三話 変わりゆく日常とペナルティ
三話 変わりゆく日常とペナルティ
今日は午前中からバイト。慌ただしく支度を始める。顔を洗い、歯を磨き終えて部屋に戻ると、布団はきれいに畳まれ、掃除も洗濯もスキルがすべて自動で済ませてくれていた。
《癒しの空間》は限られた範囲のスキルだけれど、私にとっては欠かせない存在だ。
でも、スキルには必ずペナルティがついてくる。
私のペナルティは「不運」。
なのに、紫己さんと出会ってから、「幸運」が続いている。
これまで一度も私に幸運が訪れたことなんてなくて、これが本当にいいことなのか、それともよくないことが起きる前触れなのか、わからない。
でも、たとえこの先、大きな不運に見舞われることになったとしても、私はこの生活を手放したいとは思わない。
それほどまでに、この生活は私にとってかけがえのないものになっているからだ。
ちゃぶ台に激安ショップで買った最低限のコスメを広げ、いつものように鏡を開いた瞬間、思わず声がこぼれた。
「わぁ、最近……肌、きれいになってきたかも」
以前は睡眠や栄養が不足していたせいでやつれて、血色も悪く、目の下にクマが消えることはなかった。
でも今は紫己さんが持ってきてくれる食材のおかげで、ちゃんとご飯が食べられるようになって健康になった。
顔を見れば、栄養が行き渡っているのがはっきり分かる。
こんなことは初めてで、鏡の中の自分をじっと見つめた。
「……こうしてみると、意外と悪くない?」
お金や時間に余裕のない極限状態の生活は、心のゆとりを失わせていた。
紫己さんがくれた初めて自由になる時間とお金を、私はドキドキしながら自分のために使ってみた。
たっぷりの睡眠でふっくらと血色のいい肌。
初めて行った美容院で、痛んでいた部分をしっかりケアしてもらい、髪がツヤツヤになった。
プロの手によってウルフカットに整えられたその髪は、私がセルフでやっていたなんちゃってカットとはまったく違う。
毛先はかなり短く切られたのに、きれいにまとまっていて、まさにプロの仕事を実感した。
母譲りの大きな目は、以前は気味悪く見えたのに、今はなんだか可愛らしく見える。
鏡の前で笑ってみると、そこそこ見られる顔になった気がして、嬉しくなった。
「紫己さんのお陰ねぇ」
化粧の乗りも良くなり、義務のように感じていた化粧が、今では楽しい時間に変わっていた。
最後に色付きリップを塗って道具を片付け、玄関へ向かう。
「さて、今日も張り切って稼ぎましょう!」
私は改めて自分に言い聞かせる。
人は、労働からは逃れられないのだ。
おいしいご飯のために、今日も全力で頑張るぞ!
気合を入れて意気揚々と家を出た。
今日のバイトは商業施設にある雑貨販売だ。
いつものように仕事をこなし、上がりの時間になる。
「上がりまーす、お疲れ様です!」
「おつかれさまー!」
挨拶して店を出ると、人目をしのぶようにそっと佇む紫己さんの姿があった。
「あかねさん!」
目敏く私を見つけて紫己さんは駆け寄ってきてくれる。
「迎えに来てくれたんですか?」
「早くあなたに会いたくて」
眩しい笑顔が私を打ち抜く。
「……っ!?」
紫己さんは私に会いたかったわけじゃない。
私が作る「ご飯」が待ち遠しいだけ。
勘違いしない。勘違いしないわよ。
「おなか、空きましたよね? すぐ帰りましょう」
何でもない顔で笑い返すことが出来た。
……ふぅ、危なかった。
天然のイケメンの破壊力恐ろしいわ。
一瞬ときめいてしまった自分に、私は「飯炊き女」と一生懸命言い聞かせる。
「終わる時間は教えてあるんですから、その時うちに来てくれればいいのに」
いつから待っていてくれたんだろう?
