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第10話 :「否定しなかった」の意味

第10話 :「否定しなかった」の意味


 金曜日が来た。


 昨日の帰り道に予感していた通りの朝だ。予感が的中してほしくないときに限って、天気予報より正確に当たる。気象庁に転職できるかもしれない。採用条件に「コミュニケーション能力」が含まれていなければ。


 教室に入った。


 空気が、違う。


 木曜日までは「なんとなく視線がある」だった。廊下ですれ違う程度の圧力。気のせいだと言い聞かせれば凌げる水準の。だが金曜日の教室は、もう「なんとなく」ではない。明確に、意思を持って、俺を見ている目がある。


 席に着く。鞄を下ろす。その間にも、斜め後ろのグループが声を落とした。声量を下げたつもりだろうが、教室の音響は声の到達距離に対して正直だ。


「──昨日の購買の、やっぱマジなんだ」


「マジマジ。渡辺が写真見せてくれた。並んでた」


 もう一人の声が被せた。


「写真あるの」


 あるのか。昨日、スマホを持つ手を微妙に動かしていた一年生。撮っていないと思った。たぶん、は当てにならない。スマートフォンのレンズは証拠収集装置として完成されすぎている。シャッター音さえ消せば、盗撮と記録の境界が溶ける。


 八代が登校してきた。今日は珍しく遅い。いつもは速報を持ってくる側なのに、今朝は情報の受信側に回っている。


「おはよ黒瀬。──なんか教室の雰囲気やばくね?」


「……知ってるだろ」


 八代が肩をすくめた。


「まあな」


 八代が椅子に座りながら、声を低くした。


「購買の件、思ったより広がってる。A組からD組まで全クラスに届いてるっぽい。渡辺の写真が決定打だな。あいつ拡散力だけはある」


 写真。俺と神代さんが購買の列で並んでいる写真。後ろ姿かもしれない。横顔かもしれない。角度は不明だが、「二人で並んでいた」という事実が映像で固定されている。


「なあ黒瀬」


 八代の声が、いつもの軽さと少し違う色を帯びた。


「今日、たぶんクラスの誰かが直接聞いてくるぞ。覚悟しとけ」


「……聞いてくるって」


 八代が片手で教室を指した。


「決まってるだろ。『付き合ってんの?』って」


 昨日の帰り道に予測した通りだ。予測が的中することの、気持ち悪いほどの正確さ。月曜日の柊、水曜日の白石、木曜日の購買。一週間かけて積み上げられた証拠が、金曜日に判決として下される。裁判の最終弁論日だ。


 一時間目。何事もなかった。二時間目。何事もなかった。三時間目の移動教室で、隣のクラスの生徒が俺を見て何か囁いたが、声は届かなかった。


 四時間目が終わった。昼休みの五分前。


 ◇


 それは、四時間目終了のチャイムが鳴って二十秒後だった。


 席を立とうとした俺の前に、クラスメイトの田中が立った。田中健太。バスケ部。八代ほどの発信力はないが、クラスの空気を読む感度は高い。「みんなが聞きたいことを代表して聞く」タイプの人間だ。


 国会の代表質問に近い。質問者は田中だが、背後にはクラスという有権者がいる。


「黒瀬、ちょっと聞いていい?」


 教室が静かになった。完全な静寂ではない。椅子を引く音、教科書を片付ける音は続いている。だが会話のレイヤーだけが消えた。全員が聞いている。聞いていないふりをして、全員が聞いている。


「……何」


「お前さ、神代さんと付き合ってんの?」


 来た。


 昨日の予測。八代の警告。一週間の蓄積。すべてがこの一文に収束した。


 教室の空気が、薄い膜のように俺を包んでいる。呼吸が浅くなる。こめかみの奥で心拍が聞こえる。


 答えなければならない。


 「違う」。二文字。たった二文字だ。先週も先々週も言ってきた。月曜日にカーテンの裏で言えなかった二文字。水曜日に白石に言った二文字。木曜日に下駄箱で言った二文字。毎回同じ否定。同じ文法。同じ結論。


 口を開いた。


「……ち」


 「が」が出ない。


 舌の根元で、二文字目が貼りついている。「ち」まで出た。「が」が続かない。「う」まで辿り着けない。


 教室が待っている。田中が待っている。クラスメイトが聞いていないふりで待っている。


 俺の口は、開いたまま止まっている。空気だけが漏れている。音にならない否定が、喉の奥で溺れている。


 一秒。二秒。三秒。


 俺は首を横に振った。


 声ではなく、動作で。言語ではなく、身体で。否定の意思表示としては最も曖昧な、頭部の水平移動。


 田中が一瞬、目を細めた。


「……おー。まあ、わかった」


 田中が席に戻った。教室の空気が元に戻る。会話が再開される。日常が復帰する。


 ──何がわかったんだ。


 俺は「違う」と言っていない。首を振っただけだ。首を振る動作が否定を意味するのは文化的慣習であって、言語的な明示ではない。「うなずく」と「首を振る」では情報の確度が違う。声に出した否定と、動作だけの否定では、記録上の重みが違う。


