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01.闇から光へ

 分不相応な幸せだったのだと、今ならわかる。

 湖の淵に佇み、ルフェリアはそっと唇を噛んだ。


 一年前まで、彼女は世界で一番幸せな令嬢だった。たくさんの美しいものに囲まれ、家族に愛され、笑顔の絶えない毎日を送っていた。


 けれど、今は違う。


 今のルフェリアは、もう何も持っていない。

 家族も、婚約者も、美しい宝石も――。

 そうして今、命すら投げだそうとしている。


(きっと、バチがあたったのだわ)


 ルフェリアが身の丈以上の幸せを手にしたから、神さまは怒ってしまったのだ。

 怒って、手にした幸せを全て取り上げ、もう一度不幸せにしようとしたに違いない。


(だけど、それももう終わり)


 覗き込んだ湖の色は暗く、まるで大量の黒いインクを零したかのよう。その先がどうなっているのかは、誰も知らない。

 ただ、その向こう側に『死』があること以外は。


「聖女さま、何かご家族に言い残すことはありますか?」


 背後から声がかかる。

 柔らかな気遣いの言葉に、ルフェリアは小さく微笑み、かぶりを振った。


「……いいえ。何もございません」


 ――もうどうだっていい。心を無残に踏み躙られたあの日、ルフェリアの心は砕けてしまったのだから。


 二度と目にすることはない家族の顔を思い浮かべながら、その日、ルフェリア・フランは暗い湖にその身体を沈めた。

 


 §



 ルフェリアは捨て子だった。

 十年前、ある寒い雨の日に、修道院の門前に置き去りにされていたらしい。

 ボロボロのおくるみに身を包み、粗末な籠の中で眠る赤子を見て、修道女たちは大層憐れんだそうだ。

 

 近隣の孤児院に預けられたルフェリアは、そこで院長から今の名前を貰った。

 名付けに深い意味があったわけではない。ちょうど院長の目に付いたのが、窓の外で揺れるルフェリアの花だったから。それだけの理由だ。


 ルフェリアが暮らしていた孤児院には大勢の子供たちが暮らしていたが、そこは子供にとって良い環境とは言いがたかった。


 院長は表面上は愛情深い聖人を演じていたが、その実、少しでも気に入らないことがあると『躾』と称して過剰な罰を与えるような人だった。


 お気に入りの子供たちはまるで愛玩動物のように可愛がられ、そうでない子たちには徹底的に冷ややかな態度をとる。

 服に隠れる部分をつねったり、髪を引っ張ったり、食事抜きは日常茶飯事。中でも特に院長が好んだのは、子供たちを地下室に閉じ込めることだった。


 罰は半日で済むこともあれば、丸一日出してもらえないこともままある。

 どんなに泣き叫んでも、院長が満足するまで決して出してはもらえなかった。


 冬の寒い日に、一晩中地下室で過ごした日のことはきっと死ぬまで忘れないだろう。

 元々身体があまり丈夫でなかったためか、ルフェリアはその後高熱を出し、三日三晩寝込んでしまった。

 苦しむルフェリアに向かって院長が言い放ったのは、気遣いでも労りの言葉でもない。


「あんたみたいな穀潰しは、このまま死んでくれたほうが世のためってものね」


 そんな、冷ややかな言葉だった。

 医者も薬も与えられず、看病らしい看病もされず無事に回復したのは、奇跡としか言いようがない。


 そんな地獄のような生活が一変したのは、ルフェリアが五歳になった日のこと。


 その日は王都から客人がやってくるということで、院長は子供たち全員に綺麗な服を着せ、行儀良く振る舞うよう命じていた。

 なんでもその貴族は、養子となる子供を探しているらしい。


 孤児院の環境があまりに劣悪だと、行政に報告され懲罰を受ける可能性がある。だから来客がある時や監査が入る時は、院長はよそ行きの仮面を貼り付けるのだ。


「オルトランド伯爵閣下、それに奥さま。こちらが当院で預かっている子供たちです」


 王都からやってきた客人は、貴族の夫婦だった。

 彼らはこれまでルフェリアが見たどんな人たちよりも身なりがよく、清潔で、上品な佇まいをしていた。


 夫人のほうは明るい金髪に青い目をしており、月の女神のようにたおやかな印象だ。伯爵は艶やかな黒髪に緑の目で、役者のような美丈夫だった。


 院長曰く、夫妻にはかつて娘がいたが、一歳の誕生日を迎える前に誘拐され行方がわからなくなってしまったそうだ。

 ふたりは長い間娘を探していたが、手がかりは一向に掴めなかった。十分に話し合いを重ね、このたび養女を迎えることにしたらしい。


「いかがでしょう。このシアーシャは奥さまと同じ金色の髪で、こちらのエリルなどは愛嬌があって可愛らしいですよ」


 孤児院から養子を迎える際には、これまで子供を育てるのにかかった費用や礼金を支払う決まりがある。院長は不気味なほどの愛想笑いを浮かべながら、広間に集まった子供たちの説明をしていく。


 けれど誰が選ばれるにせよ、ルフェリアには関係のない話だ。

 シアーシャのように美しい金髪であれば。あるいはエリルのように可愛らしい顔立ちをしていれば、選ばれたかもしれない。


 でも、やせっぽちでいつも青白い顔をしているルフェリアを養子にと望む夫婦なんて、いるはずがないのだ。

 そう思っていた。しかし。


「あら、そちらの茶色い髪のお嬢さんは?」

「えっ……。あの子、ですか……?」

「ええ、とても知的な目をしていますわ。それに、おとなしやかで気品もありますし……」


 院長は一瞬戸惑いを見せたが、すぐにそれを覆い隠し、ルフェリアに目配せをする。そしておずおずと進み出たルフェリアの肩に手を置き、満面の笑みで伯爵夫妻の前に押しやった。


「この子はルフェリアと言います。とても賢い子で、読み書きが得意です。暇さえあれば本を読み漁るほど勤勉なのですよ。ただ、少し身体が弱いですが……」

「構いませんわ。わたくしどもの主治医はとても優秀ですもの。――ねえあなた、いいでしょう? わたくし、この子のことが気に入ったの」

「ああ、もちろん。それに、どことなくシュシュに面影が似ているしね」


 夫の了承を得た夫人は、腰をかがめてルフェリアと視線の高さを合わせる。そして優しい笑みを浮かべて、ルフェリアに話しかけた。


「こんにちは、ルフェリア。わたくしはリリー。こちらは夫のハイゼルよ」

「は、初めまして、伯爵夫妻」


 ルフェリアは常日頃院長から厳しくしつけられている通り、深く頭を下げた。

 少しでも失敗すると怒鳴られるから、この孤児院にいる子供たちは皆、礼儀作法がしっかり身についていた。


「うふふ、そんなにかしこまらないでちょうだい。あなたは今日から、うちの子になるのだから」

「うちの……子……?」

「そう。今日から、わたくしがあなたのお母さまよ」


 母。それはルフェリアにとって、未知の存在だった。

 本で得た知識はあっても、捨て子であった自分には一生得られないものなのだと、そう思っていた。

 しかし目の前にいる女神のような女性は、今日から自分がルフェリアの母になってくれるのだという。


 まだ状況が呑み込めないでいるルフェリアの手を取り、伯爵夫人が優しく握り締める。伯爵夫人の手は白く滑らかで、花のような甘い香りがした。


「あなたのこと、大切にする。世界一幸せな女の子にしてあげるわ。だから、よろしくね。ルフェリア」


 それは、ルフェリアにとって夢のような生活の始まりだった。

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