そんなことを思いながら見上げると、紫己さんは眩しく笑う。
「だって、こうして一緒に帰ればあかねさんといる時間が増えるでしょう?」
「……くっ」
この天然イケメンッッ!
己の顔面攻撃力の強さを自覚しろ……っっ!
目深にキャップを被り、地味な服装をしている紫己さんは、まるで普通の青年のように見える。
もし正体が知られたら、大騒ぎになることは間違いない。
今だって施設のあちこちの柱や壁のデジタルスクリーンには「暴食の紫己」についての記事やニュースが流れている。
それなのに、そんなリスクを冒してまで、わざわざこんな人混みの多い場所に来てくれた。
繊細な気遣いが、静かに心に染み渡り、私の中の何かをゆっくりと溶かしていく。
それと同時に、誰もが知るトップハンターである紫己さんと、何も持たない私とでは、生きている世界がまるで違うのだと痛感させられる。
「さぁ、帰りましょう」
促すように腰に手を回され、私は無意識に避けてしまった。
その動作に紫己さんが寂しげな表情を浮かべる。
「……迎えに来るの、迷惑ですか?」
「!? いいえ! あの、むかえは……嬉しいです」
あたふたする私に紫己さんは首をかしげ、ふっと優しく目を細める。
「……ならよかった。俺のせいで困らせてないなら」
困っているんじゃなくて、ドキドキしているだけ。
こんなふうに、彼はまっすぐ心に触れてくる。
優しくされるたび、私はますます自分がどうしていいかわからなくなってしまう。
「さぁ、「帰り」ましょうか」
「はい!」
隣同士で家路を歩くけれど、帰り道は私のペナルティ「不運」がオンパレード。
一瞬、私の周りの空気の温度が冷たくなるのを感じる。
「不運」が発動する予兆だ。
「わっ!」
次の瞬間、足元のバナナの皮に気づかず思い切り踏んづけた。
「あかねさんっ!」
紫己さんがすかさず腕をつかんで支えてくれた。
「ありがとうございます。転ばずにすみました」
私をしっかり立たせてくれた紫己さんは足元のバナナの皮を見つめる。
「さっきまでなかったのになぜ、バナナの皮が落ちているんでしょう?」
「「不運」のせいですね。自力ではどうやっても避けられないのに、紫己さんはすごいです」
今まで助けてくれようとした人はいる。けれど、いつだって間に合うことはなかった。
こうして不発に終わらせられるのは紫己さんがトップハンターだからだろうか?
さすが私に「幸運」を与えてくれた人だけはある。
尊敬の念が募っていく。
「それにしても中々手ごわいペナルティですね」
「……スキルは限定すぎて使えない微妙なものなのに、ペナルティだけは人一倍ってそれも「不運」の一環なんでしょうね」
言葉にするとより残念さが際立つ。
「そんなことはありません。あかねさんのスキルは最高にすばらしいものです」
「そんなことを言ってくれるのは世界で紫己さんだけです」
「それは約得ですね。ずっと言い続けましょう」
「あははは、私の自己肯定感、紫己さんのお陰で爆上がりですね」
「お役に立てるなら何度でも」
笑いながら紫己さんは掴んでいた私の腕を離して、再び家に向かって歩き出した。
けれど、なにごともなく、とは言えない。
不運は「家」から出ると連鎖して襲ってくる。
数歩進むと鳥のフンが頭上に落ちてきて、それに気付いた紫己さんが私の体を引っ張って避けさせてくれた。
「鳥のフンなんてよく気づきましたね」
「俺、目はいいので」
「ありがとうございます」
不運の予兆は分かったけれど、何が起こるのかまでは予測がつかない。
紫己さんはそれらをことごとく避けさせてくれた。
大抵はこんな感じの軽い不運に絡まれている間に家へ着くのだが、たまに大きな不運がやって来る。
今日はそんな日だったようだ。
路地を歩いていた時、窓の開いた音がする。
女性の声がして、上を見ると鉢植えが落ちてきていた。