 だが、問題はそこではない。


 田中が席に戻ったあと、聞こえた。後ろの席から。


「なんか、首振っただけで否定はしなかったよな」


「な。言葉では言わなかった」


 椅子がきしむ音。もう一人が身を乗り出した気配。


「言えなかった、じゃね?」


 ──正確だ。


 「言わなかった」と「言えなかった」。他動詞と自動詞の差。意志と能力の差。俺は「言わなかった」のではなく「言えなかった」。その差を、後ろの席の人間は正確に読み取った。


 否定しなかった。口に出しては、否定しなかった。


 その事実が、教室の空気中に溶けていく。五時間目が始まる頃には、「黒瀬は否定しなかった」が学年の通貨になっているだろう。


 ◇


 昼休み。


 保健室に向かう足が、いつもより速い。逃走速度だ。教室から逃げている。教室の視線から、囁きから、「否定しなかった」という評決から。


 保健室のドアを開けた。


「遅かったね」


 神代さんが窓際の定位置で待っていた。弁当が二つ並んでいる。いつもの光景。いつもの匂い。いつもの人。


 席に着いた。蓋が開いた。


「今日は肉じゃが♡」


 肉じゃがだ。弁当箱の中に収まった家庭の味が、じゃがいもの輪郭を保ったまま詰まっている。煮崩れしていない。冷めても味が染みている。


「……うまい」


「ほんと? ちょっと甘めにしてみたの♡」


 先週から味付けのチューニングが続いている。俺の「うまい」の一語をフィードバックにして、毎日パラメータが調整されている。


 朝倉先生は不在だった。金曜日の昼休みは書類整理で保健室を空けることがある。つまり今日も二人きりだ。


 弁当を食べ終えた。文庫本を開いた。いつものルーティン。


 だが、今日は文字が頭に入らない。四時間目のあの瞬間が、活字の上に重なって消えない。田中の顔。教室の沈黙。首を振った自分の動作。あの三秒間が、リピート再生されている。


 文庫本を閉じた。


「……神代さん」


 声が出た。自分から話しかけている。珍しい。三週間で自分から切り出した話題は片手で数えるほどしかない。


 神代さんが文庫本から顔を上げた。


「ん?」


「……みんな」


 言葉を選んでいる。選んでいるのに、出てくる語彙が壊滅的に少ない。


「みんな、付き合ってるって思ってる」


 主語が大きい。「みんな」は不正確だ。全校生徒を調査したわけではない。だが体感として「みんな」は嘘ではない。


 神代さんが少し黙った。


 その沈黙の質が、いつもと違った。いつもの神代さんなら、間髪入れずに「そうなんだ」か「いいじゃん」が返ってくる。保健室モード全開の、あの甘い即答が。


 だが今日は、二秒ほどの空白があった。


 神代さんの目が、俺の目を見た。まっすぐに。保健室モードのやわらかさとも、外の顔の完璧さとも違う、どちらでもない目。


「嫌?」


 一語だった。


 甘い語尾がなかった。いつもの響きがなかった。むき出しの疑問形。


 嫌か。付き合ってると思われていることが、嫌か。


 答えるべきだ。「嫌だ」と答えれば、噂の否定に神代さんの協力を得られる。二人で足並みを揃えて「違います」と言えば、今よりは効果がある。


 「嫌だ」。二文字。さっき教室で出なかった「違う」と同じ長さの、二文字。


 口を開いた。


 閉じた。


 「嫌」が出ない。「違う」と同じように、喉の奥で溺れている。


 嫌じゃないのか。嫌なはずだ。コミュ障で、教室の空気が吸えなくて、噂をされるのが最も苦手な俺が──噂の当事者になっていることが、嫌じゃないのか。


 嫌だ。嫌なはずだ。


 でも──。


 「嫌」と言ったら、何かが終わる気がした。


 保健室の弁当が終わる。窓際の並行読書が終わる。消毒液の匂いの中で聞こえる、ページをめくる音と、たまに混じるやわらかい笑い声が──終わる。


 それは嫌だ。


 嫌だと言うことが、嫌だ。


 矛盾している。矛盾しているが、感情は矛盾したまま存在できる。論理はできないが、感情はできる。


 黙った。三秒。五秒。十秒。


 神代さんが、ふわりと笑った。


「じゃあ、このままで♡」


 甘い語尾が戻ってきた。いつものトーンが復帰した。


 だが俺は、さっきの二秒間の空白を忘れない。「嫌?」と聞いたときの、あの剥き出しの一語を忘れない。あの瞬間だけ、神代さんは保健室モードでも外の顔でもなかった。どちらの仮面もつけていない、素の問いかけだった。


