第1話 : 保健室の安全地帯、終了のお知らせ
第1話 : 俺の保健室が静かだった最後の日
俺にとって保健室は、最後の補給基地だった。
前線──つまり教室から撤退した兵士が、息を整え、傷を舐め、次の戦闘に備えるための唯一の後方拠点。窓際の二番目のベッドが俺の指定席で、カーテンの引き方にもこだわりがある。完全に閉めると「具合悪いアピール」になるし、全開だと落ち着かない。七割閉め。これがベスト。
人類が生み出した最適解だと思っている。
……言いすぎた。でも、俺にとっては本当にそうなのだ。
◇
高校二年の春。四月も半ばを過ぎて、新しいクラスの空気はとっくに固まっていた。
グループができる。会話のルールができる。誰がどこに座って、誰と昼飯を食うかが決まる。教室というのは小さな国家みたいなもので、憲法の制定は入学式から一週間で完了する。
俺はその憲法の草案にすら参加できなかった国民だ。
別に、いじめられているわけじゃない。無視されているわけでもない。ただ──会話に入れない。入ろうとすると喉が詰まる。相槌のタイミングがわからない。笑うべき場面で顔が固まる。目つきが怖いらしく、話しかけられること自体が少ない。
自覚はある。
俺、黒瀬湊は、いわゆるコミュ障だ。
頭の中では言葉が渦巻いている。ツッコミも、返しも、気の利いた冗談だって浮かぶ。でもそれは脳内限定のライブ配信で、口というスピーカーからは何も出力されない。設定で音量がゼロに固定されている感じ。ミュートの解除方法は、取扱説明書のどこにも書いていない。
だから、昼休みのチャイムが鳴ると同時に、俺は教室を出る。
行き先はいつも同じ。
◇
保健室。
一階の東棟、廊下の突き当たり。白いドアの向こうには消毒液のかすかな匂いと、午後の光が差す静かな空間がある。ベッドが四つ並び、窓辺に小さな観葉植物が置いてあり、壁には「手を洗おう!」と書かれたポスターが色褪せている。
ここには、教室にある「空気を読め」という無言の圧力がない。
会話をしなくていい。笑わなくていい。誰かの冗談に反応しなくていい。ベッドに横になって目を閩じれば、世界は俺一人分の重さになる。
大げさに聞こえるかもしれないが、ガラパゴス諸島の固有種になった気分だ。外敵のいない島。進化の必要がない楽園。俺はここで独自の生態系を築いている。
一年のときからこのルーティンを続けていて、保健室の主──養護教諭の朝倉先生にはとっくに存在を認知されている。
「あ、今日も来たの」
デスクでコーヒーを飲んでいた朝倉先生が、こちらを見もせずに言った。
二十代後半。黒縁の眼鏡。白衣をだるそうに羽織っていて、声にも表情にも抑揚が少ない。病院の待合室に流れるBGMを人間にしたらこうなる、という感じの人だ。
「はい」
「具合悪い?」
「……いえ」
「じゃあいつもの?」
「……はい」
会話終了。合計四往復。
これだ。この距離感。この温度。問診票みたいな最低限のやりとりで成立する関係。朝倉先生は俺が教室を避けていることを知っていて、けれど理由は聞かない。「保健室を休憩に使いたい」という俺の無言の申請を、無言で受理し続けてくれている。
世界が全部こうなら、俺は何も困らないのに。
◇
窓際のベッドに腰を下ろし、カーテンを七割引く。リュックから文庫本を取り出す。今日の昼飯はコンビニで買ったカレーパンと紙パックのカフェオレ。
カレーパンの袋を開ける。かさ、という乾いた音が保健室に響く。
静かだ。
時計の秒針だけが規則正しく刻んでいて、窓の外から運動部の掛け声がかすかに聞こえる。遠い。あの賑やかさは、ガラス一枚隔てた別世界のものだ。
カレーパンをかじる。うまい。コンビニのカレーパンがうまいのではなく、この空間で食べるからうまい。食事の味は環境に左右される。戦場で食う飯はまずく、安全地帯で食う飯はうまい。これは人類の普遍的な真理だと俺は信じている。
