09.崩落する幸福
「そんなの嘘よ! どうかシュエリーナの言うことを信じないで。早くお医者さまを呼んできて……!」
ルフェリアの悲痛な叫び声に、それまで凍り付いていた両親や使用人たちが慌ただしく動き始める。
ある者は医者を呼びに外へ走り、ある者はユリクスを介抱するため枕やリネンを運び始める。
それでもルフェリアは少しも安心することはできなかった。
ユリクスはいまだルフェリアの腕の中で、ぴくりとも身じろぎしないのだから。
「誰か、ユリクスを応接間のソファに寝かせてちょうだい」
青ざめた母の指示によって、下男がユリクスを抱きかかえて応接間に連れて行く。
間もなく医者がやってきて、ユリクスの診察を始めた。
扉の外で待つ時間は、永遠とも思われるほどに長く、辛かった。
やがて医師が扉の向こうから現れ、診察を終えたことを告げる。
「先生、ユリクスは――息子の容体は!?」
「出来る限りの処置はしました。……が、頭を強く打っており、この先意識が戻るかどうかは。一生このままの可能性もあるかもしれません」
「そんな……」
「リリー! しっかりするんだ……っ」
卒倒しかけた母を、父が慌てて抱きとめる。
誰もが沈鬱な面持ちになる中、オルフェンが拳を握り締め、ルフェリアに掴みかかった。
「どうしてこんなことを……! お前に懐いていたユリクスに、よくもこんな真似を……!!」
「違うわ! わたしはユリクスを突き落としたりなんてしていない。シュエリーナが、ユリクスと何か口論をした末に突き落としたのよ……!」
あれほど可愛がってくれた兄に胸ぐらを摑み上げられ、血走った目で睨み付けられた衝撃に、ルフェリアは声を掠れさせながら反論した。
どうか信じてほしい。
そんな思いを込めてオルフェンを見つめるが、彼の激昂は収まらなかった。
「ではお前は、シュエリーナが嘘をついているとでも言いたいのか!? 我が家の血を引く娘であるシュエリーナが、実の弟を殺そうとする必要がどこにある!」
「お兄さまは、わたしが養女だからユリクスを傷つけたと……?」
一体兄はいつから、そんな穿った目で自分を見ていたのだろう。
あまりに酷い言いがかりに、ルフェリアの目頭に涙がにじむ。
かつてルフェリアが泣いていると、オルフェンはいつも飛んできて慰めてくれた。
けれどその彼は今、軽蔑を込めた眼差しでルフェリアを睨み付けるばかりだ。
「ふん。傷付いたような顔をしても無駄だ。シュエリーナが心配していたとおりだな。お前は養女である自分の立場が脅かされるのを心配して、ずっとシュエリーナに嫌がらせを繰り返していたそうじゃないか。にもかかわらず、その罪を彼女に被せるような真似ばかりして……見下げ果てた人間だ」
「やめて、お兄さま! ルフェリアお姉さまはきっと苦しかったのよ。家族の中で自分だけがよそ者なんだもの。その苦しみに気づいてあげられなくて、ごめんなさい……」
悲しげに眉をひそめたシュエリーナが、そっとルフェリアの両手を取る。彼女はそのままルフェリアの耳元に顔を近づけると、周囲に聞こえないほど小さな声で囁いた。
「ああ、ようやく邪魔なユリクスがいなくなってくれて清々したわ。いつもあなたの味方ばかりして、本当に目障りだったの」
その瞬間、ルフェリアは目の前が真っ赤に染まるほどの怒りを覚えた。
まさかたったそれだけの理由で、ユリクスを傷つけたというのか。
「シュエリーナ……ッ!」
「きゃあっ、痛いわ! やめてお姉さま!」
頭に血が上るがまま、シュエリーナに摑みかかる。
その瞬間。
――パンッ!
鋭い打擲音が鳴り響き、同時にルフェリアの頬に激しい痛みが走った。
オルフェンに殴られたのだと気づいたのは、よろめいて床に倒れてしばらく経ってからだった。
口の端から、生ぬるい液体がこぼれ落ちる感触がある。
そっと手で触れると、指先に血が付着した。
呆然とそれを眺めていると、オルフェンの声が振ってくる。
「この外道が! ユリクスだけでは飽き足らず、シュエリーナまで傷つけるつもりか!」
「お兄さま、わたしは大丈夫だから……っ」
「シュエリーナ……。お前は本当に、どこまで優しい娘なんだ」
泣き崩れたシュエリーナの肩を、オルフェンが優しく抱きしめる。
彼は、シュエリーナに向ける柔らかな眼差しとは正反対の鋭い目つきで、ルフェリアを射貫いた。
「それに比べて、お前はなんと心の醜い人間なんだ。お前のような者を、たった一時でも妹と呼んでいた自分を殴りたい」
父も、そして母も、もはやオルフェンを窘めることはしなかった。
それどころか口々にルフェリアを責め立てる。
「ルフェリア。十年前、お前を家族に迎え入れたのは間違いだったと、今ならはっきり言える。もはやこの屋敷に、お前の居場所はないと思え」
「あなたを娘と思って大切に育てたのに……。その結果がこれだなんて、あまりに酷いわ。こんな恩知らずだと知っていたら、決して引き取らなかったのに……」
その光景に、ルフェリアは深く絶望した。
もはやルフェリアが何を言っても、家族の心にその言葉が届くことはない。
優しかった両親も、兄も、もういない。そして唯一ルフェリアの味方をしてくれていた、ルフェリアの無罪を知るユリクスは昏睡状態に陥ってしまった。
この屋敷の中でルフェリアは真実、よそ者になってしまった。
§
それからすぐ、ルフェリアは修道院へ送られることが決まった。
その修道院は気候の厳しい北の地方にあり、入れば二度と外には出られない監獄のような作りになっていることで有名だ。
名家の人間が、表立って身内を罰することが憚られる際の、実質的な追放先――そういう場所だ。
けれどルフェリアは、大人しく修道院へ送られるつもりはなかった。
このまま罪人としてこの家を去ることに対する抵抗や、意地もあった。
もう家族にとって、ルフェリアは必要ないのだろう。
顔も見たくないほどに、憎まれてしまった。
養女であるルフェリアが『家族』に必要とされないのなら、もはやこの世に生きている意味はない。
修道院で生きながらえるくらいなら、あの時拾ってもらったこの命を、せめて彼らのために役立てたい。
それが、ルフェリアにできる唯一の恩返しなのだから。
――そうしてルフェリアは、生贄になることを決めた。