「最良の選択」※コーネリアグレース談
次第に黒煙が薄れゆき、うっすらとその人の顔が見え始めると、エリノアの顎が唖然と落ちる。
ゆっくりとあらわになる輪郭。エリノアよりも一回り以上高い上背。しっかりとした肩、シャープな鼻筋と顎。こちらを見下ろす灰褐色の瞳には、金の前髪がとばりをつくっている。その隙間から気恥ずかしそうに見つめられ──……。
エリノアは、ぎゃっと叫んだ。……そろそろ第二王子の婚約者として、このような無様な叫び方をするのはやめようといつも決心しているが──今回の衝撃も、その決意をやすやす上回った。
「ブブブブブッブ……っ⁉︎」
「……エリノア?」
「ひ──っ! ブレア様っっっ⁉︎」
エリノアが両腕を必死で回していた背は、もふもふの女豹婦人のふくよかなわがままボディ──……などではなく。
素肌に羽織った白シャツのボタンを、今まさに閉じようとしていた青年のものであった。
両方の手でシャツの前立てをつまみ、ボタンホールにボタンを通そうとしていた両腕を、突然現れたエリノアに抱きしめる形で制された青年は当然困惑している。どうしたらいいか分からないという顔で見下ろしてくる表情は明らかに困っていて。少しだけ渋い顔は、彼なりの恥じらいである。
どうしたんだ……? と、問いかけてくるようなブレアの瞳に、エリノアは、ことの主犯コーネリアグレースに文句を言うのも忘れて驚愕した。
「っ⁉︎ っっ⁉︎ っっっ⁉︎」
いつもはきっちり服に覆われているブレアの素肌が見えている。……というか今そこに突っ込んで、どうやら眉間に当たった感触は──…………。
驚きすぎて。無音のまま「ひ──っ⁉︎」と言うような口の形でのけぞったエリノアに、ブレアは、恥ずかしそうな、申し訳なさそうな声で言った。
「……すまん、訓練終わりだった。まさか……ここに呼び出されるとは……思っていなかった……」
……それはそうだろう。
誰も着替え中に、いきなり酔狂な魔物に民家に転送されるなどということを考えるはずもない。
ブレアはエリノアに申し訳なさそうな顔をして、それから煙の晴れた居間の奥のテーブルで優雅に茶を楽しむコーネリアグレースを見つけると、事情を察したらしく咎めるように眉間にしわを寄せた。
「ご婦人……せめて呼び出すときは前触れをもらえないか……」※若干ブレアも魔物たちの自由な振る舞いに慣れてきた。
「あらおほほ、ごめんあそばせ♡ たまにはエリノア様にもセクシーなラッキーがあっても良いかと思って。いえ、ほほ、エリノア様がまた愉快におろおろしていらしたので、少し気分転換でもして落ち着かせて差し上げたかっただけですわ♡ ほほ、脱がす手間が省けて良かったこと♡」
「…………」
さすがグレンの母である。すべからく、この婦人は悪びれることはなかった……。
とはいえ、たとえブレアがエリノアの精神安定剤として最良でも、こんな胸元も露わな姿で登場のされ方をして、果たしてそれが正常に機能するだろうか……。
けれども確かに、不覚にもブレアのあられもない姿を目撃してしまったエリノアは。とりあえずルーシーのことで気を揉む余裕が木っ端微塵に消しとばされた。
じわじわ襲ってくる恥ずかしさに、エリノアの顔は真っ青から次第に炎色に変わっていった。チラ見せされた胸板と腹筋が脳天を直撃し──……。
(ブレア様の──……)
脳裏に焼き付く少々日焼けした肌の色。……ついにエリノアは、白目を剥いて天井を仰ぎ、ゆっくりと背後に倒れていった。
……いや、さすがに彼の婚約者として多少の接近にはそろそろ薄い免疫がついてきた頃ではあるが……。