「黒瀬くん、カレーパン好きだね。先週も食べてなかった?」
「……ローテーションです」
「そう」
朝倉先生はそれ以上何も言わず、パソコンに向き直った。
俺も文庫本を開く。活字を追いながら、カレーパンを食べる。カフェオレを飲む。ページをめくる。時計が進む。
完璧な昼休みだ。
誰にも邪魔されず、誰も邪魔せず、消毒液の匂いの中で文庫本とカレーパンと静寂を享受する。国連が選ぶ「世界で最も平和な昼休み」があったなら、確実にノミネートされる自信がある。
……少なくとも、今日までは。
◇
昼休みが半分ほど過ぎた頃だった。
文庫本の栞を挟んで、カフェオレの最後の一口を飲んでいたとき。
──コン、コン。
保健室のドアがノックされた。
珍しくはない。ここは保健室だ。体調を崩した生徒が来ることもある。俺はカーテンの影に身を引いて、存在感を消す。これもルーティンの一部だ。来客があったら気配を殺す。忍者の末裔でもないのに、このスキルだけは一年で相当に磨かれた。
朝倉先生が「はーい」と気の抜けた返事をする。
ドアが開く。
「──失礼します」
声が聞こえた。
女子の声だ。高すぎず低すぎず、澄んでいて、それでいて柔らかい。教室のざわめきの中でも通るタイプの声。
聞いたことがある──いや、正確には聞き覚えがあるというより、「知っている」声だ。廊下で、教室で、この声が通り過ぎるたびに周りの空気が少し変わるのを何度か感じたことがある。
だが、保健室で聞くはずのない声だった。
「どうしたの? 具合悪い?」
「あ、いえ……少し、休みたくて。大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ベッド空いてるから、好きなところ使って」
「ありがとうございます」
上履きがリノリウムの床を踏む軽い音。一歩、二歩、三歩。
その足音が、こちらに近づいてくる。
待て。ベッドは四つある。一番手前の窓から遠い二つが空いている。普通はそっちに行くだろう。来客対応の定番ポジションはあちら側だ。なぜこっちに来る。こっちは窓際。俺のガラパゴス。固有種の生息地。
カーテンの隙間から、白い指がすっと現れた。
布地がするりと横に引かれる。三割分の開口部から──その人が、俺の視界に入った。
◇
神代澪。
二年──俺とは別のクラスだが、学年で知らない人間はいないと断言できる名前だ。
黒い髪がまっすぐに背中まで伸びている。切れ長の目は涼しげで、制服の着こなしに隙がない。廊下を歩けば視線が集まり、話せば周囲が聞き惚れる。成績優秀、品行方正、容姿端麗。「女神」という二文字がそのまま制服を着て歩いているような人だと、誰かが言っていた。
その女神が、保健室の、俺のベッドの隣に立っている。
脳が状況を処理するのに三秒かかった。三秒は長い。格闘技なら決着がついている。俺の思考回路はスーパーコンピュータではなく、明らかにそろばんだ。
「あ、先客さん」
神代さんが俺を見て、少し目を丸くした。驚いた、というよりは「見つけた」に近い表情だった気がする。気がするだけかもしれない。
逃げたい。
この瞬間に俺の脳裏をよぎったのは、戦略的撤退の四文字だった。荷物をまとめてドアに向かえばいい。「お大事に」の一言でも残せれば上出来だ。
だが、体が動かない。カレーパンの袋を手に持ったまま、文庫本を膝に置いたまま、カフェオレの空き容器がベッドの端にあるまま──逃走経路を確保するには、あまりにも生活感が溢れすぎている。撤退するにも荷物が多い。補給基地で補給しすぎた兵士の末路がこれだ。
「隣、いいですか?」
神代さんが微笑んだ。
完璧な微笑みだった。隙がない。角度も、唇の曲線も、目元の柔らかさも、すべてが計算されたかのように整っている。これを毎日やっているのだとしたら、表情筋の運用コストが凄まじいはずだ。
