足が、今日はいつもの速度だった。逃走速度ではない。巡航速度。教室から逃げているのではなく、保健室に向かっている。


 その違いに気づいて、足が止まりかけた。


 逃げている、のではなく。向かっている。


 いつからだ。いつから保健室は「逃げ場」ではなく「行き先」になった。目的地が変わっている。出発地は同じ教室なのに、ベクトルの意味が反転している。


 ドアを開けた。


「おかえり♡」


 「おかえり」。帰ってきた場所に使う言葉。


 神代さんが窓際に座っている。文庫本は閉じたまま。机の上に、見慣れないものが置かれていた。


 毛布。薄いグレーの、小さめのブランケット。折りたたまれて、ビニール袋から半分出た状態で机に乗っている。新品だ。タグがまだついている。


「……それ」


 神代さんが立ち上がって、ブランケットを手に取った。広げた。俺の方に差し出した。


「湊くん、いつも寒そうだから」


 寒い。確かに寒い。保健室は空調があるが、窓際は冷える。特に午後は日が陰ると気温が下がる。先週も、文庫本を持つ指先がかじかんでいた。


 それを、見ていたのか。


「ブランケット持ってきたの♡ 保健室に置いておけば毎日使えるでしょ?」


 毎日。毎日という単語が自然に出てくる。明日も明後日も、俺がここに来ることが前提になっている。前提を疑ってすらいない。


「……いい。自分で持ってくるから」


「もう買っちゃったから♡」


 拒否権が行使される前に取引が成立するパターン。購買の麦茶と同じだ。神代さんの行動は、俺の返答を待たない。待たないことで、俺の「断る」という選択肢を消している。


 ブランケットを受け取った。柔らかい。薄いのに暖かい。素材がいい。値段が気になるが聞けない。聞いたら「気にしないで」と返されるだけだ。


「ありがとう」


 言えた。小さい声だが、言えた。先週から「ありがとう」が少しだけ出やすくなっている。「違う」は言えないのに「ありがとう」は言える。否定は難しく、感謝は簡単。それは何を意味しているのか。


 神代さんが、目を細めて笑った。


「どういたしまして♡」


 その笑顔が──いつもの保健室モードのやわらかい笑顔とも、少し違った。うまく言語化できないが、ワット数が高い。照度が上がっている。普段が蛍光灯だとしたら、今の笑顔はスポットライトだ。直視すると網膜を焼く。


 視線を逸らした。ブランケットを膝にかけた。暖かかった。


 朝倉先生がデスクから振り返って、俺たちを見た。何か言いかけて、コーヒーを飲んで、何も言わなかった。


 代わりに小さく息を吐いただけだった。


 ◇


 帰り道。


 月曜日が終わった。噂レベル3の一日目。


 変わったことを整理する。教室で「彼女」の話題を振られるようになった。知らない人に話しかけられるようになった。廊下ですれ違うだけで反応が起きるようになった。


 コミュ障の俺にとって、それは本来なら地獄だ。注目されること。話しかけられること。人の視線の中に立つこと。教室から保健室に逃げていた理由そのものが、今、校内全体に拡大している。


 なのに──地獄の温度が、思ったほど高くない。


 噂は怖い。視線は重い。質問は辛い。でも、教室に戻ったときの空気は、先月までの「透明な無視」より、少しだけマシかもしれない。無視される孤独と、噂される煩わしさを天秤にかけたとき、どちらが楽なのか。


 答えは出ない。出ないが、鞄の中のブランケットが妙に暖かい。


 新品のブランケット。タグを切ってしまった。もう返品できない。返品できないものが、俺の生活に組み込まれていく。弁当、麦茶、ブランケット。神代さんが持ち込むアイテムが、ひとつずつ増えている。毎回拒否できず、毎回受け取って、毎回「ありがとう」だけ言う。


 俺の保健室が、少しずつ「俺の」ではなくなっている。


 神代さんの弁当箱。神代さんが買ったブランケット。神代さんが覚えている俺の好み。保健室の中に、神代さんの気配が沈殿している。消毒液の匂いに混じる、かすかに甘い匂い。それがいつからか、保健室のデフォルトの匂いになっている。


 元に戻れるのか。三週間前の、静かで、一人で、何も起きない保健室に。


 たぶん、もう戻れない。


 戻れないことが怖いのか、と聞かれたら──怖い。


 戻りたいのか、と聞かれたら──。


 金曜日に保留にした十番目が、まだ白紙のまま鞄の中にある。ブランケットの隣に。答えはまだ出ない。出ないまま、噂レベル3の世界の二日目が、明日やってくる。

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