15.ずっと傍に
――その後、オルトランド伯爵家はあれよあれよと言う間に転落していった。
養女の死。そして突然の次男の失踪。
ふたつの悲劇的な出来事によって、当主であるハイゼルは酒浸りになり、身体を壊してあっけなく亡くなった。彼の行っていた事業は全て他者に乗っ取られ、伯爵家は破産寸前に追い込まれることとなる。
遺された妻のリリーは毎日のように泣き暮らし、現実逃避することしかできない。やがて甘い言葉を囁く若い男に騙され、最後に残った屋敷さえも奪われてしまった。
嫡男のオルフェンは、初めのうちはなんとか家計を立て直そうとしていたが、やがて賭博にのめり込むようになる。
返しきれないほどの負債を抱えた彼が、今どこで何をしているのか知る者はいない。
そしてシュエリーナ――いや、シアーシャはといえば、実の娘ではないと発覚した直後、オルトランド伯爵家を追い出された。
彼女はすぐに婚約者であるヒュエルの元に走り、彼が事情を知る前に、既成事実を作ってなんとか関係を繋ごうと思ったようだ。
しかし尋常でないシアーシャの様子をいぶかしんだヒュエルは、すぐさま声を上げて人を呼んだ。
――何せシアーシャは、下着姿でヒュエルに迫ろうとしたのだ。
ヒュエルは生粋の侯爵令息だ。たとえ婚約者とはいえ、血走った目をした半裸の女に迫られて恐怖を覚えたとしても、不思議ではない。
人を呼ばれ慌てたシアーシャは、急いでヒュエルの口を塞ごうとした。
しかし、それでも彼が黙らなかったことに激昂し、持っていた短剣で彼の喉元を突き刺したのである。
駆けつけた下男やメイドが慌ててシアーシャを引き剥がし、すぐさま医者が呼ばれたが、到着を待たずしてヒュエルは息を引き取ってしまった。
シアーシャは殺人犯として投獄され、間もなく処刑されることとなる。
処刑執行までの間、彼女は牢の中で毎日のように、自分は伯爵令嬢だ、早くここを出せと叫び続けていたらしい。もちろん耳を貸す者は誰もおらず、冷酷な牢屋番から罵倒される結果にしかならなかったが。
――噂はどこからともなく広まっていく。
オルトランド伯爵家の『娘』が偽物であり、亡くなった養女こそが実子であったという事実は、瞬く間に社交界を駆け巡った。
あれほどルフェリアを『盗人令嬢』と呼んで蔑んでいた人々も、手のひらを返したかのように彼女を憐れみ、伯爵家の人々を悪し様にこき下ろす。
悪評を立てられたのは、何もオルトランド伯爵家だけではない。
ルフェリアからシアーシャに乗り換えたヒュエルもまた、その軽率さゆえに命を失う羽目になったのだと、面白おかしく囁かれた。
幸か不幸か、息子の死に衝撃を受け、自宅に引きこもるようになったカロウェン侯爵夫妻がその噂を耳にすることはなかった。
そして、ルフェリアはというと。
セリオスのもとで少しずつ体力や気力を取り戻し、今やすっかり健康体となった。
記憶を失ったとはいえ、心に刻まれた傷自体が消えるわけではない。
時折、何かに怯えるような顔をする彼女を、セリオスは真綿に包むように大切に守ってきた。
他愛もない話をしたり、町へ出かけたり、時に飛竜の背に乗って遠い保養地へ身体を休めに行くこともあった。
セリオスのそんな献身に、ルフェリアも初めは戸惑っていたようだ。
『どうしてこんなに色々してくれるのですか?』と、不安そうに口にする姿からは、かつて信じていた家族に裏切られたことによって刻まれた傷の深さが窺えた。
だからセリオスは、いつも誠実にルフェリアに向きあった。
精一杯の真心と、自分の中にある全ての優しさと労り。捧げられるものなら、なんでも彼女に捧げるつもりで。
そうして心を尽くして気遣う内に、ルフェリアは少しずつ心を開いてくれ、今では『セリオス』と、少しはにかみながら名前で呼んでくれるようになった。
セリオスは自分が、ルフェリアという哀れ少女に必要なものを全て与えるつもりでいた。
しかし、目覚めた彼女と共に過ごすようになって、そんなものは自分の思い上がりだったのだと思い知らされる。
優しく、穏やかで理知的なルフェリア。