鉢植えは久しぶりだなとぼんやりと見ていたその時、紫己さんが私の腕を強く引いて体を抱き寄せ、片手で鉢植えをキャッチした。
映画のワンシーンみたいに決めてみせてくれて、格好良さにしばらく見とれてしまった。
「何をぼんやりしているんですか! 気付いたならよけてください!」
「えと、だいじょうぶかなって……」
「鉢植えが落ちてきてるんですよ!? 危ないでしょう!?」
私の不運を目の当たりにするたび、紫己さんは険しい顔になる。
今日は特に、すごく怒っているように見えた。
「あかねさん、いつもこんな感じなのですか?」
「はい。当たりませんし、万が一当たってもかすり傷程度で済むんです。だいじょうぶです!」
バイクに引っかけられても、トラックが突っ込んできても、看板が落ちてきても。
絶対死なないし、重傷を負わない。怪我をしてもかすり傷ていど。
これが私の「不運」の範囲らしい。
いつだってそうだから私はいつしか気にしなくなっていた。
“死ななきゃ安い”が私の座右の銘だ。
軽く笑って返したら、紫己さんの顔は真っ青になった。
「それは全然だいじょうぶじゃないです! まかり間違ったら死ぬんですよ!?」
「でも今まではだいじょうぶだったので……」
どうやら私の認識はどうにもズレているらしい。
話すたびに紫己さんの顔色が悪くなっていく。
「とにかく、気づいたらちゃんと避けてください!」
「わかりました」
勢いに圧されうなずくと、紫己さんはようやく肩の力を抜いて息を吐いた。
「俺がずっとあかねさんを守りたいです」
その声音の真剣さに、胸がぎゅっとなった。
「ふふっ、トップハンター護衛付きですね。なんてとても贅沢です」
「もし望むなら、二十四時間でも護衛しますよ」
「なっ……、冗談ですよね!?」
……でも。紫の目は、本気そのものだった。
「いえいえ、そんな。もうしわけないです!」
不運は、私自身のペナルティ。
私は慣れているし、大丈夫。
不運の及ぶ範囲は私自身だけで、他人が巻き込まれたことはない。
けれど、紫己さんと出会ってから私に「幸運」がもたらされるようになった。
ご飯をたくさん食べられる。お金が増えた。働く時間が減って楽しみが増えた。
これが「不運」にどう作用するかわからない。
もしも、紫己さんになにかあったら、私は自分を許せない。
そう思っているけれど、彼はぐいぐいと私の生活に踏み込んで来る。
それが嫌じゃないから困ってしまう。
「大丈夫か? 怪我していないですよね?」
不運に見舞われるたび、紫己さんは必ずそう言って、私の肩に手を置いたり、腕をしっかり支えたりして確かめてくれる。
落ち着いた低い声に、まっすぐな紫の瞳。
私を気づかってくれるたびに胸が小さく高鳴った。
他の人は「またか」と笑って済ませてしまうけれど、
紫己さんだけは、本気で心配してくれる。
その優しさが、どうしようもなく嬉しい。
でも同時に、こんなふうに守られることが、申し訳なくもなる。
私は、紫己さんに与えてもらってばかりだ。
アルバイトの給料よりもはるかに多いお金。
おいしく栄養のある食材。
そして、誰かと一緒にご飯を食べる時間の歓び。
全部、紫己さんがくれた「幸運」だ。
私にとっては、彼こそが「不運」を吹き飛ばす神様みたいな人。
でも、そんな私に向かって彼はためらいなく言う。
「……あかねさんは俺にとって女神なんです」
真剣な瞳と微笑み。
胸の奥が一気に熱くなって、思わず息を詰めてしまう。
(私は、そんな立派なものじゃないのに)
いつまでこの奇跡みたいな日々が続くか分からない。
だけど、今の生活は私の宝物だ。
後悔しないように大切にしたい。
そして不運は――
今日も爪を研いで、油断した隙にひっそりとやってくるのだった。
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