俺は何も言えなかった。
首を縦にも横にも振れず、ただ固まっている。カレーパンの袋が手の中でかさりと鳴った。間抜けな音だった。
神代さんは俺の沈黙を──なんの迷いもなく──「どうぞ」と受け取ったらしい。
「ありがとうございます」
隣のベッドに腰を下ろした。
俺と神代澪の距離、約一メートル。保健室のベッドとベッドの間隔は、建築基準法か何かで決まっているのだろうか。今この瞬間、その規格に心から感謝した。
これ以上近かったら、心臓が暴動を起こしていた。いや、既に脈拍がおかしい。平常値の倍くらいある気がする。保健室にいるのに保健室のお世話になりそうだ。
◇
……神代澪が、保健室にいる。
隣で。
状況の異常さを、脳が何度も噛み砕こうとしている。飴が大きすぎて喉を通らない感じだ。何回噛んでも小さくならない。
なぜ。
なぜ学年の女神が保健室にいるのか。体調不良? 朝倉先生とのやりとりでは「少し休みたい」と言っていた。「少し」で保健室に来るだろうか。教室で机に伏せて休めばいいだろう。友達に「ちょっと疲れた〜」と言えば済む人種じゃないのか。
……いや、勝手な決めつけだ。知らないだけだ。俺は神代澪のことを何も知らない。
カーテン越しに、ちらりと隣を見た。
神代さんは上履きを脱いで、ベッドの上に足を上げていた。行儀が悪い──と思ったが、保健室のベッドとは本来そういう使い方をするものだった。間違っているのは、ベッドを椅子として運用し続けている俺のほうだ。
小さくため息をついている。
廊下や教室で見る「完璧な神代澪」とは、少し違う横顔だった。肩の力が抜けている。背筋がほんの少しだけ丸くなっている。表情は……穏やか、というより、何かから解放されたような。
水面に浮かんだ人が、ようやく息をついているような、そんな顔。
──いや。見るな。見るんじゃない。
慌てて視線を文庫本に戻した。活字が目に入らない。三行読んで、何も頭に入っていないことに気づいて、また同じ三行を読む。そしてまた何も入らない。永久ループ。俺のCPUは現在、隣のベッドに全リソースを割かれている。
静かだった。
神代さんは話しかけてこなかった。スマホをいじるでもなく、ただ窓の外を見たり、目を閉じたりしている。
……意外だ。
てっきり「何読んでるんですか?」とか「よくここに来るんですか?」とか、社交辞令的な会話を振ってくるものだと身構えていた。それに対する返答シミュレーションまで脳内で組み立てていたのに(結果:全パターンで言葉が詰まる)、そのシミュレーションは不要だった。
神代さんは、黙っている。
俺も、黙っている。
二人分の沈黙が、保健室の消毒液の匂いの中に溶けている。窓の外で風が鳴って、カーテンの裾が少しだけ揺れた。
……悪くない。
そう思ってしまった自分に、内心で舌打ちをした。
悪くないのは「静かだから」だ。「神代さんがいるから」ではない。断じて。これは環境要因であって人的要因ではない。俺は保健室の静寂を評価しているのであって、隣にいる人物の存在を肯定しているわけでは──
「……ふぅ」
神代さんがまた小さく息を吐いた。
春の風が窓から入ってきて、長い黒髪が揺れた。消毒液とは違う匂いが、一瞬だけ混じった。シャンプーか何かだろう。花みたいな、やわらかい匂い。
俺のそろばんが、また停止した。
◇
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
四十五分間。体感では十分くらいだった。文庫本は三ページしか進んでいない。内容は一文字も覚えていない。
神代さんがベッドから立ち上がる。上履きを履き、スカートの裾を軽く直す。その仕草ひとつで「完璧な神代澪」が再起動するのが見えた。背筋が伸び、表情が整い、空気がぴんと張る。
スイッチの切り替えが、はっきりしていた。
