10.生贄
この国では五十年に一度、森の奥深くにある湖に生贄が捧げられる。
瘴気を放つおぞましく黒い湖で、魔界と人間界を繋ぐ門だとか、ありとあらゆる病魔がその場所からもたらされていると信じられていた。
生贄となるのは、貴族出身で清らかな未婚の娘。
もちろん、生きて戻ることはできない。湖に身を沈めることで、娘はその命をもって瘴気を払うのだ。
それゆえに生贄は『聖女』と呼ばれ、遺された家族には国から莫大な報酬が与えられる。
聖女となる娘を探している――。
その話を耳にしたのは、とある貴婦人の開いた茶会だった。
『聞きまして? 先代の聖女さまが湖に身を投じて、間もなく五十年……。国は次の聖女さまを募っているのだとか』
『あれって莫大な報酬が手に入るのでしょう? 貧民が殺到するのではないかしら』
『いいえ、生贄になれるのは貴族出身の乙女だけでしてよ。まあ、これまでの歴史を見る限り、ほとんどは実子ではなく適当に養女にした者を差し出すようですが』
どうやら生贄というのは『貴族は国を守るために命を差し出す』という建前を示し、平民を支配する正統性を保つための制度でもあるらしい。
その時は、ただ生贄という言葉の恐ろしさに震えるばかりだったが、今はその話を聞いていてよかったと心底思う。
オルトランド伯爵家は裕福な家庭だが、寝たきりで意識もないユリクスの看護をするためには、今まで以上に金がかかる。
ルフェリアが聖女となり、家族のもとに報酬が届けば、その点は心配いらなくなるだろう。
あるいは時間が過ぎれば、最先端の治療を受けて意識が戻ることだってありえるのだ。
思い立ったその日の深夜、ルフェリアはほんの少しの荷物をまとめ、こっそりと屋敷を抜け出した。
可愛がっていた小鳥のパールを連れ、教会の門を叩く。
聖女になりたい旨を告げると、司祭たちは驚いていた。
「オルトランド伯爵令嬢。ご家族は承知の上なのですか?」
「いいえ。――ですが、自分で決めたことですから」
ルフェリアの決意が固いことを見て取った司祭は、困惑しながらも同意書を用意してくれた。
既に十六歳になったルフェリアが生贄になることに、両親の同意は必要ない。
書面に署名をし、それからの数日間を教会で祈りを捧げて過ごす。
パールは、教会の修道女たちが面倒を見てくれることになった。
実家においていけば『裏切り者』の飼っていた小鳥がどうなるか不安だったし、教会で世話をしてもらえるなら、そのほうがいいだろう。
これほど穏やかな気持ちで過ごせたのは、久しぶりのことだった。
ここには、ルフェリアを貶めようと嘘をつく者はいない。
もちろん、生贄となる身だからということもあるのだろう。それでも修道女たちは親切だったし、司祭も何くれとなく気遣ってくれた。
おかげでルフェリアはただただ静かに、毎日を送ることができた。
(お父さまたちはどうしているかしら……)
夜になり、月を見上げながら家族に思いを馳せる時もあった。
けれどルフェリアはすぐ、そんな感傷的な考えを自嘲する。
きっと家族は、ルフェリアが修道院行きを厭って逃げたと呆れていることだろう。どうせ逃げたところで、ひとりで生きていけるわけはないのだから、すぐに戻ってくる――とでも思っているかもしれなかった。
§
――そうして、五日が経った。
その日、ルフェリアは修道僧や国から派遣された兵に付き添われ、黒い湖の縁に佇んでいた。
生贄が直前になって怖じ気づき、逃げ出さないよう監視をする意味合いもあるのだろう。兵士たちは厳しい表情で、ルフェリアの一挙手一投足に目を配る。
「聖女さま、何かご家族に言い残すことはありますか?」
気遣った修道僧が背後から声を掛けてくれるが、ルフェリアは薄く微笑んだ。
言葉は時になんの意味もなさないことは、この数ヶ月で身に染みてわかっている。
彼らも、ルフェリアの言葉など求めてはいないだろう。
ルフェリアはすべてを、諦めていた。
「……いいえ。何もございません」
暗い湖を覗き込むように縁に立ちながら、ルフェリアはすっと目を閉じる。そして祈るように両手を組んだまま、静かに湖に身を投げた。
冷たい水が全身を包み込み、ぐんぐんと引き込まれるように身体が沈んでいくのが分かる。
不思議と苦しくはなかった。
ただ、寒かった。寂しかった。
眼裏には、次々と家族の顔が浮かんでくる。
(お父さま、お母さま……。縁もゆかりもないわたしを養女として迎えて、家族の暖かさを教えてくださいましたね。オルフェンお兄さま。わたしが泣いているとすぐに飛んできて、慰めてくれました。――そしてユリクス。あなたはいつも、わたしの光だった)
どうか、元気で。
そんな願いを最後に、ルフェリアの意識は途切れた。
――それから、どれほどの時間が経っただろうか。
次に目覚めた時、ルフェリアは知らない部屋の寝台の上に寝かされていた。