 答えなかった。否定も肯定もしなかった。教室でも保健室でも、俺は同じことをしている。聞かれて、黙って、相手に解釈を委ねている。


 田中は「否定しなかった」と解釈した。


 神代さんは「このままで」と解釈した。


 二つの解釈は方向が違う。だが構造は同じだ。「黒瀬湊の沈黙」を、受け取った側が自由に翻訳している。


 ◇


 昼休みの残り時間。文庫本を開いたまま、一ページも進まなかった。


 神代さんはいつも通りに本を読んでいる。「このままで」と宣言したあとの神代さんは、本当に何事もなかったかのように日常に戻る。嵐のあとの青空。水曜日の白石のときもそうだった。


 朝倉先生が戻ってきた。コーヒーの匂いが保健室に流れ込む。


「……静かね。何かあった?」


「……別に」


 先生はマグカップに口をつけた。


「ふーん」


 先生は何も追及しなかった。観察眼はあるが、踏み込まない。それが朝倉先生の距離感だ。


 五時間目のチャイムが鳴った。


 神代さんが弁当箱を片付けた。立ち上がる。保健室のドアに向かう途中、振り返った。


「湊くん、放課後も来る?」


「……たぶん」


 神代さんが目を細めた。


「待ってる♡」


 ドアが閉まった。廊下に出た瞬間に、たぶん外の顔に戻っている。背筋が伸びて、完璧な微笑みが装着されて、「神代澪」が起動する。


 俺は一人で保健室に残っていた。三十秒だけ。


 窓の外で銀杏の葉が揺れている。五月の風だ。教室に戻らなければならない。「否定しなかった」という評決が待つ教室に。


 ◇


 五時間目と六時間目。


 噂の伝播速度は、もう計測する必要がない。教室に戻った時点で、すでに空気が完成していた。


 「黒瀬、否定しなかったらしいぞ」


 田中の報告が八代に伝わり、八代から──いや、八代より先に伝わっていた。四時間目に教室にいた全員が一次情報源だ。「聞いた話」ではなく「見た事実」として拡散する情報は、伝聞の何倍も速い。


 六時間目の休み時間。八代が横に座った。


「なあ黒瀬。なんで否定しなかったの」


「……首は振った」


 八代が顔の前で手を振った。


「首振っただけじゃ否定にカウントされないんだよ。言葉で言わなきゃ」


 わかっている。


「言えなかった」


 八代が少し黙った。いつもの「マジ?」が来ない。


「言えなかった、か」


 八代が腕を組んだ。何かを考えている顔だ。この男が考え込むのは珍しい。情報は常に出力する側で、入力側に回ることがない人間のはずだ。


「黒瀬、一個だけ聞いていい?」


「……何」


 八代が俺の目をまっすぐ見た。


「言えなかったのは、コミュ障だからか? それとも、否定したくなかったからか?」


 心臓が、一拍だけ止まった。


 八代凛太郎。噂の加速装置。情報を最も面白い解釈に変換して拡散する男。その男が、今日だけ、拡散ではなく分析をした。


 答えられなかった。どちらですか、と聞かれて、どちらとも答えられなかった。


「まあ、いいけど」


 八代が席に戻った。


 コミュ障だから言えなかったのか。否定したくなかったから言えなかったのか。その問いは、田中の「付き合ってんの?」より鋭い。田中の質問は外側からの問いだ。八代の質問は内側への問いだ。