俺も立ち上がるべきだが、タイミングが合わない。ここで同時に立ったら、なんだか一緒に行動しているみたいになる。それは困る。何が困るのかは説明できないが、とにかく困る。
だから座ったまま、文庫本を持ったまま、動けなかった。
神代さんがこちらを見た。
「あの」
「…………」
「ここ、いいですね」
何が「いい」のか。保健室が? 静かさが? ベッドの寝心地が? 質問が漠然としすぎている。でも聞き返す言葉は出ない。いつも通りだ。
神代さんは俺の沈黙を待って──俺が何か言うのを待ったのかもしれない──ほんの数秒の間を置いてから、口を開いた。
「また来ていいですか?」
答えなければいけない。
「いい」か「だめ」か。二択。シンプル。これほどシンプルな分岐を前にして固まる人間が、日本にあと何人いるだろうか。
だが、ここは俺の保健室ではない。管理者は朝倉先生だ。俺に許可権限はない。だから正しい回答は「先生に聞いてください」であり、そもそもこの質問を俺に向けること自体が論理的に──
考えている間に、三秒が過ぎた。
五秒が過ぎた。
神代さんはその沈黙を見て、ふわりと笑った。
さっきの完璧な微笑みとは少し違う。もうちょっと……柔らかい。カーテン越しの光みたいな、輪郭がぼんやりした笑顔。保健室に入ってきたときの笑み方でもなく、廊下で見かける笑顔でもない。
今この瞬間にだけ存在する、名前のない表情。
「ありがとうございます♡」
俺は何も言っていない。
何も言っていないのに、なぜお礼を言われたのか。
否定もしていないが、肯定もしていない。ただ黙っていただけだ。沈黙は同意ではない。少なくとも、日本の法律ではそうなっていないはずだ。民法にも刑法にも「黙っていたら賛成」という条文はないだろう。たぶん。
神代さんは小さく会釈して、保健室を出ていった。
ドアが閉まる。足音が廊下に消えていく。
静寂が戻った。
◇
朝倉先生がコーヒーをすすった。ずず、と地味な音が保健室に響く。
「……知り合い?」
「……いえ」
「そう。神代さんでしょ、あの子。有名だもんね」
「……はい」
「また来るって言ってたけど」
「……はい」
「大丈夫?」
何が大丈夫なのか。朝倉先生の質問もまた漠然としていた。だが、その漠然さの中に、妙に的確な何かが含まれている気がした。この人の言葉は少ないくせに、たまに急所に届く。
「……たぶん」
「そう」
朝倉先生はそれ以上何も言わず、パソコンに向き直った。
俺はベッドに座ったまま、閉まったドアを見ていた。
消毒液の匂いの中に、さっきの花みたいな匂いが、まだ微かに残っている。
気のせいだ。たぶん。
◇
鞄を持って教室に戻る廊下を歩きながら、考えていた。
神代澪が保健室に来た。隣に座った。黙って過ごした。「また来ていいですか」と聞いた。俺は何も答えなかった。
それだけの出来事だ。
明日になれば忘れているだろう。彼女にとって「少し休みたい」は今日だけの気まぐれで、明日からはまた教室で友人たちに囲まれる日常に戻る。保健室のことなんか忘れる。俺のことなんか認識の外に消える。
保健室は、俺だけの場所に戻る。
そのはずだ。
──なのに。
あの最後の笑顔が、頭の片隅に貼りついて剥がれない。完璧じゃない方の笑顔。カーテン越しの光みたいな、ぼんやりした方の。名前のつかない、あの表情。
なんだったんだ、あの笑い方は。
教室のドアが見える。中から談笑が漏れている。いつもの喧騒。いつもの空気。吸い込むと肺が重くなるような、あの空気。
俺はその音から逃げるように、席についた。窓の外を見る。空が青い。春の、やたらと明るい青だ。
ポケットの中で、さっきまで文庫本を持っていた手が、まだ少し汗ばんでいた。
──これが、あの日の全部だ。
俺の保健室が静かだった、最後の日の。
もっとも、それが「最後」だったと気づくのは、翌日のことになる。




