手塩にかけたあなたですから
婚約者であるアーノルド様はの仕事部屋は常に仕事に追われているせいで雑然としている。足の踏み場がないというほどではないものの、お世辞にも片付いているとは言えないような有様だ。
どうせろくに食べていないだろうと用意した軽食入りのバスケットを置く場所すら無い。この様子だと食べていないどころか水すら飲んでいないのではないだろうかと、少々心配になってしまう。
「悪いねルイーズ、そこにおいてくれていいから」
「そこがどこかわかりませんよ」
「ああ、そこの……うん、平らならどこでもいいよ」
辛うじて平らと思える書類の山にバスケットを置く。ゆっくりと手を放して崩れないのを確認してから、そっと仕事をしている最中のアーノルド様を眺めてみる。
少し前に会った時よりも更に目の下の隈が酷くなっていて、手も服の袖もところどころインクで汚れてしまったのか黒くなっている。濃い灰色の髪もろくに整えられていないせいでボサボサで、伸びっぱなしになっているのを雑に後ろでくくってあるようだ。
王都にある魔法陣の老朽化への対策として、改修が必要な魔法陣とそうでないものを分けるのがアーノルド様のお仕事だ。魔法陣の目的と現場の状況の報告書などなど色々考慮して人を派遣する順番を決めたりするらしい。
本当なら一人でやる仕事ではないのだけれど、現在アーノルド様の働いている魔法省は派閥争いの真っ只中なのでこんな風に忙殺される羽目になっている。婚約者の私としては甚だ遺憾でしかない。
結果としてすぐに成果の出そうな華やかな仕事に派閥に所属している優秀な人たちが取られてしまって、地道で地味な仕事をアーノルド様のような派閥に関係ない人たちで回す羽目になっているのだ。
アーノルド様曰くもうそろそろ魔法省のトップ争いが一段落するそうだ。それまでの辛抱らしいことは分かるものの、私が見つけて我が家が手塩にかけたアーノルド様が酷使される状況というのは大変癪である。
私の家はそれはもううなるほどお金のある伯爵家で、平民のご先祖様がバリバリにお金を稼いで爵位を買った上でお金を稼ぎまくって陞爵し伯爵家までになったという由緒正しい成金だ。
それと違いアーノルド様のお家は同じ伯爵家でも、建国以来のお家で本当に由緒正しい。しかし反対なのは財政面もという有り様で、私が出会った頃のアーノルド様は伯爵家の令息とは思えないくらいいかにもお金が無いという様子で小さくなっていて可哀想なほどだった。
しかしアーノルド様と出会った幼い私は完全に直感したのだ。彼は磨けば光ると、ふさわしい環境さえ与えてやればそれはもう存分に光り輝くはずだと。自分が生まれた意味を唐突に悟るかのように、彼こそが私が輝かせるべき原石であると確信した。
その後調べてみた所ご実家の伯爵家も浪費などで家を傾けたわけでなく、天災とそれによる不作で借金を抱える羽目になってしまったということが分かった。身内の人柄も問題ないと分かれば後はもう進むのみである。
我が家が財を成したのはあらゆるものの見る目があるからというのはもっぱらの評判で、それは人も例外ではない。私もその目を受け継いでいたため、父に全力でアーノルド様を推した。彼は絶対に将来性があるとそれはもう熱烈に推した。
結果父もアーノルド様に将来性ありと納得し、晴れて彼は私の婚約者となった。そしてじゃぶじゃぶと彼にお金を注ぎ込んだ結果、彼は魔法使いの家系ではないのに魔法省に一発合格するほどの魔法使いになったのだ。
ちなみにアーノルド様のご実家は我が家の支援で無事に立て直し、借金も全て返して我が家にお礼までしてくださった。私のことも大変好意的に見てくださっている良いお家だ。
お義兄さんの結婚式にお呼ばれした時は皆さんは文句のつけようもないくらいに貴族然としていたので、今の姿しか知らない人たちは伯爵家の人たちがあんなにもあからさまに貧乏であったとは想像もできないだろう。
貧しても鈍することのない方々こそが本当の貴族なのかもしれないと成金の家の私なんかは思うわけだが、我が家は貧する予定がないので本当のところわからない。なんだかんだ貧したところで鈍する暇なく図太く生きていくような気はしているけど。
「アーノルド様、お食事もしてないでしょう?」
「そうなんだけど、でも暇がなくて……」
「もうしばらくすれば人も来るのでしょう?一人で頑張りすぎなくてもいいんですよ」
すぐに食べられるようにと作ってもらったサンドイッチを差し出すと、へにゃっと笑いながら受け取ってくれる。食べるまでしっかりと見てから、バスケットの中にあるお茶の入った水筒を取り出してカップに注いでから手に取りやすい所にそっと置いておく。
彼が頑張ってくれているのは私のため、というか私に相応しくなりたいという彼の頑張りのためなので強くは止められないものの心配は心配である。既に相応しいというのに納得してくれないのは少し不満ではあるものの、愛されているのでなにも言えない。