彼女は、魔王としての責務を負うセリオスをいつも心配し、細やかな心遣いで日々の疲れを癒やしてくれた。
柔らかな微笑みで見守ってくれるだけではない。
無理をしすぎるセリオスを叱り、強引に休憩を取らせることもあった。
『あなたの代わりはいないんですよ』
そう言って本気で涙を流すルフェリアの姿に、セリオスの中にあった彼女へのほのかな好意が、明確な恋情へと変わっていくのにそう時間はかからなかった。
セリオスが己の想いを伝えたのは、ルフェリアが目を覚ましておよそ一年半後のこと――。
庭に咲いた百合の花を慣れない手で束ね、不格好にリボンでまとめた花束を用意して。
跪くセリオスを前に彼女はとても驚いた顔をしていたけれど、ふわりと笑って『わたしでよければ』と答えてくれた。
その瞬間、セリオスは確信した。
今、世界一幸せな男がいるとすれば、それは間違いなく自分に違いない――と。
§
(ここは、どこなんだろう……。僕は……)
見知らぬ寝室で目を覚ましたユリクスは、ゆっくりと上半身を起こした。
なんだか、随分長く眠っていた気がする。
ほんのりと痛む頭を押さえていると、部屋の扉が開き、ひとりの男性が入ってきた。
「おはよう、ユリクス。気分はどうだ?」
「あなたは――?」
黒い衣服に身を包んだ、夜を具現化したような美しい男性。
その頭にはねじれた角が生えており、一目で人間ではないとわかる。
彼は自身を、魔王と名乗った。
そしてなぜ、ユリクスがここにいるのか。ユリクスが眠っている間、何があったのかを教えてくれる。
ユリクスが階段から転落して昏睡状態に陥り、既に二年の月日が経過していること。
ルフェリアが冤罪によって修道院に送られそうになったこと。
彼女が自ら生贄として志願し、ユリクスの治療代を遺そうとしたこと。
死の淵にあったルフェリアをセリオスが救い、記憶を消したこと――。
そして今、ルフェリアはセリオスの妻となり、魔王妃として幸せに暮らしているらしい。
「お前は、家族が転落するきっかけとなった私を恨んでもいい。それに……姉の記憶を奪ったことも。お前をルフェリアの傍にいさせてやることはもちろんできるが、今後、彼女がお前のことを思い出すことは二度とないだろう」
「いいえ……。むしろ姉さまを救ってくださったことに、感謝してもしきれません。ルフェリア姉さまは……今、幸せなんですね」
ユリクスは心底安堵した。
家族の転落劇に胸が痛まないわけではないが、悪女の讒言に惑わされて優しい姉を疑い、虐げた家族には落胆しきっていた。
――コンコン。
扉を叩く音が響く。
そこから入っていた人物の姿に、ユリクスは目を見開いた。
「ね――……」
「セリオス、お客さまの具合はどう?」
ルフェリアだ。
誰より大切な、世界一の姉。
「ああ、たった今目覚めたところだ」
「よかった。初めまして、わたしは魔王の妃。ルフェリアと申します」
「初め……まして……」
「どこか気分の悪いところは? 必要なものがあったら、なんでも仰ってね」
まるで知らない者に向けるような言葉で、ルフェリアがユリクスを気遣う。他人行儀ではあるけれど、だけどその柔らかな声は、紛れもなく彼女のもの。
「夫から聞きました。瘴気を放つ湖の傍で倒れてらしたそうね。わたしも同じような経緯でここに来たそうだけれど、残念ながらその後遺症で記憶がなくて……。でも、もう大丈夫。ここの方たちは皆、とっても親切なの。ね、セリオス」
記憶の中にある悲しげな表情と違い、魔王の名を呼ぶ彼女は幸福に満ちた表情をして――ユリクスは、思わず泣き出してしまった。
「まあ……! どうなさったの? 大丈夫?」
戸惑いながら、ルフェリアがおずおずとユリクスの手に触れる。
「よしよし……怖い思いをしたのね。もう大丈夫よ」
それは記憶の中にある感触とまったく同じ、温かで優しい手つきで、ユリクスはそれからも長いこと泣き続けてしまったのだった。
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