エリノアは声を大にして言いたかった。
(──っ不意打ちは、ダメよ──……‼︎)
そんな、お色気攻撃にノックダウン寸前のエリノアに気がついたブレアは、慌てて彼女の背側に腕を回して彼女を受け止めるべく身構えた。……が──。
その瞬間と、この家の扉がぶち開けられる音がしたのは同時のことであった。
現場の居間には健脚の令嬢が、こちらもまた興奮しすぎて真っ赤な顔で走り込んできて──。
「っエリノア‼︎ 私! ジヴ様に求婚されたわ‼︎‼︎‼︎」
「⁉︎」
待ち侘びた朗報が飛び込んできたその瞬間──ブレアの腕の中目掛けて後ろ向きに倒れ掛けていたエリノアは。途端カッと目を見開き、ルーシーの顔を見ようと起きあがろうとして──。
その反動で、勢い余って顔面から床にビタンッと張り付いた。
「! エリノア!」
いきなり方向転換して真逆の方向に倒れた娘には、それを支えようとしていたブレアもギョッとする。彼は慌ててその傍らに膝をついて、思い切り顔面を床に打ちつけた娘を助け起こそうとした。
「だ、大丈夫かエリノア⁉︎」
「は、鼻が……いえ、そ、それよりルーシー姉さんっ! そ、それ、それ……それ本当⁉︎」
「⁉︎ エリノア! 血が……」
……鼻血である。
ブレアは慌ててハンカチを取り出し娘の鼻を押さえているが、そのエリノアは、王子に鼻を拭われながらも、ゾンビのような顔でルーシーの足元ににじり寄ろうとしている。衝撃に衝撃を重ねたエリノアの顔色は蒼白だった。
「ね、姉さん……本当なの⁉︎ 本当の本当に、ジヴ様から求婚を──⁉︎ は、はや、早くタガートのお義父様に連絡──! いえ待って……そうだわ! ジヴ様の気が変わってしまわないうちに結婚式の予約を女神教会にしなくちゃ‼︎ ひ、引き出物は⁉︎ 参列者のリストアップはわたくしが──⁉︎ ブラッドは⁉︎ ブラッドは呼んでもいいですよね⁉︎ え──ヴォルフガングたちは魔物だけどいいんでしょうかっっっ⁉︎」
……顔面血だらけで、まるで助けてくれと床から懇願するような眼差しで令嬢の方へ這っていく娘にブレアが待ちなさいと目を見開いて止める。
「エリノア、ちょ、ちょっと待ちなさい! 先に血を──」
『っ! 誰だ! いきなりわしの顔面を殴ったやつは! 痛いではないか! 無礼者め‼︎』
しまいには、エリノアが倒れた瞬間に床に叩きつけられたペンダントの雄牛までがぎゃあぎゃあと文句を言い始めて──場は大いに紛糾した。
その騒々しい有り様を見て。ゾンビなエリノアに足首を掴まれた令嬢は、ポカンと一言。
「? この状況は何?」
ちょっとちゃんと話を聞きなさいよ……と、頬を膨らませる令嬢に。この場でただ一人達観したような笑みを浮かべていた女豹婦人は、彼女の肩にぽふっと手を乗せて、生温かく笑った。
「ほほほ、何もかもあなた様のおデートのせいですわ♡」
「?」
……いや違う。あんたがいきなりブレアを召喚してきたせいである。……と、真っ当に突っ込んでくれるような奇特なお方は存在しない……。
エリノアは、床の上でなおも必死のゾンビ顔で叫ぶ。
「っ式場! 参列者! ウェディングドレスの手配は⁉︎」
「エ、エリノア、とにかく少し落ち着きなさい!」
なんとも賑やかなことであった。
まあ、なんといってもことの一番の当事者が、我らが麗しきツンデレファザコンヤンキー令嬢様なので、この騒ぎも当然なのかもしれない。
お読みいただきありがとうございます。
黒猫一族に何かを任せると結局こうなります笑