それでも魔法使いとしての仕事の本文を忘れ権力争いに邁進するような人たちが舵を握ってここはだいじなのかとか、言いたいことは色々ある。アーノルド様のように才能ある人間を使い潰すように擦るのはいかがなものか、とか。
派閥争いは混迷を極め、予定していた期日に魔法省の長官が決まることもなく一ヶ月先延ばしにされてしまった。もちろん私はそれに憤ったし、こうなれば抗議もやむなしと準備をしていたもののその前に大変なことになった。
仕事をいきなり放棄したアーノルド様が部屋に閉じこもったまま出てこなくなってしまったのだ。そしてその知らせに急いで駆けつけた私は、扉の前で問答する間もなくアーノルド様に部屋の中に引きずり込まれてしまった。二重に大変なことである。
婚約者同士であるとはいえ、寝室に二人きりというのは世間に知られるとそれなりにヒソヒソとされたりするもので。お茶会のおやつ程度の醜聞であるものの、万に一つでも噂が広がれば気まずいものだ。
伯爵家の使用人が他言するとは考えていないが、出来ることなら避けたいと普段なら思うだろうが今はそんなことを考えている余裕はない。いや、余裕がないのは私ではなくアーノルド様の方だ、余裕というかもはや正気がない。
「ルイーズ!イヤだよぉ!!僕はもう仕事したくない!!」
「わかりましたから、お仕事させませんから、落ち着いてください」
「イヤだよ、みんな僕を無理やり部屋から出そうとするんだ……」
シクシクと泣き始めてしまったアーノルド様は、あまりにも大きすぎる仕事の負担で半ば発狂してしまった。ある日「もうイヤだ!!」と仕事部屋で絶叫してそのままろくに帰れていなかった自室に引きこもり、私が駆けつけるまで誰も部屋に入れずに籠城していた。
酷使されるレベルの魔法使いであるアーノルド様の本気の籠城を誰ががどうにか出来るはずもなく。というか出来る人はおそらく忙殺されている最中であろうことが容易に想像できるこの状況で、唯一部屋に入ることを許された私は子供のように泣きじゃくる婚約者に文字通り泣きつかれている。
「大丈夫ですよアーノルド様、私はお仕事をしろとは言いませんからね」
「ルイーズ……」
「このままお部屋から出られなくても、私がしっかり養ってあげますからね」
「お金は使えてないからあるよぉ……」
たしかにここしばらくは満足にデートも出来ていない。アーノルド様の趣味は私と読書なので、私にお金をかける以外だとあまり散財というものをしないのだ。
おそらくお給金も使われないで貯まっているのだろう。いっそのこと二人でお金を出し合って国外に旅行でも行ってしまってもいいかもしれない。調べてみればゆっくり休めるような場所も見つかるだろう。
アーノルド様の才能であればいっそ国を出ても二人でやっていけるはすだ、隣国は最近魔法使いを引き入れることに熱心なので上手く売り込めば今以上の待遇で採用されることだって可能なのではないか。
新天地で一から頑張るアーノルド様を全力で支えるのも悪くないような気がしてくる。私だって商売で多少なりと稼いだお金があるし、アーノルド様が立ち直るまではいくらでも……!
「ルイーズのお父さんに言われた、男爵位をもらって領地で魔法研究する話受けようかな」
「ちょっと待ってください!お父様ったらいつの間に抜け駆けを!」
「仕事が立て込んできたあたりかな、でも僕の実力でルイーズに相応しくなりたくて……」
「そんな!私が手塩にかけたアーノルド様ですもの、貴方以上に相応しい方なんていません!」
私が見つけて私が支えて私好みになったアーノルド様以外に私に相応しい人なんていようもない。今までは頑張っている所も愛されてると感じるからと強く否定しなかったけれど、こうなってしまえば話は別だ。
私のために頑張ってくれるのは嬉しいがそれで無理をしてしまうのはよろしくない。私の大切な婚約者なのだという自覚をたっぷり持ってもらうように、これからはたっぷりと甘やかす必要もありそうだ。
アーノルド様が私に骨抜きであることは知っているけれど、私だって同じかそれ以上に愛を注いでいるというのを実感してもらわなくては。
我が家はお金がうなるほどあるけれど、好きでもない人にじゃぶじゃぶ投資する趣味はないのだ。その家で育った私も、磨けば光るからといって好きでもない人にここまで尽くすことなんてしない。
「アーノルド様が元気になるまで、私が支えて尽くして差し上げますからね」
「うぅ……情けない婚約者でごめんねルイーズ」
「いいえ、アーノルド様はなにも悪くありませんからね!私に任せておいてください」
そんな会話をして拳を握ったわけだけれど、アーノルド様を慰めることを優先してしまう私よりもお父様の行動のほうがずっと早かった。アーノルド様を手塩にかけたと思っているのは私だけではないのだ。
特別なことはない。お父様は派閥争いで中立を決めていた方にたっぷりと、それはもうたっぷりと資金提供をした。それだけである。