 外側には首を振ることで応じられた。内側には、振る首がない。


 ◇


 放課後。保健室。


 神代さんが先に来ていた。窓際で文庫本を開いている。俺が入ると、顔を上げて微笑んだ。


「お疲れさま♡」


 保健室モードだ。いつもの声。いつもの距離。昼休みの「嫌?」が嘘のように、やわらかい空気が流れている。


 朝倉先生はデスクでパソコンに向かっていた。帰り道。金曜日だ。


「……神代さん」


「ん?」


 文庫本のページに指を挟んだまま、こちらを向いた。


「……今日、教室で聞かれた。付き合ってるのかって」


 知っているかもしれない。噂の伝播速度を考えれば、神代さんのクラスにも届いているはずだ。


「うん。聞いた♡」


 聞いたのか。聞いたうえで、いつも通りの声で「お疲れさま」と言ったのか。


「……俺、否定できなかった」


 言ったあとで、顔が熱くなった。何を報告しているんだ。「否定できませんでした」という事後報告が、神代さんに対してどういう意味を持つか、考えてから喋れ。


 神代さんが文庫本を閉じた。


「否定しなくても、いいんじゃない?」


 軽い。声が軽い。でも──その軽さが今日だけは、昼休みの「嫌?」の上に乗っている。軽い表面の下に、さっきの剥き出しの一語が沈んでいる。


「……でも、事実じゃない」


「うん」


 神代さんが頷いた。事実じゃない。付き合っていない。それは二人とも知っている。


「事実じゃないのに否定しないって、変だろ」


「変かなあ」


 神代さんが首を傾げた。


「別に、困ってるわけじゃないでしょ♡」


 困っている。困っているはずだ。コミュ障の俺が教室で注目されて、囁かれて、質問されて──それは困る。困るはずだ。


 はずなのに、「困っている」と断言できない自分がいる。


 帰り道。


 金曜日の空は透明だった。一週間が終わった。月曜日から金曜日まで、五日間で何が変わったのか。


 月曜日。柊の調査報告。「仲良し台帳」の完成。

 水曜日。白石の参戦。「まだ」の拡散。

 木曜日。購買の目撃。保健室の外への漏洩。

 金曜日。否定できなかった。


 噂が、地層のように積み上がっている。月曜の堆積物の上に水曜が、水曜の上に木曜が、木曜の上に金曜が。各層に含まれる化石が違う。柊の手帳、白石の「まだ」、購買の写真、俺の沈黙。全部が重なって、ひとつの地形になっている。


 来週、噂は「あるんじゃね」から「間違いないだろ」に変わるだろう。疑惑が確信に変わる。否定しても信じてもらえない段階に入る。


 なぜ否定しなかったのか。


 帰り道、その問いだけを持って歩いている。答えの候補をひとつずつ検討してみる。


 一。コミュ障だから声が出なかった。──部分的に正しい。だが水曜日の白石には声が出た。月曜日以降、否定の声量が下がっているのは口の問題だけじゃない。


 二。田中の前で注目されて緊張した。──教室で注目されるのはいつものことだ。いつものことだが、今日は質の違う緊張だった。


 三。否定する語彙が尽きた。──「違う」は二文字だ。語彙の枯渇はない。


 四。写真があるから否定しても無駄だと思った。──無駄でも否定することはできる。しなかった。


 五。もう面倒になった。──面倒なら最初から保健室に通っていない。面倒では説明がつかない。


 六。否定すると神代さんの「まだ」を否定することになるから。──……近い。近いが、核ではない。


 七。否定しないほうが、神代さんが嬉しそうだから。──……近い。もっと近い。


 八。否定したら「このまま」が壊れるから。──……。


 九。否定したくないから。──八代が聞いた質問と同じだ。否定したくないのか。したくないのか。


 十。──。


 十番目が出てこない。出てこないのではなく、言語化を拒否している。九番目の手前で思考が壁にぶつかっている。九番目の「否定したくない」のさらに奥に何があるのか、まだ見えない。


 ……保留。


 保留にした。十番目は保留だ。


 金曜日の夕方、俺は十個の仮説のうち九個を検討し、どれにも自分を説得する力がないことを確認し、十番目を白紙にして持ち帰った。


 来週の月曜日。教室で、俺は「否定しなかった男」として扱われるだろう。「付き合ってるんでしょ」が前提の会話が始まるだろう。否定しても信じてもらえない世界が、月曜日に待っている。


 でも──保健室には、いつもの弁当と、いつもの文庫本と、いつもの窓際がある。


 そこだけは変わらない。来週も、変わらないはずだ。


 「じゃあ、このままで」。


 神代さんの声が耳の奥に残っている。このままとは何だ。このままの「これ」は何だ。友人でもない。恋人でもない。保健室の中だけで成立する何かだ。名前がない。名前がないから否定もできない。「付き合ってない」は否定できても、「これ」を否定する言葉は日本語に存在しない。


 分類不能。定義不可。辞書に載っていない関係。


 ──だから否定できなかったのかもしれない。


 否定するための言葉が、最初からなかったのだ。


 それが答えなのかどうかは、まだわからない。わからないまま、金曜日が終わった。

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