しかしそれだけで効果は十分であった。お前らの揉め事のせいで仕事ができない!と憤っているのはなにも私やお父様だけではないのだ。当事者であるなら、もっと恨み骨髄といったところかもしれない。
そんなわけでお金と後ろ楯を得たその人は、中立派だけでなく長く続き過ぎた派閥闘争に疑問を感じた両派閥の方も含めてサクッとまとめてしまったのだ。
誰かが終わらせてくれないと、という皆が持つ感情の誰かになっただけかもしれないがその手腕は鮮やかだった。最初からやってくれたらいいのに、と思ってしまうくらい鮮やかだった。
お尻に火がつかないと動かない人だったのか、それともものすごく優しいけど怒らせると怖い人がやっと怒ったのかはわからないがアーノルド様が限界になる前に片付けてほしかったものである。
まぁお父様がお金を出したのはアーノルド様がもうダメとなったからなので、もっと早くに助けてと言ってくれたらということにもなってしまうのだけど。
本当に私たち一家が好きになってお金をかけたくなる人たちは、我慢が上手で一人で頑張ってしまう人ばかりでお金でも言うことを聞いてくれないのだから困ってしまう。
「はいアーノルド様、あーん」
「ルイーズ、あの、本当にしなきゃダメかな?」
「私のお願い、きいてくださるんでしょう?」
「うう……」
とりあえず少しばかりの休みを獲得したアーノルド様をとことん甘やかし尽くすことだけを決め、お願い事をきいてくれるという言質のままに色々とつれ歩いて好き勝手することにした。
今は手ずから苺を食べさせているところだ。ヘタを取ったものを口に近づけると、観念したようにアーノルド様がパクッと口にした。兎のようでとてもかわいい。
あのままダメになってしまったとしても、私は絶対に甲斐甲斐しくお世話をするしそれを苦とも思わなかっただろう。好きになった男性をかわいいと思ってしまったらもう離れられないとなにかで聞いたことがある。
それが本当なら私はずっと前からアーノルド様と離れることなんて出来なくなっているし、きっとダメダメになってしまってもそういうところがかわいいとお世話をし続けるのだろう。
「でも、アーノルド様は立ち直ってしまいそうね」
「え、ルイーズ?なに?」
「……今口付けたら、苺の味なのかしらって言いました」
私の言葉を聞いて、アーノルド様はポカンとしたあと真っ赤になった。まるで苺みたいな色ねと思いながら、とっさの思い付きにしてはちょっと過激だったかしらと考える。反応は満足なんだけど。
私を部屋に引きずり込んでベッドで抱きしめたのにキスもしてくれなかったアーノルド様へのささやかな当てつけである。そういうところもかわいいけれど複雑な乙女心を持つ私としては面白くない部分もあるのだ。
「……ねえ、僕が本気にしたらどうするのさ」
「本気にしてくださっても、アーノルド様ならいいですけど」
「ダメなの!我慢できなくなるからキスだって避けてっ、あ、そうじゃなくて……だ、ダメなものは、ダメ」
真っ赤になって口を押さえるアーノルド様は、私がキスをしてくるのかと心配しているのかもしれないけど私はそれどころではない。そんな風に考えているなんて全く知らなかった。
どうやら私のかわいい婚約者は色んな我慢が得意なようだ。結婚をしたなら、そういった我慢もしなくていいのだと二人でゆっくり話し合う必要が出てくるかもしれない。
「私はどんなアーノルド様でも大切で大好きですから、なにもダメじゃありませんよ」
「またそうやってルイーズは……僕が本当なダメになったらどうするの?」
私としてはもっともっと甘やかされてほしいところだけれど、アーノルド様にとってはこれくらいでもやりすぎと感じられてしまうようだ。
ダメダメになったとしても浮気をしなければ私は構わないのだけど、アーノルド様はダメになった自分の世話をやかせるのをどうにも嫌がる。
そう思う時点でどうあってもダメになりきれないだろうと思いつつも、心配性なところもなんだかかわいいので指摘はしないでおく。
「ダメになってもお世話すると言っているじゃないですか」
「それでも、本当にそうなったら嫌じゃない?」
「どうでしょう……でも、やっぱり大丈夫です。だって私が天塩にかけたアーノルド様ですもの」
婚約者になったころからずっと側でお世話して、大事に愛してきた婚約者なのだ。ちょっとやそっとことで嫌いになる、なんて時期はもうとうに通り越している。
それにこの少しだけ自信のない人は、少し冷静になればダメなままでは私に嫌われてしまうかもしれないと不安に思ってなんとか立ち直ろうとするだろう。
だってアーノルド様も、どうしたって嫌われたくないと思うくらいには私のことを想ってくれているのだから。
こそっと「浮気だけはしちゃダメですよ」と言ったら「命にかけてもしないよ!」と大袈裟に否定する姿がやっぱりかわいかったので、口付けるかわりに新しい苺をその唇にそっと押し当てた。